

今回は1808年(文化5年)に起きたフェートン号事件について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!イギリスの軍艦が長崎港に乗り込んできて、長崎奉行が切腹した事件なんだ。なんでこの事件が幕末の開国につながったのか、ここで一緒に整理しよう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
フェートン号事件は「死傷者ゼロで終わった、ちょっとした騒ぎ」というイメージを持たれがちです。しかし実は、この事件こそが幕末・明治維新へとつながる大きな歴史の転換点でした。屈辱を味わった佐賀藩(肥前藩)はこれをバネに急速な近代化を進め、のちに薩長土肥の一角を担う強藩へと成長していきます。「被害ゼロ=大したことない」は大きな誤解。たった数日の事件が、その後の日本の運命を静かに動かしていくのです。
フェートン号事件とは?
📅 いつ:1808年(文化5年)8月15日〜17日
📍 どこで:長崎港(出島付近)
📋 何があった:イギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を偽装して長崎港に侵入。オランダ商館員2名を拉致し、燃料・食料を要求。長崎奉行・松平康英が要求を呑んで解放させたが、責任を取って切腹した

フェートン号事件とは、1808年(文化5年)、イギリス海軍の軍艦フェートン号が長崎港に侵入した事件です。鎖国していたはずの日本が、外国の軍艦によって突然おびやかされた衝撃的な出来事でした。
当時の日本は、長崎の出島でオランダ・中国とだけ貿易を行う鎖国の体制をとっていました。そこへ突然、イギリスの軍艦が乗りこんできたのです。フェートン号はオランダ商館員を人質にとり、燃料や食料を要求。長崎を守るべき長崎奉行は十分な兵力を持っておらず、要求を呑むしかありませんでした。

テスト前なんだけど、「フェートン号」ってヘンな名前だよね。なんでイギリスの船がわざわざ長崎まで来たの?

「フェートン」はギリシャ神話に出てくる太陽神の御者パエトン(Phaeton)が名前の由来だよ。イギリスがなんで長崎に来たのか…じつはこれ、はるか遠いヨーロッパの戦争と深くつながってるんだ。次の章でくわしく説明するね!
フェートン号事件の背景と原因
■ ナポレオン戦争とオランダの消滅
フェートン号事件の根っこにあるのは、ヨーロッパで起きていたナポレオン戦争です。フランスのナポレオン=ボナパルトがヨーロッパ各地を次々に支配下に置いていく中で、オランダもその波に呑みこまれていきました。

オランダは1795年にフランスの影響下で「バタヴィア共和国」となり、その後フランスに従属する国へと姿を変えていきます。やがてナポレオンの弟が王となる「ホラント王国」を経て、1810年にはフランス帝国に併合され、独立国家オランダは地図の上から一時的に消えてしまうのです。
問題だったのは、このときオランダがイギリスと敵対していたことでした。ナポレオンと対立していたイギリスは、フランス側についたオランダの船や植民地をねらうようになります。アジアに広がっていたオランダの拠点も、イギリスにとっては格好の獲物だったのです。

■ なぜイギリス船が長崎へ来たのか
当時、長崎の出島には日本と唯一貿易を続けるオランダ商館がありました。世界中のオランダ拠点が次々とイギリスに奪われるなか、出島は「最後まで残ったオランダの拠点」の一つだったのです。
そこでイギリスはオランダ船を捕まえる目的で、軍艦フェートン号を長崎へ向かわせました。日本側に警戒されないよう、フェートン号はオランダの国旗を掲げて偽装し、オランダ船のふりをして長崎港に入ってきたのです。

大人になって改めて思うけど、ヨーロッパの戦争がはるばる日本の長崎にまで影響したってことよね?なんだかスケールが大きすぎてびっくりするわ。

そうなんだよ!鎖国してたからって日本は完全に孤立してたわけじゃなくて、ヨーロッパの国際情勢がじわじわ波及してきてたんだ。だからこそフェートン号事件は「まさか日本にまで!」っていう衝撃だったんだよね。
フェートン号事件の内容・経過
■ 1808年8月15日:オランダ国旗を掲げて入港
1808年8月15日、長崎港にオランダの国旗を掲げた船が近づいてきました。出島のオランダ商館はてっきり「待ちに待ったオランダ船が来た」と思いこみ、いつものように商館員を出迎えのボートで向かわせます。ところが、それこそがイギリス軍艦フェートン号の罠だったのです。

オランダの旗を掲げておけば、日本人は疑わずに近づいてくる。出てきたオランダ人を捕まえれば、燃料も食料も思いのままだ。鎖国の国に大した軍備などあるまい。
■ オランダ商館員の拉致と燃料・食料の強要
出迎えに向かったオランダ商館員2名は、そのままフェートン号に拉致されてしまいました。イギリス側は人質をとったうえで、長崎側に対して燃料・食料・水の提供を強く要求します。
応じなければ港内の船を焼き払うと脅され、長崎側は窮地に立たされました。長崎の警備は本来、佐賀藩と福岡藩が交代で担当することになっていましたが、このときは藩の財政難から警備兵が大幅に減らされていたのです。

仲間のオランダ船だと思って近づいたのに…まさかイギリスの軍艦だったとは!このまま捕まってしまうのか…!
■ 松平康英の苦渋の決断
このとき長崎を治めていたのが、長崎奉行の松平康英でした。松平康英はただちに兵を集めようとしますが、現実は絶望的でした。本来1000人規模であるべき警備兵が、財政難のためにその10分の1ほどしかいなかったのです。
これではとてもフェートン号を武力で追い払うことはできません。人質の命も危うい。松平康英は苦しい判断を迫られたすえ、やむなく要求どおり燃料と食料を提供し、人質を解放させることを選びました。フェートン号は要求を満たすと、8月17日に長崎港を去っていきました。

兵が足りない…これではとても追い払えぬ。だが要求を呑めば、鎖国の禁を破って外国に屈したことになる…。人質の命を守るためには、もはや呑むしかないのか…無念だ。
フェートン号が侵入したとき、長崎を守る兵士はわずか67〜68人しかいませんでした。本来、佐賀藩と福岡藩が交代で担う長崎警備は合計1,000人規模であるべきでした。ところが各藩の財政難から長年にわたり実際の配備数が削られ続け、イギリスの軍艦が目の前に現れたとき、手の打ちようがなかったのです。松平康英は夜を徹して兵を集めようとしましたが、最終的に集まったのも焼け石に水でした。
🔍 フェートン号の艦長はイギリス海軍の英雄の息子だった:フェートン号を指揮していたのはフリートウッド・ペルー艦長。かの有名なイギリス海軍提督エドワード・ペルー(ヴァイカウント・エクスマス)の息子です。名家の出身で野心あふれるペルー艦長にとって、警備が手薄な鎖国国家の港への侵入は、比較的容易な任務に映ったのかもしれません。

えっ、兵士が10分の1しかいなかったの?それじゃ仕方なく要求を呑んだってことだよね。なのに、なんで切腹しなきゃいけなかったの?

現実的には要求を呑むしかなかったんだ。でも当時の武士の世界では「外国に屈した」という事実そのものが、何よりの恥だったんだよ。次の章でその切腹の意味をくわしく話すね!
松平康英の切腹と責任問題
■ なぜ切腹したのか
フェートン号が去ったその日の夜(8月17日)、松平康英は責任を取って切腹しました。現代の感覚からすると「兵が足りなかったのだから仕方ない」と思えますが、武士の価値観ではそうではなかったのです。
鎖国を守ることは幕府にとって絶対の方針でした。その長崎で、外国の軍艦に対して人質をとられ、要求を呑み、燃料・食料を渡してしまった——これは長崎を守る奉行として、武士としての最大の失態であり、恥とされたのです。切腹は「逃げ」ではなく、武士が自らの責任を最も重く引き受ける、誇りある責任の取り方でした。

現代人の感覚だと「命まで絶たなくても…」と思っちゃうけど、当時はそれだけ責任が重かったのね。康英ひとりが責任を負ったの?

いや、康英だけじゃないんだ。長崎警備を担当していた藩も処罰されたんだよ。とくに佐賀藩は重い処分を受けて、それがのちの大きな転換につながっていくんだ。
■ 連座した処罰者たち
処罰は松平康英だけにとどまりませんでした。事件当時に長崎警備の当番だった佐賀藩(肥前藩)にも責任が及びます。佐賀藩主・鍋島斉直は100日の閉門(謹慎)を命じられ、警備をおろそかにしていた佐賀藩の家老など複数の藩士が処罰を受けました。
佐賀藩にとって、これは大きな屈辱でした。「長崎を守れなかった藩」という汚名を着せられたのです。しかし、この悔しさこそが、のちに佐賀藩を日本有数の近代的な藩へと生まれ変わらせる原動力になっていきます。
フェートン号事件が幕末の流れを変えた理由

■ 異国船打払令の制定(1825年)
フェートン号事件は、幕府に大きな衝撃を与えました。「いつ外国船が攻めてくるかわからない」という危機感が高まったのです。その後もイギリスやロシアの船が日本近海に現れるようになり、幕府はついに強硬策に踏みきります。
それが1825年(文政8年)に出された異国船打払令です。「異国船打払令」は、日本に近づく外国船を見つけたら、問答無用で砲撃して追い払えという命令でした。「無二念打払令」とも呼ばれます。フェートン号事件で味わった屈辱が、この強硬な政策の背景にあったのです。
■ 佐賀藩の近代化と薩長土肥

フェートン号事件で処罰を受けた佐賀藩は、「二度とあんな恥はかかない」という強い思いから、軍事の近代化に力を注いでいきます。とくに幕末の名君と呼ばれた藩主・鍋島直正のもとで、佐賀藩は大きく変わりました。
鍋島直正は、鉄を溶かして大砲を造るための反射炉を日本で初めて実用化し、大砲製造所をつくり上げました。佐賀藩はやがて日本でもトップクラスの軍事力を持つ藩へと成長し、幕末には薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の一角として、明治維新を動かす存在になっていくのです。
反射炉とは、燃料を燃やす部屋と鉄を溶かす部屋を分けてつくった特別な炉のことです。アーチ型の天井が炎の熱を「反射」させて鉄に集中させる仕組みで、1,500℃以上の超高温を生み出せます。
鉄と燃料が直接触れないため不純物が混じりにくく、大砲に使える高品質な鉄が量産できました。ヨーロッパで開発されたこの技術を、佐賀藩は長崎警備の反省を糧に日本で初めて実用化したのです。
■ モリソン号事件・幕末開国への流れ
異国船打払令は、やがて思わぬ事件を引き起こします。1837年(天保8年)、日本人漂流民を送り届けようとやってきたアメリカの商船を、打払令にしたがって砲撃してしまったのです。これがモリソン号事件です。
この対応をめぐって、渡辺崋山や高野長英らが幕府の政策を批判しましたが、逆に処罰されてしまいます(蛮社の獄)。やがて打払令は行き過ぎだという反省から、1842年(天保13年)には外国船に燃料や水を与える薪水給与令へと方針が転換されました。そして1853年のペリー来航(黒船来航)、開国へとつながっていきます。
つまり、フェートン号事件(1808)→ 異国船打払令(1825)→ モリソン号事件(1837)→ 開国(1854)という大きな歴史の流れの出発点が、このフェートン号事件だったということです。
■ 英語教育(諳厄利亜興学小筌)へのきっかけ
もう一つ、フェートン号事件が残した影響があります。それが英語学習のはじまりです。事件の際、日本側はイギリス人とまったく意思疎通ができず、相手の要求すらうまく理解できませんでした。この反省から、幕府は英語の通訳(英語通詞)を育てる必要を痛感したのです。
📌 英語学習の嚆矢:長崎の通詞・本木正栄らは、フェートン号事件後に幕府の命で英語の学習・研究を進め、日本初の本格的な英語入門書『諳厄利亜興学小筌』(1811年)をまとめました。フェートン号事件は、日本の英語教育のきっかけの一つにもなったのです。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「1808年フェートン号事件 → 1825年異国船打払令 → 1837年モリソン号事件」という流れを数直線でセットで覚える。「フェートン号=被害ゼロだが幕末への転換点」という逆説もよく問われる。長崎奉行=松平康英の「切腹」もセットで暗記。

テストで一番大事なのってどこ?「1808年」と「異国船打払令」だけ覚えればいいのかな?

基本は「1808年・フェートン号・長崎・イギリス・松平康英の切腹」の5点セットだよ!さらに点を取りたいなら「異国船打払令(1825年)への影響」までセットで答えられるようにしておこう!
フェートン号事件の時代をもっと深く知りたい方へ

フェートン号事件の背景にある「鎖国と世界のつながり」や、幕末の開国へと続く流れをもっと深く知りたい方には、こちらの本がおすすめだよ!
よくある質問(FAQ)
フェートン号事件はいつ起きた?
1808年(文化5年)8月15日〜17日に起きました。江戸時代後期、11代将軍・徳川家斉の時代の出来事です。
フェートン号はなぜ長崎に来たのか?
ナポレオン戦争でオランダがフランス側につき、イギリスと敵対したためです。イギリスはオランダ船をねらって軍艦フェートン号を長崎へ差し向け、警戒されないようオランダの国旗を偽装して港に入りました。
松平康英はなぜ切腹したのか?
鎖国体制のもとで外国の軍艦に人質をとられ、要求を呑んで燃料・食料を提供したことが、長崎を守る奉行として、また武士として最大の恥とされたためです。兵力不足という現実があってもなお、責任を取る唯一の手段として切腹を選びました。
フェートン号事件と異国船打払令はどう関係する?
フェートン号事件の衝撃などを背景に、幕府は外国船への強硬策として1825年(文政8年)に異国船打払令(無二念打払令)を制定しました。「外国船を見つけたら問答無用で砲撃して追い払え」という命令で、のちにモリソン号事件でこの方針が問題化します。
フェートン号事件と佐賀藩の関係は?
事件当時、長崎警備の当番だった佐賀藩(肥前藩)が処罰されました。この屈辱をバネに、のちの藩主・鍋島直正が反射炉・大砲製造所を整備するなど軍事の近代化を推進。佐賀藩は幕末に「薩長土肥」の一角を担う強藩へと変貌しました。
フェートン号事件とモリソン号事件の違いは?
フェートン号事件(1808年)はイギリス軍艦による略奪型の侵入で、異国船打払令が制定される背景となりました。モリソン号事件(1837年)はアメリカ商船が漂流民の送還を名目に来航し、打払令に基づいて砲撃を受けた事件で、蛮社の獄を引き起こしました。前者が打払令の「原因」、後者が打払令の「結果」の位置づけです。
フェートン号事件と英語教育の関係は?
事件の際、日本側はイギリス人とまったく意思疎通ができませんでした。その反省から幕府は英語通詞(翻訳者)の育成を急ぎ、長崎の通詞・本木正栄らが日本初の本格的な英語入門書『諳厄利亜興学小筌』(1811年)をまとめました。フェートン号事件は日本の英語教育のきっかけの一つになったとされます。
まとめ:フェートン号事件のポイント

以上、フェートン号事件のまとめでした!「被害ゼロだけど超重要」という逆説が面白い事件だよね。下の記事でモリソン号事件や異国船打払令についても読んでみてください!
- 1804年ロシア使節レザノフが長崎に来航し通商を要求(幕府は拒否)
- 1808年8月15日フェートン号事件。イギリス軍艦がオランダ旗偽装で長崎港侵入。オランダ商館員2名を拉致・燃料食料を強要
- 1808年8月17日要求が満たされフェートン号が退去。同日夜、長崎奉行・松平康英が切腹。佐賀藩も処罰
- 1811年国後島でロシア軍人ゴローニンが捕縛される(ゴローニン事件)。日本初の英語入門書『諳厄利亜興学小筌』も成る
- 1825年異国船打払令(無二念打払令)制定。フェートン号事件などを背景にした強硬策
- 1837年モリソン号事件。アメリカ商船を打払令で砲撃→蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英が批判され処罰)
- 1842年薪水給与令。打払令を緩和し、外国船へ燃料・食料を提供することを認める
- 1853年ペリー来航(黒船来航)。幕末・開国へ
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「フェートン号事件」(2026年5月確認)
コトバンク「フェートン号事件」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「異国船打払令」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「松平康英 (長崎奉行)」(2026年5月確認)
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