誰でもわかる大宝律令!簡単にわかりやすく【内容や制定理由など】

今回は701年に制定された日本初の本格的な法律である大宝律令(たいほうりつりょう)について紹介しようと思います。

 

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大宝律令はなぜ有名なのか

最初に疑問に思うのが大宝律令がなぜ教科書に載るほど有名なのか?という点。現代の我々は法治国家に住んでいるので、法律が新たに制定される凄さって実感しにくいですが、法律って人々を強制するルールの一種です。法律は強制力ですから、まさに国家権力の象徴。

 

社会や組織のルール、さらにはそれを破った場合の刑法なども当時の最高権力者だった天皇によって定めてしまったわけですから、大宝律令ってまさに天皇権力そのものなわけです。

 

以下の飛鳥時代のまとめ記事を読んでいただければわかりますが、飛鳥時代は外交の不安定化などの理由から、日本を天皇を中心とした強国にしようと必死だった時代。明治維新の王政復古の頃によく似ています。

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そんな時代の流れの中、天皇主権国家樹立の1つ形が大宝律令だったわけです。新たな国政の立ち上げの象徴となるのが天皇権力に基づいて制定された法律「大宝律令」ですから、歴史的には超重要な出来事だったんです。

大宝律令制定の理由・背景は?

天皇権力によって強制力を持った法律を制定しようと本格的に動き出したのは、壬申の乱の勝者で有名な天武天皇(てんむてんのう)。681年から法律制定作業が始まりました。既に紹介したように、飛鳥時代から続く天皇主権国家の樹立を目的に制定されたのが大宝律令です。

 

 

0から法律の内容を考えたわけではなくて、唐の法律を参考に制定作業が進められました。それでも、翻訳作業や日本仕様に改変すべき箇所を検討するのは大変な作業だったことは容易に想像できます。

 

 

大宝律令が制定されるまでには、ちょっとした歴史もあって、681年に開始された法律制定作業ですが、実は天武天皇が亡くなった後の689年に「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」という形で前身となる法律が作られました。

 

ただ、飛鳥浄御原令は試作段階の法律であり、法律に強制力を持たせるために絶対必要となる刑法部分が整備されていませんでした。飛鳥浄御原令が制定された後も、朝廷内では引き続き法律制定作業が進められます。

 

 

この時に大活躍したのが、藤原氏の祖と言われることもある藤原不比等(ふじわらのふひと)という人物でした。

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藤原不比等は大宝律令制定作業を通じてその才を発揮し、朝廷内での評価も高く、持統天皇からも非常に気に入られていました。全てが大宝律令のおかげという訳でもありませんが、大宝律令のおかげで藤原不比等は藤原氏として確固たる地位を築き上げました。詳細は上の記事をどうぞ!

 

大宝律令の内容は?

大宝律令の内容は大きく「律」と「令」に別れています。

 

「律」は今で言う刑法です。飛鳥浄御原令に刑法がないのは、飛鳥浄御原「令」であり律が抜けているから。

 

「律」の内容とは

律は唐の制度を、そのまま日本にも導入する形で制定され、主に次の5つの刑罰が定められました。

  • 笞罪(ちざい):鞭で叩く
  • 杖罪(じょうざい):杖で叩く
  • 徒罪(ずざい):拘禁し強制労働
  • 流罪(るざい):田舎へ飛ばす
  • 死罪(しざい):命を奪う

 

こんな感じ。

 

ただ、死罪に関しては平安時代になると形骸化し、平安時代末期の保元の乱という戦までの間、実質的に死刑制度は廃止されます。

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「令」の内容とは

令とは、今でいう行政法の集まりのこと。行政法とは、行政組織の在り方とか行政が権力を行使するまでの手続などついて定めた法律です。

 

大宝律令によって日本の官僚組織図が定められ、天皇主権の国体の骨格が組まれた形です。大宝律令に定められた官僚組織は二官八省と呼ばれ、

 

二官とは、

  • 神祇官
  • 太政官

 

そして太政官の下に8つの省がぶら下がります。

  • 中務省
  • 式部省
  • 治部省
  • 民部省
  • 大蔵省
  • 刑部省
  • 宮内省
  • 兵部省

 

これは、今から1,300年も前の官僚組織ですが、明治時代の王政復古により大宝律令によって定められたこの官僚組織は改めて復活することとなり、現在の省庁の原型にもなっています。

 

組織編成に関する規定の他にも、行政手続や各種儀式、軍事・税制・財政など多岐にわたる法律が令には含まれています。

 

 

大宝律令に関してもう1つ誤解しやすい点は、当時の日本は民主主義じゃない点です。法律の制定や改正に民意を問う必要はなく、最終的に天皇の一存で法律を変えることもできました。

 

そーゆー意味でも、大宝律令はまさに天皇主権を象徴するものなんです。

大宝律令と養老律令

さて、法律とは制定して「はいおしまい!」という類のものではありません。時代の流れに合わせて常にメンテナンスが必要です。

 

 

701年に大宝律令が制定された後も、引き続き藤原不比等らを中心に法律整備が進められ、720年に藤原不比等が亡くなると、法律整備は一旦中止となってしまいます。藤原不比等の存在が当時の日本の法律制定において以下に重要だったかがわかります。

 

 

その後約35年ほどのブランクを経て、不比等の孫にあたる藤原仲麻呂によって法律整備が遂に完了します。こうして新しくなった法律群のことを養老律令(ようろうりつりょう)と言います。757年に制定されました。

 

養老律令制定以後は大規模な法律改正は行われず、格(きゃく)という改正法による軽微な法律改正と法律の細かな運用方法を規定する式(しき)という規定を整理することが主流となっていきます。

 

平安時代中期以降になると養老律令は形骸化。格式の整備も行われなくなり、有職故実(ゆうそくこじつ)と言って法律だけじゃなくて前例を重んじる政治へとシフトしていきます。養老律令自体はずーっと存続したので、時には法律を、時には前例を参考にしながら平安時代以降の政治が進められました。悪く言えば、法律が軽んじられるようになったわけです。

 

701年に制定された大宝律令は757年に大改訂が行われ、養老律令として生まれ変わります。その後は、有職故実が重んじられたり、鎌倉時代以降は武家による法律が制定されたりで養老律令は形骸化するものの、形だけなら明治維新の時代まで養老律令は生きていました。

 

1000年以上続いた法律の初代が大宝律令と考えると、ちょっと胸熱ですよね。

 

令外官と大宝律令

最後に重要な余談を1つ。

 

日本の官僚制度には、令外官(りょうげのかん)と言う制度があります。令外官とは、大宝律令(757年以降は養老律令)によって定められた役職とは別に必要に応じて設けられた例外的な役職と言います。

 

令の外で定められる官僚ということで令外官です。

 

令外官として様々な役職が創設されましたが、本来例外であるべき令外官は時代が進むにつれ常設の役職へと変貌し、さらに超重要な役職を占めるようになります。

 

例えば・・・、平安時代に藤原氏が担うようになった摂政・関白。

 

坂上田村麻呂や源頼朝がなった征夷大将軍。

 

などなど、実は例外と言いつつも超重要な役職は令外官が結構多いんです。

 

大宝律令に規定されている役職と平安時代以降に登場する有名な役職がバラバラだったりするのは令外官のせいであり、この辺の事情も大宝律令の内容をわかりにくくしている一因であるように思います。

 

大宝律令まとめ

以上、大宝律令について整理してみました。

 

日本の律令は平安時代になると形骸化してしまったり、令外官がたくさん創設されてしまったりと、どうもその姿が捉えにくいのですが、少なくとも奈良時代は律令はしっかりと機能していました。

 

しかし、平安時代になると墾田永年私財法の影響などによって公地公民制が崩壊。地方統治をしきれなくなった朝廷は地方統治を地方に丸投げ。こうした時代の流れの中で、律令の整備も疎かとなり、次第に律令は形骸化してしまいました。

 

法の歴史は、国の歴史そのものです。専門家じゃないので偉そうなことは言えないのですが、法の歴史っていうのはとても興味深いなと思いました。

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