今回は、浮世絵の祖である菱川師宣について、わかりやすく丁寧に紹介していくよ!
菱川師宣ってどんな人なの?
菱川師宣は江戸時代中期に活躍した人物で、日本人なら一度は見聞きしたことがあるであろう浮世絵の祖とも呼ばれている巨匠です。
江戸時代の文化史に登場する名だたる浮世絵の絵師たち(喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重など)が活躍した土台を築いたという点で、日本の芸術史における超重要人物とされています。
後でもう一度お話しするけど、浮世絵っていうのは今で言うマンガやアニメのような民衆の娯楽だったんだ。
もし菱川師宣がいなかったら、アニメやマンガは存在しなかったかもしれないし、あるいは今とは別の形になっていたかもしれません。
そう考えると、菱川師宣が教科書に名を残すほど重要な人物なのも頷けるよね。
というわけで、菱川師宣の生涯や作品について詳しく見ていくことにします。
菱川師宣の幼少期【家業を通じて感性を磨く】
菱川師宣は1630年頃、安房国(現在の千葉県鋸南町)に生まれました。
※生まれた時期には諸説があります。
師宣という名は号(画家としてのペンネーム)で、本当の名は吉兵衛と言います。
※晩年は、友竹という号を名乗りました。
師宣の家は、縫箔を生業とする縫箔師の家でした。縫箔とは、刺繍と金銀の箔で模様をあらわした主に能で使われた衣装のことです。
※能:室町時代から流行り出した歌舞・演劇のこと
縫箔には様々なデザインがあり、菱川師宣は幼い頃から煌びやかな縫箔を触ったり見たりすることで、画家としての感性を磨いていきました。
菱川師宣、本格的に絵を学ぶ
年号が万治の頃(1658年~1661年)から、菱川師宣は江戸に出て絵を描き始めます。
絵の技術は、当時有名だった狩野派・土佐派・長谷川派と言ったプロ集団の絵画を見て学びました。
各派に弟子入りした記録はなく、菱川師宣は独学で絵を学んだと言われているよ。
菱川師宣の戦略【素人が絵を売るにはどうすれば良いか】
当時の菱川師宣はまだ、田舎から江戸にやってきたばかりの無名画家。
おまけに狩野派などの有名な画家集団にも所属していないとなれば、たとえ絵が上手だったとしても、菱川師宣に作品を頼む人などいません。
そこで菱川師宣は、自分の絵を売り込むため、遊郭の吉原(今の東京都台東区)で女性を描いた絵を売ることにしました。
※遊郭:男が女遊びをする場所のこと。
当時は下の写真のような女性だけを描いた美人図って言われるジャンルの絵が流行っていたんだよ。だから俺は、吉原の遊女や女芸者たちを題材に美人図を描くことで、絵画の実績を積み上げることにしたのさ。
もともと絵画というのは、筆で描くものであり、同じ作品は一枚しかできず、とても高価なものでした。つまり、絵画というのは金持ちしか買えない高級品だったのです。
ところが菱川師宣は、絵画=高級品という常識にNo!を突きつけます。
当時少しずつ普及し始めていた木版画の複製技術を使って、絵画を安価な値段で大量生産することにしたのです。
当時、木版画は本の印刷使われていたんだけど、絵にはあまり使われていなかったんだ。
版画だと色の表現が難しいし、やっぱり筆で描いた方が綺麗な絵が描けるからね。
ただ、本を読んでいると、絵が挿入されていることってあるよね?
あれは挿絵って言うんだけど、挿絵の分野では木版画がよく使われていたんだ。だから俺は、挿絵をメインに仕事をしていたんだよ。
上の写真のような木板に絵を彫ってそこに墨をつけて、紙を押し当てれば簡単に絵の複製ができるんだ。
木版画の作業の様子は下の写真みたいな感じ。木板を彫るグループと、紙に絵を複製しているグループに分かれ、大人数で絵を仕上げていたんだよ。
菱川師宣は寛文年間(1661年~1673年)の後期から延宝年間(1673年~1681年)の前期にかけて、挿絵画家として活動することで、画家としての経験を積み上げます。
菱川師宣の絵は、少しずつ人気が出始め、1672年になると菱川師宣は、自分の作品に自らの名前を載せるようになります。
当時、絵画に自分のサインするのは、幕府や朝廷から仕事を受けていた狩野派や土佐派といったプロの人たちだけでした。菱川師宣みたいにソロで活動する素人には、自分の作品にサインをする習慣はなかったのです。
つまり、自分の作品にサインしたと言うことは、1672年になると菱川師宣にも挿絵画家として少なからずプロの自覚が芽生えていたということになります。
菱川師宣が挿絵を描いた作品でおそらく一番有名なのが、井原西鶴の代表作『好色一代男』です。
好色一代男は1682年に書かれた作品で、上の写真みたいに文章の合間に挿絵が描かれていました。
挿絵から絵本、そして浮世絵へ・・・
1670年代に入ると、読書ブームにも変化が見られます。
人々は次第に、読書よりもおまけで載っている挿絵をメインに本を楽しむようになったのです。
そして、読者のニーズが変化すると、売られている本も、次第に文章よりも絵が目立つ本が増えていきました。
菱川師宣は、『好色一代男』の内容を完全に絵本化した『大和のごんげん』や『好色世話絵づくし』なんていう作品も描いています。
庶民間で絵本が流行るようになると、最終的には絵画のみを見て楽しむ娯楽文化が生まれました。このようなブームの移り変わりの中で、庶民向けの新ジャンルとして生まれたのが浮世絵です。
幕府や朝廷のために描かれた荘厳な絵とは違って、浮世絵は民衆たちの生活空間そのものを題材とします。
気になる方は、教科書や資料集で、狩野派・土佐派の絵と、浮世絵を見比べてみると面白いよ!題材が明らかに違うのがわかると思います。
菱川師宣のように女性を題材にした美人図、他にも各地の名所を描いた名所絵、歌舞伎俳優を題材にした役者絵など様々なものが題材にされました。
例えば名所絵で有名な浮世絵といえば、葛飾北斎の「富嶽三十六景」
役者絵は、東洲斎写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」などがあります。
菱川師宣は、大衆向けの挿絵や浮世絵で多くのヒット作を生むことで、浮世絵を大衆娯楽の1つにまで確立させた『浮世絵の祖』として、歴史に名を刻むことになりました。
最初にも説明したけど、浮世絵は今でいう漫画やアニメみたいなものでした。
もし菱川師宣がヒット作をたくさん描いてくれなかったら、人々は浮世絵の良さにも気付かず、日本の文化は少し変わったものになっていたかもしれません。
師宣の代表作「見返り美人図」
さて、浮世絵には大きく美人図・名所絵・役者絵があると言いましたが、美人図の代表作を紹介していませんでしたね。
美人図の代表作は、菱川師宣が描いた『見返り美人図』です。
見返り美人図は、挿絵で使われていたような木版画ではなく、菱川師宣が自ら筆で描いた作品。
日本のみならず、世界的にも高い評価を得ていて、日本でも切手のモチーフになったことがあるほど有名な作品です。
美人図っていうのは、基本的に一人の女性をモデルにして描き上げるものです。ところが、見返り美人図にはモデルがいませんでした
これまで遊郭の吉原でいろんな女性を観察して描いてきた。
そんな俺が、究極の美女と思える女性を妄想しながら描いたのが見返り美人なんだ。多くの女性を観察してきた俺の目に狂いはない。見返り美人より美人な女性が江戸にいるのなら、俺が知りたいぐらいだよ。
見返り美人を見た人々は、「師宣の美女こそ江戸女」と師宣の画力を称賛したと言われています。
菱川師宣亡き後・・・
菱川師宣は、1964年にこの世を去りました。
浮世絵で名声を得ていた晩年の菱川師宣の下には、多くの弟子たちがいましたが、菱川師宣の後を継ぐ者は現れませんでした。
そのため、菱川流の浮世絵は一代で途絶えることになりました。
しかし、浮世絵自体は後世にまで残り、江戸時代後期に活躍した葛飾北斎や歌川広重などなど多くの偉人を浮世絵の分野から輩出することになりました。
コメント