

今回は永仁の徳政令について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜ借金帳消し令が逆効果になっちゃったのか、一緒に見ていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
永仁の徳政令は御家人を救った——そう思われていますが、実は発令からわずか1年で主要な内容が廃止になるほどの大失敗に終わった政策です。なぜ幕府の救済策は逆効果になってしまったのでしょうか?
また「応仁の徳政令」と混同している方もいますが、それは別物です。この記事では「永仁(1297年)」の徳政令について、背景・内容・結果まで一気に解説します。
永仁の徳政令とは?わかりやすく3行でまとめると
① 1297年、9代執権・北条貞時が発令した日本初の本格的な徳政令。
② 困窮した御家人を救うため、土地の売買・質入れを禁じ、すでに失った土地を無償で返させる内容だった。
③ しかし発令の翌1298年に主要条項が廃止され、結果的に御家人の信頼を失わせ鎌倉幕府滅亡の伏線になった。

永仁の徳政令とは、1297年(永仁5年)に鎌倉幕府が発令した、御家人の借金や失った土地の問題を解消するための法令のことです。当時の最高権力者である9代執権・北条貞時が中心となって出されました。
「徳政」というのは、もともと「徳のある政治」を意味する言葉です。鎌倉時代以降は借金を帳消しにする政策を指すようになりました。永仁の徳政令はその先駆けで、後の室町時代の徳政一揆にも大きな影響を与えています。
「永仁(えいにん)」は鎌倉時代の元号(年号)の1つ。1293年〜1299年の約6年間を指します。徳政令が出された1297年はこの「永仁5年」にあたるため、「永仁の徳政令」と呼ばれているんですね。

あれ、桃鉄の「徳政令カード」ってこれが元ネタなの?

そうそう!桃鉄の徳政令カードは、まさにこの「借金を帳消しにする」って発想がベース。実はゲームより700年以上前から日本にあった政策なんだよ。次の章では、なぜ幕府がこんな大胆な政策を打ち出すことになったのか、その背景を見ていこう。
鎌倉幕府はなぜ永仁の徳政令を発布することになったのか?
永仁の徳政令が出された一番の理由は、御家人たちが深刻な経済難に陥っていたからです。御家人というのは、鎌倉幕府の将軍と主従関係を結んだ武士のこと。御恩と奉公の体制を支える、いわば幕府の屋台骨でした。
しかし鎌倉時代の中期以降、御家人の生活はじわじわと悪化していきます。困窮の理由は大きく3つに整理できます。
御家人困窮の3つの原因
① 分割相続による所領の縮小
② 元寇後の恩賞不足
③ 貨幣経済の波に飲み込まれたこと

この3つの問題が同時にやってきたから、御家人はもうボロボロ状態。順番に見ていこう!
■分割相続と所領の縮小
鎌倉時代の武士の家では、分割相続が一般的でした。これは、親の所領を子どもたちで分け合って相続する仕組みのことです。
たとえば、ある御家人が3人の子どもに土地を分け、その子どもがまた3人ずつに分けたとします。たった2世代で所領は9分の1にまで縮んでしまうのです。
世代を重ねるたびに、御家人1人あたりの土地はどんどん小さくなっていきました。結果、収入が減り、生活が苦しくなる御家人が続出することになります。

なんで御家人はそんなに借金してたの?

所領が狭くなると収入も減るからね。武士は普段から武具や馬を揃えなきゃいけないし、儀式や行事の出費も多かった。だから借金に頼る御家人が増えちゃったんだよ。
■元寇後の恩賞不足(防衛戦ゆえ加増なし)

1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の2度にわたって、日本は元寇と呼ばれるモンゴル軍の襲来を受けました。御家人たちは九州沿岸で命がけの防衛戦を戦い、暴風雨の助けもあって辛うじてこれを撃退します。
ところが、ここで大きな問題が起きました。元寇は防衛戦だったため、勝っても新しい領土が手に入らなかったのです。幕府は御家人に与えるための土地が確保できず、十分な恩賞(褒美)を出せませんでした。
御家人にとっては、自費で武具・兵糧・人員をそろえて命を懸けて戦ったのに、もらえたのは少しの土地や太刀だけ。なかには「九州から鎌倉まで自分で申請に行ってようやくわずかな恩賞をもらった」というケースもありました。元寇での奮戦を絵師に記録させた竹崎季長の姿が『蒙古襲来絵詞』に残っていますが、彼が得た恩賞は費やした出費をとても補えるほどではなかったとされています。
鎌倉幕府を支えた将軍と御家人の関係のこと。将軍が御家人に土地を与える(御恩)かわりに、御家人は将軍のために命を懸けて戦う(奉公)という双務契約です。元寇のように防衛戦で領地が増えないと、御恩の原資がなくなり、この関係そのものが崩れていくことになります。
■貨幣経済の波に飲み込まれた御家人
3つ目の問題が、急速に広がった貨幣経済です。鎌倉時代の中期になると、中国(宋・元)から大量の銅銭が輸入され、農村にも貨幣が広く流通するようになりました。
市場で物を売り買いするのが当たり前になり、御家人も貨幣で買い物をするようになります。ところが武士の収入の中心は、相変わらず土地から取れる年貢(米)でした。米を売って現金に換える際に、商人や金貸しに不利な条件を押し付けられることも多かったのです。
その結果、御家人は土倉(質屋・金貸し業者)から借金をし、土地を担保に入れて返せずに失ってしまう、というケースが続出しました。
永仁の徳政令の内容は?3か条をわかりやすく解説
永仁の徳政令は、1297年3月(旧暦)に幕府から発布されました。条文の数え方には諸説ありますが、教科書ではおおむね「3か条」として整理されています。それぞれ現代語でわかりやすく見ていきましょう。

御家人を守るため、今こそ徳政令を出す!失った土地は取り戻し、もう二度と手放させぬ。これで幕府の屋台骨は安泰だ……。
■第1条:越訴の停止
第1条は、越訴の停止です。「越訴」とは、一度判決が出た訴訟について上級の機関にもう一度訴え出る、いまでいう再審制度のようなものです。鎌倉幕府ではこれを認めていましたが、訴訟が長引いて裁判所がパンク状態になっていました。

越訴ってなに?なんで禁止したの?

越訴っていうのは、今でいう「上級審への再審申し立て」みたいなもの。鎌倉幕府は引付衆っていう裁判担当を作って訴訟をさばいてたんだけど、御家人が何度も訴え直すから裁判所がパンクしちゃった。だから「もう一回はナシ!」と禁止したんだよ。
■第2条:御家人の土地売買・質入れの禁止
第2条(前半)は、今後、御家人が所領を売ったり、質に入れたりすることを原則禁止するというものです。御家人がこれ以上土地を失うのを止めるための条文でした。
当時の御家人にとって、所領は単なる財産ではなく「奉公の根拠」でした。土地を失えば軍役を果たせず、御家人としての地位そのものが揺らいでしまいます。幕府としては、御家人の数を維持するためにも土地の流出を止める必要があったのです。
■第2条(後半):売却・質流れ土地の無償返還
第2条(後半)は、これまで御家人が売り渡したり質流れになった土地を、買い主・債権者から無償で返還させるというものです。永仁の徳政令の中で最も画期的(かつ過激)な条文といえます。
ただし、いくつかの条件もありました。一般に教えられている内容としては、次のようなものです。
第2条(後半)のおもな条件
・売却から20年以上経った土地は返還の対象外
・買い主が御家人の場合は返還の対象外
・非御家人や一般庶民が買った土地は無償で返還

幕府ってそんなに土地が大事だったの?今の感覚だとちょっとびっくり……。

当時の御家人にとって、土地は今でいう「会社の株」みたいなもの。土地を持ってるからこそ将軍に仕える資格があったんだ。だから幕府は、御家人から土地が流れ出るのを必死で止めようとしたんだよ。
■第3条:金銭訴訟の停止
第3条は、金銭の貸し借りに関する訴訟の受け付け停止です。土倉などの貸し主が「返してくれ」と訴え出るのを認めないという意味で、借金トラブルそのものを裁判所のレベルで遮断してしまおうという、かなり思い切った内容でした。

3か条を合わせると「裁判もダメ・売るのもダメ・取り返される」という、金貸しにとって最悪の条件が揃ったんだ。次の章では、この3か条がなぜ大失敗に終わったのか、その理由を見ていこう。
永仁の徳政令はなぜ失敗したのか?逆効果になった3つの理由
永仁の徳政令は、御家人を救うどころかかえって御家人を追い詰める結果になりました。多くの教科書でも「失敗だった」とされる政策です。なぜここまで裏目に出てしまったのか、3つの理由を見ていきましょう。
永仁の徳政令が失敗した3つの理由
① 土倉が御家人への融資を一気にストップした
② 対象が御家人だけで、他の人々には逆効果になった
③ わずか1年で主要条項が廃止され、信頼を失った
■理由①:土倉が御家人への融資をストップした
1つ目の理由は、金貸しである土倉が御家人への新規融資を停止してしまったことです。
第2条で「すでに貸した分は無償で返せ」と言われた土倉や買主は、当然「もう御家人には貸せない」と判断します。第3条で借金の訴訟も受け付けてもらえなくなった以上(第1条の越訴停止も加わり)、貸し倒れになったときに泣き寝入りするしかないからです。
その結果、御家人は新たな借金ができなくなりました。困窮した御家人にとって、いざという時の資金源を完全に断たれた状態です。救済どころか、御家人はかえって生活が苦しくなったといえます。
■理由②:対象が御家人のみで、世の中全体が混乱した
2つ目の理由は、徳政令の恩恵を受けられるのが御家人だけだったことです。
当時、御家人以外にも非御家人の武士・地方の地頭・荘園の関係者など、さまざまな立場の人々が土地の売買や金融取引をしていました。しかし徳政令は御家人を救うことだけが目的だったため、他の人々にはむしろ大きな迷惑になりました。
「ある日突然、買ったはずの土地を返せと言われる」「貸した金が踏み倒される」——こうした不安が広がり、社会全体の取引が一気に冷え込みます。結果として幕府への不満が御家人以外からも噴出することになりました。

これって今でいうと、特定の業界だけ借金チャラにするみたいな政策?確かにみんなブチギレそう……。

そうそう、まさにそんなイメージ!特定の身分を露骨に優遇したから、社会全体の経済が止まっちゃったんだ。借金を帳消しにする政策って、聞こえはいいけど副作用がすごく大きいんだよね。
■理由③:わずか1年で主要条項が廃止された
3つ目の理由が、翌1298年(永仁6年)に主要条項が次々と廃止されてしまったことです。
1298年2月、越訴停止(第1条)・金銭訴訟停止(第3条)・売買禁止(第2条前半)は、社会的な混乱が大きすぎたため、幕府自ら廃止しました。一方、「無償返還」(第2条後半)は廃止されず、むしろ幕府によって改めて確認・存続しました。それでも越訴停止・売買禁止・訴訟停止という3つの目玉が撤回されたことで、事実上、永仁の徳政令の屋台骨はわずか1年で崩れてしまったのです。
無償返還の規定は残されたとはいえ、御家人からすれば「幕府は結局、味方なのか敵なのか分からない」状態です。越訴も訴訟も再び認められ、せっかくの救済策が骨抜きになった形で、幕府への信頼そのものが揺らぎ始めたのが、この時期だといえます。
廃止の知らせを受けた御家人たちは、「幕府に見捨てられた」という強い失望感を抱いたといわれています。この不信感は、のちに後醍醐天皇の倒幕運動に多くの御家人が合流する伏線の一つになりました。

御家人を救うはずが、まさかの大混乱……。ヤベェ……。早急に取り消して、なんとか体面を保たねば……。
永仁の徳政令の歴史的意義——鎌倉幕府滅亡への伏線

永仁の徳政令は短期的には失敗でしたが、歴史的にはとても大きな意味を持つ政策です。とくに重要なのは、鎌倉幕府の屋台骨である御恩と奉公の関係に深い亀裂を入れた点です。
御家人にとって幕府は本来、自分たちを守ってくれる存在でした。しかし徳政令が結果的に裏目に出て、しかも翌年あっさり主要条項が廃止されたことで、「幕府はもう自分たちを守ってくれない」と感じる御家人が増えていきます。
同じ頃、幕府の内部では北条氏の本家である得宗に権力が集中する得宗専制が進み、1285年の霜月騒動で有力御家人が粛清されたことで、御家人の発言権はどんどん弱くなっていました。永仁の徳政令の失敗は、こうした御家人の幕府離れに拍車をかける出来事だったのです。
その後、1333年に鎌倉幕府は後醍醐天皇と御家人出身の足利尊氏・新田義貞らによって滅ぼされます。その背景には、永仁の徳政令以来くすぶり続けた御家人の不満がありました。
📌 豆知識:永仁の徳政令と「徳政一揆」
永仁の徳政令は「上から下に」出された徳政令ですが、室町時代になると農民や馬借が借金帳消しを求めて起こす徳政一揆が頻発します。1428年の正長の土一揆はその代表例。永仁の徳政令は、こうした「徳政=借金帳消し」という発想を社会に広めたきっかけだったとも言えます。

徳政令って、その後の時代にも何度も出てきたの?

うん、室町幕府も江戸幕府も、お金に困った人たちを救うために何度も徳政令を出してるよ。でも「権力者が一方的に借金をチャラにする」という発想を最初に大規模にやったのが、まさに永仁の徳政令なんだ。次の章では、ここまでの内容をテスト向けにギュッとまとめておくね。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「1297年(一に泣くな御家人)・北条貞時・3か条・1年で廃止」を1セットで覚える。「永仁=鎌倉時代・1297年」、「応仁=室町時代・1467年(応仁の乱)」と元号でセットを分けて整理しよう。

結局、テストで一番大事なのってどこ?

「1297年・北条貞時・御家人救済が目的だったけど逆効果」、この3点セットを答えられれば中学・高校どちらでもまず大丈夫!記述式なら「元寇後の御家人の困窮を救うため」と「土倉が融資を止めて逆効果になった」を一言ずつ書けると満点だよ。次の章では、よく聞かれる質問をQ&A形式でまとめておくね。
よくある質問(FAQ)
1297年(永仁5年)に9代執権・北条貞時を中心とする鎌倉幕府が出した、御家人救済のための法令です。御家人の土地売買や質入れを禁じ、すでに失った土地を無償で返還させるなど、借金や所領問題を解消するための内容でした。
鎌倉時代の御家人が、①分割相続による所領の縮小、②元寇後の恩賞不足、③貨幣経済の浸透という3つの理由で深刻な経済難に陥っていたためです。幕府はこのままでは御恩と奉公の関係が崩れると考え、御家人を救うために徳政令を発令しました。
①越訴(再審)の停止(第1条)、②御家人の土地売買禁止および過去の売却地の無償返還(第2条)、③金銭をめぐる債権債務訴訟の停止(第3条)、の3つです。とくに②の無償返還は当時の社会に大きな衝撃を与えました。
大きく3つの理由があります。①土倉などの金貸しが御家人への融資を止めたため、御家人がかえって困窮した、②対象が御家人のみだったため非御家人や商人の反発を招いた、③発令の翌1298年2月に越訴停止・売買禁止・訴訟停止などの主要条項が廃止され(無償返還は存続)、幕府への信頼が揺らいだ、という3点です。
1297年(永仁5年)、鎌倉幕府の9代執権・北条貞時を中心とする幕府によって発令されました。直接の起草者については諸説ありますが、当時の最高権力者が北条貞時であったため、一般に「北条貞時が出した徳政令」として説明されます。
別物です。「永仁(えいにん)」は鎌倉時代の元号で1293〜1299年、徳政令は1297年に出されました。一方「応仁(おうにん)」は室町時代の元号で1467〜1469年、有名なのは1467年の応仁の乱です。なお「応仁の徳政令」という正式な法令はなく、検索ではしばしば「永仁の徳政令」の誤入力として現れます。
まとめ:永仁の徳政令は「善意が裏目に出た」歴史の教訓

以上、永仁の徳政令のまとめでした。鎌倉幕府の悩みや、御家人と土地の関係がイメージできたかな?下の記事で鎌倉時代の他のトピックもあわせて読んでみてください!
永仁の徳政令の理解を深めるおすすめ本

永仁の徳政令や鎌倉時代についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
- 1185年頃鎌倉幕府成立・御恩と奉公の体制が確立する
- 1274年・1281年元寇(文永の役・弘安の役)。御家人は防衛戦に動員されるが、新たな領地が手に入らず恩賞不足に
- 13世紀後半分割相続・貨幣経済の普及で御家人の困窮が深刻化する
- 1297年9代執権・北条貞時のもとで永仁の徳政令が発令される(3か条)
- 1298年越訴停止・売買禁止・金銭訴訟停止が廃止される(無償返還規定は存続)。事実上の失敗となる
- 1333年鎌倉幕府が滅亡。御家人の幕府離れが進んだ結果でもあった
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「永仁の徳政令」(2026年5月確認)
コトバンク「永仁の徳政令」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
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