今回は、江戸時代後期の1808年に起きたフェートン号事件について、わかりやすく丁寧に解説していくね。
フェートン号事件とは
フェートン号事件とは、鎖国中だった日本にいきなりイギリス船のフェートン号がやってきて、江戸幕府が大パニックになった事件のことを言います。江戸時代後期の1808年に起こりました。
イギリスの最新鋭の軍艦を見た江戸幕府は、イギリスに対して脅威を感じるようになり、鎖国政策をさらに強化するようになりました。
フェートン号事件が起きた時代背景
江戸幕府の鎖国
江戸幕府は、島原の乱(1637年)以降、外国との交流を厳しく制限する鎖国を行なっていました。
江戸幕府が交易を認めたのは、オランダ・中国・朝鮮・琉球王国・アイヌのみ。
しかも、はるばるオランダからやってきたオランダ人は、長崎にあった小さな人工島である出島に住むことしか認められず、厳しい監視下に置かれていました。
そもそも日本はなぜ鎖国をしていたの?
それは、キリスト教の布教やヨーロッパの情報が日本に入ってくることで、諸大名たちが外国勢力を手を組んで江戸幕府に反旗を翻す可能性があったからだよ。
実際に江戸幕府の心配は、島原の乱で現実のものとなって、鎖国政策が始まったんだ。
ナポレオン戦争
そんな鎖国状態だった日本ですが、ヨーロッパでは日本の鎖国を脅かす大事件が発生していました。
・・・その大事件というのが、ナポレオン戦争です。
1789年、フランスで王政に対する不満が爆発してフランス革命が勃発。
フランス国王だったルイ16世は王位を失い、1799年にナポレオン=ボナパルトが新たに独裁制を敷いてフランス革命は終わりました。
フランス革命が終わると、ナポレオンはフランス革命を邪魔しようとしていた国々(イギリス・ロシアなど)に対して、逆に侵略戦争を仕掛けました。
こうして起きた戦争がナポレオン戦争です。
当時、ヨーロッパの多くの国は、王政によって成り立っていました。
なので、もしフランス革命の勢いが周辺国に広まってしまうと、各国の王様たちは退位に追い込まれてしまう危険がありました。
そのためヨーロッパの国の多くが、フランス革命後のナポレオン率いるフランスを強く警戒するようになり、フランスVSヨーロッパ諸国によるナポレオン戦争が始まったのです。
ごめん。
よくわかんないんだけど、ヨーロッパの戦争と日本って関係なくない?
確かに日本とナポレオン戦争に直接の関係はありません。
ただ、江戸幕府が貿易を認めていた国の中で1国だけ、ナポレオン戦争に巻き込まれていた国がありました。
・・・その国っていうのがオランダで、日本はオランダを通じてナポレオン戦争に間接的に巻き込まれていくことになります。
フェートン号事件が起きたきっかけ
オランダは、フランス革命中にフランスの侵略攻撃を受けて敗北し、フランスの支配下に置かれていました。
フランスと戦っていたイギリスは、フランスだけではなくフランスの支配下にあるオランダも攻撃のターゲットとみなし、オランダの植民地に対しても攻撃を仕掛けていました。
この時、オランダの植民地ではなかったものの、イギリスの標的の1つに定められたのがオランダ船が頻繁に出入りしていた日本だったのです・・・。
日本は、オランダ船が頻繁に出入りしている。
オランダが日本を隠れ蓑にすると厄介だし、日本にいる敵勢力を排除しておくか。
そして1808年、イギリスの軍艦フェートン号が日本の貿易港である長崎を目指してやってきました。
こうして起きたのがフェートン号事件です。
フェートン号事件の経過
1808年9月、イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に現れました。
鎖国中だった日本ですが、日本はフェートン号の入港を易々と許してしまいます。
・・・というのも、フェートン号はオランダ国旗を掲げてオランダ船と偽装して長崎にやってきたからです。
出島に滞在していたオランダ人たちも、フェートン号をオランダ船と誤認。小船に乗ってフェートン号に接近します。
よーし。仲間がやってきたから迎えにいくぞ!
すると、フェートン号は近づいてきたオランダ人2人を拉致。
フェートン号はイギリス国旗を掲げて正体を表し、日本に対して、食糧と燃料(薪)を要求します。
日本よ、私に食糧と薪をよこせ。
用があるのはオランダだけで日本に危害を加えるつもりはない・・・が、もし俺の要求を拒むようなら、港を攻撃するから覚悟をしておけ。
長崎の管理を任されていた長崎奉行の松平康英は、当初、イギリス船の要求を無視して、不法侵入してきたイギリス船を追い払おうと考えました。
外国との接触が多い長崎には、不測の事態に備えて守備兵が置かれていたので、その守備兵を総動員してフェートン号に立ち向かおうとしたのです。
・・・が、長年続いた平和によって守備兵の兵力が削減されており、長崎には予定の兵力の1/10、約100名程度の兵力しかいませんでした。
はっ!?兵力それしかいないの!?
これじゃあイギリス船を追い払えるわけねーじゃん!
フェートン号に対して勝ち目がないと判断した松平康英は、抵抗することを断念。
要求どおりフェートン号に食料と薪を渡すと、フェートン号は長崎港にオランダ船が停泊していないことを確かめた後、そのまま長崎を去っていきました。
フェートン号の来航に長崎は一時大パニックに陥ったものの、結果的にフェートン号事件による日本の損害はなく、形だけ見れば平和的に事件は解決しました。
フェートン号事件が日本に与えた影響
フェートン号事件は日本に損害こそ与えなかったものの、フェートン号の来航は鎖国中の日本にとって衝撃的な事件となり、江戸幕府や九州の人々に大きな影響を与えました。
江戸幕府、外国の船に対する警戒を強化する
フェートン事件以降、江戸幕府は江戸湾の警備を強化。
しかも事件の後、イギリスの船が頻繁に日本に来航するようになってしまい、江戸幕府は次第にイギリスを完全な敵と見なすようになります。
江戸幕府は1825年、違法に入国した船を問答無用で打ち払う異国船打払令(無二年打払令)を制定。鎖国政策の強化を図りました。
フェートン号事件が起こる以前にも、日本はロシアとの間にトラブル(ラクスマン来航・レザノフ来航)が起きていました。
そんな中でのイギリス船来航(フェートン号事件)は、江戸幕府の外国への不信感をさらに強めることになったのです。
長崎奉行の松平康英、責任をとって◯◯する。
長崎奉行だった松平康英は、フェートン号に対して全くの無力だったことを恥じて、自害してしまいました・・・。
佐賀藩(肥前藩)、覚醒する
同じく、当時長崎の守備を担当していた佐賀藩(肥前藩)も、勝手に守備兵の兵力を減らしていた責任を取らされ、藩主だった鍋島家の家老が切腹したほか、鍋島家にも処罰が与えられました。
その後の佐賀藩(肥前藩)は、フェートン号事件による失策を挽回するため藩の近代化を目指すようになります。
1830年に鍋島直正が藩主になると、大砲製造所や反射炉が建設され、最新兵器の製造に着手。
力をつけた佐賀藩(肥前藩)は、幕末になると有力な4つの藩、薩長土肥(長州・薩摩・土佐・肥前)の一角に名前を連ね、幕末の日本に大きな影響を与えるほどの藩に成長していくことになります。
フェートン号事件は直接日本に被害は与えなかったけど、その後の江戸幕府や諸藩の政策に大きな影響を与えることになった・・・ってわけだね。
確認問題
正解:A.長崎
正解:C.イギリス
正解:B. 鎖国政策を強化する
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