今回は、1811年にロシアとの間で起こったゴローニン事件(別名:ゴローウニン事件)についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
ゴローウニン事件のきっかけ
ゴローニン事件が起こった背景には、実は1804年にロシアからやってきたレザノフの来航が大きく関係しています。
レザノフは通商を求めて日本にやってきましたが、日本に通商交渉を拒絶されると、1807年、これにブチ切れたレザノフは、択捉島や樺太を攻撃したのです。
このレザノフによる攻撃を受けて、日本はロシアのことを強く警戒するようになります。
そんな中、ロシアの軍艦に乗って艦長のゴローニンが国後島に上陸しました。
ゴローニンは千島列島の測量をするために航海をしていましたが、水や食糧を補給するため、国後島に着港することにします。
当時の国後島は、国境の曖昧なロシアと日本の緩衝地帯。日本人が多く住んでいたので、ゴローニンは日本人に「ロシアの軍艦だけど、国後島に上陸してOK?」と確認した上で、国後島に上陸しました。
しかし、ちゃんと確認したにもかかわらず、ゴローニンは松前藩の警備兵によって捕まり、箱館・松前に監禁されてしまいました。
えっ、なんで捕まるの!?
ちゃんと確認もとったし、補給が済んだらすぐに国後島を離れる予定だったのに・・・。ちょっとひどくない?
そもそも、レザノフが北方で暴れたおかげで、日本はロシアのことを超警戒してるんだ。それなのに、軍艦でやってきて『何もしませんよー』って言われても信用できるわけないだろ!
リコルド「ゴローニン艦長が捕まっただと・・・」
国後島に上陸したゴローニンが松前藩に捕まり、船で箱館に送られていることを知った副艦長のリコルドは、ゴローニン艦長の救出計画を練ります。
当初は、「松前藩の護送船を砲撃でぶっ壊すか?」という案もありましたが、ゴローニンに被害が及ぶ可能性もあるため廃案に。ロシアから軍隊を派遣しようにも、当時ロシアは、ヨーロッパ方面でナポレオン一世率いるフランスと戦争中だったのでこれも無理。
そこでリコルドは、ロシアで保護している日本の漂流民や捕虜を使って、ゴローニンとの交換交渉をすることにします。
ゴローニンが捕まった1年後の1812年、リカルドは国後島で江戸幕府との交渉を開始。ところが、江戸幕府の役人がトンデモナイことを言ってきます。
漂流民・捕虜は返してもらうよ。ありがとう。
でも、ゴローニンは処刑されたから返すのは無理。諦めて帰ってくれ。
リコルド「は?外国の要人をそんな簡単に殺すわけないし、どう考えても怪しすぎるだろ・・・。」
ゴローニンの救世主、高田屋嘉兵衛
リコルドは役人の言っていることが本当なのかどうか探るため、国後島付近を航海していた高田屋嘉兵衛の船を拿捕。
高田屋嘉兵衛の一行をカムチャッカ半島に連行して、ゴローニンのことや日本の国内事情について色々と聞き出すことにしました。
すると、高田屋嘉兵衛はゴローニンを救うためにリコルドへアドバイスとします。
高田屋嘉兵衛「リカルド、大丈夫だから安心して。ゴローニンはまだ生きているよ。日本は、レザノフの部下による樺太・択捉への攻撃を強く恨んでいる。だからゴローニンは、捕まったんだ。」
さらに高田屋嘉兵衛は続けます。
「ゴローニンを救いたいのなら、まずはレザノフの件について謝罪の文書を幕府に送ると良いだろうね。」
高田屋嘉兵衛は、蝦夷地での交易で富を築いた商人でした。(交易の途中でリコルドに捕らえられた)
だから、幕府の事情にも精通しており、リコルドに対して適切な意見を述べることができたのです。
リコルド「高田屋嘉兵衛、あなたは神か・・・!!」
高田屋嘉兵衛はとても気さくな人柄でリコルドにもすっかり気に入られ、捕まった身でありながらも、比較的自由に行動することが許されました。
ゴローニン、解放される
1813年5月、リコルドは高田屋嘉兵衛と共に国後島へ向かいます。ゴローニン救出作戦の開始です。
リコルドは謝罪の文書を幕府に提出し、ゴローニンの返還を再度求めました。
謝罪文の内容は、ザックリまとめると「蝦夷地を襲撃したのはレザノフの部下が勝手にやったことで、ロシアには攻撃する意図はなかった。申し訳ない」って内容です。
この謝罪文は効果バツグンで、ゴローニンの返還に向けて動きが進みます。
事情はわかった。ゴローニンを解放しよう。
ただ、高田屋嘉兵衛をさらった張本人のリコルドさんが書いた謝罪文じゃ信用ができない。
別な形でロシアの公式文書をもらえれば、この話を終わらせましょう。
この話を受けて、リコルドは一度帰国。そして1813年9月、改めた謝罪文書を江戸幕府に提出。こうしてゴローニンは釈放され、10月にはロシアへと帰ることができました。
実はリコルドが謝罪文を携えてて日本にやってくる前から、幕府内では「事態を大きくしたらマズいから、ロシアから謝罪文をもらって平和に解決しよう!」という話が進んでいました。
なので、高田屋嘉兵衛のアドバイスは、幕府の真意を見抜いた完璧パーフェクトな最高のアドバイスだったことになります。
捕まったのが高田屋嘉兵衛でなかったら、日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。これこそまさに神対応。
ゴローニン事件の後
ゴローニン事件の後、日本では大きく2つの動きが見られました。
ロシアと日本の関係が改善!
レザノフの件があって以降、ロシアと日本の関係は悪化し続け、ゴローニンの逮捕によって関係は地に落ちてしまいます。
・・・が、結果的にゴローニンの件は平和に解決し、レザノフの件もロシア側の謝罪によって和解がなされました。さらに、ロシアに蝦夷地侵略の意図がないことがわかると、日本のロシアへの警戒も和らぎ、日露の関係は改善することになりました。
松前奉行の廃止(蝦夷地を松前藩に返還)
ロシアとの関係が改善したことに加えて、ロシアがフランスと戦争中で東アジアへの興味を失っているとの情報を得ると、幕府は松前奉行の廃止を決定します。
松前奉行とは、ロシアから蝦夷地を守るために置かれた江戸幕府直属の組織です。防衛には多くの人と金が必要であり、松前奉行は幕府やそこに携わる人々にとって大きな負担となっていました。
なので、ロシアとの関係改善を受けて、松前奉行を廃止して、昔みたいに松前藩にお任せすることにしました。
【おまけ】ゴローニンが見た日本の様子
ゴローニンは日本で監禁されている間、手記を書き残しており、その手記の中でゴローニンは日本人のことをこう言っています。
ヨーロッパでは、日本人はボロクソに言われているが、ここに監禁されて、ヨーロッパの噂話が嘘であることがわかった。
日本人は聡明で誠実であり、とても礼儀の正しい人たちだった。
ただ、日本人にも欠点がある。
復讐心が強く、女性の人権は皆無に等しい。愛人制はもはや当たり前だし、それより何よりも売春が日常茶飯事になっているのがマジでヤバイ。これは日本人最大の恥辱である。
獄中に書かれたこの手記は誇張や粉飾が少なく、当時の日本の様子や外国人が日本をどう見ていたのかが貴重な史料だと言われています。ちなみに、現代語訳の本も出版されているので、私たちでも読むことが可能です。
さらに、歴史小説家で有名な司馬遼太郎は、この手記を題材として「菜の花の沖」という小説を書いています。司馬遼太郎が題材にするほどですから、ゴローニンの書いた手記の内容が、いかに衝撃的だったのかがわかりますね。
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