

今回は、日本史の超重要テーマ「大宝律令(たいほうりつりょう)」について、誰が作ったか・内容・なぜ作られたか、をわかりやすく丁寧に解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
「大宝律令ってテストに出るけど、なんか難しそう…」そう思っていませんか?
実は、大宝律令はただの法律ではありません。701年の日本が「唐に飲み込まれないために」、国家の生き残りをかけて作り上げた法典だったのです。
その背景には、白村江の戦いの衝撃と、朝鮮半島から迫る緊張がありました。難しそうに見える律令制も、「なぜ必要だったか」を知ると一気に頭に入ってきます。一緒に見ていきましょう。
大宝律令とは?
- 701年(大宝元年)に制定された、日本初の本格的な律令(法律の体系)
- 刑部親王・藤原不比等らが文武天皇の命を受けて編纂した
- 律(刑法)と令(行政法)を整備し、天皇中心の中央集権国家の基盤を築いた
大宝律令とは、701年(大宝元年)に完成した日本初の本格的な法典のことです。「律」は今でいう刑法、「令」は行政法にあたり、この2つをセットにして国家を運営するルールが体系的にまとめられました。
それまでの日本にも飛鳥浄御原令などの前段階の法典はありましたが、「律」と「令」がセットで揃った法典は、大宝律令が初めてです。

律令って、今でいう何に当たるの?

ザックリ言うと、律令は「刑法+行政法をセットにした国家の法律集」のことだよ!今の日本でいうと「六法全書」みたいなイメージに近いね。「悪いことしたらこの罰」「役所の組織はこう作る」っていうルールをまとめて1冊にした感じ◎
大宝律令は、当時の中国大陸の超大国・唐(とう)の律令を参考にしつつ、日本の事情に合わせて独自にアレンジされたものです。「日本」という国号と「天皇」という称号もこの大宝律令で公式に位置づけられたとされ、まさに日本という国家のスタートラインとなった法典なのです。
大宝律令はなぜ作られた?制定の背景と理由
大宝律令が作られた最大の理由は、ズバリ「外国の脅威から日本を守るため」でした。
663年、日本は朝鮮半島の百済を救うため白村江の戦いに大軍を送りますが、唐と新羅の連合軍に大敗してしまいます。当時の唐は世界帝国で、日本の隣にいる超大国。日本にとっては「次は自分が攻め込まれるかも…」という強烈な恐怖が走ったのです。

律令がなかった頃の問題点:各地の豪族が独自に税を取り、中央の命令が地方まで届かない
このままでは、唐や新羅と渡り合える「強い国」にはなれません。各地の豪族がバラバラに動いている状態では、いざ戦いになっても国としてまとまることができないのです。そこで日本は、唐をモデルにした天皇中心の中央集権国家づくりへと舵を切りました。
その第一歩が、672年の壬申の乱で勝利した天武天皇による律令整備です。天武天皇は「飛鳥浄御原令」(689年施行)の編纂を進め、その流れを受け継いだのが文武天皇でした。
そして701年、ついに律と令が揃った本格的な法典「大宝律令」が完成します。同じ年に「大宝」という元号も制定されました。「大宝」以降、元号が途切れることなく使い続けられるようになったため、大宝は元号制度が日本に定着するきっかけとなった元号といえます。

大宝律令は唐の律令を参考にしてるけど、ただの「丸パクリ」じゃないんだ。日本には日本の事情(神祇官の存在・氏族のしきたり・土地の広さ)があるから、それに合わせてアレンジしてるよ。今でいうと「海外の最先端の制度を取り入れつつ、日本独自に改良した」感じだね◎
誰が作った?藤原不比等と文武天皇の役割
大宝律令の編纂を命じたのは文武天皇、実際にまとめ上げたのは刑部親王と藤原不比等を中心とした約19名の官人グループでした。

文武天皇は、697年に15歳で即位した若き天皇です。祖母である持統天皇から皇位を譲り受け、まず取り組んだのがこの大宝律令の編纂でした。

刑部親王よ、不比等よ。日本のための法律を作り上げてくれ。唐に負けない国家の柱を、わたしの代で築き上げるのだ。
編纂の総裁を務めたのが刑部親王(天武天皇の皇子)、そして実質的なリーダーとして令の編纂を主導したのが藤原不比等でした。
藤原不比等は、大化の改新で活躍した中臣鎌足の息子です。父の代から天皇家と深い関係を持ち、律令制の整備を一貫してリードした、まさに「奈良時代の設計者」とも呼べる人物。後に紹介する養老律令(718年)の編纂もこの不比等が中心となって進めます。

この律令がなければ、日本は唐の支配下に飲み込まれていたかもしれぬ。わしらが命を懸けて作り上げたこの法典こそが、日本という国の骨格よ。
編纂は大宝元年(701年)8月に完成し、同年中に施行されました。律6巻・令11巻の合計17巻という大作で、これが日本という国家の運営マニュアルとして本格運用されていくことになります。
藤原不比等はその後、718年に「養老律令」の編纂にも関わります。大宝律令を土台に、さらにブラッシュアップしたものです(詳しくは後半で解説します)。
さらに注目したいのが、藤原不比等の政治的したたかさです。律令編纂を主導した不比等は、法整備だけにとどまりません。大宝律令の施行直後、不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人として入内させます。二人の間に生まれた子が、後の聖武天皇です。律令で国の骨格を作りながら、同時に天皇家と血縁で結びつく――不比等の戦略は、法律の世界だけで終わりませんでした。これにより藤原氏は、奈良時代を通じて政治の中枢に座り続けることになります。

大宝律令の内容とは?律と令の違いを解説
大宝律令は、その名の通り「律」と「令」の2部構成になっています。それぞれの役割をまずはおさえておきましょう。
律=律。今でいう刑法。「悪いことをしたらこの罰」を定めるルール
令=令。今でいう行政法。役所の組織・税金・身分・土地のルールなど国家運営の中身を定める

律令制って、国の仕組みをどう変えたのかしら?

大きく分けて3つだよ!①中央の役所を「二官八省」というカッチリした組織にした、②地方は「国→郡→里」のピラミッドで支配、③税金や兵役のルールを統一して、農民から直接国にお金(税)が入る仕組みにしたんだ。これで初めて、天皇がトップの中央集権国家ができたんだよ◎
令の中心となったのが、中央の役所組織二官八省制です。
令の中心:二官八省制 神祇官・太政官(→八省)で国政を運営。各省には四等官(長官・次官・判官・主典)を配置
「二官」は神祇官(神々の祭祀を司る)と太政官(実際の政治を司る)。「八省」は太政官の下にぶら下がる8つの行政組織で、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の8つで構成されていました。
地方は「国→郡→里」のピラミッド構造。中央から派遣された国司が国を治め、その下で地元の有力豪族が郡司として現場を取り仕切る。さらにその下に里長が置かれ、農民を末端まで管理する仕組みが整えられました。
■租庸調:税の仕組み
大宝律令で整えられた税制度の代表が、有名な租庸調です。これに加えて雑徭と呼ばれる労役もあり、当時の農民にはなかなか重い負担となっていました。
租:稲(収穫の約3%)を地方の役所に納める / 庸:労役の代わりに布などを都に納める / 調:地方の特産物(絹・糸・海産物など)を都に納める
「租」はその土地で取れた稲の一部を納める税。今でいうと固定資産税のイメージに近いです。「庸」はもともと年に10日間の労役を意味し、その代わりに布を納めるかたちが一般化しました。「調」は地方ごとの特産品を都に運んで納める税で、これによって都には全国の物産が集まるようになりました。
これら租庸調は、主に成年男子(正丁・しょうてい)に課せられました。さらに「雑徭」と呼ばれる地方での労役(土木工事など、年60日以内)もあり、農民の負担は決して軽いものではありませんでした。
当時の税制については、次に記事で詳しく解説しています。
■兵役(防人・衛士)と身分制度
租庸調と並んで重い負担だったのが、兵役です。大宝律令では成年男子の一部に対し、防人や衛士といった兵役が課されていました。
防人は北九州の沿岸を守る兵役で、唐や新羅からの侵攻に備えるための最前線の任務です。衛士は都を警護する兵役で、こちらは1年間都に詰めるものでした。

防人って、どれくらい大変だったの?

めちゃくちゃキツイよ…。任期は3年だけど、東国(関東)から徴発された人が北九州まで派遣されることが多くて、しかも食料も装備も自腹。現代でいえば、関東から九州まで転勤を命じられて、引越し費用も生活費も全部自分持ちで3年間勤務するイメージ。家族と離ればなれだから、防人の悲しみを詠んだ歌がたくさん残っているんだ。
「韓衣 裾に取り付き 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母なしにして」
― 丸子連多麻呂(万葉集 巻20・4401番)
「裾にすがりついて泣く子供たちを残して出発してきた。母親のいないわが子を置いてきてしまった…。」
東国(関東)から九州まで徴発された防人が詠んだ歌です。万葉集巻20には、こうした家族との別れを嘆く防人歌が多数残っており、律令制下の民の悲哀を今に伝えています。
防人については、次の記事で詳しく解説しています。
身分制度も整備されました。人々は大きく良民と賎民に分けられ、賎民はさらに「五色の賎」(陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢)と呼ばれる5種類に細分化されました。賎民は良民より社会的地位が低く扱われていましたが、人口比では1割未満で、社会の大多数は良民である農民でした。
養老律令との違いは?
大宝律令と並んでテストでよく出題されるのが、養老律令です。両者の違いをサクッとおさえておきましょう。
大宝律令(701年):日本初の本格律令。実際に施行された最初の律令
養老律令(718年編纂・757年施行):藤原不比等が大宝律令を修正・補完したもの。中身はほぼ同じ
養老律令は、藤原不比等が大宝律令を土台にしてバージョンアップした法典です。718年(養老2年)に編纂が完了したものの、施行されたのは39年後の757年。これは編纂を主導した不比等が720年に死去してしまい、施行のタイミングを孫の藤原仲麻呂が政権を握るまで待つことになったためです。
内容は大宝律令とほぼ同じで、用語の整理や細部の修正が中心。「中身は8〜9割そのままで、表現や手続きの一部をブラッシュアップした改訂版」と理解しておけばOKです。
そして大事なポイントが「現存状況の違い」。大宝律令は原本が現存せず、後の文献から内容を推測するしかありません。一方、養老律令の令の部分は令義解(833年成立の公式注釈書)として現代まで伝わっており、当時の律令の中身を知るための最も重要な史料となっています。

テストで混同しやすいから注意!701年=大宝律令、718年=養老律令、どっちも作ったのは藤原不比等。「日本初の本格律令」は大宝律令、「現代に内容が伝わってるのは」養老律令。このセットで覚えれば完璧だよ◎
大宝律令の歴史的意義と影響
大宝律令の歴史的意義は、ひと言でいえば「日本という国家のスタートラインを引いた法典」ということです。3つの観点からその意義を見てみましょう。
1つ目は、「日本」という国号と「天皇」という称号が公式に位置づけられたこと。それまでは「倭(わ)」と呼ばれることもあった国が、はっきりと「日本」という名前で世界に向けて自己規定する。それを実現したのが大宝律令です。今、私たちが当たり前に使っている「日本」「天皇」という言葉のルーツは、ここにあります。
2つ目は、天皇中心の中央集権国家の基盤を作ったこと。それまで各地の豪族が独自に支配していた土地と人民を、すべて天皇のもと(公地公民)に置き、二官八省・国郡里制・租庸調といった統一的な仕組みで運営する体制が完成しました。これによって日本は、唐・新羅と渡り合える「国家」として歩み始めます。
3つ目は、奈良・平安時代の国家運営の柱になったこと。大宝律令の体制は、その後200年以上にわたって日本の統治の基本形となり、班田収授・墾田永年私財法・摂関政治といった奈良・平安時代の主要な制度はすべてこの律令体制の上で展開されていきます。律令制は時代とともに少しずつ形を変えていきますが、その出発点は紛れもなく大宝律令でした。

大宝律令によって、日本は初めて法律に基づいて統治される国家となった。これがなければ、日本がまとまった国として存続することは難しかったであろう。
大宝律令・律令制の理解を深めるおすすめ本

律令制をもっと深く知りたい人に、とっておきの一冊を紹介するよ!
よくある質問(FAQ)
701年(大宝元年)に藤原不比等・刑部親王らが文武天皇の命を受けて制定した、日本初の本格的な律令(法律の体系)です。「律」は刑法、「令」は行政法にあたり、この律令によって天皇を中心とした中央集権国家の基盤が整えられました。
「たいほうりつりょう」と読みます。「大宝(たいほう)」は701年に制定された元号です。「律令(りつりょう)」は、律(刑法)と令(行政法)をまとめた法典のことを指します。
文武天皇の命により、刑部親王(おさかべしんのう)を総裁、藤原不比等(ふじわらのふひと)を実質的なリーダーとして、約19名の官人が編纂しました。藤原不比等は後の養老律令(718年)にも関わった律令制の中心人物です。
大宝律令(701年)は最初に施行された本格律令、養老律令(718年編纂・757年施行)は大宝律令を修正・補完したものです。内容はほぼ同じですが、大宝律令は原本が現存せず、養老律令の令の部分(「令義解」)が今日まで伝わっています。テストでは「最初の本格律令=大宝律令」と覚えましょう。
租庸調は「令」(行政法)の中に定められた税制度です。租は稲(収穫の約3%)、庸は労役の代わりに納める布、調は地方の特産物を都に納める税です。これら3種の税は主に成年男子に課せられ、農民の大きな負担となっていました。
大宝律令は「日本」という国号と「天皇」という称号を公式に位置づけた最初の法典とされており、日本が独立した国家として成立した画期的な出来事でした。また、二官八省制・租庸調・班田収授法など奈良時代の国家体制の基盤を作りました。律令制は平安時代まで約200年にわたり日本の統治の柱となり続けました。
まとめ
-
663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北
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672年壬申の乱。天武天皇が即位し、律令整備を本格化
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689年飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行
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697年文武天皇が即位。律令編纂を刑部親王・藤原不比等らに命じる
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701年大宝律令が完成・施行。「大宝」という元号も制定
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718年藤原不比等が養老律令を編纂(施行は757年)
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720年藤原不比等が死去
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757年養老律令が施行。大宝律令に代わる法体系として定着

以上、大宝律令のまとめでした!701年・藤原不比等・律と令の違い・租庸調、をセットで押さえておくと、奈良時代全体がわかりやすくなるよ。下の記事で奈良時代のほかのテーマもあわせて読んでみてね!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「大宝律令」(2026年5月確認)
コトバンク「大宝律令」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・改訂新版世界大百科事典)(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「藤原不比等」「文武天皇」「養老律令」「防人」「令義解」(2026年5月確認)
Historist(ヒストリスト)「大宝律令」(山川日本史小辞典)(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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