北条政子とは!簡単にわかりやすく紹介【尼将軍の名演説とその生涯】

 

今回は、鎌倉時代初期の超重要人物、北条政子(ほうじょうまさこ)について紹介します。

 

 

北条政子は、「尼将軍(あましょうぐん)」の呼び名で有名です。ところで、この「尼将軍」という呼び名の由来って何なんでしょうか。

 

「尼将軍」の呼び名が生まれたきっかけは、1221年に起きた承久の乱。

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北条政子は出家した尼の身分であるにも関わらず、敵にビビって裏切りかねない御家人たちの前で名演説を行い、見事に戦を勝利へ導きました。そして「尼のくせに戦の勝利を決定づけてしまったすげーやつ!」ってことで尼将軍と呼ばれるようになったのです。

 

ちなみにその名演説はこんな感じです。

「皆、心を一つにして聞きなさい。これが私の最後の言葉です。

亡き頼朝公が朝敵を滅ぼし、関東に政権を築いてから、
お前たちの官位は上がり禄高もずいぶん増えました。

お前たちはかつて平家のもとでどう扱われていましたか?
犬のように召し使われていたではないですか!
しかし今は京都へ行って無理に働かされることもなく、
よい暮らしができるようになりました。

すべてこれ、亡き頼朝公の御恩。その御恩は、
海よりも深く山よりも高いのです。

今、逆臣の讒言によって、理に反した綸旨が下されました。

今こそ頼朝公へのご恩を返す時。

名を惜しむ者は、逆臣を討ち取り、三代にわたる将軍家の恩に報いよ。
ただし朝廷側につこうという者があれば、それは構いません。
早く行きなさい」

(出典:左大臣ドットコム

 

この演説を聞いた御家人たちは涙を流しながら、命を賭して幕府のために戦うことを心に決めたと言われています。

 

 

この演説は、北条政子が演説して初めて名演説となります。他の人物が同じことを言っても、これほど強く御家人たちの心を動かすことはなかったでしょう。というのも、北条政子の演説にはそれまで歩んできた北条政子の人生そのものの重みが込められているからです。

 

 

この記事ではそんな北条政子の生涯や人物像について迫ってみたいと思います。きっとこの記事を読み終わった頃には、上で紹介した演説がいかに名演説であったかがわかるはず!

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北条政子と源頼朝

北条政子は1157年、北条時政の娘として生まれました。

 

 

1160年に平治の乱で源義朝が戦死すると、その息子で後に政子の旦那になる源頼朝(みなもとのよりとも)は伊豆に流刑となり、流罪人となった源頼朝の監視役だったのが政子の父である北条時政でした。

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しかし、流罪人と言っても源氏は関東地方の英雄。しかも、源頼朝はその源氏の中で特に高貴な血筋の持ち主でした。過酷な生活を強いられることはなく、源頼朝は伊豆で平和な日々を送ります。当時、源頼朝は13歳。北条政子はまだ保育園児ぐらいの年齢です。

 

 

長い長い源頼朝の幽閉生活。北条政子は、そんな源頼朝に恋心を抱くようになり、1170年代後半に源頼朝と結婚したと言われていますが、この結婚がそれはもう波乱万丈な結婚だったんです。

波乱万丈!北条政子の結婚

源頼朝は、先ほど述べたように源氏の御曹司。そんな人物がモテないわけがなく、源頼朝は八重姫(やえひめ)という女性と結婚していて男の子まで授かっていました。実は北条政子が初婚ではないのです。

 

 

八重姫の父は、頼朝の監視を任されていた伊東祐親(いとうすけちか)という人物。伊東祐親は京都に数年間の出張に行っていて、1167年に伊豆に戻ってみると、娘がいつの間にか3歳の子供を抱えているのを知って、びっくり仰天します。

 

誰だって、娘が知らないうちに子供を産んでたら驚きます。

 

 

伊東祐親はこれに激怒し、八重姫を強く責めます。

 

伊東祐親「流罪人との間に子を授かったなんて話が権力者の平清盛に知れたら、俺たちなんて一瞬で滅亡だよ?娘よ、そこのところをわかっているのか!!可哀想だが、平家にバレる前に産んだ子は捨てさせてもらう」

 

 

こうして、男の子は捨てられ命を落としてしまいます。源頼朝はこれに涙し、落胆したと言います。その後、八重姫がどうなったかわかっていませんが、ショックのあまり自害したとも言われます。

 

 

※以上の八重姫のエピソードは逸話の可能性もあるのですが、この記事では実際にあったのだろうということで話を進めます。

 

 

こんな話の後の源頼朝と北条政子の結婚です。父の北条時政がこれを許さないのは容易に想像できますね。しかも源頼朝と北条政子がイチャラブしている間に、北条時政は山木兼隆(やまきかねたか)という男との縁談を進めていました。

 

 

北条政子の勝手な行動に縁談まで進めていた北条時政は大激怒。北条時政は、源頼朝から政子を強引に引き離し山木兼隆の元へ送りますが、暗闇の夜に政子は一人脱走することを決意。山の夜道を一人で歩きながら愛する源頼朝に会いに行った・・・なんていう波乱万丈お涙頂戴なエピソードがあったりします。

 

 

北条政子と山木兼隆の話も八重姫の話と同じく、実際にあった話かどうかは実はわかっていません。(逸話である可能性の方が高いと言われている)

 

 

しかし、たとえ作り話だったとしても、これらのエピソードから次の2つのことは言えそうな気がします。火のないところに煙は立たないですからね!噂や逸話も同じです。

 

北条政子は源頼朝を心の底から愛していた。
北条政子は自分の信念を決して曲げない心に強い芯を持った女性だった。

 

 

最初は政子と頼朝の結婚に反対だった時政も最終的には2人の結婚を認め、ようやく結婚に至ったわけです。

 

 

さて、実はこの話で一番凄いの北条時政です。だって婚姻が平清盛にバレたら一族もろとも滅ぼされるリスクを負ったんですからね。北条時政は、源氏の御曹司である源頼朝に一族の将来の全てを託したわけです。まさに一世一代の大博打。

 

 

北条時政のこの英断がなければ、鎌倉幕府や北条氏の隆盛はなかったかもしれません。

 

 

1178年、北条政子は念願の第一子を出産します。女の子で後に大姫と呼ばれる娘です。

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北条政子と源平合戦

北条政子と源頼朝が結ばれた後、世は戦乱の世へと突入します。源平合戦の始まりです。

 

 

1180年、平家の横暴に不満を爆発させた以仁王が各地に「打倒平家!」を呼びかけたことが発端で源平合戦は始まります。

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この時、伊豆の源頼朝も以仁王の呼びかけに応じて挙兵します。

 

 

繰り返しますが、源氏は関東地方の英雄であり、源頼朝はその源氏の御曹司。平家の抑圧的な徴税方法に不満を持つ多くの関東武士は源頼朝の味方となります。

 

 

あれよあれよと関東武士を味方に引き入れ、関東一帯を支配するまでに至ります。そして、関東支配の本拠地として定めたのが父の源義朝ゆかりの地である鎌倉だったわけです。

 

 

さて、流刑人の立場から怒涛の快進撃を続ける源頼朝ですが、1182年、念願の男の子が生まれます。後に2代目鎌倉幕府将軍となる源頼家です。

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北条政子「私、浮気相手は徹底的に潰すスタイルなの」

北条政子の妊娠中、色々と溜まっていた源頼朝は亀の前(かめのまえ)という女性を寵愛し、今でいう浮気みたいなことを始めます。

 

 

とは言え、当時の社会は一夫多妻制。男は正妻を一人持ち、他にも関係を持つ女性が多くいてもそれは当然のことだと考えられていました。それが高貴な家柄の人物ならなおさらのこと。

 

 

ところが、嫉妬に駆られた北条政子はこの当時の社会常識に我慢なりません。源頼朝が亀の前とイチャイチャしていることを知るや、北条政子は亀の前に嫌がらせを始めます。

 

 

その嫌がらせもちょっと度が過ぎていて、亀の前の住んでいる家を襲撃し、亀の前が命からがらなんとか逃げ出す・・・なんていう事件まで起こっています。

 

 

北条政子のこの嫌がらせに次は源頼朝が大激怒。周囲を巻き込んだ大げんかにまで発展してしまいます。北条政子はどうやらとても嫉妬深い女性だったようです。

北条政子と静御前

1185年に壇ノ浦の戦いで平家をボッコボコにすると、異母兄弟の源頼朝と源義経の不和が決定的になります。詳しくは以下の記事をどぞ。

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頼朝は義経と徹底抗戦の構えをとるのですが、1186年、源義経の妾だった静御前(しずかごぜん)という女性が捕らえ、鎌倉へ送られてきました。

 

 

 

静御前は白拍子(しらびょうし。今でいう踊り子的な)で、美貌の持ち主でした。北条政子は、「ぜひその美しい舞をみてみたいわ!」と捕らえられた静御前に舞を披露するよう要求します。

 

 

 

愛する義経の敵である源頼朝の前です。静御前は踊りたいわけがありません。しかし囚われの身である以上、舞を披露するほかありません。静御前は今できるできる限りの抵抗として舞ながら「義経様に会いたいわ・・・」という意味を込めた歌を歌います。

 

 

喧嘩を売られた頼朝はこれに激怒しますが、ここで北条政子が頼朝をなだめます。

 

「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」

ハッと我に返った源頼朝は冷静を取り戻し、美しい舞を披露してくれた静御前に礼を与えたと言われています。

 

静御前のエピソードは吾妻鏡という史料に載っています。もっと詳しいお話が気になる方は以下のサイトを参考にしてみると良いと思います。

 

吾妻鏡6巻文治2年4月(4月8日の記録が上記のエピソードになります!)

実の娘を追い込んでしまった北条政子

先ほど北条政子は第一子として大姫という娘を産んだという話をしました。1195年、源頼朝と北条政子は、大姫を後鳥羽上皇に入内させ、政略婚を目論みます。

 

 

ところが、大姫は子供の頃からずーっと好きだった亡き源義高(みなもとのよしたか)という男のことが忘れられません。亡き源義高を想いすぎるばかり精神的にも病みがちになり、とてもじゃないけど政略婚なんてできる状態ではありませんでした。

 

 

それでも北条政子と頼朝は大姫の気持ちを無視して、強引に政略婚の準備を進めます。そして親たちがせっせと政略婚の準備を進めている中、大姫は1197年、19歳という若さでこの世を去ります。

 

 

死因は不明ですが、タイミング的にどうも自害だったんじゃないかなと個人的に思っています。詳しい話は以下の記事をどぞ。

大姫とは?悲劇のヒロインの生涯をわかりやすく紹介【源頼朝の娘の悲しき物語】
今回は、日本史上屈指の悲劇のヒロイン!と言われることもある大姫(おおひめ)という人物について紹介しようと思います。 大姫は、源頼朝と北条政子との間に生まれた娘。ちなみに大姫というのは「偉い人の長女」っていう意味の呼び名。大姫のちゃんとした名前は実はわかっていません。これは「身分の高い女性は本名を呼ばない」っていうのが当時の風習に...

北条政子と政争の日々

ここまでは恋愛系の話が続きましたが、北条政子は北条家を守るため、政治の面でも活躍をすることになります。

 

比企氏VS北条氏

1203年、2代目将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)の将軍位を巡って比企氏と北条氏が争います。

 

 

源頼家は確かに政子の子です。しかし、育ての親(乳母)は比企氏の者だったんです。当時は高貴な女性は子を産んでも、育児は別な者に任せることが多かったのでこれ自体は不思議な話ではありません。(政子が高貴な女性か?という点については議論があるかもしれない)

 

 

じゃあ何が問題だったかというと、「将軍の乳母」という立場を利用して比企氏の発言力が日に日に増してきたんです。

 

 

面白くないのは北条氏です。そこで北条政子・義時は謀略を練って、比企氏を失脚させ、源頼家を将軍の座から引きずり下ろしてしまいます。

誰でもわかる源頼家!生涯などを簡単にわかりやすく【2代目将軍の悲劇の物語】
今回は2代目鎌倉幕府将軍である源頼家(みなもとのよりいえ)について紹介しようと思います。 鎌倉幕府といえばパッと頭に思い浮かぶのが源頼朝という人も多いと思います。源頼朝は新しい時代を切り開いた人物だし教科書にも大きく載る人物ですから、そりゃ有名ですよ。 そして、源頼朝が亡くなった後の話になると途端に...

 

北条政子は自ら兵に命令し比企氏を滅亡に追い込み、その後、比企氏滅亡に憤慨した源頼家を無理やり押さえ込んで、幽閉先にぶち込んでしまいます。政子怖すぎるやろ・・・。

 

 

そして、北条氏が乳母となっていた源実朝(みなもとのさねとも)が3代目将軍に就任します。

北条政子・義時VS北条時政

これでようやく北条氏の時代が来た・・・と思った矢先、次は父の時政が平賀朝雅(ひらがともまさ)という人物に肩入れするようになってしまいました。

 

 

平賀朝雅は時政の後妻、牧の方の娘婿。北条時政は牧の方にゾッコンだったとも言われており、前妻の子である政子には良い感じはしなかったことでしょう。

 

北条時政は高齢となり焦ったのか、政治面でも強引な政策が多くなり、周囲からも批判的な目で見られるようになります。

 

 

これに北条政子と義時は強い危機感を抱くことになります。

 

政子・義時「このままでは北条一族が危ない!!」

 

 

こうして、北条義時主導でクーデターを起こし、父の時政を追放。

 

 

こうして鎌倉幕府の実質的権力者は息子の北条義時へと代わり、北条政子も義時を補佐する立場として強大な発言力を持つようになりました。

4代目将軍と北条政子

3代目の源実朝は子に恵まれず、実朝亡き後の次期将軍問題で揉めることを予見した北条政子は、1218年、皇族出身者を次の将軍にしようと水面下で朝廷と交渉を始めます。

 

 

ところが、1219年に源実朝が甥っ子に殺害され、朝廷との交渉も失敗。こうして苦肉の策で将軍になったのが藤原氏の血を引く藤原頼経(ふじわらのよりつね)でした。

藤原将軍とは?藤原頼経を簡単にわかりやすく紹介!【なぜ藤原氏が鎌倉将軍になったのか】
さて、今回は鎌倉幕府4代将軍の藤原頼経(ふじわらのよりつね)について紹介しようと思います。 鎌倉幕府は、源平合戦の勝者である源頼朝により創設され、三代に渡ってその源氏が将軍職に就任していました。ところが、4代目から突如として藤原氏である藤原頼経が将軍職に就任。 一体なぜ、突然藤原氏が鎌倉幕府将軍になったのか?その辺...

 

政子は、実朝の死を大いに嘆いたと言います。頼家の扱いとはすごい温度差です。ちなみに、源実朝はとても複雑な生涯を歩んできた人物です。詳細は以下の記事でどぞ!

誰でもわかる源実朝!その生涯を簡単にわかりやすく【3代目将軍の悲劇の物語】
今回は、鎌倉幕府の三代目将軍である源実朝(みなもとのさねとも)について紹介します。 源実朝が将軍になるまで 源実朝は1192年に源頼朝と北条政子の間に生まれます。次男であり、兄は2代目将軍となった源頼家。 長男の源頼家は武芸に長けた人物でしたが、源実朝は兄とは正反対で和歌や蹴鞠など朝廷貴族の文化を好む人物でした。 ...

 

こんな感じで北条政子は公式に表には登場しないものの、裏で幕府運営を色々とサポートしていたのです。例えるならば「鎌倉幕府の潤滑油」と言ったところだと思います。

承久の乱と北条政子

そして1221年、源実朝の死をきっかけに後鳥羽上皇が幕府に宣戦布告します。承久の乱です。

 

 

ここで、北条政子は冒頭で紹介した名演説を行います。

 

 

北条政子は、源頼朝が流罪人時代だった頃からずーっと頼朝を支え続け、鎌倉幕府創設という夫の偉業を支えてきました。そして頼朝亡き後も頼朝が創設した幕府を守るべく、裏方として幕府運営を支えてきた北条政子ですから、やはりその言葉には特別な重みがあります。

 

 

天皇の母のことを国母と言うことがありますが、北条政子は「鎌倉幕府の母」とも言える特別な存在だったんですね。そりゃ、名演説になりますよね!

北条政子、最後の活躍

承久の乱で勝利した鎌倉幕府でしたが、実はその3年後の1224年、幕府の実質的最高権力者だった北条義時が亡くなり、幕府内で後継者問題が勃発しました。鎌倉時代はとにかく争いの絶えない時代だったんです。

 

 

北条義時の息子で実力もあった北条泰時(ほうじょうやすとき)が後継者候補でしたが、これに義時の後妻である伊賀の方(いがのかた)が反対し、伊賀の方子である北条政村(ほうじょうまさむら)の擁立を画策します。北条政村は自らの意思というよりも伊賀の方に担ぎ出された感じ。

 

北条政村が後継者になってしまえば、政治的には伊賀一族が圧倒的影響力を持つようになるわけで、北条氏としてはこれを断固阻止しなければなりません。先ほどの北条時政と牧の方の騒動と同じ話です。

 

 

牧の方騒動の際は、義時と政子が協力して父を失脚させましたが、その義時はもういません。ここで北条政子の人生最後の一仕事が始まります。

 

 

北条政子は、伊賀氏と共に不穏な動きを見せていた三浦氏に接近し、三浦氏を懐柔。三浦氏に梯子を外された伊賀氏は、何もできないまま伊豆へ流され、伊賀氏のクーデター作戦は未然に潰されてしまいます。

 

 

そして北条政子の希望どおり、北条泰時が義時の後継者となり、その翌年の1225年、北条政子はこの世を去ります。最後の最後まで鎌倉幕府、そして北条家のことを縁の下から守り続けた生涯でした。

北条政子の人物像

北条政子は、幕府創設を頼朝のそばで支え、政争で何かと争いの絶えなかった鎌倉幕府で、時政・義時を最高権力者にまで引き上げることに尽力し、最後は伊賀氏のクーデターを潰し、北条泰時に後を託して亡くなっていきました。

 

 

その時々の政策は、源頼朝とか北条義時の名前で行われるので北条政子の名前は直接登場しません。しかしながら、御家人同士の争いが絶えない不安定な鎌倉幕府の運営を支え続けた偉大な功労者の1人であることは間違いありません。

 

 

また、ここまでの話でお察しかもしれませんが、北条政子ってかなり破天荒な性格でした。自分の意思はどんなことがあっても曲げないし、行動力もあることは、前半部分で話した政子の恋物語からもわかります。一方で、静御前を救った時のような女性らしさ・母性みたいなものも持ち合わせています。

 

 

この行動力と母性こそが北条政子の魅力であり、承久の乱の際に名演説で皆の心を大きく動かせた要因でしょう。おそらく人望のあって、先ほど述べたような「鎌倉幕府の潤滑油」として人間関係をとり持つ才能もあったんだろうと思う。

 

 

また、あまりに政治に介入することが多いことから「無駄に政治に口出しする悪女」って話があったり、頼朝の浮気相手に異常な嫉妬心を持っていたことから「嫉妬深い嫌な女」みたいな言い方をされることもあったりします。

 

 

さらに、当時は女性としてここまで堂々と活躍した人物も少ないことから、その点を評価する声もあるようです。

 

 

長所と短所は紙一重。北条政子の評価は様々ですが、どれが間違いとかはなくて、感じ方は人それぞれです。自分の思う北条政子像みたいなものを探してみるのも面白いかと思います。

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