蛮社の獄とは?原因・渡辺崋山・高野長英の処罰をわかりやすく解説

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蛮社の獄とは?原因・渡辺崋山・高野長英の処罰をわかりやすく解説

もぐたろう
もぐたろう

今回は蛮社の獄について、原因から処罰された人物・安政の大獄との違いまで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 蛮社の獄とは何か(1839年に起きた言論弾圧事件の全容)
  • 蛮社の獄の原因・背景(鎖国・異国船打払令・モリソン号事件)
  • 渡辺崋山・高野長英が処罰された理由(慎機論・戊戌夢物語)
  • 鳥居耀蔵の役割(弾圧の仕掛け人はどんな人物か)
  • 蛮社の獄がのちの開国に与えた影響(安政の大獄との違いも)

蛮社の獄」と聞くと、「幕府にたてついた反逆者たちが捕まった事件」というイメージを持つ人が多いかもしれません。

でも、実はそうではありません。

処罰された渡辺崋山わたなべかざん高野長英たかのちょうえいも、幕府を倒そうとしていたわけではまったくありませんでした。彼らはただ、海の向こうで何が起きているのか——その正しい情報を伝えようとしただけだったのです。

ところが、その「正論」が幕府にとっては都合の悪いものでした。こうして、まじめな知識人たちが次々と消されていく——蛮社の獄は、そんな理不尽な言論弾圧事件だったのです。この記事では、なぜそんなことが起きたのかを、当時の人間ドラマとあわせて読み解いていきます。

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蛮社の獄とは?

蛮社の獄とは?3行でまとめると

①1839年(天保10年)に江戸幕府が蘭学者・渡辺崋山と高野長英らを弾圧した言論弾圧事件。
②幕府の鎖国・異国船打払令を批判する内容を書いたとして処罰された。
③当時の蘭学サロン「尚歯会(しょうしかい)」のメンバーが標的となった。

蛮社の獄ばんしゃのごくとは、1839年(天保10年)に江戸幕府が、渡辺崋山わたなべかざん高野長英たかのちょうえいといった蘭学者たちを捕らえて処罰した事件です。

彼らの罪は、武器を持って反乱を起こしたことでも、誰かを傷つけたことでもありません。幕府の対外政策——とくに外国船を追い払う方針を、文章のなかで批判したことが「罪」とされたのです。しかも、その文章は世間に公表されたものですらありませんでした。つまり蛮社の獄は、言葉と思想が処罰された、江戸時代を代表する言論弾圧事件でした。現代の私たちから見ると「そんなことで?」と驚いてしまうような事件ですが、当時の幕府にとって「外国を正しく知ろう」という姿勢そのものが、体制をゆるがしかねない危険なものに映っていたのです。

蛮社ばんしゃ」とは、「蛮学社中ばんがくしゃちゅう(西洋=南蛮の学を学ぶ仲間)」を略した言葉で、蘭学を敵視する国学者などが、西洋の学問にのめり込む人々を見下して呼んだ呼称です。当時、西洋は「蛮夷ばんい(野蛮な外国人)」と呼ばれており、その学問を学ぶ人々もまた「蛮社ばんしゃ=野蛮人の仲間」と侮蔑されていました。「獄」は牢屋・弾圧事件を意味します。

あゆみ
あゆみ

「蛮社」って何のことかしら?蘭学者のグループのこと?

もぐたろう
もぐたろう

そうそう。「蛮社」は「蛮学社中」の略で、蘭学を嫌う国学者なんかが蘭学者たちを蔑んで呼んだ言葉なんだ。今でいうと「西洋かぶれの連中」みたいなニュアンスかな。その人たちが牢に入れられたから「蛮社の獄」って呼ばれているんだよ。

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蛮社の獄が起きた背景

蛮社の獄は、ある日突然ふって湧いた事件ではありません。その背景には、「外国船がどんどん日本に近づいてくる」という時代の不安がありました。

19世紀に入ると、ロシア・イギリス・アメリカといった国々の船が、日本の沿岸にしきりに姿を見せるようになります。日本は長らく鎖国を続けてきましたが、その「閉じた国」のすぐ外側で、世界は大きく動いていたのです。幕府はこの状況に強い危機感を抱き、ますます外国を遠ざけようとしました。

しかも、ちょうどこの頃の日本国内は大きく揺れていました。1830年代は天保の飢饉てんぽうのききんが全国を襲い、各地で餓死者が続出。1837年には元役人の大塩平八郎の乱まで起こり、幕府の権威はぐらつきはじめていました。外からは外国船、内からは飢えと反乱——幕府は内外の不安にはさまれ、ますます神経をとがらせていたのです。

天保の飢饉で飢えに苦しむ人々
天保の飢饉で飢えに苦しむ人々。外国船の接近とこうした国内の混乱が重なり、幕府は神経をとがらせていた(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

その一方で、国内では西洋の知識を学ぼうとする「蘭学」が静かなブームになっていました。世界の現実を知る学者たちと、それを「危険思想」とみなす幕府——この2つの立場のすれ違いが、やがて蛮社の獄という悲劇を生むことになります。

■鎖国と異国船打払令(1825年)

1825年(文政8年)、幕府は異国船打払令を出しました。これは、日本に近づいてくる外国船は、理由を問わず砲撃して追い払えという強硬な命令です。

当時、捕鯨船などが日本近海に頻繁に現れ、上陸して食料や水を求めるケースが増えていました。幕府は「外国人を一歩でも国内に入れれば、キリスト教の布教や領土への野心につながる」と考え、とにかく問答無用で追い払う方針を選んだのです。

この強硬策は、のちに「漂流した日本人を乗せた外国船まで砲撃してしまう」という事態を招きます。それが、次の章で見るモリソン号事件です。

■蘭学者たちの集まり「尚歯会」

こうした緊張の時代に、世界の現実を冷静に見つめようとする人々がいました。それが尚歯会しょうしかいです。

尚歯会は、渡辺崋山・高野長英・小関三英こせきさんえいといった蘭学者や知識人が集まり、西洋の医学・科学・地理・海外情勢などの最新情報を共有し合っていた勉強会・サロンでした。彼らは「外国を闇雲に怖がるのではなく、まず正しく知ろう」という、当時としては非常に開かれた姿勢を持っていたのです。

もぐたろう
もぐたろう

尚歯会は、今でいう「知識人の勉強会・読書サークル」みたいなものだよ。最新の海外ニュースを持ち寄って語り合う、当時のインテリたちの集まりだったんだ。でも、その「世界を知る」という姿勢が、のちに幕府ににらまれる原因になっちゃうんだよね……。

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蛮社の獄のきっかけ:モリソン号事件(1837年)

モリソン号
モリソン号(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

蛮社の獄の直接のきっかけとなったのが、1837年(天保8年)に起きたモリソン号事件です。

モリソン号は、アメリカの商船でした。この船は、漂流していた日本人を母国に送り届けようとして、浦賀(神奈川県)や山川(鹿児島県)に近づいてきました。本来であれば感謝されてもおかしくない、人道的な目的の来航です。

ところが幕府は、異国船打払令にしたがってこのモリソン号を砲撃し、追い払ってしまいました。漂流民を乗せた善意の船を、日本人ごと撃ち返してしまったのです。この対応は、のちに「あまりに非情だ」と問題視されることになります。

■慎機論(渡辺崋山)と戊戌夢物語(高野長英)

このモリソン号への対応を知った蘭学者たちは、強い危機感を覚えました。「漂流民すら見捨て、ただ砲撃するだけの外交で、本当に大丈夫なのか」と。

そこで渡辺崋山は慎機論しんきろんを、高野長英は戊戌夢物語ぼじゅつゆめものがたりを書きました。どちらも、幕府のかたくなな打払い方針を批判し、世界の情勢を踏まえた冷静な対応を求める内容でした。

ただし注意したいのは、この2つの著作はもともと世間に広く発表するためのものではなかったということです。慎機論は崋山の下書き(未完)、戊戌夢物語は仲間内で読まれた写本でした。それでも、その内容が幕府側に伝わり、「幕政を誹謗する危険文書」とみなされてしまったのです。

ゆうき
ゆうき

「慎機論」と「戊戌夢物語」……2冊の本の名前が覚えにくいな。どっちが誰の本だっけ?テストに出る?

もぐたろう
もぐたろう

テストにめちゃくちゃ出るよ!覚え方はこう。「崋山=慎機論」「長英=戊戌夢物語」。どっちも頭文字が合わないから、「ざんのんきろん」「ちょうえいのめものがたり」みたいに、人物と本をワンセットで声に出して覚えるのがコツだよ!

渡辺崋山と高野長英——主役たちの素顔

渡辺崋山の肖像(椿椿山筆)
渡辺崋山(椿椿山筆。出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

蛮社の獄で処罰された2人は、いったいどんな人物だったのでしょうか。まずは渡辺崋山から見ていきましょう。

渡辺崋山(1793〜1841年)は、三河国田原藩たはらはん(現在の愛知県田原市)の家老を務めた武士です。藩の財政立て直しや飢饉対策に手腕を発揮し、すぐれた政治家としても知られていました。

さらに崋山は、当時の日本を代表する画家でもありました。西洋画の陰影法を取り入れた写実的な肖像画を描き、その作品は今も国宝・重要文化財として高く評価されています。政治・絵画・蘭学と、いくつもの顔を持つ多才な人物——それが渡辺崋山だったのです。

渡辺崋山
渡辺崋山

私は幕府を批判したかったのではない。ただ、日本の未来を憂えただけだ……世界の動きを正しく知らねば、この国は守れぬ。それを伝えたかっただけなのに。

高野長英の肖像
高野長英(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

もう一人の主役、高野長英(1804〜1850年)は、奥州水沢(現在の岩手県奥州市)出身の蘭方医でした。長崎でシーボルトの鳴滝塾なるたきじゅくに学び、西洋医学・科学を深く身につけた、当代きっての俊才です。

長英は崋山にくらべて主張がはっきりしており、言葉もより鋭いところがありました。戊戌夢物語のなかで幕府のモリソン号対応を厳しく批判したことが、のちに彼の処罰を重くする一因になったともいわれています。世界を知る者として、黙っていられなかったのです。

高野長英
高野長英

このまま打払いを続ければ、日本はやがてアヘン戦争の清と同じ運命をたどるぞ!私はただ、その危うさを言ったまでだ。なぜそれが罪になる!?

蛮社の獄の顛末——弾圧の経緯

では、なぜまじめな知識人たちが捕らえられることになったのでしょうか。そこには、一人の人物の存在がありました。鳥居耀蔵とりいようぞうです。

1839年、鳥居耀蔵は尚歯会のメンバーを「幕政を批判する危険分子」として摘発に動きます。表向きの口実は、無人島(小笠原諸島)への渡航計画を企てた疑いなどでした。こうして渡辺崋山・高野長英らが次々と捕らえられ、蛮社の獄が始まったのです。

ここで見落としてはいけないのは、彼らが本当に「無人島へ渡って何かを企てた」わけではないという点です。実際には計画は具体化しておらず、摘発の本当の狙いは、幕府の政策に異を唱える蘭学者そのものを黙らせることにありました。つまり、罪が先にあったのではなく、「罰したい相手」が先にいて、あとから罪が用意されたのです。これこそ、蛮社の獄が「言論弾圧事件」と呼ばれるゆえんです。

■弾圧の仕掛け人:鳥居耀蔵とは何者か

鳥居耀蔵(鳥居甲斐守とりいかいのかみとも呼ばれます)は、儒学の名門・林家はやしけの出身で、のちに天保の改革を進めた老中・水野忠邦みずのただくにの腹心として活躍した幕府の目付めつけ(役人を監視する役職)でした。

鳥居は伝統的な儒学を重んじる立場から、西洋の学問を学ぶ蘭学者たちを「日本の秩序を乱す危険な存在」として強く敵視していました。そこには、台頭してきた蘭学者への嫉妬や、自分の政治的な地位を守りたいという思惑もあったといわれています。蛮社の獄は、こうした個人的な感情と政治的な計算が複雑に絡み合って引き起こされた事件だったのです。

もぐたろう
もぐたろう

鳥居耀蔵は、今でいう「思想を取り締まる監視役」みたいなものだよ。彼にとって蘭学者は、自分の地位をおびやかすライバルでもあったんだ。後に「妖怪ようかい(耀甲斐=ようかい)」なんてあだ名で呼ばれるくらい、嫌われ者になっちゃうんだよね……。

📌 その後の鳥居耀蔵——因果応報の晩年
蘭学者を弾圧した鳥居でしたが、後ろ盾だった水野忠邦みずのただくにが天保の改革に失敗して失脚すると、鳥居自身も罪に問われて失脚します。讃岐丸亀藩まるがめはんに身柄を預けられ、なんと約23年間も幽閉。ようやく解放されたのは明治維新後のことでした。崋山と長英を追い詰めた「妖怪」もまた、長い不遇の晩年を過ごしたのです。

■処罰された人物と刑罰の内容

蛮社の獄で下された処罰は、次のとおりです。

渡辺崋山国元蟄居くにもとちっきょ(田原藩へ送られ、謹慎を命じられる)

高野長英永牢えいろう(期限のない終身の牢獄入り)

小関三英:摘発が迫るなか、捕縛の前に自ら命を絶つ

2人の刑を比べると、高野長英の永牢のほうが重い処罰でした。これは、戊戌夢物語での批判がより直接的で鋭かったことが影響したとされています。一方の渡辺崋山も、故郷での謹慎という形で社会的な活動を完全に封じられてしまいました。

そして、この2人の処罰は、それぞれに胸を打つ悲劇的な最期へとつながっていきます。「正しいことを言っただけ」の2人を待っていた運命を、順に見ていきましょう。

■渡辺崋山——「不忠不孝」と書き遺した最期

故郷の田原で謹慎生活を送る崋山を待っていたのは、深刻な貧しさでした。罪人となった崋山の家計は苦しく、それを見かねた弟子たちが、師を助けようと崋山の絵を売る「画会(展示即売会)」をひそかに江戸で開きます。一流の画家でもあった崋山の作品は、当然のようによく売れました。

ところが、この親切がかえって崋山を追い詰めます。「罪人のくせに、絵を売って稼ぐとは慎みがない」「このままでは田原藩の殿様が将軍から咎められる」——そんな噂が立ってしまったのです。藩や主君に迷惑がかかることを何より恐れた崋山は、ついに自らの命で責任を取る決意をします。

1841年(天保12年)、崋山は自宅の納屋で切腹し、49年の生涯を閉じました。その死の直前、彼が大きく書き残した言葉は——「不忠不孝渡辺登ふちゅうふこうわたなべのぼり」(登は崋山の本名)。藩への忠義と親への孝行を誰よりも大切にしてきた崋山が、最期に自らを「不忠者・不孝者」と責めたのです。藩を思うがゆえに死を選び、それでもなお自分を責めた——無念さのにじむ、痛ましい遺言でした。

もぐたろう
もぐたろう

崋山は、自分のためじゃなく「田原藩に迷惑をかけたくない」という一心で死を選んだんだ。最後まで主君を思っていたのに、自分を「不忠不孝」と責めて逝くなんて……本当にやりきれない最期だよね。

■高野長英——6年におよぶ壮絶な逃亡劇

一方、終身刑の永牢につながれた長英は、ここで歴史に残る大胆な行動に出ます。投獄から5年後の1844年(弘化元年)、牢屋敷で火災が発生。当時の江戸には、火事のときに囚人を一時的に解き放ち「火が消えたら戻ってこい」と約束させる「切り放ちきりはなち」という制度がありました。長英はこの隙をついて姿を消し、そのまま戻らずに脱獄してしまったのです(この火災は、長英自身が手引きして放火させたものとも伝えられています)。

こうして、約6年におよぶ長英の逃亡生活が始まります。彼は各地を転々としながら、宇和島藩うわじまはんなどにかくまわれ、潜伏先でも西洋の兵学書を翻訳し続けました。追われる身になっても、学者としての情熱は消えなかったのです。

さらに長英は、人相から正体がばれるのを防ぐため、硝酸で自分の顔を焼いて人相を変え、「沢三伯さわさんぱく」という偽名で江戸の町医者になりすましていたと伝えられます。しかし1850年(嘉永3年)、ついに隠れ家を幕府の役人に突き止められ、捕らえられる間際に非業の最期を遂げました(自ら喉を突いたとも、役人に打ち据えられたともいわれます)。享年47。世界を見据えた俊才の、あまりにも壮絶な生涯の幕切れでした。

もぐたろう
もぐたろう

自分の顔を硝酸で焼いてまで逃げ続けるなんて、すさまじい執念だよね……。長英のこの逃亡劇は、のちに作家・吉村昭よしむらあきらの小説『長英逃亡』にも描かれて、多くの人の胸を打ったんだ。この記事の最後でその本も紹介しているよ!


蛮社の獄が残したもの——その後と影響

渡辺崋山と高野長英を処罰した蛮社の獄は、その場だけで終わった事件ではありません。じつはこの弾圧をきっかけに、幕府の対外政策そのものが大きく揺れ動いていくことになります。

大きな転機となったのが、蛮社の獄の翌年に起きたアヘン戦争(1840年)でした。アジア最大の大国だったしんが、イギリスにあっけなく敗れてしまったのです。崋山や長英が「このままでは日本も危ない」と警告していた未来が、まさに現実のものとなって幕府に突きつけられました。

アヘン戦争でイギリス艦隊が清の軍船を撃破するようす
アヘン戦争でイギリス軍艦が清の軍船を撃破するようす。崋山・長英の警告どおり、清は西洋列強にあっけなく敗れた(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

この衝撃を受けて、幕府は1842年に異国船打払令いこくせんうちはらいれいを廃止し、薪水給与令しんすいきゅうよれいを出します。これは、近づいてきた外国船に燃料や水・食料を与えて、おだやかに帰ってもらうという方針への大転換でした。外国船を片っ端から砲撃していた強硬路線を、わずか3年前に蘭学者を弾圧したばかりの幕府自身が、あっさり引っ込めたのです。

高野長英
高野長英

結局、私たちが言っていた通りになったではないか……。私を牢に放り込んでおいて、政策だけは私の主張に近づけるとは、なんとも皮肉な話だ。

つまり蛮社の獄は、「正しいことを言った人を罰しておきながら、結局その人の言う通りに政策を変えた」という、なんとも後味の悪い結末をたどった事件でもあります。一方で、この弾圧によって蘭学者たちが萎縮し、西洋の知識を学ぶ動きが一時的に停滞してしまったのも事実です。日本にとって貴重な「外を見る目」を、自ら閉ざしてしまった出来事だったといえます。

■安政の大獄との違いは?

蛮社の獄とよく混同されるのが、約20年後に起きた安政あんせいの大獄(1858〜59年)です。どちらも「幕府による弾圧事件」という点は同じですが、その中身はまったく逆といってよいほど違います。

蛮社の獄 vs 安政の大獄:何が違うの?

① 時期:蛮社の獄=1839年/安政の大獄=1858〜59年(約20年後)
② 首謀者:蛮社=鳥居耀蔵(幕府目付・水野忠邦の腹心)/安政=大老 井伊直弼
③ 弾圧された人:蛮社=蘭学者(渡辺崋山・高野長英ら数人)/安政=尊王攘夷派・一橋派など100人以上の大規模弾圧
④ 弾圧の方向:蛮社=鎖国を批判した人を弾圧/安政=開国に反対した人を弾圧(向きが正反対)
⑤ 規模:蛮社=小規模/安政=吉田松陰・橋本左内ら多数が処刑された大事件

あゆみ
あゆみ

蛮社の獄と安政の大獄、どちらも「幕府の弾圧事件」で混同してしまいそうだわ……。

もぐたろう
もぐたろう

覚え方はカンタン!「蛮社の獄=鎖国を批判した人を罰した/安政の大獄=開国に反対した人を罰した」と、弾圧の向きが正反対なんだ。規模も、蛮社は数人だけど安政は100人以上。「小さい蛮社・大きい安政」とセットで覚えるとゴチャゴチャにならないよ!

蛮社の獄・渡辺崋山をもっと深く知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

蛮社の獄についてさらに深く知りたい人に、おすすめの本を2冊紹介するよ!歴史書と歴史小説、それぞれ違うアプローチで楽しめるよ。

①事件の全貌を徹底的に知りたい人に|一次史料をもとに蛮社の獄の謎に迫る決定版

「蛮社の獄」のすべて

田中 弘之 著|吉川弘文館


②高野長英の逃亡劇を追体験したい人に|6年4か月の壮絶な逃亡生活を描いた傑作歴史小説

長英逃亡(上)

吉村 昭 著|新潮社

テストに出るポイント

蛮社の獄は中学・高校の日本史でほぼ確実に出題される重要事件です。定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 蛮社の獄の年(1839年・天保10年):年号は頻出。「1839年」「天保10年」をセットで覚える
  • 主要人物(渡辺崋山・高野長英・鳥居耀蔵):弾圧された2人+弾圧した側の鳥居耀蔵が三点セット
  • 原因=モリソン号事件を批判した文書:渡辺崋山「慎機論(しんきろん)」・高野長英「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」
  • 処罰の内容:崋山=国元蟄居・長英=永牢:2人の刑の違いも問われることがある(長英のほうが重い)
  • 弾圧の後ろ盾=水野忠邦・天保の改革:鳥居耀蔵は水野忠邦の腹心。天保期の引き締めの一環
  • 後続の弾圧=安政の大獄との比較:「鎖国批判(蛮社)vs 開国反対(安政)」と向きが逆な点が問われる

📌 蛮社の獄 vs 安政の大獄の比較問題でよく出る:「鎖国を批判した蘭学者を罰したのが蛮社の獄/開国に反対した志士を罰したのが安政の大獄」と、弾圧の向きが正反対である点が頻出。首謀者も「鳥居耀蔵(蛮社)/井伊直弼(安政)」をセットで押さえると、選択問題で間違えない。

ゆうき
ゆうき

テスト前なんだけど、1839年っていう年号、どうやって覚えればいい?

もぐたろう
もぐたろう

「モリソン号事件(1837年)→2年後に蛮社の獄(1839年)」と流れで覚えるのがオススメだよ。年号だけ単独で暗記するより、「事件のあと、批判した人が捕まった」という因果でつなぐと忘れにくいんだ。記述問題でもその流れがそのまま使えるしね!

よくある質問(FAQ)

蛮社の獄とは、1839年(天保10年)に江戸幕府が蘭学者の渡辺崋山・高野長英らを弾圧した言論弾圧事件です。幕府の鎖国・異国船打払令を批判する内容の文書を書いたとして処罰されました。「蛮社」は蘭学者の集まりを蔑んで呼んだ言葉で、彼らが集った尚歯会のメンバーが標的になりました。

1837年のモリソン号事件で、幕府が日本人漂流民を送り届けようとした外国船を砲撃したことを批判する文書を書いたためです。渡辺崋山は「慎機論」、高野長英は「戊戌夢物語」で幕府の対外政策に疑問を呈しました。これを鳥居耀蔵が政治的動機から問題視し、告発したことが逮捕につながりました。ただし2人とも幕府を倒そうとしたわけではなく、あくまで外国情報を正しく伝えようとしただけでした。

弾圧の「向き」が正反対です。蛮社の獄(1839年)は鎖国を批判した蘭学者数人が対象で、首謀者は鳥居耀蔵。一方、安政の大獄(1858〜59年)は開国に反対した尊王攘夷派・一橋派など100人以上が対象で、首謀者は大老 井伊直弼です。規模も安政の大獄のほうがはるかに大きく、吉田松陰や橋本左内らが処刑されました。「鎖国批判を罰したのが蛮社/開国反対を罰したのが安政」と覚えると混同しません。

鳥居耀蔵は、水野忠邦の腹心として天保の改革を支えた幕府の目付(のち南町奉行)です。蛮社の獄では蘭学者たちを取り締まる中心人物となりました。蘭学を敵視し、厳しい取り締まりで人々から恐れられたため、官名の「甲斐守(かいのかみ)」と名前の「耀蔵(ようぞう)」をもじって「妖怪(ようかい)」とあだ名されたといわれます。崋山・長英を追い詰めた人物として記憶されています。

1837年(天保8年)、日本人漂流民を送り届けようとして来航したアメリカ商船モリソン号を、幕府が異国船打払令にもとづいて砲撃し追い払った事件です。善意で漂流民を連れてきた船を砲撃したこの対応に、渡辺崋山や高野長英は強い疑問を抱きました。この批判が「慎機論」「戊戌夢物語」として書かれ、蛮社の獄の引き金になりました。

蛮社の獄によって蘭学者たちが萎縮し、西洋の知識を学ぶ動きが一時的に停滞しました。一方で、翌1840年のアヘン戦争で清がイギリスに敗れると、崋山・長英が警告していた危機が現実味を帯び、幕府は1842年に異国船打払令を廃止して薪水給与令へと方針転換します。結果として、外国船への強硬路線が緩み、のちの開国へとつながる一歩となりました。

まとめ

蛮社の獄は、鎖国を続ける幕府の政策に疑問を投げかけた渡辺崋山・高野長英ら蘭学者が、その正論ゆえに弾圧された言論弾圧事件でした。彼らは幕府を倒そうとしたわけではなく、ただ外国の情報を正しく伝えようとしただけ。それでも「権威への批判」とみなされ、歴史の表舞台から消されていったのです。

しかし皮肉なことに、彼らが警告した危機はアヘン戦争という形で的中し、幕府はわずか数年で異国船打払令を取り下げました。蛮社の獄は、天保期の動乱と幕末の開国へと続く流れの中で、「正しさを口にした人々が報われなかった」一幕として、いまも記憶されています。

もぐたろう
もぐたろう

以上、蛮社の獄のまとめでした!崋山・長英の「正論が弾圧された」理不尽な事件、ぜひ下の関連記事もあわせて読んでみてね!

蛮社の獄をめぐる年表
  • 1825年
    異国船打払令——外国船を砲撃して追い払う強硬方針
  • 1837年
    モリソン号事件——漂流民を送還した船を砲撃
  • 1838年
    渡辺崋山「慎機論」・高野長英「戊戌夢物語」を執筆
  • 1839年
    蛮社の獄——渡辺崋山・高野長英ら逮捕・弾圧
  • 1841年
    渡辺崋山、自決(享年49)
  • 1842年
    薪水給与令——異国船打払令を廃止し対外方針を軟化
  • 1850年
    高野長英、脱獄後に捕らえられ自決

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「蛮社の獄」「渡辺崋山」「高野長英」「鳥居耀蔵」「戊戌夢物語」(2026年6月確認)
コトバンク「蛮社の獄」「慎機論」「戊戌夢物語」「異国船打払令」「薪水給与令」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
ヒストリスト(山川出版社)「蛮社の獄」「慎機論」「戊戌夢物語」「モリソン号事件」
山川出版社『詳説日本史』

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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