
今回は天明の大飢饉(てんめいのだいききん)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!江戸三大飢饉のなかでも最大規模で、田沼意次が失脚するきっかけにもなった、あの大飢饉の正体に迫っていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
実は天明の大飢饉は、日本だけの災害ではありませんでした。同じころ、地球の反対側にあるアイスランドでもラキ火山が大噴火を起こしていたのです。その火山ガスが北半球の気温を一気に低下させ、フランスでも不作と食糧危機が連鎖。のちのフランス革命の遠因にすらなったと言われています。江戸の片田舎で起きていた飢饉が、じつは地球規模の気候変動の一部だった——その驚きの真実から見ていきましょう。
天明の大飢饉とは?
天明の大飢饉は、江戸時代後期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した大規模な飢饉です。期間中、冷害・浅間山の噴火・疫病が複合的に重なり、農作物が壊滅。全国で数十万人〜90万人以上が餓死したとされ、江戸時代を通じてもっとも被害の大きな飢饉となりました。
江戸時代には、ほかにも享保の大飢饉(1732〜33年)と天保の大飢饉(1833〜39年)という大規模な飢饉があり、この3つを合わせて江戸三大飢饉と呼びます。なかでも天明は、被害の規模と社会への影響の大きさで群を抜いています。

江戸三大飢饉のうち、天明は規模が最大なんだ。享保(8代将軍・吉宗の時代)と天保の改革(水野忠邦の時代)とセットで覚えておこう!テストでは「江戸三大飢饉を順に並べよ」みたいに聞かれることもあるよ。
飢饉の被害は東日本、とくに東北地方で甚大でした。一方で、東海・関東・西日本でも米価が高騰し、都市部では打ちこわしが頻発。やがて田沼意次が失脚し、松平定信による寛政の改革へとつながっていきます。つまり天明の大飢饉は、単なる自然災害ではなく江戸後期の政治を大きく動かした事件でもあったのです。
天明の大飢饉が起きた時代背景
天明の大飢饉が起きたのは、18世紀後半の田沼時代と呼ばれる時期です。10代将軍・徳川家治の側で実権を握っていたのが、老中の田沼意次でした。それまでの徳川幕府は「米を中心とする年貢」で財政を支えていましたが、米価の不安定さや農村の疲弊で行き詰まりを迎えていたのです。
そこで田沼意次は、農業中心の重農主義から、商業・流通を重視する重商主義へと舵を切ります。株仲間(商人の同業組合)を公認して運上金(営業税)を取ったり、長崎貿易を拡大したり、印旛沼の干拓を進めたりと、現代でいう「経済成長戦略」をどんどん打ち出していきました。

商業を盛んにすれば国は豊かになる——わしはそう信じていたのじゃ。だが、自然の前では人間の知恵にも限界があった……。まさかこれほどの大飢饉が来ようとはな。

田沼意次の政治って、結局なにを目指してたの?農村にはどんな影響があったのかな?

田沼意次の重商主義は、ざっくり言うと「商人から税金を取って幕府を豊かにしよう」って方針。今でいう”経済優先の政治家”ってイメージに近いよ!ただし、農村の疲弊や食糧の備蓄には目が届きにくくて、いざ飢饉が来たときの備えが薄かった——という批判につながっていくんだ。
さらにこの時代、農村ではすでに商品作物(菜種・綿花・たばこなど)の栽培が広がり、米だけでなく現金収入を求める動きが進んでいました。生活は徐々に豊かになる一方、いざ凶作が起きると米の備蓄が薄い農村ほど飢えに直結するという、構造的な脆さも抱えていたのです。
そんな状況下で、1780年代に入ると気候が次第に不安定になります。1782年から東北・関東で冷夏が続き、米の不作が表面化。そして翌1783年、決定打となる出来事が起こります。それが浅間山の大噴火でした。
天明の大飢饉の原因
天明の大飢饉の原因は、一つではありません。①浅間山の噴火、②アイスランド・ラキ火山の噴火、③冷害の継続という3つの自然現象が、わずか数年のあいだに連鎖的に重なったのです。ここでは、原因をひとつずつ整理していきましょう。
■浅間山の大噴火(1783年)

1783年(天明3年)7月、浅間山が大噴火を起こしました。約3か月間にわたって断続的に噴火を続け、最終的に鎌原村(現・群馬県嬬恋村)を火砕流と泥流(いわゆる「天明泥流」)が襲い、村ごと一瞬で飲み込んだといわれています。
噴火の犠牲者だけでも約1,500人にのぼり、火山灰は江戸にまで降りそそぎました。さらに恐ろしかったのは、噴出した火山灰が空をおおって日光をさえぎり、東日本一帯の気温を大幅に下げたこと。すでに冷夏に悩まされていた農村に、追い打ちをかけるかたちで稲が育たなくなったのです。

浅間山の噴火って、いまの群馬県と長野県の境にある山だよね。江戸時代の人は、はるか上空に上がる噴煙を江戸からも見られたんだ。「太陽が灰色になった」「夏なのに寒い」って当時の人が日記に書き残しているくらい、ヤバい状況だったんだよ。
■ラキ火山と世界的連鎖——じつは地球規模の異変だった
ここからが、天明の大飢饉のもうひとつの顔です。じつは1783年、地球の反対側のアイスランドでもラキ火山(ラカギガル割れ目噴火)が大噴火を起こしていました。約8か月間にわたって膨大な量の二酸化硫黄ガスを噴出し続け、北半球全体に薄い火山霧(エアロゾル)が広がったのです。

このエアロゾルが太陽光をさえぎった結果、1783〜1784年の北半球は記録的な冷夏と異常気象に見舞われました。アイスランドでは家畜の8割以上が死に、人口の約2割が失われたと言われています。ヨーロッパでもフランス・ドイツ・イギリスで不作が続き、フランスでは1788〜89年に再び冷夏と凶作が重なって食糧危機が表面化。そしてその不満が爆発するかたちで、1789年のフランス革命へとつながっていったとされます。

ラキ火山噴火+浅間山噴火=北半球の冷夏というダブルパンチで、地球全体の気温が下がっちゃったんだ。フランス革命の遠因のひとつとも言われている世界史レベルの大事件が、じつは江戸時代の日本ともガッツリつながってる——なんてドラマチックじゃない?

地球の裏側の火山が、日本の飢饉やフランス革命にまでつながっていたなんて……。江戸時代って閉じた世界のイメージだったけれど、自然はちゃんと地球規模でつながっていたのね。

そうそう、まさにそれ!江戸時代って鎖国してたから「日本だけ別世界」のイメージがあるけど、空気は地球をぐるりと回ってるから、火山ガスや気候変動は国境を越えて押し寄せてくるんだよね。
■異常気象・冷害の継続
火山噴火だけでなく、すでに1782年(天明2年)から東日本では冷夏と長雨が続いていました。とくに東北では「やませ」と呼ばれる冷たい東風が吹き続け、稲の生育が止まってしまいます。火山噴火は、もともと弱っていた農業にとどめを刺すかたちで重なった——これが天明の大飢饉の正体です。
冷害とは、夏の気温が平年より低くなることで稲の生育が妨げられ、収穫量が大幅に落ちる農業被害のこと。江戸時代の農村にとって、米の不作は文字どおり命取りでした。とくに東北地方は「やませ」と呼ばれる冷たい北東風が吹くと稲が実らなくなるため、もともと冷害に弱い地域だったのです。
1783〜86年にかけて全国の米収穫量は通常の半分以下にまで落ち込み、地域によってはほぼ収穫ゼロという惨状になりました。米価は江戸でも数倍に高騰し、町人の生活すら立ち行かなくなっていきます。次の章では、その被害がどれほどのものだったのかを具体的に見ていきましょう。
被害の実態——死者数と地域差
天明の大飢饉による死者数については諸説あり、史料によってばらつきがあります。一般によく引用される数字は全国で約90万人以上。これは江戸時代の総人口がおよそ3,000万人だった当時としては、人口の約3%にあたる衝撃的な規模です。現代の日本に当てはめれば、約400万人が亡くなった計算になります。

被害がもっとも甚大だったのは、東北地方の陸奥・出羽両国です。なかでも弘前藩(青森県)や盛岡藩(岩手県・南部藩)の状況はすさまじく、藩内人口の3分の1近くが餓死または逃散したという記録が残されています。弘前藩だけで約8万人が死亡したという数字もあります(諸説あり)。
被害が特に大きかった地域:陸奥国(青森・岩手)/出羽国(秋田・山形)。弘前藩・盛岡藩などでは人口の約3分の1が失われたと伝えられています。
飢餓は人間としての尊厳すら奪っていきます。当時の見聞録には、道端に倒れた死体が放置されたまま腐敗し、それを犬や鳥がついばむ光景や、生き延びるために草の根・木の皮・牛馬の死肉まで口にしたという記述が残されています。なかには人肉食の記録すら現れ、東北地方の一部では「食人」の伝承が生まれるほど、社会秩序が崩壊寸前まで追い込まれていたのです。

90万人以上……江戸時代の総人口が約3,000万人だから、約3%が亡くなった計算ね。今の日本の人口で言えば400万人近くにあたるなんて、想像を絶する規模だわ。

そう、現代の感覚でスケールを置き直すと、その深刻さが一気に伝わってくるよね。しかも東北では人口の3分の1近くが失われた藩もあったと言われている。同じ「飢饉」でも、地域によって運命がここまで違ったんだ。
一方で、関東・東海・西日本の被害は東北ほどではなかったとされます。とはいえ、米の流通網は江戸を中心に全国でつながっていたため、米価高騰の影響は全国に波及。江戸でも町人が「米を食えない」状態に陥り、のちに見るような打ちこわしが頻発することになります。
格差が生死を分けた——上杉鷹山と米沢藩の対応
同じ東北でも、被害は藩によって大きく異なりました。なかでも有名なのが、米沢藩(山形県)の例です。米沢藩は、隣の弘前藩や盛岡藩が壊滅的被害を受けるなかで、餓死者をほぼ出さなかったとされ、その背景には9代藩主・上杉鷹山のリーダーシップがありました。
鷹山は1767年に17歳で米沢藩の藩主となり、当時すでに財政破綻寸前だった藩を立て直すために大改革を進めていました。倹約令で藩主自らが粗食を実践し、家臣・領民にも徹底した節約を求める一方、商品作物(うこぎ・養蚕・漆など)を奨励して新しい産業を興します。さらに飢饉に備えて、藩が積極的に米を備蓄する義倉(飢饉用の米蔵)の制度を整えていたのです。
「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり」——のちに有名になる上杉鷹山のこの言葉は、彼自身の改革の姿勢そのものでした。「やればできる、やらなければできないだけだ」という強い意志で、藩主自ら陣頭指揮を取って民の命を守ろうとしたのです。
米沢藩(上杉鷹山):事前の倹約・備蓄・新産業育成のおかげで、餓死者をほとんど出さずに乗り切ったと伝えられています。
弘前藩:備蓄不足と藩政の対応の遅れで、約8万人以上が死亡したという記録(諸説あり)。同じ東北でも、藩主の判断ひとつで人の命の運命が分かれたのです。
米沢藩の事例が示すのは、「天災そのものは避けられなくても、事前の備えと統治の質で被害は大きく変わる」という現代にも通じる教訓です。後年、米国大統領のジョン・F・ケネディが「もっとも尊敬する日本人は誰か」と問われて上杉鷹山の名を挙げた、という逸話が広まったことでも知られています(一次資料は確認されていないため伝承として扱うのが安全)。

上杉鷹山が偉いのは、飢饉が来てから慌てたんじゃなくて、飢饉が来る前から備えていたってこと。今で言えば防災備蓄を10年以上前から進めていたリーダーみたいなものだね。テストでは「天明の大飢饉で餓死者を出さなかった藩主は?」って聞かれることがあるよ!
百姓一揆・打ちこわし、江戸社会の崩壊
飢饉が長引くにつれ、農村や都市の不満は爆発寸前となります。年貢の重さに耐えかねた農民は集団で立ち上がり、米商人や豪商の蔵を狙う民衆の動きが各地で噴き出していきました。天明期は江戸時代を通じて、もっとも百姓一揆と打ちこわしが多発した時期と言われています。
百姓一揆:農村の百姓が集団で年貢の減免や藩政への抗議を行う動き
打ちこわし:都市の貧民が米商人・豪商の店舗を破壊し、米を奪う集団的暴動
とくに衝撃的だったのが、1787年(天明7年)5月に江戸で起きた打ちこわしです。当時の江戸は人口約100万人をかかえる世界有数の大都市。米価高騰に耐えかねた町人たちが数日間にわたって暴れまわり、江戸だけで米屋約1,000軒・商家8,000軒以上が襲撃されたとされます。同様の打ちこわしは大坂・京都など主要都市でも連鎖的に発生します。

百姓一揆と打ちこわしって、どっちも反乱みたいだけど、どう違うの?テストでよく混同しちゃうんだよね。

覚え方のコツは「場所と標的」だよ。百姓一揆=農村で起きて、相手は領主(藩や代官)。打ちこわし=都市で起きて、相手は米商人や豪商。「農村は領主に、町人は商人に怒った」とセットで覚えれば一発だよ!
江戸の打ちこわしは規模・期間・破壊の激しさのいずれも前代未聞で、幕府にとって深刻な政治問題となりました。なぜなら、江戸は将軍のお膝元。そのお膝元で町人が暴動を起こすという事実そのものが、「幕府は民の生活を守れていない」という統治の正統性を揺るがしたからです。

こうして「天災→米価高騰→打ちこわし→政治不信」という流れが完成し、田沼意次の重商主義政策は飢饉対応に失敗した政権として批判の的になります。そして次の章で見るように、ついに田沼自身も失脚へと追い込まれていくのです。
天明の大飢饉は「人災」だったのか?——田沼意次の失脚
ここまで見てきたように、天明の大飢饉の直接的な原因は浅間山やラキ火山の噴火、それに続く冷害でした。つまり教科書的には「天災」です。しかし、当時の人々の感覚はそれだけではありませんでした。「政治のあり方そのものが、被害を大きくしたのではないか?」という人災説が、田沼批判と結びついて広がっていったのです。
田沼意次が進めた重商主義政策は、商業の活性化や蝦夷地開発、印旛沼・手賀沼の干拓など、当時としては野心的な改革でした。しかしその一方で、農村政策——とくに飢饉に備えた米の備蓄や、不作時の年貢減免といった「セーフティネット」の整備は十分とは言えませんでした。さらに政治の中枢では賄賂が横行していたとされ、「金で動く政治家」というイメージが世間に広がっていきます。
天明の大飢饉「人災説」のポイント:①重商主義に偏り、農村対策が後手に/②飢饉への事前備蓄が不十分/③賄賂政治への不信感/④打ちこわしへの対応が遅れた
追い打ちをかけたのが、1786年(天明6年)に起きた将軍・徳川家治の急死です。田沼は家治の側近として権力を握っていたため、後ろ盾を一気に失ってしまいます。さらに同年には、田沼の息子で若年寄を務めていた田沼意知が江戸城内で旗本に斬殺されるという事件もすでに起きており(1784年)、田沼家の権威は急速に揺らいでいました。
この暗殺事件の犯人・佐野善左衛門は、直後に捕縛されて死罪に処されました。しかし、当時の江戸の民衆はなんと「世直し大明神」として彼を称えたのです。賄賂政治の権化と見られていた田沼意知を斬ったことで、善左衛門は庶民の英雄になってしまいました。政治家の息子が「義人」に殺されても庶民が喝采する——これほど田沼政権の人気が地に落ちていたことを示す逸話はないでしょう。

わしの政策が悪いと言われたが、飢饉は天が与えたもの……。商業で国を豊かにすれば、いずれ農村も潤うはずだった。しかし火山と冷害の前には、人間の知恵にも限界があったのだ。家治公が亡くなったあの日、わしの時代は終わったのだろう。
1786年8月、家治の死からわずか数日のうちに、田沼意次は老中職を解任されます。その後も領地の大半を没収され、失意のうちに1788年(天明8年)に世を去りました。天明の大飢饉は、単なる自然災害ではなく、一人の権力者の政治生命を終わらせる引き金にもなったのです。

結局、田沼意次はワルモノだったの?教科書だと「賄賂政治で悪政」って書かれていることが多い気がするけど……。

実は近年の研究では、田沼意次の評価はかなり見直されているんだ。商業重視・蝦夷地開発・印旛沼干拓——どれも当時としては先進的な発想で、明治以降の近代化につながる芽があった、という見方もあるくらい。ただ「飢饉のときに民の命を守れたか?」という一点で、当時の世論からは厳しく裁かれた——というのが実情に近いよ。
こうして「天災か人災か」という問いは、単純な二択ではなく、「天災に対して政治がどれだけ準備できていたか」を測る視点へと深まっていきます。そしてその反省は、次に登場する松平定信の改革に直接受け継がれていきました。
松平定信と寛政の改革へ
田沼意次の失脚後、新たな老中として登場したのが松平定信です。定信は8代将軍・徳川吉宗の孫にあたり、自身も白河藩(福島県白河市)の藩主として、天明の大飢饉の被害をほとんど出さなかった「もう一人の名君」と称される人物でした。
松平定信(1759〜1829)は、8代将軍・徳川吉宗の孫。本来は将軍候補にも挙がる血筋でしたが、田沼意次の政治判断によって白河藩へ養子に出されたという経緯があり、田沼への強い対抗心を持っていたと言われています。白河藩主としては、飢饉に備えて備蓄米を増やし、領内の餓死者をほぼゼロに抑えたことで知られ、1787年に老中に就任しました。

1787年(天明7年)、定信は11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座に就任。ここから1793年までの約6年間にわたる寛政の改革が始まります。田沼時代の重商主義から一転して、ふたたび農業を国の基本とする重農主義へと舵を切り直したのです。
■飢饉再来に備えた「囲米の制」
寛政の改革を象徴する政策のひとつが囲米の制です。これは、諸藩に対して石高1万石あたり50石の米を備蓄するよう命じた制度で、天明の大飢饉の反省から生まれました。「次に飢饉が来ても、餓死者を出さない」——この強い意志が制度の根底にあったのです。
■借金帳消しの「棄捐令」と「人足寄場」
定信はさらに、生活が困窮していた旗本・御家人を救うため、札差に対して借金の帳消しを命じる棄捐令を発令しました。また江戸の治安回復のため、無宿人や軽犯罪者を収容して職業訓練を行う人足寄場を石川島に設置(1790年)。打ちこわしを再発させないための社会政策でもあります。
寛政の改革の主な政策(1787〜1793年):①囲米の制(米備蓄)/②棄捐令(旗本・御家人の借金帳消し)/③人足寄場の設置(治安対策)/④旧里帰農令(江戸に流入した農民を農村に帰す)/⑤寛政異学の禁(朱子学のみを正学とする思想統制)
これら一連の政策は、天明の大飢饉という大災害がなければ生まれなかった——と言ってもよいでしょう。とくに囲米の制は、その後の天保の改革や江戸末期の幕府政策にも影響を与え、「飢饉に備える」という発想を日本社会に定着させていきました。

テストでは「寛政の改革のきっかけになった出来事は?」と聞かれたら、答えは天明の大飢饉。逆に「天明の大飢饉のあとに行われた幕政改革は?」なら寛政の改革。この2つはセットで頭に入れておくと得点源になるよ!
もっとも、定信の改革も後半は厳しすぎる倹約令や思想統制によって人々の不満を買い、わずか6年で失脚することになります。とはいえ、「天明の大飢饉が寛政の改革を生んだ」という因果関係そのものは、江戸後期の政治史を理解するうえで決定的な分岐点でした。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:江戸三大飢饉は「享保(吉宗)→ 天明(田沼・定信)→ 天保(家斉・水野忠邦)」と将軍・老中とセットで覚えると一気にラクになる。論述で頻出なのは「天明の大飢饉が寛政の改革を生んだ因果関係」。混同注意は「百姓一揆=農村×領主」「打ちこわし=都市×米商人」の対比!

テストで一番出やすいのはどこ?年号も全部覚えなきゃダメ?

一番出るのは「浅間山噴火(1783年)→天明の大飢饉→田沼失脚→寛政の改革」の因果フロー!年号は「1783年(浅間山)」と「1787年(江戸打ちこわし・寛政の改革開始)」の2つだけ覚えればだいたい乗り切れるよ。あとは江戸三大飢饉の順番(享保→天明→天保)!
天明の大飢饉の理解を深めるおすすめ本

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よくある質問(FAQ)
天明の大飢饉について、検索でよく問われる疑問を6つに整理しました。試験対策・教養どちらにも役立つQ&Aです。
天明の大飢饉は、1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて日本全国を襲った江戸時代最大級の飢饉です。浅間山の大噴火やアイスランドのラキ火山噴火、長期化する冷害が重なり、全国で約90万人以上が死亡したとされます。江戸三大飢饉(享保・天明・天保)の中でも最大規模で、田沼意次の失脚と寛政の改革のきっかけとなりました。
主な原因は3つです。①1783年の浅間山大噴火による火山灰の降下と日射量低下、②同じ1783年に起きたアイスランド・ラキ火山の噴火による北半球規模の気温低下、③1782年から続いていた冷夏・長雨による稲の不作の継続です。これらが連鎖して米収穫量が通常の半分以下に落ち込み、大規模な飢餓を引き起こしました。
諸説ありますが、全国で約90万人以上が死亡したとされます。江戸時代の総人口がおよそ3,000万人だった当時として、人口の約3%にあたります。とくに陸奥・出羽の東北地方の被害が大きく、弘前藩や盛岡藩では人口の3分の1近くが餓死または逃散したという記録が残されています。一方、米沢藩のように事前の備蓄で餓死者をほぼ出さなかった藩もありました。
直接の引き金は、1786年(天明6年)の将軍・徳川家治の急死です。家治の側近として権力を握っていた田沼は、後ろ盾を失って老中職を解任されました。背景には、天明の大飢饉に対する政策の失敗、息子・田沼意知の暗殺事件(1784年)、賄賂政治への世論の批判などが重なっていました。飢饉の被害が拡大するなかで、商業重視の重商主義政策が「民の命を守れなかった」と批判されたのです。
天明の大飢饉は寛政の改革(1787〜1793年)が始まる直接のきっかけです。飢饉対応に失敗した田沼意次が失脚し、白河藩主として領内の餓死者をほぼ出さなかった松平定信が老中に就任。重商主義から重農主義へと方針を転換し、囲米の制(米備蓄)・棄捐令(旗本の借金帳消し)・人足寄場(治安対策)など、飢饉と打ちこわしへの再発防止策が次々と打ち出されました。
江戸三大飢饉のうち、享保の飢饉(1732〜33年)は西日本中心でウンカ(害虫)による稲作被害が主因。天明の大飢饉(1782〜88年)は東日本中心で火山噴火と冷害が主因、死者数は約90万人で江戸時代最大規模。天保の飢饉(1833〜39年)は全国規模で冷害・長雨が主因、大塩平八郎の乱(1837年)の遠因にもなりました。原因・地域・後の改革(享保→寛政→天保)と関連付けて整理するとわかりやすくなります。
まとめ
最後に、天明の大飢饉のポイントを6つにまとめておきます。

以上、天明の大飢饉のまとめでした!江戸三大飢饉のなかでも最大規模のこの飢饉が、田沼意次の失脚と寛政の改革を招いたという流れをしっかり押さえておこう。江戸時代の政治と自然災害がどうつながっているかを知ると、歴史の面白さがぐっと増すよ!
- 1772年田沼意次、老中就任。重商主義政策を推進
- 1782年天明2年、東日本で冷夏・不作が始まる
- 1783年浅間山大噴火。アイスランド・ラキ火山も同年に噴火
- 1783〜86年冷害・疫病が継続。米価が数倍に高騰
- 1783〜88年各地で百姓一揆・打ちこわしが頻発
- 1786年将軍・徳川家治死去。田沼意次が失脚
- 1787年天明7年、江戸で大規模打ちこわし発生
- 1787年松平定信、老中就任。寛政の改革が始まる
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』
Wikipedia日本語版「天明の大飢饉」(2026年5月確認)
コトバンク「天明の大飢饉」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
Wikipedia日本語版「浅間山大噴火 (1783年)」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「ラキ火山」(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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