今回は、江戸時代の3大改革の1つ寛政の改革について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
寛政の改革とは
寛政の改革とは、11代将軍の徳川家斉の時代(在職:1787年〜1837年)に行われた大規模な政治改革のことを言います。江戸時代の3大改革の1つです。(残り2つは享保の改革・天保の改革)
※改革が行われた時代の年号が「寛政」だったため、寛政の改革と言います。
徳川家斉は将軍になった当時(1787年)、まだ青年でした。なので、幕政そのものは老中の松平定信の手に委ねられることになりました。
寛政の改革も松平定信が行ったもので、松平定信が失脚する1793年まで、期間にしてわずか6年間の間に行われた改革でした。
期間こそ短いですが、松平定信は短期間で次々と政策を打ち出し、寛政の改革はその後の幕政にも大きな影響を与えることになります。
寛政の改革が行われた理由
寛政の改革が行われた理由は、すごくザックリ言うと・・・
田沼時代によって生まれた弊害(社会問題)をなくすため
でした。
詳しく説明するため、少しだけ時間をさかのぼります。
江戸幕府は5代目将軍の綱吉の時代から(1680年頃〜)、財政難が深刻化していて、大きな問題となっていました。
この財政難を克服するため、抜本的な改革に乗り出したのが8代将軍の徳川吉宗でした。(享保の改革)
吉宗は、税率アップと新田開発で年貢(米)を増やすことで財政難を乗り越えよう・・・と考えましたが、これはうまくいきませんでした。
・・・なぜなら、年貢が増えると、世に出回るお米の量が増えて米価格が下がってしまったからです。
幕府の主な財源は年貢(米)でしたが、物を買うには米を一度、金貨・銀貨に換金する必要がありました。
換金レートは日々変動しましたが、お米の供給量が増えると、需要と供給の経済原理によって米価格は下がる傾向がありました。
米価格が下がると、物を買うのに多くの米が必要になってしまいます。
例えば、米100gでボールペン1本が買えていたのに、米価格(米の価値)が下がって米200g=ボールペン1本になってしまうと、単純計算で2倍のお米が必要になります。
つまり、年貢が増えても支出も増えてしまうため、幕府の財政難は簡単には解決しなかったのです。
そこで新しい視点で対策に乗り出したのが田沼意次でした。
今や日本は、経済が発展して商業が盛んになっている。
これからは、年貢だけに頼らずに商人たちの力を借りるべきだ!
田沼意次は、商人たちから新しく税金をとったり、株仲間を奨励して商人たちを統制しようとしたり、商人に関する政策を次々と打ち出しました。(田沼時代)
年貢だけにとらわれない田沼の政策は、確かに画期的で斬新なものでした。
・・・が、その代償として貧富の差を招いてしまいます。
1782年、天明の大飢饉が起こり、各地で打ちこわしや百姓一揆が多発。
すると、社会の治安も乱れるようになり、飢饉で苦しむ人々の不満は田沼意次にも向けられました。
田沼は、なんでも金で解決しようとしていつも商人の話ばかりだ。
俺たち貧しい人には、手すら差し伸べてくれない・・・。
幕府内でも田沼に対する批判の声が高まるようになって、1786年、田沼意次は失脚してしまいます。
そして、その後に政権運営を任されたのが松平定信でした。
松平定信に課されたミッションは、大きく2つありました。
ミッション①:多発する打ちこわし・百姓一揆を収めて治安を安定させること
ミッション②:『世の中は金だ!』的な考えが広まっていた幕府の意識を変えること
寛政の改革によって行われた政策
松平定信は、これら2つのミッションをクリアするため、具体的に次のような政策を打ち出しました。
政策①:備蓄米の確保(囲米と七分積金)
政策②:江戸に集まった貧困者たちの里帰り(旧里帰農令)
政策③:ホームレスへの就職支援(人足寄場)
政策④:言論統制(出版統制令)
政策⑤:幕府役人の意識改革(寛政異学の禁)
政策⑥:幕府役人たちの借金帳消し(棄捐令)
政策①〜④が治安の安定にかかわる政策、
政策⑤〜⑥が幕府内部にかかわる政策です。
それぞれの政策について、しっかり紹介していきます!
政策①備蓄米の確保(囲米と七分積金)
まずは飢饉に備えて、日頃から備蓄米や貯金をしっかり確保しておくことが大切だ!
と考えた松平定信は、大名たちに対して倉庫を設置して、そこに備蓄米を保存するよう命令しました。
不測の事態に備えて備蓄米を用意しておく仕組みのことを囲米と言います。
松平定信は、天下のお膝元である江戸でも似たような政策を打ち出しました。
当時の江戸には、町ごとに今でいう町内会費のようなものがあって、地主や町の役人たちが費用を負担をしていました。
松平定信は、この町内会費の節約するよう指示。
町内会費を節約して、その節約した分を災害時の積立金にしろ!!
松平定信は各町に対して節約できる金額を報告させて、節約した分の7割(70%)を何かあったとき用の積立金としました。
こうして始まった積立金の仕組みのことを七分積金と言います。
※残り3割は、1割が町内会費、2割が地主たちの利益となりました。
松平定信は、日頃から飢饉・災害に備えておくことで、何か起こった時に人々が暴動を起こすのを未然に防ごうと考えたのです。
政策②:江戸に集まった貧困者たちの里帰り(旧里帰農令)
8代将軍吉宗による享保の改革が行われて以降、江戸では人口増加が社会問題となっていました。
江戸の人口が増えた理由は、農村の年貢負担が重くなって、農民たちが江戸に逃げ込んできたからです。
重い年貢に悩んでいる人は江戸での日雇い労働がマジオススメ!!
日雇い労働も大変だけど、お給料はそこそこ貰えるし、年貢地獄に苦しむより全然マシ!
地方では人口減少で農業の担い手不足が問題となり、
一方の江戸では、各地から年貢から逃げ出した貧しい人々が集まり、治安の悪化が問題となっていました。
江戸で打ちこわしが頻発するのは、地方からやってくる貧しい人たちにも原因があるに違いない!
・・・ってことは、江戸から来た人たちを農村に帰してやれば、江戸の治安も少しマシになるのでは!?
1790年、松平定信は旧里帰農令という法令を出しました。
旧里帰農令は、ザックリ言うと「江戸で無職のやつらは、帰るのに必要なお金をあげるから、旧里(ふるさと)に帰って農業でもしてろ!」っていう法令です。
旧里帰農令は、江戸で暴動を起こしそうな無職を減らして、農村の人口も増やせる一石二鳥な政策でしたが、その効果はイマイチだった・・・と言われています。
政策③:ホームレスへの就職支援(人足寄場)
松平定信は、江戸に住み続ける無職のホームレスたちにも対策を行いました。
貧しい農民たちがたくさんやってきた結果、江戸は職を持たないホームレスで溢れかえってしまった。
ホームレスは、生活に困るとすぐ犯罪に走り、江戸の治安悪化に繋がっている。
ホームレスたちを自立させてれば、江戸の治安も回復するはず!!
旧里帰農令が出されたのと同じ1790年、松平定信は江戸にホームレス&犯罪者の就職を支援する人足寄場という施設を設置しました。
人足寄場には、ホームレスの人たちが生活できる宿が設けられていて、宿には就職スキル(鍛治・大工など)を身につけるための訓練所がセットで置かれました。
ホームレスや犯罪者を人足寄場に収容してスキルを身につけさせれば、仕事にも困らなくなって、犯罪に手を染めることもなくなるだろう。
政策④:言論統制(出版統制令)
旧里帰農令と人足寄場は、どちらも「貧しい人たちを減らして江戸の治安を回復させよう!」という政策でした。
松平定信は、別な視点からも江戸の治安対策を行いました。・・・それが、言論統制です。
幕府を批判する書物やエッチな本を禁止する出版統制令を出して、違反者には罰則を与えました。
出版統制令によって、洒落本(女遊びについて書いた本)や黄表紙(政治・社会を皮肉った絵付き小説)の出版が禁止に。
さらに、
洒落本で有名だった山頭京伝
黄表紙で有名だった恋川春町
洒落本・黄表紙本の出版元だった蔦屋重三郎
たちが弾圧を受けました。
幕府を批判する出版物は、暴動の火種になるかかもしれないから、禁止にしておけば安心だ。
政策⑤:幕府役人の意識改革(寛政異学の禁)
政策①〜④までの話は、江戸の治安対策の話。ここから先は直接幕府にかかわる政策。
田沼時代、幕府では賄賂で役職を買うことが当たり前になっていました。
武士とは本来、武芸に励んで身分秩序を重んじるべきものだ。そうしてこそ、幕府の威厳も保たれるというもの。
賄賂が横行するなど、本来あってはならぬこと!幕府内の規律を正すため、身分秩序を重んじる学問である朱子学を世に広めるぞ!!
と考えた松平定信は、幕府公認の学問所(今でいう国立大学的なところ)である湯島聖堂で教える科目を朱子学のみとし、それ以外の科目を教えることを禁止にしました。
さらに、役人の採用試験に採用する筆記テストを朱子学だけにして、朱子学を幕府の重要な教えと位置付けました。
この禁止令のことを寛政異学の禁と言います。1790年に出されました。
政策⑥:幕府役人たちの借金帳消し(棄捐令)
松平定信は、幕政を担う役人たち(武士たち)が借金苦に陥っていることを問題視して、役人たちの借金を帳消にする法令を出しました。
この法令のことを棄捐令と言います。
幕府役人たちのお給料はお米で支払われていて、物を買うにはお米をお金に換金する必要がありました。
・・・ところが、先ほど説明したとおり、米価格は下がるばかりでお給料(お米)で換金できるお金はだんだん減っていきました。
おまけに、幕府の長年の財政難で役人たちのお給料は上がらないまま。
手元に残るお金は減っていくのにお給料は上がらない・・・、そんな状況で役人たちは生活に困り果て、借金を重ねるようになったのです。
幕府役人たちにお金を貸していたのは札差と呼ばれる人たちでした。
札差とは、幕府から支給されるお給料(お米)を幕府役人に渡す仲介役のことを言います。
札差は幕府役人のお給料を握っていたので、もし貸したお金が返ってこなくても、次の給料日に強制徴収することができます。
借金の取りっぱぐれの心配がないため、札差は高利息でどんどん役人たちにお金を貸して、暴利を貪るようになりました。
棄捐令のおかげで武士たち救われたんだね。
・・・確かに、借金がチャラになって多くの役人たち(武士たち)が救われました。
しかし、武士たちはもともと生活に苦しいから借金をするようになりました。
なのでお給料が上がらなければ、結局また借金をしないと生活できなくなってしまいます。
一方、貸したお金をチャラにされた札差たちは、武士たちにお金を貸すのを渋るようになります。
幕府が棄捐令とかいう使えねー法令出してきたから、もう武士たちには金貸さねーわ。
生活に苦しくても自分でなんとかするんだな
くそっ!
せっかく借金チャラになったのに、これから借金できなくなったせいで生活ができない・・・。
という問題が起きたため、松平定信は棄捐令とセットで、低利息でお金を借りれる金貸所を設置して、役人たちの生活を救おうと試みました。
寛政の改革の終わり〜松平定信の失脚〜
次々と政策を打ち出していた松平定信でしたが、1793年、突如クビを言い渡され失脚することになります。
失脚した理由は、松平定信が「天皇家や将軍家に与えられる称号に口出しをしたから」だと言われています。
ある時、当時の天皇、光格天皇がこんなことを言いました。
ワイの父さん、天皇になったことないんだけど『上皇』の尊号を与えたい。いいよな!?
幕府の同意を求めた光格天皇に対して、松平定信はこう答えました。
天皇になったことない人が上皇を名乗る前例はほとんどない。だからダメ。
ぐぬぬ・・・。でも、ワイだって簡単に諦めないからな!
1793年、幕府と朝廷の伝令役を務めていた武家伝奏が、再び光格天皇の意向を伝えると、松平定信はブチギレ。
武家伝奏は、幕府の命令に従ってればいいんだ。
天皇の肩を持つなら、お前らもうクビな。
武家伝奏は処分を受け、光格天皇の父は「上皇」の尊号を得ることができませんでした。
・・・この一連の騒動のことを尊号一件と言います。
尊号一件は、将軍家の問題にも波及しました。
なぜなら、将軍の徳川家斉も光格天皇と似たようなことを考えていたからです。
・・・えっ!?
俺も将軍になったことのないとーちゃんに『大御所』の称号を与えて、江戸城に来てもらおうと思ってたんだけど、松平定信がいたら邪魔されるじゃん・・・。
尊号一件をきっかけに、松平定信と徳川家斉の関係が悪化。この関係悪化が原因で、松平定信はクビになった・・・と言われています。
寛政の改革の後
1793年に松平定信が失脚したことで、寛政の改革は終わりました。
その後は、徳川家斉と残された老中たちが幕政を行うようになって、1837年に将軍職を息子の家慶に譲った後も大御所として政界に君臨し続けました。(大御所政治)
そして1841年、徳川家斉が亡くなると、老中だった水野忠邦が再び幕政の大改革(天保の改革)を行い、ふたたび幕政を立て直すことになります。
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