
今回は御成敗式目の原文と現代語訳を、よく知られた条文を選んでじっくり読んでいくよ!「漢文ばっかりで難しそう…」って思ってる人ほど、最後まで読むとビックリするはず。
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠
実は、御成敗式目を作った北条泰時自身が、「あまねく人に心えやすからせんために」——みんなに分かりやすいように書いたのだ、と手紙に残しています。武家が定めた最初の成文法典は、法律家のためではなく現場の武士が自分で読んで判断するために作られたのです。
原文を読む前に:御成敗式目とはどんな法か
① 制定:1232年(貞永元年)、鎌倉幕府3代執権・北条泰時が制定。
② 内容:全51条で、武士の慣習やルールを文字にしてまとめた「武家のための法律集」。
③ 意義:武家が定めた最初の成文法典で、室町幕府の追加法や戦国大名の分国法に受け継がれた。
御成敗式目は、貞永式目とも呼ばれます。1232年(貞永元年)8月10日に制定されたとされ、全51条で構成されています(制定日は7月10日とする説もあり、8月10日を施行日と見る説明もあります)。制定者は3代執権・北条泰時。連署(執権の補佐役)の北条時房と共同で取りまとめました。
適用対象は御家人(鎌倉幕府に仕える武士)。公家や寺社にはこれまで通り律令(古代以来の中国式法律)が使われ続けたため、2つの法律が同時に存在することになりました。

御成敗式目って、そもそも何のために作られたの?律令があったのに、なんでわざわざ新しい法律が必要だったんだろう…?

いい質問だね!承久の乱の後、武士が支配する土地がドカッと増えて、所領(土地)をめぐる裁判が激増したんだ。律令は公家のための法律で武士には合わない…。そこで「武士のための、武士のルール」が必要になった。今でいう民法と刑事訴訟法を合わせたようなイメージだよ!
■なぜ51条が必要になったのか
1221年に起こった承久の乱は、御成敗式目誕生の大きなきっかけになりました。後鳥羽上皇と幕府の戦いに勝利した幕府は、上皇方の貴族・武士の土地を没収し、その土地に新しく守護や地頭を送り込んだのです。
すると、新しくやってきた武士と、もとから土地を治めていた荘園領主や農民との間で所領をめぐる紛争が激増。「ここは俺の土地だ」「いや先祖代々うちのものだ」というケンカが、毎日のように鎌倉に持ち込まれるようになりました。
問題だったのは、これまで武士の裁判は「過去の慣習」や「先例」に頼っていたこと。文章にされていないので、人によって判断がブレてしまうのです。「同じような事件なのに、こっちの裁判官は有罪、あっちは無罪」では、武士たちも納得できません。
そこで北条泰時は、武士の慣習法を文字にしてまとめ、「誰が裁判しても同じ結論になる」基準をつくることにしました。それが御成敗式目です。

武士のための法律なんだから、武士が自分で読めなきゃ意味がないだろう。漢文しか読めない学者しか理解できない法律なんて、現場じゃ役に立たん。公家の難解な漢文ではなく、武士でも訓読できる平易な和様漢文で書いたんだ。
御成敗式目が制定されたとき、泰時は京都の六波羅探題で公家とやり取りしていた弟・北条重時に1通の手紙を送っています。その趣旨は、この法は朝廷の律令を否定するものではなく、武士のあいだで通用してきた道理(慣習と公正さ)を文字にしただけだ、というものでした(原文そのままの引用ではなく、趣旨をまとめたものです)。
つまり泰時は、朝廷と対立せず「公家には律令、武士には御成敗式目」と棲み分ける姿勢を明確にしたのです。この「道理」という言葉は、御成敗式目を貫くキーワードになっていきます。
ここから先は条文の原文そのものが主役です。制定の背景・目的や、その後の武家法とのつながりをひととおり整理して知りたい場合は、解説記事の御成敗式目とは?のほうが向いています。
御成敗式目の原文と現代語訳【主要条文】
ここからは、御成敗式目のなかでもよく取り上げられる7つの条文を選んで、原文 → 書き下し文 → 現代語訳 → 解説の順に読んでいきます。原文はやや読みづらいので、ひとまず流し読みで構いません。書き下し文と現代語訳、そして解説で意味をつかんでいきましょう。
※ここで掲げる7条は、条文の全文を省略なしで掲載しています。残る44条を含む全51条の条名(見出し)は、この記事の「御成敗式目の全51条:分野別マップ」でまとめています。全51条の原文そのものを読みたい場合は、底本とした『群書類従』第十五輯所収「御成敗式目」が国立国会図書館デジタルコレクションで全文公開されているほか、同書を底本とする翻刻テキストがウィキソース「御成敗式目」で読めます。
御成敗式目は制定当時の原本が現存せず、伝わっているのはすべて後世の写本・版本です。そのため、どの本を使うかで文字が少しずつ違います。
この記事の原文は、塙保己一編『群書類従』所収本を底本とし、返り点・送り仮名を外した白文で掲げています。さらに、京都大学谷村文庫『貞永式目』(天正7年写)・奈良女子大学蔵「御成敗式目」(大永版)にもとづく別系統のテキストと突き合わせ、食い違いを確認しました。
ほとんどは旧字体・異体字や助字の有無といった読みに影響しない違いですが、第18条の「竭志孝之節」は、伝本によって「竭忠孝之節」となるものがあります。どちらが元の形かは決着していないため、ここでは底本どおり「志孝」で掲げています。
■第1条(神社の修理・祭祀)——なぜ法の冒頭が「神社」なのか
第1条:神社を修理し祭祀を専らにすべき事
一可修理神社専祭祀事。右神者依人之敬增威。人者依神之德添運。然則恒例之祭祀不致陵夷。如在之禮奠莫令怠慢。因玆於關東御分國々幷庄園者。地頭神主等。各存其趣。可致精誠也。兼又至有封社者任代々符。小破之時且加修理。若及大破令言上子細者。隨其左右可有其沙汰矣。
📖 書き下し文:一、神社を修理し、祭祀を専らにすべき事。
右、神は人の敬ひによりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ。然れば則ち、恒例の祭祀陵夷を致さず、如在の礼奠怠慢せしむるなかれ。これに因つて関東御分の国々ならびに庄園に於いては、地頭・神主等、各々その趣を存じ、精誠を致すべきなり。兼ねてまた封有る社に至りては代々の符に任せ、小破の時は且つ修理を加へ、もし大破に及ばば子細を言上せしむれば、その左右に随ひてその沙汰有るべし。
📝 現代語訳(意訳):神社を修理し、祭祀を第一に行うこと。神は人が敬うことで威光を増し、人は神の加護によって運が開ける。だから毎年決まった祭祀を衰えさせず、神がその場においでになるかのような心で供物を捧げる礼を怠ってはならない。幕府の支配が及ぶ国々や荘園では、地頭と神主がそれぞれこの趣旨をわきまえ、真心を尽くしてあたりなさい。あわせて、社領を与えられている神社については代々の公文書の定めに従い、傷みが小さいうちに修理せよ。大きく壊れてしまったときは事情を報告させ、その内容に応じて幕府が処置する。
御成敗式目は51条の冒頭を「神社の管理」から始めています。続く第2条が「寺院」、第3条からようやく武士の本題(守護の権限)に入る構成です。なぜ宗教義務がトップに来るのでしょうか。
これは当時の武士が「神仏のご加護がなければ戦も裁判も成り立たない」と本気で信じていたからです。地頭は荘園内の神社・寺院も管理する立場にあったので、「神仏を粗末にする武士は信用ならん」というメッセージを冒頭に置いたわけです。

法律なのに1条目が神社の修理って、正直ちょっと意外…。武士の法律っていうから、いきなり戦とか土地の話から始まると思ってた。

そう思うよね!でも当時の武士にとって、神仏は「いるかもしれない存在」じゃなくて確実にそこにいる存在だったんだ。裁判だって、最後は神仏に誓わせて決着をつけることがあった。だから「神社をちゃんと守れる武士かどうか」は、その人が信用できるかどうかの話に直結していたんだよ。
■第3条(大犯三か条)——守護の権限を定める最重要条文
第3条:諸国守護人奉行の事(大犯三か条)
一諸國守護人奉行事。右右大將家御時所被定置者。大番催促謀叛殺害人〈付、夜討强盜・山賊海賊〉等事也。而至近年分補代官於郡鄕。宛課公事於庄保。非國司而妨國務。非地頭而貪地利。所行之企甚以無道也。抑雖爲重代御家人。無當時之所帶者不能駈催。兼又所々下司庄官以下假其名於御家人。對捍國司領家下知云々。如然之輩可勤守護役之由。縱雖望申一切不可加催。早任右大將家御時例。大番催促幷謀叛殺害之外。可令停止守護之沙汰。若背此式條相交自餘事者。或依國司領家之訴訟。或就地頭土民之愁欝。非法之至爲顯然者。被改所帶之職可補穩便之輩也。又至代官可定一人也。
📖 書き下し文:一、諸国守護人奉行の事。
右、右大将家の御時定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人〈付けたり、夜討・強盗・山賊・海賊〉等の事なり。しかるに近年に至り、代官を郡郷に分ち補し、公事を庄保に宛て課し、国司に非ずして国務を妨げ、地頭に非ずして地利を貪る。所行の企て甚だ以て無道なり。そもそも重代の御家人たりと雖も、当時の所帯無き者は駈り催すこと能はず。兼ねてまた所々の下司・庄官以下、その名を御家人に仮り、国司・領家の下知に対捍すと云々。然の如きの輩守護役を勤むべきの由、たとひ望み申すと雖も一切催しを加ふべからず。早く右大将家の御時の例に任せて、大番催促ならびに謀叛・殺害の外、守護の沙汰を停止せしむべし。もしこの式条に背き自余の事を相交へば、或いは国司・領家の訴訟に依り、或いは地頭・土民の愁欝に就き、非法の至り顕然たらば、所帯の職を改められ穏便の輩を補すべきなり。また代官に至りては一人を定むべきなり。
📝 現代語訳(意訳):源頼朝の時代に定められた守護の職務は、次の3つだ。①大番催促(御家人を京都の警備に動員する督促)、②謀叛人の逮捕、③殺害犯の逮捕(付則として、夜討・強盗・山賊・海賊もこれに準じる)。それなのに近年の守護は、郡や郷に勝手に代官を置き、荘園に税を課し、国司でもないのに国の政務を妨げ、地頭でもないのに土地の収益をむさぼっている。まったく道理に外れたふるまいだ。また、代々の御家人であっても今その国に所領を持たない者を動員することはできない。荘園の下級役人が御家人の名を借りて国司や領家の命令を拒んでいるという話も聞くが、そうした者を守護の役に就けたいと願い出てきても、いっさい認めない。今後は頼朝公の時代どおり、大番催促と謀叛・殺害の3つ以外は守護の権限と認めない。もしこれに背いて余計なことに手を出し、国司・領家の訴えや地頭・土民の訴えによって違法が明らかになれば、その職を解いて穏当な人物と交代させる。代官を置く場合も1人までとする。
この条文で定められた3つの権限が、教科書でおなじみの大犯三か条です。守護の仕事を「①大番催促」「②謀叛人の検断」「③殺害人の検断」の3つにだけ限定したのが最大のポイント。
なぜわざわざ「3つだけ」と決めたのかというと、当時の守護たちが「俺は地方の警察だ」と称して勝手に税を取ったり、農民に労役を課したり、暴走していたからです。御成敗式目はそれにストップをかけ、「守護はあくまで治安維持だけ。経済や行政には口を出すな」と釘を刺したのです。

守護は今でいう県警本部長みたいなイメージ。第3条で「お前の仕事は治安維持だけ」って法律で書いておくことで、勝手に税金集めたり町づくりに口出したりするのを禁止したんだ。裏を返せば、それだけ守護のはみ出しが当たり前になっていたってことでもあるんだよ。
■第8条(知行年紀法)——20年占有で所領権が確定する
第8条:御下文を帯ぶると雖も知行せしめず年序を経る所領の事(知行年紀法)
一雖帶御下文不令知行。經年序所領事。右當知行之後過二十箇年者。任右大將家之例。不論理非。不能改替而申知行之由。掠給御下文輩。雖帶彼狀不及叙用矣。
📖 書き下し文:一、御下文を帯すと雖も知行せしめず、年序を経る所領の事。
右、当知行の後二十箇年を過ぐれば、右大将家の例に任せて、理非を論ぜず改替する能はず。而るに知行の由を申して御下文を掠め給はるの輩、彼の状を帯すと雖も叙用に及ばず。
📝 現代語訳(意訳):たとえ幕府の発行した所領安堵の書類(御下文)を持っていても、その土地を実際に支配(知行)していない者の権利は認めない。実際に20年以上支配してきた者がいれば、頼朝公の先例にならって、理屈は抜きにしてその者の所領と決定する。書類だけ持って「俺のものだ」と申し出てくる連中の主張は採用しない。
これが教科書でおなじみの知行年紀法です。「実際に20年以上その土地を支配(知行)した者は、それだけで所領権が確定する」というルール。書類上の権利よりも、現に土地を使い続けている事実を優先したのが画期的でした。
当時、所領をめぐる裁判では「先祖代々のうちの土地だ」「いやうちが幕府から授かった」と書類の応酬になりがちでした。でも、書類は偽造されることもあるし、何代も前の話を蒸し返されると裁判が永遠に終わらない。だから「20年経ったら、過去は問わない」と区切りをつけたのです。

20年使い続けたらその土地は自分のもの…って、今の民法の「取得時効」とまったく同じ考え方ね。鎌倉時代にもう似たルールがあったなんて、けっこう驚きかも。

そうそう、まさに今でいう「取得時効」に近い考え方なんだよ。ちなみに現代の民法にも、20年(善意無過失なら10年)の占有で所有権が確定する取得時効というルールがある。式目が作られたのは1232年だから、現代の民法より約790年も前に、似た発想が条文になっていたことになるね。ただし「時効」の考え方そのものは古代ローマの法にもあるから、式目が世界で最初というわけではないよ。
■第11条(妻の所領保護)——夫が罪を犯しても妻の土地は守られる
第11条:夫の罪過によって妻女の所領没収せらるゝや否やの事
一依夫罪科妻女所領被沒收否事。右於謀叛。殺害。幷山賊。海賊。夜討。强盜等重科者可懸夫咎也。但依當座之口論。若及刄傷。殺害者。不可懸之。
📖 書き下し文:一、夫の罪科によりて妻女の所領没収せらるるや否やの事。
右、謀叛・殺害ならびに山賊・海賊・夜討・強盗等の重科に於いては、夫の咎に懸かるべきなり。但し当座の口論に依り、もし刃傷・殺害に及ばば、これを懸くべからず。
📝 現代語訳(意訳):夫が罪を犯したとき、妻が持っている所領も没収されるのか? 謀叛・殺人・山賊・海賊・夜討・強盗のような重大犯罪のときは、妻の所領にも責任が及ぶ。だが、その場のケンカや口論から刃傷沙汰になった程度なら、妻には連帯責任を負わせない。
この条文のポイントは、妻が独立した所領(土地の権利)を持っていることを当然の前提にしていることです。「夫が罪を犯したからといって、妻の土地まで自動的に没収はしない」という考え方は、現代でいえば夫婦別財産制に近いものがあります。
もちろん例外として、重大犯罪(謀叛や強盗など)に関わったときは妻の所領も連帯責任の対象になります。ただし「ケンカや個人的なトラブル」レベルでは妻は無関係、というのが御成敗式目のスタンスです。

重い罪だと妻の土地まで没収されちゃうんだ…。それって結局、妻にも責任を負わせてるってことだよね?

うん、そこはハッキリ連座させてる。ただ大事なのは「どこまで連座させるか」を条文で区切ったことなんだ。それまでは判断する人しだいでどこまでも巻き込めた。「謀叛や強盗はアウト、その場のケンカならセーフ」と線を引いたから、妻の側も先の見通しが立つようになったんだよ。
■第12条(悪口の禁止)——「口は禍の元」は法律だった
第12条:悪口の咎の事
一惡口咎事。右鬪殺之基起自惡口。其重者被處流罪。其輕者可被召籠也。問注之時吐惡口。則可被付論所於敵人。又論所事無其理者。可被沒收他所領。若無所帶者可處流罪也。
📖 書き下し文:一、悪口の咎の事。
右、闘殺の基は悪口より起こる。その重き者は流罪に処せられ、その軽き者は召し籠めらるべきなり。問注の時悪口を吐かば、則ち論所を敵人に付けらるべし。また論所の事その理無き者は、他の所領を没収せらるべし。もし所帯無き者は流罪に処せらるべきなり。
📝 現代語訳(意訳):ケンカや殺人はだいたい悪口から始まる。だから悪口を禁止する。ひどい悪口は流罪(島流し)、軽い悪口でも召し籠め(拘禁)にする。裁判中に悪口を言った者は、それだけで負け(争点の土地は相手のもの)。理由もないのに訴えを起こした者は、別の所領を没収する。土地を持たない者は流罪だ。
これは現代の感覚で読むと「悪口で島流し!?」とびっくりする条文です。でも理由はシンプル。当時の武士は名誉を傷つけられた相手をその場で斬りつけることがよくあり、悪口がそのまま殺人事件に直結したのです。
泰時は「闘殺の基は悪口より起こる」(殺人の原因は悪口から始まる)と分析し、根っこの段階で取り締まることにしました。今でいえば名誉毀損罪+侮辱罪+スラップ訴訟禁止を1つにまとめたような条文です。

武士にとって名誉は命と同じくらい大事。だから悪口も法律違反になったんだよ。しかも面白いのが「裁判中に悪口言ったらその時点で負け」っていうルール。今でいう法廷侮辱罪みたいなもんだね!
■第18条(女子への所領譲与)——親が譲った土地を取り戻せるか
第18条:所領を女子に譲り与ふる後、不和の儀あるによってその親悔い還すや否やの事
一讓與所領於女子後。依有不和儀其親悔返否事。右男女之號雖異。父母之恩惟同。爰法家之倫雖有申旨。女子則憑不悔返之文。不可憚不孝之罪業。父母亦察及敵對之論。不可讓所領於女子歟。親子義絕之起也。旣敎令違犯之基也。女子若有向背之儀者。父母宜任進退之意。依之女子者爲全讓狀。竭志孝之節。父母者爲施撫育均慈愛之思者歟。
📖 書き下し文:一、所領を女子に譲与するの後、不和の儀有るに依りてその親悔い返すや否やの事。
右、男女の号異なると雖も、父母の恩これ同じ。爰に法家の倫申す旨有りと雖も、女子則ち悔い返さざるの文を憑み、不孝の罪業を憚るべからず。父母もまた敵対の論に察し及び、所領を女子に譲るべからざるか。親子義絶の起こりなり。既に教令違犯の基なり。女子もし向背の儀有らば、父母よろしく進退の意に任すべし。これに依りて女子は譲状を全うせんが為に、志孝の節を竭し、父母は撫育を施し慈愛を均しくするの思ひを為すものか。
📝 現代語訳(意訳):娘に譲った所領を、後で親が「やっぱり返せ」と取り戻せるか? 男女で呼び方は違っても、親の愛情に違いはない。ここで明法家(律令法の専門家)の言い分もあるが、その説のとおり「娘に譲ったものは取り返せない」と決めてしまえば、娘は条文を頼りに親不孝もはばからなくなり、親のほうも争いを見越して娘には所領を譲らなくなってしまうだろう。それは親子の縁が切れるもとであり、親の教えに背く行いのもとでもある。だから、娘に背く態度があれば親の判断にまかせる。つまり親には娘へ譲った土地でも取り戻す権利を認める。そうであってこそ、娘は譲状を守るために孝を尽くし、親は男女の別なく等しく愛情を注ぐようになるのではないか。
ここで注意したいのは、第18条そのものは女性に権利を与えた条文ではないということです。内容はむしろ逆で、いったん娘に譲った所領でも親が取り戻せると認めた、親の側の権限を強める条文です。
それでも注目に値するのは、この条文が「親が娘に所領を譲渡している」ことを当たり前の前提にしている点です。わざわざ条文を立てて争いの処理を決めなければならないほど、鎌倉時代の武士社会では女性が土地を持つことがふつうだったのです。
実際、鎌倉時代には女性の地頭も実在しました。北条政子(頼朝の妻)のように、夫の死後に政治の中心に立った女性もいます。「武士の世=男社会」と思いがちですが、鎌倉時代の女性は土地・財産・後継者指名の権利を堂々と持っていたのです。

鎌倉時代の女性って想像以上に権利があったのね。江戸時代の「女性は家にいるもの」っていうイメージが強かったから、ちょっと意外!

実は鎌倉時代の女性の地位は、その後の室町〜江戸時代より高かったんだ!御成敗式目はそれをしっかり法律で守ったわけ。ただし室町時代に入ると「土地を分けると武士が貧乏になる」ってことで、だんだん女性の相続権は縮小していくよ。
■第41条(奴婢雑人の事)——もうひとつの「10年」の時効
第41条:奴婢雑人の事
一奴婢雜人事。右任右大將家御時之例無其沙汰。過十箇年者不論理非。不及改沙汰。次奴婢所生之男女事。如法意者雖有子細。任同御時之例。男者付父。女者可付母也。
📖 書き下し文:一、奴婢雑人の事。右、右大将家の御時の例に任せて、その沙汰無くして十箇年を過ぐれば、理非を論ぜず改め沙汰するに及ばず。次に奴婢所生の男女の事、法意の如くんば子細有りと雖も、同じく御時の例に任せて、男は父に付け、女は母に付くべきなり。
📝 現代語訳(意訳):奴婢や雑人の帰属について。頼朝公の時代の先例にならい、訴えのないまま10年が過ぎたときは、理屈の当否を問わずに今の状態のまま確定させ、あらためて裁き直すことはしない。また奴婢のあいだに生まれた子どもの帰属は、律令の趣旨からすれば別の扱いもありうるが、これも頼朝公の時代の先例にならって、男子は父に、女子は母に付けるものとする(父と母の主人が違う場合、子はそれぞれの側に振り分けられることになります。ただし原文に「主」の字はなく、この理解は補いです)。
第8条の知行年紀法が土地について「20年」で区切りをつけたのに対し、第41条は人の帰属について「10年」で区切りをつけています。争いを蒸し返させないという式目の発想が、土地だけでなく人にも及んでいたことがわかる条文です。
後半の「男子は父に、女子は母に付ける」という部分は、現代の感覚では受け入れがたい内容です。しかしこれは、当時の社会に売買・譲渡の対象とされる隷属身分が実在したという事実をそのまま示しています。式目が「先進的」とされる一方で、こうした身分秩序を前提にした法でもあったことは、あわせて押さえておきたいところです。

式目って公平でよくできた法律だと思ってたけど、こういう条文を読むと印象が変わるかも…。

いい気づきだね。式目は当時の武士社会にとって公平さを目指した法律であって、今の人権の感覚で公平だったわけじゃないんだ。売買される身分の人がいることを当たり前の前提にしている。ここを飛ばして「先進的な法律だった」だけで終わらせると、原文を読む意味が半分なくなっちゃうよ。
御成敗式目の全51条:分野別マップ
「全51条もあると整理できない…」という人のために、51条を内容ごとに6グループに分けた見取り図を作りました。条番号が重ならないよう、条文の並び順にそって区切っています。
分野①:神社・寺院の管理(第1〜2条)
第1条で神社、第2条で寺院の修理・祭祀をルール化。地頭や神主に管理責任を負わせています。「武士は神仏を粗末にしてはいけない」という宗教的・道徳的な前提を冒頭で打ち出しています。
分野②:守護・地頭の権限(第3〜8条)
御成敗式目の最重要分野。先ほど読んだ第3条(大犯三か条)・第8条(知行年紀法)はここに含まれます。守護が勝手に税を取ることの禁止(第3条)、地頭による年貢の抑留の禁止(第5条)など、地方に派遣された武士の行動範囲を定めています。式目のなかで原文が引かれることが多いのも、この分野です。
分野③:犯罪と刑罰(第9〜17条)
謀叛(第9条)、殺害・刃傷(第10条)、悪口(第12条)、人を殴ること(第13条)、文書偽造(第15条)などを並べた刑事のパートです。先ほど読んだ第12条(悪口の咎)もここ。誣告(嘘の訴え)を罰する条文もあり、武士特有の「ケンカ → 暴力」を防ぐねらいが見えます。第11条(夫の罪と妻の所領)や第14条(代官の罪が主人に及ぶか)のように、誰がどこまで連座するかを決めた条文がまとまっているのも特徴です。
分野④:所領の相続・譲渡(第18〜27条)
娘に譲った所領の悔返し(第18条)、譲状を得た子が親より先に死んだ場合(第20条)、離別された妻妾の所領(第21条)、女性が養子をとること(第23条)、夫の所領を継いだ後家の再婚(第24条)など、家の財産をめぐる条文が集中します。所領を分けて子どもに譲る「惣領制」の運用ルールにあたる、いわば民法的なパートです。
分野⑤:訴訟・裁判の手続き(第28〜37条・第49〜51条)
嘘の訴えを起こすこと(第28条)、担当の奉行人を飛ばして別ルートで訴えること(第29条)、判決を待たずに有力者の口添えを持ち出すこと(第30条)など、裁判のルール違反を細かく禁じています。鎌倉幕府の裁判機関である評定衆が公正に判断できるよう、手続きの基準を明示したものです。
分野⑥:御家人の統制・身分・その他(第38〜48条)
御家人が幕府を通さず朝廷に官位を求めること(第39条)、鎌倉の僧が官位を争うこと(第40条)、百姓の逃散(第42条)、所領の売買(第48条)などをカバーする分野です。奴婢の帰属を定めた第41条も、この分野に含まれます。
📌 全51条の原文・現代語訳をもっと読みたい方へ:国立国会図書館デジタルコレクションの『群書類従』所収本で全文を閲覧できます。本記事では代表的な7条文を選んで掲載しました。
この51条はその後どう読まれたか
この51条は、鎌倉時代だけの法律では終わりませんでした。後世の読まれ方を3点だけ押さえておきます。
① 武家が定めた最初の成文法典として制定された
それまでの武士の裁判は慣習に頼っていましたが、御成敗式目によって「武家のための、武家による、武家の法律」が確立されました。それまで人の記憶や先例に頼っていた判断基準が、条文というかたちで誰の目にも見えるようになりました。
② 律令(公家法)と並立する「もう1つの法体系」をつくった
御成敗式目は、律令を廃止したわけではありません。「公家社会には律令」「武家社会には御成敗式目」と棲み分けを行ったのが画期的です。日本史で最初に「2つの法体系が並立する」という状況が生まれたわけで、これが中世日本の二元支配体制を支えました。
③ 室町・戦国の武家法に受け継がれた
室町幕府は御成敗式目をそのまま基本法として使い続け、足りない部分を追加法で補いました。この追加法をまとめたものが「建武以来追加」です。戦国大名の分国法にも式目の影響が指摘されています。江戸時代には寺子屋で読み書きの教材としても使われています。1232年の制定から江戸幕府が倒れる1867年まで、630年あまりにわたって参照され続けたことになります。
ただし、江戸幕府の武家諸法度を御成敗式目の後継と見るのは正確ではありません。武家諸法度は大名を統制するための法令で、御成敗式目のような裁判の基準とは役割が違います。辞典類も武家諸法度の由来として御成敗式目を挙げていません。
📌 律令と御成敗式目の違い:律令は唐の制度を輸入した「中国式法典」で、公家・寺社・農民に広く適用。御成敗式目は日本の武士の慣習を成文化した「日本独自の法典」で、御家人にのみ適用。両者は廃止されず並立し、寺社の所領争いなどは律令で、武士の所領争いは御成敗式目で裁かれました。

御成敗式目って、鎌倉時代だけの話じゃなくて江戸時代まで読まれ続けてたのね。武士の法律といえば武家諸法度のイメージだったから、ちょっと意外かも。

御成敗式目についてもっと詳しく知りたい人へ

御成敗式目をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!読みやすさの順に並べたから、自分に合いそうなものから手に取ってみてね!
岩波ジュニア新書の1冊で、鎌倉武士の相続・所領・裁判・信仰などを16のテーマに分けて解説しています。御成敗式目そのものを正面から扱う本ではありませんが、式目の条文が「なぜその内容になったのか」を、武士の生活実態の側から理解できます。中学生・高校生でも読み通せる文章量と語り口です。
式目の条文を単体で追うのではなく、鎌倉武士がどう暮らし何を争っていたのかから理解したい中高生。
御成敗式目の条文そのものを一条ずつ詳しく読みたい人。式目の逐条解説は載っていません。
御成敗式目を主題にした新書で、式目がどう作られ、どう受け入れられ、なぜ後世これほど有名になったのかまでを扱っています。主要条文の読み解きに加えて、室町・戦国・江戸へと受け継がれた「その後」の歴史も追えるため、この記事の内容をそのまま一段深いところまで広げられます。
式目51条の背景や、後世への影響までまとめて知りたい高校生・社会人。
要点だけ手早く確認したい人。新書1冊分の分量があります。
シリーズ日本中世史の第2巻で、鎌倉幕府と朝廷が並び立った時代の政治を通史として描きます。御成敗式目は「律令と並立する武家の法」として位置づけられており、承久の乱後に幕府の権限がどこまで広がったのかという文脈のなかで式目を捉え直せます。
式目を鎌倉時代全体の流れのなかに位置づけたい人。日本史をもっと体系的に学びたい人。
御成敗式目だけをピンポイントで知りたい人。式目の記述は通史の一部です。
よくある質問
A. 1232年(貞永元年)8月10日に制定されたとされ、鎌倉幕府3代執権・北条泰時が定めました(制定日は7月10日とする説もあります)。連署の北条時房と共同で取りまとめ、全51条で構成されています。「貞永式目」「関東御成敗式目」とも呼ばれます。
A. 守護の職務を①大番催促(御家人を京都警備に動員する督促)、②謀叛人の検断(逮捕)、③殺害犯の検断の3つに限定した条文です。それ以外の権限(税の取り立てや国司の仕事への口出しなど)を守護に認めず、地方での暴走を防ぎました。
A. 土地を20年以上継続して支配(知行)していれば、書類上の権利の有無を問わずに、その所領権を実際の占有者のものとして確定する、というルールです。現代の民法における「取得時効」に近い考え方で、書類だけの権利主張を排除する役割を持っていました。
A. はい。第11条(夫の罪と妻の所領)、第18条(娘へ譲った所領の悔返し)、第21条(離別された妻妾が夫から譲られた所領を持ち続けられるか)、第23条(女性が養子をとれるか)、第24条(夫の所領を継いだ後家が再婚した場合)など、女性の所領を扱う条文がいくつもあります。ただしこれらは「女性に権利を与えるため」の条文ではなく、女性が所領を持っていることを前提に、争いが起きたときの扱いを決めたものです。鎌倉時代には女性地頭も実在し、その後の室町〜江戸時代より女性の権利は高かったと考えられています。
A. 律令は奈良時代に唐の制度を模して作られた中国式法典で、公家・寺社・農民に広く適用されました。御成敗式目は鎌倉時代に日本の武士の慣習を成文化した独自の法典で、御家人にのみ適用されます。御成敗式目の制定後も律令は廃止されず、2つの法体系が並立しました。
まとめ
御成敗式目は1232年に北条泰時が制定した、武家が定めた最初の成文法典です。承久の乱以降に激増した所領紛争を公平に裁くため、武士の慣習を文字にしてまとめたもので、泰時自身は「分かりやすく書いた」と述べ残しています。第3条(大犯三か条)・第8条(知行年紀法)・第11条・第18条(女性の所領)は、式目の性格がとくによく表れた条文です。律令と並立しながら、室町幕府の追加法や戦国大名の分国法に受け継がれ、1232年から幕末の1867年まで630年あまりにわたって武家の法の原点として参照され続けました。

以上、御成敗式目の原文と現代語訳のまとめでした。「漢文ばっかりで難しい」と思ってた人ほど、第3条・第8条はぜひ口に出して読んでみてほしいな。意外と現代語に近い言葉で書かれていることがわかるはず。御成敗式目の概要は下のカードの記事でじっくり解説してるから、あわせて読んでね!
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1185年鎌倉幕府の成立(頼朝が守護・地頭を設置)
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1221年承久の乱(後鳥羽上皇vs幕府)— 幕府の支配領域が拡大
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1232年御成敗式目(貞永式目)制定(北条泰時・全51条)
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室町時代室町幕府が式目を基本法として使い続け、追加法「建武以来追加」を重ねる
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戦国時代各大名が分国法を制定。式目の影響が指摘される
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江戸時代寺子屋の手習い教材として読み継がれる

📅 最終確認:2026年9月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』
塙保己一編『群書類従』第十五輯 所収「御成敗式目」(国立国会図書館デジタルコレクション NDLJP:1879792・2026年9月確認)
ウィキソース日本語版「御成敗式目」(上記『群書類従』を底本とする翻刻テキスト・2026年9月確認)
京都大学附属図書館 谷村文庫『貞永式目』天正7年写/奈良女子大学学術情報センター 坂本龍門文庫「御成敗式目」大永版(2026年9月確認)
Historist(山川出版社『日本史小辞典』)「御成敗式目」「北条泰時」「武家諸法度」(2026年9月確認)
コトバンク「御成敗式目」「武家諸法度」(日本大百科全書・世界大百科事典・デジタル大辞泉)(2026年9月確認)
Wikipedia日本語版「御成敗式目」(2026年9月確認)
山川出版社『詳説日本史』
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