天才は時として、時代を超えた存在として後世に名を残します。しかし、その才能ゆえに周囲から理解されず、悲劇的な最期を迎えることもあります。江戸時代中期に活躍した平賀源内は、まさにそんな天才の一人でした。
この記事では、そんな日本史生粋の天才、平賀源内の生涯や功績、エピソードを余すことなく解説していきます!
神童、平賀源内
1728年(享保13年)、平賀源内は讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で生まれました。後に「平賀源内」として知られることになるこの子は、高松藩の足軽身分である白石家の三男として生を受けました。
父は白石茂左衛門。高松藩の足軽身分である白石家の三男として生を受けました。
兄弟が多い家庭で育った源内は、幼い頃から並外れた創造性と好奇心を見せていました。
12歳のとき、源内は周囲を驚かせる出来事を起こします。掛け軸に巧妙な細工を施し、お神酒を供えると描かれた天神様の顔が徐々に赤く染まっていく「お神酒天神」を作り上げたのです。
この奇抜なアイデアは評判となり、源内の名は地域で広く知られるようになりました。
幼くして才能を発揮した源内は、13歳から高松藩の藩医のもとで本草学を学び始めます。
※本草学:薬用となる動植物を研究する学問のこと
同時に、儒学者からは武士の基礎教養である儒学も学んでいました。また、同時期に俳諧のグループにも属しており、文学的な素養も身につけたと言われています。
この時期に培われた幅広い知識は、後の源内の多彩な活動の基礎となっていきます。
運命を変えた長崎留学
22歳で父を失った源内は、兄たちも早くに亡くなっていたため、父の跡を継いで高松藩の蔵番となります。しかし、その才能を見出した藩主の計らいにより、源内は長崎への留学の機会を得ることになりました。
当時の日本は鎖国政策下にあり、外国との交流は厳しく制限されていました。しかし、長崎の出島だけは例外的に、オランダなど一部の国との貿易が許されていました。
長崎での留学経験は、源内の人生を大きく変えます。西洋の進んだ科学技術や文化に触れた源内は、これまで以上に強い探究心を抱くようになったのです。
オランダ語や医学、油絵など、当時の日本人にはほとんど知られていなかった技術や学問を貪欲に吸収していきました。
郷里の高松藩に戻った源内は、やがて大きな決断を下します。家督を妹の婿に譲り、新たな知識を求めて江戸へ向かうことを決意したのです。29歳のときのことでした。
本格的な研究活動がスタート
江戸に出た源内は、名医として知られた本草学者・田村藍水のもとに弟子入りします。また、林家の私塾にも入門し、漢学の研究も深めていきました。
■物産会の開催
源内の功績の一つに、日本で初めての博覧会とも言える「物産会」の開催があります。これは、全国から珍しい薬草や鉱物などを集めて展示・紹介する催しでした。
宝暦12年(1762年)、源内は江戸・湯島において「東都薬品会」を開催します。この試みは大きな反響を呼び、以後、日本各地で物産会が開催されるようになっていきました。
この物産会を通じて源内は、蘭学者で後に「解体新書」の著者となる杉田玄白と知り合いました。杉田玄白は、源内の良き理解者となり、その後の源内の生涯に大きな影響を与えました。
鉱山開発への挑戦
源内の活動は、本草学の研究にとどまりません。宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見。さらに、武蔵川越藩の依頼で奥秩父の鉱山開発にも携わり、石綿などの新たな鉱物資源を発見しています。
また、安永2年(1773年)には秋田藩に招かれ、鉱山開発の技術指導も行いました。この時、秋田藩士の小田野直武に西洋画の技法を伝授したことでも知られています。
エレキテルの開発
源内の名を一躍有名にしたのが、静電気発生装置「エレキテル」の開発です。
安永5年(1776年)、源内は長崎でオランダから輸入された壊れたエレキテルを入手。その仕組みを研究し、修理・復元に成功します。
エレキテルは、ガラス円板を回転させて摩擦を起こし、静電気を発生させる装置でした。源内は、この装置が持つ医療効果に着目。痛みや麻痺の治療に活用できると考えたのです。
このエレキテルの開発は、当時の江戸の人々に大きな衝撃を与えました。しかし同時に、「怪しげな機械を作る男」という評価も生まれ、源内の評判は複雑なものとなっていきました。
文学・芸術者としての平賀源内
源内の才能は、科学技術の分野にとどまりませんでした。文学者としても、当時の江戸文壇で大きな足跡を残すことになります。
特に注目すべきは、「戯作」と呼ばれる江戸時代の通俗小説の分野における功績です。源内は「風来山人」というペンネームで、『根南志具佐』『風流志道軒伝』など、ユーモアと風刺に富んだ作品を次々と発表していきました。
当時の文学界では、教訓的な内容の作品が主流でした。しかし源内は、その形式を踏襲しながらも、独特の面白さと社会への皮肉を巧みに織り込んでいきます。この新しい文学スタイルは、多くの読者の心をつかみ、源内は人気作家としての地位も確立していきました。
浄瑠璃作者としての活動
源内は「福内鬼外」の名で、浄瑠璃の脚本も手がけています。『神霊矢口渡』『源氏大草紙』など、歴史的な出来事を題材とした作品を中心に、数多くの脚本を残しました。
その特徴は、伝統的な時代物の形式に、当時の庶民生活を描いた世話物の要素を加えた点にありました。この斬新な試みは、観客から高い評価を受けることになります。
芸術家としての挑面
源内の創造性は、絵画や陶芸の分野でも発揮されました。長崎で学んだ西洋画の技法を活かし、「西洋婦人図」「黒奴を伴う赤服蘭人図」などの作品を残しています。
また、陶芸の分野では「源内焼」と呼ばれる独自の作風を確立。従来の日本の陶芸には見られない斬新な釉薬や、世界地図などの意匠を取り入れた作品を生み出しました。
こうして見ると、平賀源内の多彩な才能が本当に多岐にわたっていることがわかるね。
そのあまりの多彩さに、周囲から「あいつは胡散臭い」と誤解されることも多かったみたいだよ・・・。
源内の最期
源内の人生は、突然の悲劇によって幕を閉じることになります。
安永8年(1779年)、ある大名屋敷の工事を請け負った源内は、酒に酔った勢いで設計図を盗まれたと思い込み、大工の棟梁を殺傷してしまいます。
投獄された源内は、獄中で破傷風を患い、51歳という若さでその生涯を終えることになりました。
旧知の仲であった蘭学者の杉田玄白は、源内の死を深く悼み、墓碑に次のような言葉を刻みました。
「ああ非常の人、非常の事を好み、行いはこれ非常、何ぞ非常に死ぬる」
この碑文には、常識にとらわれず、新しいものを追い求め続けた源内の生き様が、実に的確に表現されています。
土用の丑の日
源内の生涯には、様々な興味深い逸話が残されています。その中でも特に有名なのが、「土用の丑の日」にまつわる話です。
江戸の老舗うなぎ屋が、夏場の売り上げ不振に悩んでいた時、源内は「本日、土用丑の日」という看板を掲げることを提案しました。これは日本最古のキャッチコピーと言われています。
土用の丑の日とは、夏の土用(立秋前の約18日間)の中で丑の日にあたる日のことです。「う」の付く食べ物を食べると夏バテしないという言い伝えと、「丑」の字にかけた源内の発想は見事に的中。この宣伝効果により店は大繁盛し、以後、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が全国に広まっていきました。
発明品と研究の実態
源内の発明や研究には、時代を先取りしたものが数多くありました。例えば「火浣布」と呼ばれる、燃えない布の開発に成功しています。これは石綿(アスベスト)を原料としたもので、当時としては画期的な発明でした。
また、日本初となる温度計「日本創製寒熱昇降器」を製作。これには「極寒」から「極暑」までの7段階の目盛りが付けられており、華氏温度を採用していました。
さらに、ガラス製品の国産化や砂糖の精製技術の研究など、産業振興にも貢献しています。しかし、これらの多くは研究段階で、実用化にまでは至りませんでした。
時代を超えた天才の意味
平賀源内は、鎖国下の江戸という限られた環境の中で、驚くべき創造性を発揮し続けました。しかし、その才能は必ずしも当時の社会に受け入れられたわけではありません。
それでもなお、新しいものを追い求め続けた源内の姿勢、既存の枠組みにとらわれない自由な発想、そして失敗を恐れない挑戦的な精神は、時代を超えて今もなおその価値を持ち続けているのです。
源内は、単なる「江戸の天才」ではなく、どの時代に生まれても新しい価値を生み出し続けたであろう、真の意味での「創造者」だったのかもしれません。