
今回は天保の大飢饉について、原因や被害の実態から、大塩平八郎の乱・天保の改革へのつながりまで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
江戸時代後半の全体像はYouTubeでも解説しています◎
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
実は天保の大飢饉は、単なる「自然災害の悲劇」という言葉だけでは語りきれない出来事です。
同じように全国を襲った凶作の中でも、日ごろから備えていた藩は餓死者を一人も出しませんでした。その一方で、幕府のお膝元・大坂では対応の遅れが、元役人による前代未聞の武装蜂起を招いてしまいます。この記事では、天災がどのように政治的な激震へと転化していったのかを軸に解説していきます。
天保の大飢饉とは?
- 天保4年(1833年)ごろから約数年間続いた、江戸時代後期の大飢饉。
- 冷害と長雨による凶作が全国的に広がり、多くの餓死者が出たとされる。
- 享保・天明とならぶ「江戸三大飢饉」の一つに数えられ、大塩平八郎の乱や天保の改革のきっかけになった。
天保の大飢饉は、天保4年(1833年)ごろから始まり、天保7〜8年(1836〜1837年)に最悪期を迎えたとされる大飢饉です。冷害と長雨によって米などの作物が実らず、東北から西日本まで全国的に凶作が広がりました。
この飢饉は、享保の飢饉・天明の飢饉とならんで江戸三大飢饉の一つに数えられています。とくに、飢饉のさなかに起きた大塩平八郎の乱や、その後の天保の改革へとつながっていった点で、江戸時代の後半を大きく揺さぶった出来事でした。

享保・天明・天保の「三大飢饉」って、テストでよく混ざっちゃうんだけど、どう違うの?

ざっくり「起きた時期」で覚えるといいよ。享保=18世紀前半(8代吉宗のころ)、天明=18世紀後半(田沼時代)、天保=19世紀前半(水野忠邦のころ)だね。とくに天保の飢饉は、約50年前の天明の大飢饉の記憶がまだ残るなかで起きた、というのがポイントなんだ。
原因ー天候不順と全国的凶作
天保の大飢饉の最大の原因は、数年にわたって続いた天候不順でした。天保4年(1833年)ごろから夏の低温(冷害)や長雨・大雨が繰り返し起こり、稲が十分に育たないまま秋を迎える年が続いたのです。
やっかいだったのは、この不作が一部の地域だけでなく、東北から西日本にまで及ぶ全国的凶作だったことです。ある地方が不作でも、別の地方から米を回して助け合う——そうした通常の「やりくり」が効かなくなり、米の値段は各地で跳ね上がっていきました。
とくに天保7年(1836年)は全国で凶作が深刻化し、都市でも農村でも食べるものに困る人が急増します。こうして、飢えが社会全体を覆う「大飢饉」へと発展していきました。

一年だけの不作ならまだしも、どうして何年も凶作が続いてしまったのかしら?

当時は今のような気象予報も品種改良もないからね。冷夏が続けば手の打ちようがなかったんだ。しかも凶作で種もみまで食べてしまうと、翌年まく分が足りなくなる。そうやって不作が不作を呼ぶ悪循環に陥ってしまったんだよ。
被害の実態ー死者数と全国への広がり

飢饉が深刻化すると、各地で餓死者や病死者が続出したと伝えられています。食べ物を求めて村を離れる「流民」が街道にあふれ、都市には物乞いをする人々が集まりました。
天保の大飢饉全体での死者数については、諸説あり、正確な人数はわかっていません。数万人から、数十万人規模にのぼったとする見方まで幅があるとされています。当時は全国的な統計が整っていなかったため、はっきりした総数を出すのは難しいのです。
飢えは都市の治安にも影響しました。米不足と米価の高騰に対する不満から、各地で百姓一揆や、米商人らを襲う打ちこわしが増加します。飢饉は単なる食料不足にとどまらず、社会全体を不安定にしていったのです。

具体的な死者数を断言している本もあるけど、実際の数字は史料によってバラバラなんだ。だから「数十万人規模にのぼったともいわれる」くらいの受け止め方がちょうどいいよ。数字よりも「全国が同時に飢えた」という広がりのほうが、この飢饉の怖さを表しているね。
藩ごとの明暗ー餓死者ゼロを実現した藩とそうでない藩
同じ全国的な凶作に見舞われながら、藩によって被害の大きさには大きな差が生まれました。なかには、餓死者を一人も出さなかったと伝えられる藩もあったのです。その代表が、出羽国(今の山形県)の米沢藩でした。

米沢藩では、名君として名高い上杉鷹山(上杉治憲)の時代からすすめられた倹約と、非常時に備えた食料の備蓄が生きました。日ごろから飢饉に備える体制が整っていたため、いざ凶作が起きても領民を守ることができたと伝えられています。
同じように、三河国(今の愛知県)の田原藩でも、家老・渡辺崋山が主導した備蓄倉「報民倉」によって領民を飢えから救ったとされます。つまり天保の大飢饉の被害は、「天候」だけでなく「日ごろの備えと為政者の判断」によっても大きく左右されたのです。

同じ天災なのに、藩によってそんなに差が出たのはどうして?

ポイントは「凶作が来てから動いたか、来る前から備えていたか」なんだ。飢饉が起きてから米をかき集めても手遅れになりやすい。でも、ふだんから倹約して蔵に食料をためておけば、いざというとき領民に配れる。この差が、餓死者ゼロと大量の犠牲という正反対の結果を生んだんだよ。
渡辺崋山の「報民倉」と蛮社の獄という皮肉
田原藩の家老・渡辺崋山は、備蓄倉「報民倉」で領民を飢えから救った功労者でした。ところがその崋山は、飢饉と同じ時期に、幕府による思想・言論の弾圧事件で捕らえられてしまいます。人々を救った有能な人物が、その直後に罰せられる——天保という時代の矛盾が凝縮された出来事でした。
渡辺崋山は、三河国・田原藩の家老をつとめた人物で、優れた画家でもあり、西洋の学問(蘭学)にも通じていました。天保の大飢饉に際しては、藩内に報民倉という備蓄倉をつくって食料を確保し、田原藩から餓死者を出さなかったと伝えられています。まさに救民の功労者でした。
ところが崋山は、天保10年(1839年)に起きた蛮社の獄で幕府に処罰されてしまいます。これは、幕府の対外政策を批判したとして、蘭学者たちが弾圧された事件でした。飢饉のさなかに領民を救った人物が、その働きとは無関係の理由で罪に問われる——ここに天保という時代のいびつさがよく表れています。
崋山がなぜ処罰されたのか、その詳しい経緯は蛮社の獄の記事でくわしく解説しています。

飢饉で領民を守った有能な人が、幕府ににらまれて罰せられる。この「ちぐはぐさ」こそ、天保の時代が抱えていた行き詰まりの象徴なんだ。現場でがんばる人ほど報われない——そんな空気が、のちの改革や騒動の伏線になっていくんだよ。
郡内騒動と加茂一揆ー広がる百姓一揆
飢饉が深刻化した天保7年(1836年)には、各地で大規模な百姓一揆が相次いで起こりました。なかでも規模が大きかったのが、甲斐国の郡内騒動と、三河国の加茂一揆です。
■郡内騒動(甲斐国・天保7年8月)
郡内騒動は、天保7年(1836年)8月、甲斐国(今の山梨県)の郡内地方で起きた大規模な一揆です。米価の高騰に苦しんだ人々が、米商人や富裕な家を襲う打ちこわしを行い、その動きは甲斐一帯へと広がっていきました。山あいの一地域から始まった騒動が、国全体を巻き込む規模にふくらんだ点に、当時の飢えの深刻さが表れています。
■加茂一揆(三河国・天保7年9月)
郡内騒動の翌月、天保7年(1836年)9月には、三河国(今の愛知県)の加茂郡一帯で加茂一揆が起こりました。多くの村々が加わった大規模な一揆で、年貢の減免などを求めて広い範囲の人々が立ち上がったと伝えられています。短期間のうちに各地で一揆が連続したことは、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えました。

一揆って、そんなに広い範囲を巻き込むほど大きくなることもあったんだ…!

そうなんだ。ふだんはバラバラの村々でも、「このままでは飢え死にする」という切実さが、人々を一気に結びつけたんだね。しかも郡内騒動と加茂一揆は、ほぼ同じ時期に別々の場所で起きている。幕府から見れば「あちこちで同時に火の手が上がった」ように見えて、相当な危機感を持ったはずだよ。
大坂を襲った危機と大塩平八郎の乱
飢饉の影響は、幕府の直轄地である大坂にも及びました。大坂は「天下の台所」と呼ばれた商業都市でしたが、その大坂ですら米が不足し、米価が跳ね上がって多くの人々が飢えに苦しんだのです。

ところが、大坂を治める奉行所の対応は鈍く、飢えた人々を十分に救おうとしませんでした。それどころか、大坂の米を江戸へ回すなど、庶民の目には「民を見捨てている」と映る動きもあったのです。この状況に激しく怒ったのが、元大坂町奉行所の与力で、陽明学者でもあった大塩平八郎でした。
大塩は、奉行所にたびたび窮民の救済を訴えましたが、聞き入れられませんでした。そこで天保8年(1837年)、自ら蔵書を売り払って資金にあて、門人や周辺の農民らとともに武装して蜂起します。これが大塩平八郎の乱です。反乱そのものは半日ほどで鎮圧されましたが、幕府の元役人が公然と武力で立ち上がったという事実は、幕府に大きな衝撃を与えました。

奉行所に何度訴えても、飢えた民を見捨てるつもりか…。学者として書物を読むだけでは、もはや民は救えぬ。ならば身をなげうってでも動くしかあるまい。

もともと幕府側の役人だった人が、どうして反乱を起こすまでになったの?

大塩は「知っていることは行動に移してこそ意味がある」と説く陽明学の学者だったんだ。目の前で民が飢え死にしていくのに、役人たちは動かない。学問の理想と現実のあまりの落差に、彼はついに自分の信念どおり行動を選んだ、というわけ。元役人だったからこそ、幕府の対応の冷たさに人一倍がまんならなかったのかもしれないね。
二宮尊徳の実践知ー稗の備蓄と報徳思想
ここまでは、藩や幕府といった「組織」がどう飢饉に向き合ったかを見てきました。しかし、飢えに立ち向かったのは組織だけではありません。ひとりの人間の知恵と地道な備えによって、村を飢えから守った人物もいたのです。その代表が、二宮尊徳でした。
尊徳は、相模国(今の神奈川県)の小田原藩領に生まれた農政家です。薪を背負いながら本を読む「二宮金次郎」の像で知られていますが、その正体は、荒れ果てた村を次々と立て直した実務家でした。
尊徳がめざしたのは、疲弊した農村の再建です。彼は下野国(今の栃木県)の桜町など、荒廃した村々の復興に取り組み、成果を上げていきました。その根底にあったのが、まじめに働き、収入に見合った生活をして、余った分を将来やまわりの人のために回すという報徳思想でした。日々の勤労と倹約、そして計画的な備えを重んじる考え方です。
この「計画的な備え」が、天保の大飢饉で真価を発揮します。尊徳は天候の異変から凶作を早くに見抜き、村人たちに、やせた土地でも育ちやすい稗を植えさせ、蓄えさせたと伝えられています。その結果、彼が指導した村々では餓死者を出さずに飢饉を乗り切ったとされています。日ごろの備えが、いざというときに人の命を分けたのです。
📌 稗とは、寒さや乾きに強く、やせた土地でも育つ雑穀のこと。米が不作になっても収穫が見込めるため、飢饉への「保険」として蓄えられました。尊徳の生涯や報徳思想の全体像は、二宮尊徳(二宮金次郎)の記事でくわしく解説しています。

米沢藩の上杉鷹山も、田原藩の渡辺崋山も、そして二宮尊徳も、やっていることの本質は同じなんだ。「飢饉が来る前に、コツコツ備えておく」——このあたりまえのことができた場所だけが、人の命を守れた。天保の大飢饉は、そのことを何よりはっきり教えてくれるんだよ。

学校の校庭にある「本を読みながら薪を背負った像」って、この二宮尊徳のことだったんだ…!

そう、あの金次郎像のモデルだよ。ただ勉強熱心なだけの少年像に見えるけど、実際の尊徳は、飢饉から村を救うほどの実力を持った「地域再生のプロ」だったんだ。像の印象だけで終わらせるのは、ちょっともったいないよね。
天保の改革へー幕府はどう動いたか
ここまで見てきた凶作、相次ぐ百姓一揆、そして大塩平八郎の乱と蛮社の獄。この一連の危機は、幕府を根底から揺さぶりました。とりわけ、元幕府の役人が武力で立ち上がった大塩平八郎の乱は、「幕府の力もあてにならない」という印象を世の中に広げ、支配のゆらぎを人々にはっきりと感じさせたのです。
このままでは幕府そのものが立ちゆかない——。そんな危機感のなかで幕政の立て直しに乗り出したのが、老中の水野忠邦でした。忠邦は12代将軍・徳川家慶のもとで、天保12年(1841年)から一連の改革に着手します。これが天保の改革です。
改革では、ぜいたくをきびしく取りしまる倹約令、物価を下げるための株仲間の解散、江戸に出てきた農民を村へ戻す人返しの令など、次々と手が打たれました。その根っこにあったのは、飢饉と一揆で崩れかけた社会の秩序を、なんとか立て直したいという幕府の切実な思いだったのです。

飢饉に一揆、そして大塩の乱まで起きるとは…。もはや小手先の手直しでは間に合わぬ。世の乱れを根本から正さねば、幕府はもたぬ。反発を招こうとも、わしがやり遂げねばならぬのだ。

つまり天保の大飢饉は、天保の改革が始まる「引き金」になった出来事なんだ。ただ、忠邦の改革はあまりに強引で、わずか2年ほどで行きづまってしまう。その中身と失敗のいきさつは、上でリンクした天保の改革の記事でじっくり読んでみてね。
天保の大飢饉の理解を深めるおすすめ本

天保の大飢饉についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
この記事で紹介した天保の大飢饉は、享保・天明とならぶ「江戸三大飢饉」の一つに数えられます。菊池勇夫『飢饉―飢えと食の日本史』(集英社新書)は、古代から近代まで日本列島で繰り返されてきた飢饉を通史として扱い、天保の大飢饉についても発生の背景や幕府・諸藩の対応、被災した人々の姿を詳しく解説しています。2000年刊行の新書で、専門的な内容を一般向けに整理してまとめているため、天保の大飢饉を江戸時代の飢饉全体の中に位置づけて理解したい人におすすめの1冊です。
享保・天明・天保の三大飢饉を通じて、日本の飢饉の構造や幕府・藩の対応の変遷を体系的に学びたい人。天保の大飢饉を大きな歴史の流れの中に位置づけて理解したい人。
天保の大飢饉だけをピンポイントで手早く知りたい人には情報量がやや多め。新書とはいえ論述は学術的なため、より平易な読み物を求める人には不向きです。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:三大飢饉は「享保→天明→天保」の順にならびます(すべて「〜保」がつくのがまぎらわしいので、時代順にセットで覚えるのがコツ)。そして天保の大飢饉は、大塩平八郎の乱 → 天保の改革という流れの「出発点」になった、と因果でつかむと論述でも強くなります。

いろいろ出てきたけど、テストで一番大事なのはどこ?

ズバリ「大塩平八郎の乱」と、それが「天保の改革」につながる流れだよ。飢饉→乱→改革という3ステップをセットで言えれば、記述問題でもばっちり。年号は大塩の乱=1837年、天保の改革=1841年の2つを押さえておけば十分だよ!
よくある質問(FAQ)
天保の大飢饉とは、天保4年(1833年)ごろから天保10年(1839年)ごろにかけて、天候不順による凶作が全国で続いて起きた大飢饉です。享保・天明の飢饉とならぶ「江戸三大飢饉」の一つに数えられ、多くの餓死者を出したとされています。
正確な死者数は史料によって幅があり、はっきりとはわかっていません。数十万人規模にのぼったとする説もありますが、当時は全国的な統計が整っていなかったため、あくまで推定であり諸説あります。断定はできないものの、江戸時代でも最大級の被害だったと考えられています。
おもな原因は天候不順による凶作です。冷夏や長雨、洪水などの異常気象が数年にわたって続き、稲が十分に実らない状態が全国的に広がりました。凶作で米が不足すると米価が高騰し、人々が食料を買えなくなったことで飢えが深刻化したのです。
飢饉で大坂の人々が飢えに苦しむなか、大坂の奉行所が十分な救済を行わなかったことが、大塩平八郎の乱の直接の引き金になりました。元奉行所の与力だった大塩平八郎が、窮民の救済を求めて天保8年(1837年)に武装蜂起したのです。飢饉への対応の遅れが、幕府の元役人による反乱を招いたという関係になります。
飢饉と、それに続く百姓一揆や大塩平八郎の乱の続発は、幕府に強い危機感を与えました。この社会の混乱を立て直すために、老中・水野忠邦が天保12年(1841年)から始めたのが天保の改革です。つまり天保の大飢饉は、天保の改革が始まる背景・きっかけになった出来事といえます。
どちらも「江戸三大飢饉」ですが、時期と主な原因が異なります。天明の大飢饉は1780年代に起き、浅間山の噴火や冷害が重なったとされます。一方の天保の大飢饉は1830年代で、天候不順による凶作がおもな原因でした。天保の飢饉は大塩平八郎の乱や天保の改革につながった点も特徴です。
まとめ
最後に、天保の大飢饉から天保の改革までの流れを年表で整理しておきましょう。天災がどのように政治的な激動へと転化していったのか、時系列で見ると一目でつかめます。
- 天保4年(1833年)冷害・長雨により凶作が始まる
- 天保7年(1836年)全国的な凶作が深刻化
- 天保7年8月郡内騒動(甲斐国)
- 天保7年9月加茂一揆(三河国)
- 天保8年(1837年)大塩平八郎の乱
- 天保10年(1839年)蛮社の獄
- 天保12年(1841年)天保の改革が始まる

以上、天保の大飢饉のまとめでした。同じ飢饉でも、備えのあった藩は餓死者を出さず、対応の遅れた場所では乱まで起きた——ここに歴史の教訓がつまっているよね。下の記事で、大塩平八郎の乱や天保の改革についてもあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』
Historist(山川出版社)「天保の飢饉」(2026年7月確認)
コトバンク「天保の飢饉」「大塩平八郎の乱」「二宮尊徳」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「天保の飢饉」(2026年7月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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