

今回は前田利家について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「加賀百万石の祖」として有名だけど、実はその裏には失敗と挫折の連続があったんだ。
「加賀百万石の祖」として名高い前田利家ですが、実はその生涯の半分は失敗・追放・裏切りの連続でした。
信長に追放され、秀吉に乗り換え、恩人である柴田勝家を見捨て——。それでも利家が最後まで天下人に必要とされ続けた理由とは、いったい何だったのでしょうか。
この記事では、前田利家の波乱に満ちた生涯を、少年時代から加賀百万石の確立まで追いかけていきます。
前田利家とは?3行でわかる加賀百万石の祖
- 織田信長・豊臣秀吉に仕えた戦国武将。「槍の又左」の異名をとる猛将。
- 加賀・能登・越中を支配する加賀百万石の礎を築いた。
- 晩年は豊臣五大老の筆頭格として徳川家康と対立し、豊臣政権を守ろうとした。

前田利家は、天文7年(1539年)頃、尾張国(現在の愛知県)の荒子城主・前田利春の四男として生まれました。幼名は犬千代。
若くして織田信長に仕え、戦場では「槍の又左」と呼ばれるほどの武勇を誇りました。しかし一方で、追放や浪人生活を経験するなど、順風満帆な人生ではありませんでした。
晩年は豊臣秀吉の信頼を得て、加賀・能登・越中あわせて百万石を超える大領を治め、豊臣五大老の筆頭格として活躍しました。1599年に亡くなるまで、秀吉の息子・秀頼の後見人として豊臣政権を支え続けた人物です。

利家は「槍の猛将」ってイメージが強いけど、実は領地の経営にもめちゃくちゃ長けていたんだ。武力と経営力の両方を兼ね備えた、戦国時代でも珍しいタイプの武将だったんだよ。
「犬千代」と呼ばれた少年時代〜信長への仕官
■ 幼少期「犬千代」と織田家への仕官
前田利家は、尾張国荒子の土豪・前田利春の四男に生まれました。幼名の「犬千代」は当時の武家の子どもによくある名前で、犬のようにたくましく育ってほしいという願いが込められたものとされています。
利家は12歳ごろ(1551年頃)、織田信長のもとに小姓として仕え始めました。

小姓ってなに?

小姓っていうのは、今でいう秘書兼ボディーガードみたいなもの。主君のそばで身の回りの世話をしつつ、いざというときは戦う役目だよ。信長のそばで働けるのは、それだけで大きなチャンスだったんだ。
当時の信長は、まだ「尾張のうつけ者」と呼ばれていた若き日。利家もまた、派手な身なりで城下を闊歩する「傾奇者」だったと伝えられています。
■ 「うつけ」仲間・まつとの結婚
信長のもとで利家は、のちに天下人となる木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)とも交友を深めました。
2人は同じ織田家の家臣として切磋琢磨し、やがて生涯を通じた「盟友」となっていきます。のちに秀吉が「利家は俺の一番の友」と語ったという逸話も残っています。
また、利家は永禄元年(1558年)頃、まつ(のちの芳春院)と結婚しました。まつは利家の従妹にあたり、当時まだ12歳ほどだったとされています。
まつはのちに「内助の功」で知られる女性となり、利家の生涯を陰で支え続けました。大河ドラマ「豊臣兄弟!」では菅井友香さんが演じています。

あなた(利家)は派手な着物を着て街を歩き回って……まったく、困ったお人です。
槍の又左、参上!赤母衣衆として頭角を現す
■ 「槍の又左」の異名と赤母衣衆
利家が戦場で名を上げ始めたのは、10代後半からのことです。得意武器は槍。長い槍を巧みに操り、数々の戦いで敵の首級を挙げたことから、「槍の又左」(又左衛門の略)という異名がつきました。
その武勇が認められ、利家は信長直属の精鋭部隊「赤母衣衆」に選ばれます。

赤母衣衆ってどんな部隊なの?

赤母衣衆っていうのは、信長が選んだ精鋭の親衛隊のこと。背中に赤い母衣(風船のように膨らませた布)を背負って戦場を駆け回る、今でいう特殊部隊みたいな存在だよ。選ばれること自体が大きな名誉だったんだ!
赤母衣衆は信長の直属で、戦場での伝令や偵察、そして先陣を切る役割を担いました。利家のほかにも、のちに名将と呼ばれる武将たちが名を連ねていたとされています。
■ 主な合戦での活躍
利家が最初に大きな武功を挙げたのは、弘治2年(1556年)の稲生の戦いです。これは信長が弟・信勝(信行)と戦った織田家内部の争いでした。
このとき利家はまだ18歳前後でしたが、敵将の首級を挙げるという大手柄を立てました。信長から直々に褒美を与えられ、若くして織田軍の中で存在感を示すことになります。

槍は俺の魂だ。戦場に出れば、誰にも負ける気がしなかった。
その後も利家は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦や、元亀元年(1570年)の姉川の戦いなど、信長の主要な合戦に参加して武功を重ねていきました。

利家は初陣のときからとにかく勇猛だったんだ。槍一本で戦場を暴れ回り、10代から「やべぇヤツ」って織田家中で評判だったみたいだよ。
茶坊主事件〜追放そして返り咲き
■ 茶坊主を斬った事件とは
順調に武功を重ねていた利家ですが、永禄2年(1559年)、人生最大の転機が訪れます。
事件の発端は、信長の茶坊主・拾阿弥との口論でした。拾阿弥が利家の笄(こうがい)を盗んだとされ、怒った利家は拾阿弥を斬り殺してしまったのです。
茶坊主とは:主君のそばで茶の湯の世話をする僧形の召使い。身分は低いものの、主君の寵愛を受けて権勢を振るう者もいました。
当時、信長は家中の私闘を厳しく禁じていました。いかに有能な家臣であっても、ルール違反は許されません。
こうして利家は信長から追放を命じられ、織田家を去ることになりました。

利家は血気盛んな性格だったから、つい手が出てしまったんだね。でも信長のもとでは、いくら腕が立っても無断で人を斬ったら一発アウト。まさに人生最大のピンチだったんだ。
■ 浪人中の生活と返り咲き
追放された利家は浪人となり、しばらくの間、主君のない不安定な生活を送ることになります。
しかし利家は、ただ浪人として燻っていたわけではありません。許しを得るために、信長の合戦に無断で参加して武功を挙げるという行動に出ました。
なんと、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦に勝手に参戦し、敵の首を討ち取ったのです。しかし、このときはまだ信長の許しは下りませんでした。
その後も利家は戦場に出続け、翌年の森部の戦い(1561年)でも見事な武功を挙げました。この粘り強さがついに信長の心を動かし、利家はようやく赦免されて織田家に復帰することができたのです。

人の不幸を喜ぶやつ、落ちぶれたときに支えてくれるやつ——浪人のときに、本当の友がわかった。

なんでそんなに簡単に許されたの?追放されてたのに勝手に戦場に来るって、逆に怒られない?

実は「簡単に」ではないんだ。利家は桶狭間の前哨戦で首を挙げても許されず、さらに別の戦いで武功を重ねて、ようやく許してもらえた。それだけ信長が私闘を許さなかったということと、利家がどれだけ必死だったかがわかるよね。
賤ヶ岳の決断〜柴田か、秀吉か

柴田勝家と豊臣秀吉の対立——利家はどちらを選んだのか?
■ 本能寺の変後の混乱と柴田勝家との関係
天正3年(1575年)、信長の命令で越前(現在の福井県)の府中城の城主となった利家は、柴田勝家の与力(補佐役)として北陸方面の統治を任されました。いわゆる「府中三人衆」の一人です。
天正9年(1581年)には能登一国を任され、七尾城に入城。着々と北陸での地盤を固めていきました。
ところが天正10年(1582年)、本能寺の変が起こります。織田信長が明智光秀に討たれ、織田家は大混乱に陥りました。
信長亡き後、織田家内では後継者をめぐる権力闘争が激化します。その中心にいたのが、織田家筆頭家老の柴田勝家と、中国大返しで名を上げた豊臣秀吉でした。
利家にとって、柴田勝家は長年の上司であり恩人です。一方の秀吉は、若い頃からの親友。利家はこの2人の板挟みになってしまったのです。
■ 賤ヶ岳の戦い——利家の撤退という選択
天正11年(1583年)、ついに柴田勝家と秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発しました。
利家は柴田方として戦場に立ちましたが、戦いの最中に突然軍を撤退させます。この撤退は事実上、柴田勝家を見捨てる行為でした。
利家の撤退により柴田軍は総崩れとなり、秀吉の圧勝で決着。勝家はその後、北ノ庄城で妻・お市の方とともに自害しました。

利家はなぜ柴田勝家を見捨てたのか——これは賛否が分かれるところなんだ。「裏切り者」と見る人もいるし、「家臣や領民を守るための冷静な判断だった」と評価する人もいるよ。

柴田勝家を見捨てたのって、裏切りじゃないの?

確かに恩人を見捨てたという意味では「裏切り」ともいえるね。でも一説では、利家と秀吉は事前に密約を交わしていたとも言われているんだ。それに利家は賤ヶ岳のあと、秀吉に頭を下げて許しを乞うた——。この現実主義的な判断力こそが、利家がのちに加賀百万石を築けた理由かもしれないね。
賤ヶ岳の戦い後、利家は秀吉のもとを訪れて謝罪し、秀吉もこれを快く受け入れました。2人の友情は、この危機を経てさらに深まったと言われています。

加賀百万石の誕生〜北陸を制した利家
■ 能登・加賀・越中の支配拡大
賤ヶ岳の戦いで秀吉方についた利家は、その後の佐々成政との戦い(末森城の戦い、1584年)にも勝利し、北陸での地盤をさらに拡大していきました。
天正11年(1583年)に金沢城に入城した利家は、これを拠点として加賀・能登の統治を本格化させます。
さらに天正13年(1585年)には秀吉の命で佐々成政が降伏し、越中(現在の富山県)も前田家の支配下に入りました。こうして利家は、加賀・能登・越中の三国をあわせた広大な領地を手にすることになったのです。
この領地は石高にしておよそ100万石に達し、のちに「加賀百万石」と呼ばれるようになりました。徳川家を除けば、全国でも最大級の大名領です。
■ 「そろばん大名」としての財政センス
利家は武勇だけの武将ではありませんでした。実は、自ら算盤を弾いて領地の財政管理を行うほどの経営センスの持ち主だったのです。
利家は戦場から帰ってくると、すぐにそろばんを手に取って収支の計算をしていたという逸話が残っています。家臣たちからは「そろばん大名」とも呼ばれていたそうです。
この経営感覚のおかげで、加賀藩は利家の代から財政基盤が安定し、明治維新まで約280年にわたって存続することになります。前田家が加賀百万石を維持し続けられた背景には、利家が築いた堅実な経営方針がありました。

あなたはそろばんが好きすぎて、まるでケチみたいに見えますよ!……でも、そのおかげで家臣もお百姓さんも安心して暮らせるのでしょうね。

戦場では「槍の猛将」、城に帰れば「そろばん大名」——このギャップが利家の最大の魅力だね。武力だけでも経営力だけでもダメ。両方があったからこそ加賀百万石は生まれたんだ。
豊臣五大老として家康と対峙した晩年
■ 豊臣五大老への就任
賤ヶ岳の戦い後、秀吉の信任を得た利家は、豊臣政権の中で重要な地位を占めるようになりました。
慶長元年(1596年)には従二位・権大納言に叙任され、慶長3年(1598年)には豊臣秀吉が定めた豊臣五大老の一人に任命されました。
豊臣五大老とは:徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の5名。秀吉の死後、豊臣政権を支えるために設けられた合議制の最高機関です。
五大老の中で、石高としては徳川家康(約250万石)が圧倒的な1位。しかし秀吉が最も信頼し、「秀頼のことを頼む」と遺言で後見人に指名したのは、利家でした。

石高では家康が上なのに、なんで秀吉は利家を後見人に選んだの?

秀吉にとって利家は若い頃からの親友で、絶対に豊臣家を裏切らないと信じていたんだ。一方、家康は実力者だけど野心も大きい——秀吉はそこを見抜いていて、利家に「家康を抑えてくれ」と託したんだよ。
■ 秀吉から秀頼への後見と家康牽制
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去しました。享年62歳。跡を継いだのは、まだわずか5歳の豊臣秀頼です。
秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康はすぐに動きを見せ始めました。五大老の合議制を無視して、大名たちとの政略結婚や私的な同盟を進めたのです。これは秀吉が生前に禁じていた行為でした。
これに真っ向から異を唱えたのが利家です。利家は大坂城に留まって秀頼を守り、家康の専横を牽制しました。

太閤殿下(秀吉)との約束がある。秀頼様をお守りすることが、俺の最後の務めだ。
慶長4年(1599年)には、家康暗殺計画の噂(家康襲撃未遂事件)も浮上し、豊臣政権内は緊張が一気に高まりました。利家と家康は一触即発の状態に陥りますが、利家は武力衝突を避け、調停によって事態の収拾を図りました。
■ 利家の死と豊臣政権の行方
しかし、利家の健康はすでに限界を迎えていました。
慶長4年(1599年)閏3月3日、前田利家は大坂の自邸で死去しました。享年は61歳とも62歳ともいわれています。
利家の死は、豊臣政権にとって致命的な打撃となりました。家康を牽制できる唯一の人物がいなくなったことで、家康は一気に権力を握り始めます。
利家の死からわずか1年半後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発。豊臣政権は事実上崩壊し、徳川幕府の時代が始まることになります。

「もし利家があと数年長生きしていたら、関ヶ原の戦いは起きなかったかもしれない」——そう語る歴史家もいるんだ。それくらい利家の存在は大きかったんだね。
なお、利家の死後、前田家は息子の前田利長が継ぎました。まつ(芳春院)は人質として江戸に赴き、前田家は関ヶ原の戦いでは東軍(家康方)につくことで加賀百万石を明治維新まで約270年にわたって維持することに成功します。
史実とドラマの違い〜大河「豊臣兄弟!」を2倍楽しむ視点
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、前田利家を俳優の大東駿介さんが演じています。ドラマでは秀吉の弟・豊臣秀長と利家の友情が大きく描かれています。
史実において、秀長と利家が直接深い交流を持っていたことを示す一次史料は少ないのが実情です。しかし、2人はともに秀吉を支える「豊臣政権の屋台骨」であり、秀長が内政・外交を取り仕切り、利家が軍事・北陸統治を担うという役割分担がありました。
秀長は天正19年(1591年)に52歳で亡くなりました。秀長の死後、利家が五大老として秀頼の後見人を引き受けたことを考えると、秀長が担っていた「秀吉の右腕」としての役割を、利家が受け継いだとも言えるでしょう。
ドラマでは「秀吉・秀長・利家」の三角関係が軸になっていますが、史実では利家と秀吉の関係がより密接でした。秀長が生きている間は秀長が「豊臣の番頭」、秀長亡き後は利家がその役目を継いだ——と考えると、ドラマの人間関係がよりクリアに見えてきます。
前田利家の人物像〜「槍の又左」と「そろばん大名」の二面性
■ 猛将としての顔
利家は若い頃から「槍の又左」と呼ばれるほどの猛将でした。戦場では長槍を自在に操り、初陣から数えて多くの首級を挙げたとされています。
その体格も大柄で、身長は六尺(約182cm)に近かったという記録もあります。戦国時代の平均身長が155〜160cm程度であったことを考えると、利家はかなりの大男だったことがわかります。
また、若い頃は派手な身なりで城下を歩く「傾奇者」でもありました。赤い長槍に派手な甲冑姿で戦場を駆け回る利家は、敵味方の目を引く存在だったことでしょう。
■ 文化・経済に通じた大名としての顔
一方で利家には、武将らしからぬ繊細な一面もありました。
茶の湯を好み、当時の一流茶人であった千利休とも交流がありました。また、能を愛好し、自ら舞台に上がることもあったとされています。

そしてなんといっても有名なのが、利家のそろばん好きです。戦場から帰ると、すぐにそろばんを手に取って領地の収支を計算していたという逸話は、先ほども紹介したとおりです。

戦場では槍を振るい、城に帰ればそろばんを弾き、茶の湯を楽しむ——こういうギャップがあるのが利家の魅力なんだよね。「武」と「文」と「経営」の三拍子がそろった武将って、戦国時代でもかなり珍しいんだ。
■ 名言・逸話
利家にはいくつかの有名な逸話や言葉が伝えられています。
「人の不幸を喜ぶ者、落ちぶれたときに見捨てる者——そういう者こそ真の敵。浪人のときに誰が支えてくれたか、わしは忘れん。」
これは利家が浪人時代の経験をもとに語ったとされる言葉です。追放されて苦しかった時期に、誰が助けてくれたか——利家はその恩を生涯忘れなかったと言われています。
また、利家は「金銀は人に貸すな。しかし人には恩を施せ」という言葉も残しています。お金にはシビアだけれど、人の恩義は大切にする。まさに「そろばん大名」でありながら「義の人」でもあった利家の人柄がよく表れた言葉です。
さらに、利家がまだ織田家に仕えていた若い頃、信長の前で派手な長槍を振り回し、「犬千代の槍は天下一じゃ!」と信長に褒められたというエピソードも残っています。

利家は「武」で勝ち、「義」で信頼を勝ち取り、「算」で百万石を守った——そんな人物だったんだね。
前田利家についてよくある質問
前田利家は戦国時代の武将で、織田信長・豊臣秀吉に仕えました。「槍の又左」と呼ばれた猛将であると同時に、自らそろばんを弾いて領地経営を行う「そろばん大名」でもありました。加賀・能登・越中を支配する加賀百万石の礎を築き、晩年は豊臣五大老として徳川家康を牽制しました。
加賀百万石とは、前田家が治めた加賀・能登・越中(現在の石川県・富山県)の領地のことです。石高はおよそ100万石に達し、徳川家を除けば全国最大級の大名領でした。前田利家が礎を築き、明治維新まで約270年間存続しました。
豊臣五大老とは、豊臣秀吉が死の直前に定めた5人の有力大名による合議機関のことです。メンバーは徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の5名で、幼い秀頼を支えるために設けられました。利家はこの中で家康に次ぐ実力者でした。
利家と秀吉は、ともに織田信長に仕えた若い頃からの親友です。秀吉が天下を取った後も利家は信頼厚い重臣として活躍し、秀吉は遺言で「秀頼のことを利家に頼む」と後見人に指名しました。秀吉が「一番の友」と呼んだ相手が利家だったと伝えられています。
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、俳優の大東駿介さんが前田利家を演じています。ドラマでは秀吉・秀長との友情を軸に、利家の人間的な魅力が描かれています。
まつ(のちの芳春院)は利家の正室で、利家の従妹にあたります。「内助の功」で知られ、利家の生涯を陰で支え続けました。利家の死後は人質として江戸に赴き、前田家の存続に貢献しました。大河ドラマ「豊臣兄弟!」では菅井友香さんが演じています。
「槍の又左」は前田利家の異名です。「又左」は利家の通称「又左衛門」の略で、槍の名手だったことからこう呼ばれました。戦場で長槍を巧みに操り、数々の武功を挙げたことがこの異名の由来です。
前田利家についてもっと詳しく知りたい人へ
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② もっと知りたい社会人なら|決定版の伝記本
津本陽の歴史小説は骨太で読み応え抜群。信長の小姓時代から秀吉との関係まで、利家の生涯をドラマチックに描いてるんだ。上・中・下の3巻構成で、読み始めたら止まらないよ!
③ ドラマの余韻を楽しみたいなら|小説スタイル
大河ドラマ「利家とまつ」(2002年)の公式ガイド的な本。ドラマを楽しんだあとに読むと、史実との違いや二人の実際の関係がよくわかって面白いんだよ!大河「豊臣兄弟!」との比較にもなるね。
前田利家まとめ〜失敗を乗り越えた加賀百万石の祖
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1539年頃尾張国に生まれる(幼名:犬千代)
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1551年頃織田信長に小姓として仕える
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1559年茶坊主・拾阿弥を斬り信長に追放される
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1561年森部の戦いで武功を挙げ赦免・復帰
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1575年越前・府中城主となる(府中三人衆)
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1581年能登一国を任され七尾城に入城
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1583年賤ヶ岳の戦いで柴田軍から離脱し秀吉方へ。金沢城に入城
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1585年越中も支配下に入り加賀百万石の基盤が完成
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1598年豊臣五大老に就任。秀吉死去後、秀頼の後見人となる
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1599年前田利家、大坂で死去(享年61〜62歳)

以上、前田利家のまとめでした!「槍の猛将」であり「そろばん大名」でもあった利家の生涯は、本当に波乱万丈だったね。下の記事で豊臣秀長や石田三成など、戦国時代の関連人物もあわせて読んでみてください!
Wikipedia日本語版「前田利家」(2026年4月確認)
コトバンク「前田利家」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)p.174-175
Wikipedia日本語版「豊臣五大老」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「賤ヶ岳の戦い」(2026年4月確認)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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