
今回は1837年に起きた「モリソン号事件」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!漂流民7名の意外な人生ドラマや、蛮社の獄とのつながりまで深く掘り下げるので、ぜひ最後まで読んでみてね!
江戸時代後半の全体像はYouTubeでも解説しています◎
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
「江戸幕府がアメリカの船を砲撃した」と聞くと、「外国の侵略から日本を守ったんだな」と思う人が多いかもしれません。ところが実は、このモリソン号には7人の日本人が乗っていました。しかも彼らは、海で遭難してアメリカに助けてもらった漂流民たち。モリソン号は、その日本人を無事に故郷へ送り届けるためにやってきた友好的な船だったのです。
つまり幕府は、「日本を守った」どころか、助けられた自国民を見捨てて、迎えに来た恩人に大砲を撃ち込んでしまったということになります。この記事では、なぜそんな悲劇が起きたのか、そして事件が幕末日本をどう動かしたのかを、最初からていねいに見ていきましょう。
モリソン号事件とは?
1837年(天保8年)、江戸幕府がアメリカ船モリソン号を浦賀(神奈川)と山川(鹿児島)で砲撃して追い払った事件。
モリソン号は日本人漂流民7名を送り届けに来た船で、後にそのことが判明して幕府への批判が高まった。
異国船打払令への疑問が広がり、蛮社の獄(1839年)や薪水給与令(1842年)へとつながる、幕末外交の大きな転換点となった。

モリソン号事件とは、1837年(天保8年)に、アメリカの商船モリソン号が日本へやってきたところ、江戸幕府に2度も砲撃されて追い返された事件のことです。英語では「Morrison incident」と表記されます。
モリソン号は、アメリカの貿易会社の商船でした。武器を持った軍艦ではなく、ふだんは中国(清)との貿易をしていた、いわば「民間の貨物船」です。その船が、海で遭難して海外をさまよっていた日本人を救助し、「彼らを日本に帰してあげよう」という目的で来航しました。
ところが幕府は、当時出していた異国船打払令にもとづいて、問答無用でモリソン号に大砲を撃ちかけました。船に日本人が乗っていることも、友好的な目的で来たことも知らないままの砲撃でした。

「モリソン号」っていう名前は、その貿易会社の関係者にちなんで付けられた船の名前だよ。当時の日本人は「マリソン号」なんて呼んだりもしたんだ。とにかく覚えてほしいのは、これは戦いに来た軍艦じゃなくて、日本人を届けに来た商船だったってことだね!

モリソン号事件って、いつ起きたの?なんで外国の船がわざわざ日本に来たの?

起きたのは1837年、天保8年のことだよ。来た理由は、さっき言った通り「漂流民の日本人を送り届けるため」。さらに、できればこの機会に日本と貿易できないかな…という思惑も少しあったんだ。でも、まずは人助けが目的だったんだね。
📌 実は「内」も大荒れの年だった
モリソン号事件が起きた1837年は、国内も大きく揺れた年でした。同じ年の2月には、大坂で元幕府役人の大塩平八郎が貧しい人々を救おうと挙兵する大塩平八郎の乱が起きています。「外」からは外国船、「内」では飢饉と反乱――まさに内憂外患の時代に、モリソン号はやってきたのです。
ここで「なぜ友好的な船を撃ってしまったのか」を理解するには、当時の日本がどんな状況だったのかを知る必要があります。次の章では、事件の背景となった鎖国体制と異国船打払令について見ていきましょう。
モリソン号事件の背景:鎖国と異国船打払令
📌 当時の日本(江戸時代)の貿易ルール
幕府は「鎖国」と呼ばれる体制をとり、外国との窓口を長崎などに限定。貿易を許したのはオランダと清(中国)だけ。それ以外の国の船が近づくのは原則として禁止だった。

江戸時代の日本は、鎖国と呼ばれる体制をとっていました。外国との貿易は長崎の出島などに限定され、相手もオランダと清(中国)だけ。「決まった相手と、決まった場所でしか付き合わない」というのが幕府の基本方針でした。
ところが1800年前後になると、ロシア・イギリス・アメリカといった国々の船が、日本の近海にたびたび姿を見せるようになります。ラクスマン(ロシア)の来航や、レザノフの来航など、開国や貿易を求めてくる外国船が次々と現れたのです。幕府にとっては「招かれざる客」が増えていく、頭の痛い時代でした。
問題①:増えつづける外国船と、幕府の強硬な答え
こうした外国船の出没に手を焼いた幕府は、1825年(文政8年)に異国船打払令を出しました。無二念打払令とも呼ばれます。内容はとてもシンプルで、「日本に近づく外国船は、理由を問わず問答無用で撃ち払え」というものでした。
1825年に幕府が出した命令で、「日本に来た外国船(オランダ・清・朝鮮以外)は、上陸させず、有無を言わさず砲撃して追い払え」という強硬なルールです。ラクスマン来航(1792年)・レザノフ来航(1804年)と外国船が相次ぎ、さらにイギリス船員が薪や水を求めて上陸する事件が続いたことで、幕府は「もう一切相手にしない」という方針に切り替えました。このルールがあったため、後にモリソン号も砲撃されてしまうのです。

でも、理由も聞かずに撃ち払うなんて、かなり強硬ですよね。外交的に問題にならなかったんですか?

鋭いね!実はこの強硬すぎる打払令が、モリソン号事件で大きな悲劇を生むことになるんだ。「とにかく撃て!」というルールだったから、現場の役人は船の中身を確認することもなく砲撃しちゃったんだよ。
ちなみに、この打払令が出されるきっかけのひとつになったのが、1808年に長崎で起きたフェートン号事件です。イギリスの軍艦が長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質にとって食料や水を強奪していった事件で、幕府に大きな衝撃を与えました。フェートン号事件とモリソン号事件の違いについては、記事の後半でくわしく比べてみます。
モリソン号の来航と砲撃(1837年)
1837年(天保8年)、モリソン号はマカオを出発し、日本へ向かいました。船に乗っていたのは、海で遭難してアメリカに保護されていた日本人漂流民7名。彼らを故郷へ送り届け、あわよくば日本と通商や布教の道を開きたい——そんな思いを乗せた航海でした。
モリソン号に乗っていた漂流民:尾張(おわり)の廻船「宝順丸(ほうじゅんまる)」の乗組員 音吉・岩吉・久吉の3名+肥後(九州)出身の庄蔵ら4名=計7名の日本人
📌 漂流民7名のおおまかな内訳
・尾張の廻船「宝順丸」の乗組員:音吉・岩吉・久吉の3名
・九州(肥後など)方面で遭難した漂流民:庄蔵ら4名
※あわせて7名がモリソン号に乗っていたとされます。

音吉たちは1832年に遠州灘(えんしゅうなだ)で遭難して、なんと1年以上も太平洋を漂流したんだ。最後はアメリカ大陸の西海岸に流れ着いて、現地の人やイギリス・アメリカの人たちに助けられたんだよ。命からがらの帰り道だったんだね…。
1832年(天保3年)、尾張をたった廻船宝順丸は、遠州灘で嵐に巻き込まれ、舵を失って太平洋へと流されてしまいました。乗組員は13名(一説に14名)。水も食料も尽きるなか、船は黒潮に乗って約14か月ものあいだ大海原をさまよい続け、その間に壊血病などで仲間が次々と命を落としていきます。
ようやく北米大陸の西海岸(現在のアメリカ・ワシントン州フラッタリー岬付近)に流れ着いたとき、生き残っていたのは音吉・岩吉・久吉のわずか3人だけでした。3人は先住民マカ族のもとに留め置かれた(奴隷のように扱われたとも伝わります)のち、イギリスのハドソン湾会社に引き取られ、ロンドンを経てマカオへと送られます。モリソン号は、この数奇な運命をくぐり抜けた3人を含む漂流民を、ようやく故郷へ帰そうとしてやってきた船だったのです。

1837年7月、モリソン号はまず浦賀(現在の神奈川県)に近づきました。すると幕府は、異国船打払令にしたがって浦賀の砲台から砲撃を開始します。武装していなかったモリソン号は反撃もできず、いったん退却するしかありませんでした。
それでもあきらめなかったモリソン号は、場所を変えて薩摩(鹿児島)の山川沖に向かいます。しかしここでも薩摩藩から砲撃を受け、ついに目的を果たせないまま、漂流民を乗せたままマカオへと引き返すことになりました。
📌 意外な事実:大砲はほとんど当たっていなかった
当時の幕府の大砲は性能が低く、射程も短かったため、モリソン号にはほとんど命中しなかったと言われています。つまり幕府は「撃退した」というより「とりあえず撃って、相手が自分から帰っていった」というのが実態に近いのです。日本の防備の弱さが、はからずも露呈した出来事でもありました。

えっ、漂流民を助けに来た船を、確認もせずに攻撃したってこと?それ、まずくない…?

まずかったんだよ…!でも砲撃したときの幕府は、船に日本人が乗っていることも、人助けが目的だってことも知らなかったんだ。後になってその事実が伝わると、「自国民を見捨てた」と大問題になるんだよ。
漂流民たちのその後
砲撃を受けたモリソン号がマカオに引き返したことで、7名の漂流民は日本に帰ることができなくなりました。「あと少しで故郷に帰れる」というところまで来て大砲を撃ち込まれ、夢を絶たれてしまったのです。その後の彼らの人生は、それぞれに数奇なものでした。
音吉のその後:日本に帰れず、貿易や通訳として活躍。日英の交渉でも通訳をつとめ、最後はシンガポールで亡くなった
なかでも有名なのが、音吉です。帰国を断念した音吉は、その後マカオや上海でイギリス系の商社などに身を寄せ、英語や貿易の実務を身につけていきました。やがて日本との交渉が始まると、その語学力を買われて通訳として関わるようになります。日本に帰ることはできなかったものの、最終的には現在のシンガポールにあたる地で生涯を終えたとされています。


音吉は、後に日本とイギリスが結んだ条約の交渉でも通訳として関わったと言われているんだ。日本に帰してもらえなかったのに、結果的には日本と外国の橋渡し役になった…なんとも皮肉な運命だよね。
帰国の夢を絶たれた音吉は、その後の人生を海の上で生きぬきました。英語を完璧に操るようになった彼は、やがてイギリス人として「ジョン・マシュー・オトソン」と名乗ります。さらに1849年には、中国人に変装してイギリス軍艦に乗り込み、十数年ぶりにひそかに日本の土を踏んだとも伝えられています(上の肖像は、このときの音吉を描いたものとされます)。
1854年に日英和親条約が結ばれた際には、通訳として交渉の場に立ち会いました。打払令にもとづいて祖国に砲撃され、二度と帰ることのできなかった漂流民が、めぐりめぐって日本と西洋をつなぐ通訳になる――歴史の皮肉を絵に描いたような生涯でした。後にイギリスへ帰化した音吉は、ついに故郷の土を踏むことなく、シンガポールでその波乱の人生を閉じています。
音吉・岩吉・庄蔵らのその後:海外にとどまり、宣教師による聖書の日本語訳にそれぞれ協力したと伝えられている
音吉だけでなく、岩吉や庄蔵らほかの漂流民も、海外にとどまったまま日本へは戻れませんでした。宝順丸の乗組員だった音吉・岩吉・久吉の3名は宣教師ギュツラフとともに現存最古の日本語訳聖書(ギュツラフ訳『約翰福音之傳』)の作成に協力し、庄蔵ら肥後出身の漂流民も別の宣教師の聖書翻訳に協力したと伝えられています。海でさまよった末に、思いがけず「日本語と外国をつなぐ役割」を担うことになったのです。


助けてもらった恩人に砲撃されて、もう故郷にも帰れない…。7人のことを思うと、胸が痛いですね。

本当にそうだね。この7人の悲劇は、「決まりだから撃つ」という幕府の硬直したやり方が、いかに人間味を欠いていたかを物語っているんだ。そして、この事件をきっかけに「打払令はおかしいんじゃないか?」と声を上げた人たちが現れる。それが次の章の蛮社の獄につながっていくよ。
蛮社の獄(1839年)— 渡辺崋山と高野長英
モリソン号が砲撃されたという話は、1838年ごろになると、オランダからの情報(オランダ風説書)などを通じて日本国内の学者たちにも伝わりました。「幕府は、漂流民を送り届けに来た船を撃ってしまったらしい」——この事実を知った蘭学者たちは、強い危機感を抱きます。
当時、洋学(蘭学)を学ぶ知識人たちは、尚歯会という研究グループで交流していました。彼らは海外事情にくわしく、「このまま強硬な打払令を続ければ、いずれ日本は欧米と衝突して痛い目を見る」と考えていました。そんな彼らが、モリソン号事件をきっかけに幕府の対外政策を批判する書物を著します。
渡辺崋山:『慎機論(しんきろん)』で幕府の対外政策を批判 → 蟄居(ちっきょ)を命じられ、のちに自刃

📌 渡辺崋山ってどんな人?
三河(愛知県)の田原藩の家老をつとめた武士で、洋学にも通じた知識人。さらに画家としても一流で、写実的な肖像画を多く残したことで知られています。

世界の情勢はものすごい勢いで動いている。もっと柔軟に外国と向き合わなければ、日本はいずれ本当の危機に陥ってしまうぞ……。
渡辺崋山は『慎機論』という書物の中で、幕府の対外政策のまずさを論じました。その結果、幕府ににらまれた崋山は蟄居(自宅などに閉じこもらせる処分)を命じられます。そして1841年、藩に迷惑がかかることを苦にして、みずから命を絶ちました。正しいことを言ったはずの人物が、追いつめられて死を選ぶという悲劇的な結末でした。
高野長英:『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』で打払令を批判 → 終身刑 → 脱獄して逃亡 → 最後は捕らえられ自害

📌 高野長英ってどんな人?
東北(現在の岩手県)出身の蘭学医。長崎でシーボルトの鳴滝塾に学び、西洋医学・科学にくわしい当代一流の知識人でした。

こんな野蛮な政策を続けたら、日本が本当に危険になる!知識人として、間違っていることを黙って見過ごすわけにはいかないんだ!
高野長英は『戊戌夢物語』という書物で、夢の中の議論という形をとりながら、異国船打払令の危うさを鋭く批判しました。その結果、長英は終身刑(永牢)を言い渡されます。やがて長英は牢の火事のすきをついて脱獄し、薬品で顔を焼いて人相を変えてまで逃亡を続けましたが、最後は捕らえられて命を落としました。
蛮社の獄は、表向きは「無人島への密航を計画した」などの罪で崋山や長英を処罰したことになっています。しかし実際には、これらの罪状はあいまいで、本当の狙いは幕府の政策を批判する蘭学者たちを黙らせることにあったと考えられています。つまり「言論を封じるための弾圧」だったのです。そのため蛮社の獄は、日本の歴史における代表的な言論弾圧事件のひとつとして語られています。「蛮社」とは「蛮学(=洋学)の社(仲間)」を指す言葉です。

崋山も長英も、「打払令は危ないよ」という、後から見れば正しいことを言っていたんだ。それなのに弾圧されてしまった…。テストでは「1839年の言論弾圧事件=蛮社の獄」「処罰されたのは渡辺崋山と高野長英」がよく問われるから、セットで覚えておこうね!
フェートン号事件とモリソン号事件の違いは?
モリソン号事件とよく一緒に問われるのが、フェートン号事件(1808年)です。「2つの事件の違いは?」と聞かれて答えに困る人も多いのですが、ポイントを整理すればスッキリ理解できます。ひとことで言うと、フェートン号は「敵意を持って攻めてきた船」、モリソン号は「日本人を送り届けに来た友好的な船」という、性格が正反対の事件です。

フェートン号事件(1808年):イギリス軍艦が長崎に侵入 → オランダ商館員を人質 → 食料・水を強奪して脅迫 → そのまま退去
モリソン号事件(1837年):アメリカ商船が日本人漂流民7名を送り届けに来航 → 浦賀と鹿児島で日本側が砲撃 → 漂流民を乗せたまま退去
大きな違いは、「どちらが攻撃的だったか」です。フェートン号事件では、イギリスの軍艦が長崎に勝手に侵入し、人質を取って物資を奪うという乱暴なふるまいをしました。日本にとっては、まさに「外国船の脅威」を肌で感じさせる事件だったのです。一方のモリソン号は武器を持たない商船で、しかも日本人漂流民を本国へ送り届けるために来航しました。攻撃的だったのは、むしろ砲撃した日本側のほうだったわけです。

2つの事件、似てるようで全然違うんだね。どっちが先に起きたの?

フェートン号事件(1808年)のほうが約30年も先だよ。フェートン号事件のような外国船の脅威に対応するために異国船打払令(1825年)ができて、その打払令がモリソン号への砲撃を生んだ――という流れでつながっているんだ。だから「フェートン号→打払令→モリソン号」の順番で覚えるといいよ!
📌 2事件の比較まとめ
・年号:フェートン号=1808年/モリソン号=1837年
・船籍:フェートン号=イギリス(軍艦)/モリソン号=アメリカ(商船)
・場所:フェートン号=長崎/モリソン号=浦賀・鹿児島
・目的:フェートン号=物資の強奪・脅迫/モリソン号=日本人漂流民の送還
・その後への影響:フェートン号=打払令へつながる/モリソン号=蛮社の獄・薪水給与令へつながる
鎖国政策の限界と薪水給与令(1842年)
モリソン号事件と蛮社の獄を経て、幕府の強硬な外交方針は大きな転換点を迎えます。そのきっかけとなったのが、海の向こうから届いた衝撃的なニュース――アヘン戦争(1840〜1842年)でした。

アヘン戦争は、清(中国)とイギリスが戦った戦争です。当時の清は、東アジア最大の大国として知られていました。その清が、最新の軍艦と大砲を持つイギリスにまったく歯が立たず、あっさり敗れてしまったのです。この知らせは、オランダ船を通じて日本にも伝わりました。

「あの大国・清でさえ、欧米にこてんぱんにやられた…!」という情報が入ってきて、幕府はさすがに青ざめたんだ。「外国船を片っぱしから打ち払う」なんて続けていたら、日本もアヘン戦争のように攻め込まれてしまう。そう気づいた幕府は、これまでの強硬路線を見直すことになるんだよ。
こうして1842年(天保13年)、幕府は薪水給与令(天保の薪水給与令)を出します。これは、強硬な異国船打払令を事実上廃止し、日本に来た外国船には食料・水・燃料(薪水)を与えて、おだやかに退去してもらうという方針へ転換するものでした。打払令の制定からわずか17年での大方針転換です。
📌 薪水給与令(1842年)の要点
・強硬な異国船打払令を事実上廃止
・外国船には薪(燃料)・水・食料を与えて穏便に帰す方針へ
・ただし「貿易」や「開国」を認めたわけではない(あくまで物資を渡して退去させるだけ)
・きっかけはアヘン戦争(1840年)での清の敗北という衝撃

薪水給与令って、これで日本が完全に開国したわけではないんですよね?

モリソン号事件は、単独で起きた事件ではありません。次のような一連の流れの中に位置づけて覚えると、テストでも忘れにくくなります。
異国船打払令(1825年) → 強硬路線が
モリソン号事件(1837年) で漂流民を見捨てる悲劇を生み →
蛮社の獄(1839年) で批判した蘭学者が弾圧され →
アヘン戦争(1840年) で清の敗北という衝撃が走り →
薪水給与令(1842年) で打払令が廃止される。
つまりモリソン号事件は、「強硬な鎖国政策の限界」が表に出はじめた転換点だったのです。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:年号は「打払令(1825)→ モリソン号(1837)→ 蛮社の獄(1839)→ アヘン戦争(1840)→ 薪水給与令(1842)」とセットで覚えるのがおすすめ。とくに「強硬(打払令)→ 反省して転換(薪水給与令)」という流れの変化が論述・選択問題でねらわれます。「1839年の言論弾圧事件=蛮社の獄」「処罰されたのは渡辺崋山と高野長英」は混同しやすいので要注意です。

覚えることが多くて、どこが一番テストで大事なのか分からなくなってきた…。

まず最優先で押さえるべきは「モリソン号事件=1837年・漂流民を乗せたアメリカ船を打払令にもとづいて砲撃した事件」だよ。そのうえで「批判した渡辺崋山・高野長英が蛮社の獄(1839年)で弾圧された」までをワンセットで覚えれば、テストはほぼバッチリ!
モリソン号事件・幕末外交の理解を深めるおすすめ本

モリソン号事件の背景にある幕末の社会と外圧をもっと深く知りたい人に、入門書を1冊紹介するよ!
よくある質問(FAQ)
1837年(天保8年)に起きました。アメリカ商船モリソン号が、まず江戸湾の入り口にあたる浦賀(現在の神奈川県)に来航し、続いて鹿児島(薩摩)の沖でも砲撃を受けました。つまり、浦賀と鹿児島の2か所で打ち払われたのが特徴です。
尾張(現在の愛知県)の廻船「宝順丸」の乗組員だった音吉・岩吉・久吉の3名と、肥後(現在の熊本県)出身の庄蔵ら4名、合わせて7名です。宝順丸の3名は1832年に遭難して太平洋を漂流しアメリカ側に救助され、庄蔵ら4名はルソン島に漂着しマカオで合流しました。モリソン号は、これら漂流民を日本へ送り届けようとして来航したのです。なかでも音吉は、後に英国籍を得て日英和親条約の通訳をつとめるなど、波乱の人生を歩みました。
蛮社の獄(1839年)は、異国船打払令やモリソン号事件への対応を批判した蘭学者たちが幕府に弾圧された言論弾圧事件です。渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『戊戌夢物語』で幕府の対外政策を批判したため処罰されました。表向きの罪状はあいまいで、実際の狙いは幕府への批判を封じることにあったとされます。崋山は蟄居の末に自刃、長英は終身刑を受けて脱獄後に命を落としました。
フェートン号事件(1808年)は、イギリスの軍艦が長崎に侵入し、人質を取って物資を奪った「攻撃的な事件」です。一方モリソン号事件(1837年)は、武器を持たないアメリカ商船が日本人漂流民を送り届けに来たのを、日本側が砲撃した事件で、攻撃的だったのは日本側でした。船籍(イギリス/アメリカ)・場所(長崎/浦賀・鹿児島)・目的(強奪/漂流民送還)が異なります。
薪水給与令(1842年)は、外国船に薪(燃料)・水・食料を与えて穏便に退去させる方針を定めた法令です。それまでの強硬な異国船打払令を事実上廃止しました。転換のきっかけはアヘン戦争(1840年)です。大国の清がイギリスにあっさり敗れたことで、幕府は「打払いを続ければ日本も攻め込まれかねない」と危機感を抱き、方針を転換しました。ただし貿易や開国を認めたわけではありません。
「1837年・アメリカ船・漂流民を乗せて来航・異国船打払令にもとづいて砲撃された」という基本情報が最重要です。あわせて、これを批判した渡辺崋山・高野長英が蛮社の獄(1839年)で処罰されたこと、その後アヘン戦争を受けて薪水給与令(1842年)で打払令が廃止された流れも頻出です。「打払令→モリソン号→蛮社の獄→薪水給与令」をセットで押さえましょう。
まとめ

以上、モリソン号事件のまとめでした!漂流民を見捨ててしまった悲劇から、蛮社の獄での言論弾圧、そして薪水給与令への方針転換まで、幕末の外交が大きく動いた転換点だったね。下の記事でフェートン号事件・異国船打払令・蛮社の獄・薪水給与令・ペリー来航もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「モリソン号事件」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「蛮社の獄」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「乙吉(音吉)」「薪水給与令」(2026年5月確認)
コトバンク「モリソン号事件」「蛮社の獄」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「渡辺崋山」「高野長英」「薪水給与令」(デジタル大辞泉)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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