今回は、鎌倉時代初期の超重要人物、北条政子について解説します。
この記事では、以下の点を中心に北条政子の生涯について迫ってみたいと思います。
北条政子、源頼朝に恋をする
北条政子は1157年、伊豆で北条時政の娘として生まれます。
1160年、その伊豆に後に鎌倉幕府を開き、政子の夫となる源頼朝がやってきます。平治の乱で敗北し、流罪となって伊豆に飛ばされたのです・・・。この時、源頼朝の監視役が、政子の父である北条時政でした。
これが、北条政子と源頼朝の最初の出会いとなります。当時は源頼朝13歳、北条政子はまだ幼稚園児ぐらいの年齢でした。
流罪人と言っても、源頼朝は過酷な生活を強いられることはなく、伊豆で平和な日々を送ることになります。源頼朝の属する源氏は昔々の後三年の役以降、関東の英雄であり、しかも頼朝の父の源義朝は関東一帯を平定した有力者だったからです。
北条政子は次第にそんな源頼朝に恋心を抱き、1170年代後半に源頼朝と結婚したと言われています。
北条政子と源頼朝の結婚が凄すぎる・・・
いきなりですが、源頼朝は超モテました。頼朝は「源氏の御曹司」とも呼ばれて、たとえ流罪人であっても娘を嫁がせたいと思う人が多くいたのです。
実は、源頼朝は八重姫という女性と結婚していて男の子まで授かっていました。
八重姫の父は、頼朝の監視を任されていた伊東祐親という人物。伊東祐親が京への出張から帰ってきた1175年、、娘がいつの間にか乳飲児を抱えていたのです。
伊東祐親はこれに激怒。八重姫を強く責めます。
伊東祐親「流罪人との間に子を授かったなんて話が権力者の平清盛に知れたら、一族もろとも滅びるぞ・・・。娘よ、辛いだろうが平家にバレる前に産んだ子は捨てさせてもらう。」
こうして、子供らは捨てられ命を落としました。源頼朝はこれに涙して落胆し、八重姫はショックのあまり自害した・・・とも言われています。(諸説あり)
政子が頼朝と恋愛関係にあること知ると、伊東祐親動揺に北条時政は大激怒。北条時政は、政子を強引に頼朝から引き離し、縁談を進めていた山木兼隆の元へ送ります。
しかし、北条政子に夜中に旅路からこっそり脱走し、源頼朝のところへ戻ることを決意。山の夜道を女性一人で歩きながら愛する源頼朝に会いに行った・・・なんていう破天荒なエピソードがあったりします。
娘の頼朝への深い愛情を知った北条時政は、遂にこれを認め、北条政子と源頼朝は結ばれることとなりました。
これは、北条時政にとっては一族の命運を左右する一世一代の大博打です。北条時政は平清盛から源頼朝の監視役を任されている立場です。その娘が頼朝と結婚したと知れば、北条家など一瞬のうちに滅びることでしょう。
それでも、北条時政は平清盛よりも源氏の血に自らの運命を委ねたわけです。この大博打の結果は、多くの人が知るところでしょう。
北条政子流「夫の浮気相手を潰す方法」
北条政子と源頼朝が結ばれた後、世は戦乱の世へと突入します。
1180年、平家の横暴に不満を爆発させた以仁王が各地に「打倒平家!」を呼びかけたことが発端で源平合戦は始まったのです。
源頼朝も以仁王の呼びかけに応じて挙兵すると、平家に不満を持つ関東武士たちが次々と頼朝のところに駆けつけました。
そして、あれよあれよと関東武士を味方に引き入れ、関東一帯を支配するまでに至ります。この時に、関東支配の本拠地として定めたのが鎌倉でした。
戦時中の1182年、念願の男の子が生まれます。後に2代目鎌倉幕府将軍となる源頼家です。
北条政子の妊娠中、色々と溜まっていた源頼朝は亀の前という女性を寵愛し、今でいう浮気みたいなことを始めます。
とは言え、当時の社会は一夫多妻制。男は正妻を一人持ち、他にも関係を持つ女性が多くいてもそれは当然のことだと考えられていました。それが高貴な家柄の人物ならなおさらのこと。
ところが、嫉妬に駆られた北条政子はこの当時の社会常識に我慢なりません。源頼朝が亀の前とイチャイチャしていることを知るや、北条政子は亀の前に嫌がらせを始めます。
その嫌がらせもちょっと度が過ぎていて、亀の前の住んでいる家を襲撃し、亀の前が命からがらなんとか逃げ出す・・・なんていう事件まで起こしていたほどです。
北条政子のこの嫌がらせに次は源頼朝が大激怒。周囲を巻き込んだ大げんかにまで発展してしまいます。北条政子はどうやらとても嫉妬深い女性だったようです。
女性を思い遣る北条政子のエピソード
1185年に壇ノ浦の戦いで平家をボッコボコにすると、異母兄弟だった源頼朝と源義経の不和が決定的になります。
1186年、源義経の妾(恋人以上夫婦未満の関係の女性のこと)だった静御前という女性が捕らえられ、鎌倉へ送られてきました。
静御前は白拍子(今でいう踊り子的なもの)で、美貌の持ち主でした。北条政子は、「ぜひその美しい舞をみてみたいわ!」と捕らえられた静御前に舞を披露するよう要求します。
静御前は敵の前で踊りを披露することを嫌がっていましたが、囚われの身である以上、舞を披露するほかありません。静御前は抵抗の意味を込めて、舞ながら「愛する義経様に会いたい・・・」という意味を込めた歌を歌います。
喧嘩を売られたと感じた頼朝はこれに激怒しますが、ここで北条政子が頼朝をなだめます。
私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません
ハッと我に返った源頼朝は冷静を取り戻し、静御前に礼を与えたと言われています。(源頼朝も、冷静になる機会を与えてくれた政子に感謝したとか)
実の娘を追い込んでしまった北条政子
北条政子には大姫という娘がいました。1195年、源頼朝と北条政子は、大姫を後鳥羽上皇に入内させる政略婚を目論みます。
ところが、大姫は子供の頃からずーっと好きだった亡き源義高ことが忘れられません。亡き源義高を想いすぎるばかり精神的にも病みがちになり、とてもじゃないけど政略婚なんてできる状態ではありませんでした。
それでも北条政子と頼朝は、強引に政略婚の準備を進めます。そして親たちがせっせと政略婚の準備を進めている最中、大姫は1197年に19歳という若さでこの世を去ります。タイミング的に自害したという説も・・・。
いずれにせよ北条政子は、娘を不幸のどん底に陥れてしまったことになります。
次期将軍は誰だ!?北条氏VS比企氏
1203年、2代目将軍の源頼家の将軍位を巡って比企氏と北条氏が争います。
源頼家は政子の子供ですが、実際の育ての親(乳母)は比企氏の人たちでした。当時の高貴な女性は子を産んでも、育児は別な者に任せることが多かったのでこれ自体は不思議な話ではありません。
じゃあ何が問題だったかというと、「将軍の乳母」という立場を利用して比企氏の発言力が日に日に増してきたんです。
乳母の分際で生意気な・・・!
そこで北条政子・義時は謀略を練って、比企氏を失脚させ、源頼家を将軍の座から引きずり下ろしてしまいます。
北条政子は自ら兵に命令し比企氏を滅亡に追い込み、その後、比企氏滅亡に憤慨した源頼家を無理やり押さえ込んで、幽閉先にぶち込んでしまいます。政子怖すぎるやろ・・・。
その後、北条政子の妹が乳母となっていた源実朝が3代目将軍に就任します。
父の娘の争い。北条政子VS北条時政
これでようやく北条氏の時代が来た・・・と思った矢先、次は父の時政が平賀朝雅という人物に肩入れするようになってしまいました。
平賀朝雅は時政の後妻、牧の方の娘婿。北条時政は牧の方にゾッコンだったとも言われており、前妻の子である政子はあまり良い感情を持っていませんでした。
北条時政は次第に牧の方の息子の平賀朝雅を重用するようになり、前妻の子である北条政子・北条義時たちが軽んじられるようになります。
牧の方は父をたぶらかす悪女・・・!このままでは北条一族が危ないわ。
こうして、弟の北条義時(ほうじょうよしとき)主導でクーデターを起こし、父の時政を追放。
こうして鎌倉幕府の実質的権力者は息子の北条義時へと代わり、北条政子も義時を補佐する立場として強大な発言力を持つようになりました。
承久の乱始まる。北条政子の名演説!
1221年、源実朝の死をきっかけに後鳥羽上皇が幕府に宣戦布告しました。承久の乱の始まりです
後鳥羽上皇は、「鎌倉幕府の支配者である北条義時を追討せよ」という宣旨(天皇からの公式な命令)を全国に出しました。
この宣旨というのが実に凄いもので、ここまでの日本の歴史において「宣旨の対象にされた者(朝敵)は勝ったことは一度もない」という凄まじい影響力を持っていたんです。
なので、宣旨が出されたことを知った鎌倉幕府には衝撃が走ります。
鎌倉幕府に追討の宣旨出されたってマジかよ・・・。これまで幕府のお世話になってたけど、一族を守るためにも勝ちそうな後鳥羽上皇に味方した方が得策かもしれないな。
もはや一刻の猶予もない。御家人の心を幕府に繋ぎとめることができなければ、鎌倉幕府は自然崩壊してしまう・・・!
こうして、北条政子は立ち上がります。御家人たちを集め、自分の胸の内を安達景盛という御家人に代弁させました。これが北条政子の有名な演説となります。内容は以下。
「みな心をひとつにして聞きなさい。これが最期のことばである。
頼朝殿が朝敵を征伐し幕府を創設しつ以後、官位といい、俸禄といい、その恩はまことに山よらも高く、海よりも深いものである。
恩に報いる思いはどうして浅くてよいものであろうか。ところが今、逆臣の讒言によって不当な綸旨が下された。
名声を汚すまいと思う者は、はやく秀康・胤義(朝廷に寝返った人物)を討ちとり、三代将軍の遺跡を守らなければならない。ただし、院に味方したいと望む者はただちに申し出よ」
出典:amebaブログ「amour」様
これを聞いた御家人たちは涙を流しながら命を賭けてこれに応じることを胸に誓い、中には涙で返事ができない者もいました。
ここで御家人たちがこれほどまでに感動したのにもちゃんと理由があります。
平安時代、武士たちは朝廷貴族にこき使われる番犬にすぎない存在でした。それを鎌倉幕府を立ち上げ、武士たちを貴族からの束縛から解放したのが源頼朝だったんです。演説によって、御家人たちは過去の苦しい時代を思い出し、鎌倉幕府からのご恩を再認識した・・・というわけです。
しかも、この言葉はその源頼朝の妻であり、幕府を支えてきた北条政子の言葉です。やはりその言葉には特別な重みがあります。
そして、この頃から北条政子は出家して尼となっていながら、幕府を動かす動かす発言力を持っていたので尼将軍(あましょうぐん)と呼ばれるようになります。
北条政子、最後の活躍(年表付き)
承久の乱は北条政子の名演説もあり、鎌倉幕府の勝利に終わりました。
しかし、乱が終わると次は幕府内で再び政治争いが激しくなります。1224年、幕府の実質的最高権力者だった北条義時が亡くなり、幕府内で後継者問題が勃発しました。
北条義時の息子で実力もあった北条泰時(ほうじょうやすとき)が後継者候補でしたが、これに義時の後妻である伊賀の方が反対し、伊賀の方子である北条政村の擁立を画策します。北条政村は自らの意思というよりも伊賀の方に担ぎ出された感じ。
北条政村が後継者になってしまえば、政治的には伊賀一族が圧倒的影響力を持つようになるわけで、北条氏としてはこれを断固阻止しなければなりません。北条時政と牧の方の騒動と同じパターンです。
北条政子は、伊賀氏と共に不穏な動きを見せていた三浦氏に接近し、三浦氏を懐柔。三浦氏に梯子を外された伊賀氏は、何もできないまま伊豆へ流され、伊賀氏のクーデター作戦は未然に潰されてしまいます。
そして北条政子の希望どおり、北条泰時が義時の後継者となり、その翌年の1225年、北条政子はこの世を去ります。最後の最後まで鎌倉幕府、そして北条家のことを縁の下から守り続けた生涯でした。
最後に北条政子の生涯を簡単ではありますが、年表にまとめておきます。
北条政子の人物像
北条政子は自ら強い意志を持つ女性でした。これは政子の恋愛話から察することができます。
一方で、静御前を救った時のような女性らしさ・母性みたいな柔らかさも持ち合わせていました。
この行動力と母性こそが北条政子の魅力。名演説で人々の心を大きく動かせた理由の1つです。
また、あまりに政治に介入することが多いことから「無駄に政治に口出しする悪女」って話があったり、頼朝の浮気相手に異常な嫉妬心を持っていたことから「嫉妬深い嫌な女」みたいな言い方をされることもあったりします。
さらに、当時は女性としてここまで堂々と活躍した人物も少ないことから、その点を評価する声もあるようです。
長所と短所は紙一重。北条政子の評価は様々ですが、どれが間違いとかはなくて、感じ方は人それぞれです。自分の思う北条政子像みたいなものを探してみるのも面白いかと思います。
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