面白いほどわかる承久の乱!簡単にわかりやすく徹底解説【後鳥羽上皇VS鎌倉幕府】

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今回は1221年に起きた承久の乱じょうきゅうのらんについてわかりやすく解説します。

承久の乱の簡単な概要

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵した戦い。鎌倉幕府の勝利の終わる。

この記事では、以下の3点を中心に承久の乱について解説していきます。

  • なぜ後鳥羽上皇は鎌倉幕府に喧嘩を売ったの?
  • 承久の乱の経過はどんな感じだったの?
  • 承久の乱の歴史的意義って何?戦後はどうなったの?
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承久の乱が起こった背景とは?

後鳥羽天皇が鎌倉幕府に対して挙兵した理由は非常にシンプルで以下の理由によるものでした。

後鳥羽天皇が挙兵した理由

鎌倉幕府のせいで上皇や朝廷に入ってくる税金が減ってムカついたから

上皇や朝廷への税収が減ったのには、大きく2つ理由があります。

理由その1

地頭から朝廷への納税が次第に滞るようになった

地頭は、鎌倉幕府から選ばれた徴税請負人ちょうぜいうけおいにん。各地で税を徴収してそれを上皇や貴族などの荘園領主へ納めるのが仕事です。「多めに徴収した税金 ー 荘園領主に納める税金」の差額が地頭のお給料となり、これで一族の生活を支えていました。

地頭たちは自分たちの儲けを増やすために、次第に「荘園領主に納める税金」の部分を減らし始めました。

荘園領主たちは地頭の任命権を持っていた鎌倉幕府に猛抗議しますが、状況はほとんど改善されません。こうして上皇や貴族たちを筆頭とした荘園領主たちは不満を募らせるようになります。

理由その2

鎌倉幕府が信頼性抜群すぎて上皇へ荘園(土地)の寄進が減った。

当時は、「自分の土地を守るために、土地の名義を有力者の名前に変更して、第三者が簡単に手出しできないようにする」というのが流行っていました。

こうして有力者に大量に集まった土地(荘園)のことを寄進地系荘園きしんちけいしょうえんと言います。有力者は寄進を受けて土地を守る代わりに名義貸料を取っていたので、寄進地系荘園は貴重な財源となっていました。

そして、寄進先として当時最も人気があったのが後鳥羽上皇でした。しかし、鎌倉幕府ができると人々はこんなことを思うようになります。

実際に武力を持つ鎌倉幕府を頼った方が、自分の土地を守れるのでは・・・?

こうして、後鳥羽上皇や貴族たちは貴重な財源を鎌倉幕府に奪われることとなります。これが、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対してブチギレた理由です。

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後鳥羽天皇の倒幕計画

怒りの頂点に達した後鳥羽上皇は、1200年ごろから少しずつ幕府を倒す(倒幕)ための準備を始めます。

後鳥羽上皇の倒幕計画
  • 1200年頃
    西面武士の設置

    御所の警備強化という名目で、倒幕のための兵力を増強

  • 1207年
    幕府を呪詛するための最勝四天王院を建てる
  • 1211年
    順徳天皇即位

    温和だった土御門天皇を譲位させて、倒幕イケイケ派だった順徳天皇を即位させる。

    これ以外にも、周りの近臣たちを倒幕推進派で固めるようになる。

そして1219年、後鳥羽上皇が承久の乱を起こすきっかけとなる重大な事件が起こります。それが、三代目将軍源実朝の殺害事件です。

鎌倉幕府では幕臣たちの権力争いが絶えず、源実朝もその争いに巻き込まれ命を落としました。そこで鎌倉幕府は、幕臣たちが争いを起こす気も失せるような凄い人物を将軍に擁立したいと考えるようになります。

この時に、将軍の最有力候補として挙がったのが、後鳥羽上皇の息子でした。上皇の息子が将軍になれば、幕臣が将軍を殺めるような事件は起こらないだろうと考えたのです。

しかし、後鳥羽上皇はこれを拒否して、幕府に条件を突き付けます

後鳥羽上皇
後鳥羽上皇

私が指定する所領内の地頭を廃止してくれたら考えても良いぞ。

北条義時
北条義時

それは無理だ。逆らうなら京に軍を送り込むぞ。

後鳥羽上皇
後鳥羽上皇

武力で簡単に脅せると思ったら大間違いだ。私は幕府の軍隊などに屈することはない。

こうして互いに強硬な姿勢のまま交渉は決裂。この事件をきっかけに、後鳥羽上皇と鎌倉幕府の軋轢は決定的なものになります。

ちなみに鎌倉幕府は、妥協策として藤原氏の藤原頼経を四代目将軍としました。

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承久の乱、始まる

1221年5月15日、遂に後鳥羽上皇は「北条義時追討」の宣旨せんじ(天皇からの命令)を全国に飛ばします。

これは鎌倉幕府への宣戦布告であり、この日をもって、いよいよ承久の乱が始まります。

これを知った鎌倉幕府や東国武士たちは激しく動揺します。というのも、これまで宣旨のターゲットにされて勝てた事例がほとんどなかったからです。

鎌倉御家人
鎌倉御家人

宣旨のターゲットにされたら勝てるわけがない。

幕府にはこれまでの御恩があるけど、一族を守るためにも上皇側に寝返るべきか・・・。

鎌倉幕府内ではこんな風に考える者もたくさんいました。これは後鳥羽上皇の計画通りであり、宣旨を出した時点で後鳥羽上皇は勝利を確信していました。

後鳥羽上皇
後鳥羽上皇

宣旨が各地の武将たちに届いた時点で私の勝ちだ。承久の乱は余裕の勝利に終わりそうだなww

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北条政子の神演説

しかし、後鳥羽上皇の思惑は大きく外れることになります。なぜならば、鎌倉幕府には北条政子という偉大な人物がいたからです。

北条政子は動揺する人々の心を幕府に繋ぎ止めるため、歴史に残る神演説を行います。その内容がこちら↓

「みな心をひとつにして聞きなさい。これが最期のことばである。

頼朝殿が朝敵を征伐し幕府を創設しつ以後、官位といい、俸禄といい、その恩はまことに山よらも高く、海よりも深いものである。

恩に報いる思いはどうして浅くてよいものであろうか。ところが今、逆臣の讒言によって不当な綸旨が下された。

名声を汚すまいと思う者は、はやく秀康・胤義(朝廷に寝返った人物)を討ちとり、三代将軍の遺跡を守らなければならない。ただし、院に味方したいと望む者はただちに申し出よ」

出典:amebaブログ「amour」様

この言葉に多くの御家人は胸を打たれ、幕府と共に戦うことを心に誓います。

平安時代というのは武士にとって暗黒時代でした。武士は朝廷の番犬にすぎず、いくら頑張っても出世は不可能。重税に苦しみ、貴族らの理不尽に耐える日々。そこに希望の光を与えてくれたのが鎌倉幕府を開いた源頼朝でした。

北条政子の演説によって、御家人たちは昔の辛い日々と源頼朝の御恩を思い出したのでした。

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承久の乱の経過

北条政子の演説により一致団結した鎌倉幕府は、その勢いで京へ進軍します。

1221年5月22日、幕府軍が出兵。三方向に分かれ、京を目指します。行軍中に味方も増え、兵力はおそらく盛ってると思いますが19万騎にも達したと言われています。

余裕の構えだった後鳥羽上皇は大軍が京へ向かっていることを知って顔面蒼白。勝ちを確信するあまり兵の準備をちゃんとしておらず、対応は後手に回ります。

油断していた上皇軍と政子の演説で士気MAXの幕府軍。もはや勝敗は決し、幕府軍の連戦連勝。朝廷側は最終防衛ラインである宇治川をも突破され、承久の乱は瞬く間に終戦に向かいます。

しかし、さすがに最終防衛ラインである宇治川での反撃は凄まじく、総大将だった北条泰時が死を覚悟するほど激戦だったと言われています。

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後鳥羽上皇、保身に走る

幕府軍が京内に攻め入ると、後鳥羽上皇は突如として保身に走ります。

後鳥羽上皇に味方した武士たちが最後の一戦を交えんと上皇の元に集まろうとした時、後鳥羽上皇は門を固く閉ざしてこれを拒みました。武将たちを受け入れると、後鳥羽上皇が首謀者だと思われてしまうからです。

後鳥羽上皇
後鳥羽上皇

承久の乱は、部下たちが勝手に起こしたことで私は何も知らないからww

と責任を部下になすりつけて、なんとか逃げ切ろうと後鳥羽上皇は考えたわけです。

さらには、こんなことまで言い始めます。

後鳥羽上皇
後鳥羽上皇

ワリィ。倒幕の宣旨はやっぱ無しな。代わりに勝手に承久の乱を起こした部下たちを逮捕するために宣旨だすわ。自分は悪くないから許してな(超訳)

が、こんなトンデモ理論が受け入れられるはずもなく、後鳥羽上皇は隠岐へ島流し。

関係者も次々と処罰され、承久の乱に関与していない後堀河天皇が新たに即位します。

そして、後鳥羽上皇の裏切りにより孤立した朝廷側の武将たちは憤怒と失意の中、最期の最期まで奮闘しますが、多くの武士が討ち取られました。後鳥羽上皇にも裏切られたと思うと無念すぎます。

こうして、承久の乱は幕府の勝利に終わります。「宣旨のターゲットにされたら絶対に勝てない」という先例を打ち破る革新的な勝利となりました。

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承久の乱の事後処理

承久の乱の後、朝廷の力を削ぐために鎌倉幕府は大きく4つの政策を打ち出しました。

朝廷の力を削ぐための4つの政策
  • 1 朝廷の勢力が強かった西国へ地頭を置いた
  • 2 京の監視を強化するために六波羅探題を創設した
  • 3 皇位継承に鎌倉幕府が口出しをするようになった
  • 4 上皇の荘園を没収して力を削いだ

承久の乱によって朝廷の力は完全に失墜。日本は完全に武士の世となり、南北朝時代に後醍醐天皇が挙兵するまでの間、日本の政治を支配するようになります。

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承久の乱の年表まとめ

最後に承久の乱を年表にしてまとめておきます。

承久の乱年表
もっと詳しく知りたい方にオススメ!
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2024年2月、YouTubeチャンネル「もぐもーぐヒストリー」を開設しました。

まだ動画は少ないですが、学生や大人の学び直しに役立つ動画をたくさん増やしていくので、ぜひ下のアイコンからチャンネル登録、よろしくお願いいたします。

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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