今回は、田沼意次が政治の実権を握った田沼時代について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
田沼時代とは
田沼時代は年代で言うと、おおむね1772年〜1786年。
将軍で言うと、10代将軍の徳川家治の時代(1760-1786年)にあたります。
本題に入る前に、話を8代将軍の徳川吉宗の頃までさかのぼります。
吉宗は、享保の改革を断行して財政難で苦しんでいた幕府の立て直しを図りました。
吉宗の政策は9代将軍以降も受け継がれました・・・が、大改革と言われる享保の改革だって完璧ではありません。
手をつけることができなかった改革もあれば、逆に改革によって新たに生まれた問題もありました。
そんな享保の改革では対処しきれなかった問題に向き合ったのが田沼意次でした。
田沼意次は、もともと少ない石高しか持たない役人に過ぎませんでしたが、その才能と実力で異例の大出世を遂げます。
1760年に10代将軍の家治が即位すると、田沼意次は重用され、1767年には側用人(将軍の秘書)、1772年には老中にまで上りつめて、政治の実権を握るようになりました。
こうして始まったのが田沼時代であり、田沼意次が失脚する1786年まで続きました。
田沼次代の特徴
当時、大きな課題となっていたのが幕府の財政難でした。
徳川吉宗は、この問題を年貢収入の増加(増税&新田開発)と幕府の質素倹約で解決しようと考えました。
吉宗の改革によって幕府の財政難は少しばかり改善しました・・・が、その代償として、幕府は新たに2つの問題に直面することになります。
問題①:重税で苦しむ農民たちによる反乱(百姓一揆)が頻繁に起こるようになった。
問題②:新田開発によって年貢は増えたけど、米の供給量が増えたことで米価格が下がってしまった。
例えば、これまで米100gで買えたミネラルウォーターが、米価格が低下して米200gじゃないと買えなくなってしまうと、同じお米の量でも買える物が少なくなってしまいます。
つまり、年貢収入が増えても支出も増えるわけで、幕府の財政難は簡単には改善されなかったのです。
さらに当時は、武士たちのお給料はお米(俸禄)で支払われていたから、米価格が下がると武士たちの生活も苦しくなっていきました。
吉宗は「年貢を増やしても、その分米価格が下がってしまう」という問題に悩まされ、米価格が下がらないようさまざまな圧力をかけてましたが、『供給が増えれば価格は下がる』と言う経済原理を捻じ曲げることはできませんでした。
※一方で大飢饉などで米価格が高騰すると、それはそれで打ちこわしが多発するため、米価格はとてもシビアな問題だったのです。
田沼意次は、財政難を克服するには年貢にこだわるやり方では限界があることを見抜き、商業・貿易の面から政策を打ち出します。
年貢は増えても、その分米価格が下がって財政対策にならない。米にこだわらない対策が必要だな!
田沼時代の政策
具体的には、次のような政策を打ち出しました。
政策①:株仲間の奨励&新たな税金(冥加・運上)の創設
政策②:政策大規模な新田開発(印旛沼・手賀沼の干拓)
政策③:蝦夷地(今の北海道)開拓とロシアとの交易
政策④:輸出量を増やして外国から銀をゲットする
政策⑤:金貨・銀貨の両替制度の改革
それぞれ詳しく解説していくね。
株仲間の奨励
株仲間というのは、同じ商売をしている同業者たちが集まって結成した組織のことを言います。
集まって何をしていたかと言うと、商品の販売数や価格をみんなで話し合って決めていたのです。今でいう談合です。
価格競争をすると儲けが少なくなって大変だから、争いなんてやめて話し合い(談合)で全て決めてしまおうぜww
株仲間は現代で言うと、カルテル(企業連合)に相当するよ。
当初、幕府は株仲間にはノータッチでした。
・・・が、米価格の下落に悩まされていた徳川吉宗が、この株仲間に着目します。
米価格が下がるなら、他の商品価格(物価)も下げれば良い。
だが、世の中には無数の商人がいて多くの商品を売っているから、物価がどうなっているのかを把握するのはとても難しい。
何か、世の中の物価を簡単に把握できる妙案はないものか・・・?
吉宗は、株仲間に新しく2つの規制を加えました。
規制①:株仲間が結成されている商品は、株仲間の参加者以外は売ってはいけない。
株仲間以外の商売を禁止すれば、商品は株仲間が設定した価格や量でしか売買されなくなります。
・・・つまり、株仲間の動向さえ把握しておけば、その商品の相場が簡単に把握することができるわけです。
そして、株仲間の動向を把握するため2つ目の規制が設けられました。
規制②:幕府の許可がないと株仲間を結成できない。
株仲間を幕府の許可制にすることで、株仲間を幕府の監視下におき、世の中の物価動向を正確にチェックできるようにしました。
田沼意次は、株仲間への介入をさらに強め、株仲間から冥加・運上という2つの税金を徴収することにします。
株仲間からの税金を、年貢に代わる新たな税収源の1つにしようと考えたのです。
冥加:株仲間の許可料として幕府に支払う税金
運上:株仲間の売上の一部を幕府に払う税金
株仲間が公認されると、商人たちは商売を独占できる上に、グルになって販売量や価格を決めることができる・・・などなど商人たちにも大きなメリットがありました。
その見返りとして、幕府は冥加・運上を株仲間に求めることにしたのです。
徳川吉宗はあくまで株仲間を許可制にしただけで、株仲間を増やすことまではしませんでした。
・・・一方の田沼意次は、「みんなどんどん株仲間結成しようぜ!」と株仲間のことを積極的にPRしました。
株仲間をドンドン増やせば冥加・運上の収入も増えるし、物価の動向を把握しやすくなり経済対策がしやすくなる。まさに一石二鳥!
大規模な新田開発
田沼意次は、徳川吉宗が行っていた金持ち町人をスポンサーにした新田開発を引き継ぎ、大規模な新田開発にも着手しました。
特に有名なのが、印旛沼・手賀沼の干拓工事です。
印旛沼・手賀沼は、関東最大の河川である利根川の流域に位置する巨大な沼地。
川の近くに沼地があるということは、その場所の土地の高さ(標高)が低いことを意味しています。
・・・つまり、利根川が洪水を起こすと真っ先に水没してしまう水害多発地帯が印旛沼・手賀沼でした。
田沼意次は、印旛沼・手賀沼を干拓(※)して水害を防ぐと同時に、沼地を新しく田んぼにしてしまおう・・・という巨大プロジェクトにチャレンジしたのです。
※干拓とは、湿地帯の水を取り除いて新たに田地などにすること。
なぜそんな危険な場所にわざわざ田んぼを作ろうと思ったのかしら?
それは、日本は国土のほとんどが山地で、田んぼを耕せる平地が限られていたからだよ。
良い土地はその多くが既に田んぼになっていたから、新しく田んぼを作ろうと思うと問題がある土地しか残っていなかったんだ。
・・・しかしながら、度重なる洪水が工事現場を襲い、工事は計画通り進まず、巨大プロジェクトは失敗に終わります。
蝦夷地開拓とロシア交易
田沼意次は、貿易によって得られる利益を財政難対策に充てようとも考えました。
田沼が特に目をつけていたのが、蝦夷地開拓とロシアとの交易です。
ロシアは、食料を欲しがっていると聞く。
蝦夷地を開拓して、そこで得られた農産物・海産物をロシアに売り捌けば大儲けできるのでは!?
田沼意次は、仙台藩医師の工藤平助がロシアによる日本侵略の危険性を訴えた意見書「赤蝦夷風説考」の意見を取り入れ、蝦夷地の調査を行うことを決断。
1785年、最上徳内らを調査団を派遣して、蝦蝦夷地の情勢やロシアの動向の調査を実施しました。
・・・が、翌年の1786年に田沼意次が失脚してしまい、蝦夷地開拓・ロシア交易の話も自然消滅してしまいます。
失脚した6年後の1792年、実際に日本との交易を求めてロシアからラクスマンがやってきました。
田沼の試みそのものは失敗に終わりましたが、その後、ロシアとの関わりは日本にとって避けられないものとなっていきます。
海外から銀をゲットする
田沼意次は、長崎での貿易にも力を入れます。
これまで日本は、生糸などの輸入品を大量に仕入れて、その対価として金銀をオランダや中国(清)に支払っていました。
・・・待てよ。もしかして、日本から外国に商品を輸出しまくれば、逆に金銀をゲットできるのでは!?
田沼意次は、外国に需要があった日本の銅や俵物(※)を輸出量を増やすことで、逆に外国から金銀をゲットして幕府の財源とすることにしました。
※俵物:中国(清)で人気のあった干し鮑・いりこ・フカヒレなどの海産物のこと
金貨・銀貨の両替制度改革
当時、日本では諸事情により西日本では銀貨が、東日本では金貨が使われていました。
そのため、西日本・東日本を行き来すると銀貨⇆金貨の両替が必要となる上に、両替手続はとても複雑なものでした。
なぜかと言うと、銀貨は重さで取引する通貨『秤量貨幣』なのに対して、金貨は貨幣の枚数で取引する通貨(計数貨幣)だったからです。
※私たちが普段使っている現在のお金は計数貨幣です。
両替は銀貨○グラム=銀貨○枚という形で行われますが、銀貨は一枚一枚重さが違ったため、両替するたびに銀貨の重さを計らなければならず両替屋(両替商)に手数料を支払う必要がありました。
おまけに、金銀の交換レートは日々変動するため、両替のタイミング次第では損をすることもあり、気軽に両替することもできません。
この両替のハードルの高さが、日本の経済活動を邪魔している。
もっと両替がスムーズになれば、商業取引が活性化して運上の税収ももっと増えるはず!
・・・というようなことを考えた田沼意次は、金銀の両替の仕組みを見直すことにしました。
もうさ、銀貨も金貨に合わせて計数貨幣にしちゃえば良くね?
ってことで、銀貨8枚=小判1枚で両替できる江戸時代初の計数貨幣の銀貨「南鐐二朱銀」を発行することにしました。
これなら、交換レートが8:1と安定するし、両替の際にいちいち銀貨の重さを計る手間もありません。
貨幣を新しく鋳造する際に大きな問題となるのは、「人々が新貨幣を受け入れてくれだろうか・・・」という問題です。
せっかく貨幣を造っても、誰も使ってくれなければ貨幣は意味を成しません。
幕府は、これまでも新しい貨幣を造ったことがあります。・・・が、品質が悪い貨幣が多く、「これなら今まで貨幣の方がいいじゃん!」って話になって普及に失敗した例が多くありました。
南鐐二朱銀はそんな教訓が活かされており、銀の純度98%という超高品質な貨幣でした。
純度98%!?
そんな銀貨なら、ぜひ手に入れみたい!
これまでに例がないほど高品質だった南鐐二朱銀は、西日本の商人たちにも抵抗なく受け入れられ、少しずつ世に普及していくことになりました。
江戸時代になって経済が発展し始めると、東と西で貨幣制度が全く違うことは、経済活動を邪魔する大きな問題となっていきました。
8枚で小判1枚と同じ使い方ができる南鐐二朱銀の登場は、日本の通貨統一に向けた大きな一歩となりました。
通貨制度の統一は国家権力にも関わるとても根が深い問題で、江戸時代の間に貨幣制度が完全に統一されることはありませんでした。
貨幣制度の完全統一は、明治時代の1874年に出された新貨条例を待たなければなりません。
田沼時代の終わり
田沼意次の政策は商業と深く結びついていたため、田沼時代によって幕府と商人の結びつきが強まることとなりました。
一方で田沼時代は、旱魃・洪水などの天災が絶えず、民衆たちにとってはとても苦しい時代でもありました・・・が、田沼意次は今でいう福祉政策をあまり行いませんでした。
こうした幕府のあり方に、災害で苦しむ民衆は次第に不満を持つようになります・・・。
田沼は、金持ち商人のことばかり気にして、俺たちのことなんか気にもかけていない。
きっと田沼は商人たちと癒着していて、裏で賄賂をもらっているに違いない!
1782年、民衆たちの不満が大爆発したとある出来事が起こります。
・・・それが天明の大飢饉です。
天明の大飢饉は、冷害や火山の大噴火によって起こったもので、数年に及んだ大飢饉となりました。
この飢饉によって、東北地方を中心に農村では餓死者が続出。
江戸などの都会では米価格が大高騰したため、米を買えない人々が米問屋を次々と襲いました。(打ちこわし)
田沼意次は、この天明の大飢饉に対して何もすることができませんでした。
幕府は緊急時の備蓄米を用意しておらず、幕府の力では米価格を抑えることもできなかったのです。
この田沼の無策っぷりに、民衆のみならず幕府内でも批判の声が高まり、ついに1784年、事件が起こります。
田沼の子である田沼意知が、江戸城内で刺殺される殺人事件が起こったのです。
犯人は、佐野政言という旗本(幕府直属の家臣)の男。
事件の後、佐野政言は切腹を命じられ自害しました・・・が、田沼の政治に不満を持つ民衆たちは佐野政言をヒーローのようにもてはやしました。
俺たちが飢饉で苦しんでいるのは全部田沼のせいだ!
その息子を討ち取った佐野政言は、まさに世直し大明神や!!
政治的に追い詰められていった田沼意次はその後も政権を握り続けましたが、後ろ盾になってくれていた10代将軍の徳川家治が1786年に亡くなると、田沼意次も失脚。
田沼時代に行われた政策もその多くが中止となり、田沼時代は終わりを迎えました。
11代将軍の徳川家斉の下では、田沼意次に代わって、新たに老中に抜擢された松平定信が政策を担うようになり、田沼時代の弊害を克服しようと寛政の改革を断固することになります。
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