

今回は鎌倉幕府の執権政治について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「北条氏ってなんで将軍にならなかったの?」という素朴な疑問にも、この記事で答えを出していくね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
実は、鎌倉幕府を実質的に動かしていた北条氏は、最後まで一度も「将軍」にはなりませんでした。
普通に考えれば、これだけの実力があるなら自分が将軍になればよさそうなものです。でも北条氏はあえて将軍にならず、「将軍を支える役職」のままで幕府を支配し続けました。
その「将軍を支える役職」こそが執権です。そして、北条氏が執権の地位を独占して幕府を動かした政治を執権政治と呼びます。
表舞台に立たず、裏で実権を握る——。北条氏は将軍より強い立場を、なぜ・どうやって作り上げたのか。この記事ではその仕組みを一緒に追いかけていきましょう。
執権政治とは?3行でわかる基本のポイント
①執権=将軍を補佐しながら、幕府の実権を握った役職
②北条氏が代々独占し、将軍は飾りに(北条氏は将軍にならなかった)
③連署・評定衆による合議制で政治を進めたのが特徴

「執権」は今でいうと、社長(将軍)を支えるナンバー2の副社長みたいな立場だよ。でも実態は副社長が会社を動かしていて、社長はお飾り——というのが執権政治のイメージにいちばん近いんだ。
もう少しきちんと整理しましょう。執権はもともと、鎌倉幕府の役職のひとつで、将軍を補佐して政務をまとめる役割でした。
初代将軍・源頼朝が生きていた時代は、頼朝がトップとして強い権力を持っていました。ところが頼朝の死後、将軍家の力は急速に弱まります。
その隙間を埋めるかたちで台頭してきたのが、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏です。彼らは執権の地位に就き、その地位を一族で独占しながら、幕府の実権を握っていきました。

そこまで実権があるなら、北条氏は自分が将軍になっちゃえばよかったんじゃない?なんで「執権」のままだったのかしら?

これは大事なポイント!理由はざっくり2つあるよ。
①将軍は源氏の血筋か、朝廷の認める家柄じゃないと就けないと考えられていた。北条氏は地方武士の家で、血筋的に無理だった。
②さらに「将軍」になると目立つよね。表に出るより、裏から動かしたほうが反発されにくい——という現実的な判断もあったんだ。
つまり「将軍は形式的に立てる、実権は執権が握る」という構造を作ることで、北条氏は反発をかわしながら長期間にわたって幕府の実権を握り続けたのです。これが執権政治の本質です。
執権政治はどのように始まったのか?北条時政の台頭

■ 源頼朝の死後に変わった権力構造
執権政治のスタート地点は、初代将軍・源頼朝の死(1199年)にさかのぼります。
頼朝が生きていた時代、鎌倉幕府は頼朝のカリスマで支えられていました。武士たちは頼朝個人に強い忠誠を誓っており、その一言で軍を動かすこともできたのです。
ところが頼朝が急死すると、2代将軍となった嫡男・源頼家はまだ18歳。父のような実力もカリスマもなく、有力御家人たちを束ねきれませんでした。

「これでは将軍ひとりに任せておけない」——そう考えた御家人たちは、政治を有力御家人13人の合議で進めることに決めました。これが13人の合議制です。

13人もいたら多すぎない?まとまらなさそう…。

するどい!実際まとまらなかったんだ。13人の中で主導権の取り合いが始まって、有力御家人同士の潰し合いに発展していくよ。その混乱を上手に利用して頭角を現したのが、頼朝の妻・北条政子の父である北条時政だったんだ。
■ 初代執権・北条時政の就任と政敵の排除
13人の合議制が始まると、まもなく内部抗争が表面化します。1200年に有力御家人の梶原景時が滅ぼされ、1203年には比企能員が時政によって討たれました。
比企氏は2代将軍・頼家の乳母父(めのとぶ)の家であり、娘が頼家の側室となって嫡子・一幡を産んでいた有力なライバルです。時政はその比企氏を一掃したうえで、頼家を将軍の座から引きずり下ろし、頼家の弟である源実朝を新しい将軍に立てました。

時政が比企氏を排除した手口は、まさに「騙し討ち」でした。1203年9月2日、時政邸を訪れた比企能員は、待ち伏せした兵によって討ち取られます。同日のうちに比企一族の館も総攻撃を受け、一族はわずか一日で壊滅しました。頼家自身も将軍職を剥奪されて修善寺(現・静岡県)に幽閉され、翌1204年に23歳の若さで暗殺されます。「権力の頂点から奈落の底へ——その落差がわずか一日」というのが、この時代の政治の峻烈さを物語っています。
そして時政自身は、3代将軍・実朝を補佐する役職である政所別当に就任。この立場が、のちに初代執権と呼ばれるようになります。1203年、ここに執権政治の出発点が刻まれました。

「執権」は政所別当のうち、特に幕府の実権を握った人物に対して用いられた呼称です。北条時政の時点でこの呼び名が定着していたわけではなく、後年の歴史書で時政が初代執権と位置づけられるようになりました。教科書では「1203年に北条時政が初代執権に就任」と覚えておけば十分です。
その後、時政は1205年に有力御家人の畠山重忠を滅ぼすなど、ライバルを次々と排除していきました。しかし最終的には自身も将軍・実朝を廃そうとする企てが露見し、息子の北条義時と娘の北条政子によって伊豆に追放されてしまいます。
こうして2代執権・北条義時の時代が幕を開け、執権政治は次のステージへ進んでいきます。
承久の乱と北条義時——執権権力が確立した転換点
■ 後鳥羽上皇の挙兵と北条義時の決断
2代執権となった北条義時の時代に、執権政治を決定的に強固なものにする大事件が起こります。それが承久の乱(1221年)です。
当時、京都では後鳥羽上皇が朝廷の主導権を握っていました。後鳥羽上皇は「武士の世なんて認めない、政治の実権は朝廷に取り戻すべきだ」と考えていた人物です。
3代将軍・源実朝が暗殺され、源氏の将軍家が絶えると、朝廷は幕府を揺さぶる絶好のチャンスと判断しました。1221年、後鳥羽上皇は「北条義時を討て」と全国の武士に号令を発します。

上皇に従うことと、幕府を守ることは——もう同じではない。ここで退けば、武士の世は終わる。戦うしかない。
当時の武士たちにとって、朝廷の上皇に弓を引くことは大変な覚悟が必要でした。動揺する御家人たちを前に、立ち上がったのが北条政子です。「頼朝公の御恩は山より高く海より深い」と訴える有名な演説で御家人たちの心をひとつにまとめ、幕府軍は京都へ向けて進発しました。
戦いは幕府軍の圧勝に終わります。後鳥羽上皇は隠岐へ流され、挙兵に参加した上皇方の貴族や武士は処罰されました。
■ 勝利後の執権強化——六波羅探題の設置
承久の乱の勝利は、執権政治にとって決定的な意味を持ちました。それまで「朝廷>幕府」というのが当然の感覚だったのに、戦いの結果は「幕府>朝廷」という事実を全国に見せつけたのです。
幕府は乱後、京都に六波羅探題を新設しました。これは朝廷を監視し、西国の御家人を統括するための機関です。

六波羅探題って、結局なんの仕事をする場所なの?

ざっくり言うと京都に置いた「幕府の出張所」だよ。①朝廷の動きを監視する、②西日本の御家人を取り仕切る、③裁判もおこなう——この3つが主な仕事。長官には北条氏の有力者が就いたから、ここでも北条氏の権力がガッチリ固まったんだ。
さらに幕府は、上皇方に味方した貴族や武士の領地を没収し、その土地を恩賞として東国の御家人に与えました。御家人たちは新しい領地を手にし、「北条氏についていれば豊かになれる」という実感を得たのです。
承久の乱は、執権・北条義時にとって「朝廷を抑え、御家人を結束させ、北条氏の地位を不動にする」三重の勝利でした。執権政治はここで明確に確立した、と教科書ではよく説明されます。
執権政治の仕組み——連署・評定衆による合議制とは?
2代義時の死後、執権の座を継いだのが3代執権・北条泰時です。泰時は、執権政治を「個人プレー」から「組織プレー」へと作り変えた人物。執権政治の仕組みは、この泰時の手によってほぼ完成しました。
■ 連署と評定衆の役割

合議制って、今でいうと取締役会みたいなものかしら?

イメージは近いよ!執権=CEO、連署=副社長、評定衆=取締役会みたいな関係。重要な政策や裁判は、執権ひとりが決めるんじゃなくて、評定衆みんなで話し合ってから決めるんだ。これで「北条氏の独裁」に見えにくくする狙いもあったんだよ。
泰時が整備した執権政治の仕組みは、大きく3つに整理できます。
仕組み①:執権(最高責任者・北条氏の当主が独占)
執権は将軍を補佐し、幕府全体の政務をまとめる最高責任者です。代々、北条氏の本家にあたる得宗家から選ばれました。
仕組み②:連署(執権の補佐役・No.2)
連署は1225年に泰時が新設した役職で、執権を補佐するNo.2のポジション。執権が出す重要文書には、必ずこの連署が一緒に署名(=連なって署名)するため、「連署」と呼ばれます。連署にも北条氏の有力者が就任し、執権政治を内側から支えました。
仕組み③:評定衆(最高合議機関・約11〜15人)
評定衆は同じく1225年に設置された、幕府の最高合議機関です。北条氏一族のほか、有力御家人や法律実務に詳しい文官(太田康連ら)も加わり、政策決定・裁判の最終判断を合議で下しました。
つまり執権政治とは、「執権・連署・評定衆」が三位一体となって幕府を運営する合議システムです。北条氏の権力をむき出しにせず、複数のチェック機関を通すことで、御家人たちの納得を得ながら政治を進めたわけです。
■ 北条泰時が制定した御成敗式目
合議制を作り上げた泰時のもうひとつの大きな功績が、御成敗式目(貞永式目)の制定です。1232年、武家として初めての本格的な成文法が誕生しました。

武士の世のルールは、武士が作る。それだけだ。公家の法を真似るのではなく、御家人の道理に従う——これが我らの法である。
御成敗式目は全51か条からなり、御家人同士のもめごとや土地相続のルール、守護・地頭の役割などを定めました。それまで武士の裁判は「道理(武士社会の慣習)」に頼っていましたが、ここで初めて文書化されたルールが整い、裁判の基準が誰の目にも見えるようになったのです。
御成敗式目の意義は、単なる法律集にとどまりません。「武士が自分たちの手で社会のルールを作った」という宣言でもあり、執権政治が朝廷から独立した政治体制であることを示す象徴的な出来事でした。詳しい中身は御成敗式目の記事でも解説しています。
歴代執権一覧——北条氏はどう権力を継いだのか?
ここで執権政治を支えた歴代の執権を、時系列でざっと見ておきましょう。鎌倉幕府の執権は、北条時政から最後の北条守時まで、約130年間にわたって北条氏一族が独占しました。
- 初代北条時政(在職1203〜1205)/執権政治の出発点を作った
- 2代北条義時(在職1205〜1224)/承久の乱に勝利・幕府の地位を朝廷より上に
- 3代北条泰時(在職1224〜1242)/連署・評定衆を整備・御成敗式目制定
- 4代北条経時(在職1242〜1246)/若くして病没
- 5代北条時頼(在職1246〜1256)/引付衆を新設・得宗専制への道筋を作る
- 8代北条時宗(在職1268〜1284)/元寇(文永の役・弘安の役)に対応
- 9代北条貞時(在職1284〜1301)/得宗専制が本格化
- 14代北条高時(在職1316〜1326)/御家人の不満が頂点に達する
- 16代北条守時(在職1326〜1333)/最後の執権・鎌倉幕府滅亡とともに自害
執権は全16代続きました。すべての執権を覚える必要はありませんが、時政・義時・泰時・時頼・時宗・高時の6人は特に重要です。それぞれが執権政治の節目になる出来事と結びついているからです。

16人も執権がいたんだ…テスト前にどこから覚えればいいの?

まずは「時政→義時→泰時」の3人をセットで覚えるのがコツ!①時政が始めて、②義時が承久の乱で固めて、③泰時が御成敗式目で完成させた——という流れだけ押さえれば、執権政治の前半はバッチリだよ。
■ 北条時頼と引付衆の設置
泰時の孫にあたる5代執権・北条時頼の時代には、執権政治はさらに磨きをかけられます。1249年、時頼は引付衆という新しい役職を設けました。
引付衆の仕事は、評定衆が扱う裁判のうち土地に関する訴訟を専門に担当することです。御家人にとって土地は命綱だったため、裁判が遅れると不満が一気に噴き出します。引付衆を置くことで裁判のスピードと公平さが上がり、御家人たちは「執権政治はちゃんと自分たちのために働いてくれる」と実感できたのです。
一方で時頼は、ライバルだった有力御家人の三浦氏を1247年の宝治合戦で滅ぼし、北条氏一族による権力集中を一気に進めました。合議制の表面はそのままに、内側では「北条氏本家=得宗家」に権力が集中していく——。この変化が、次の章で扱う得宗専制政治へとつながっていきます。
得宗専制政治とは?執権政治との違いをわかりやすく解説

ここまで見てきた執権政治は、北条泰時が完成させた「合議制」を軸にした政治体制でした。ところが鎌倉時代後期になると、その合議制が形だけになり、北条氏の惣領家——つまり「得宗」と呼ばれる北条氏の本家に権力が集中していきます。これが得宗専制政治です。
「執権政治とは?」「得宗専制政治とは?」と聞かれると違いがわかりにくいですが、ざっくり言えば「みんなで決める政治(執権政治)」から「北条氏のトップが一人で決める政治(得宗専制政治)」へと変わったということ。執権はもちろん残っていますが、本当の意思決定は得宗の私邸でひそかに行われるようになっていきました。

えっ、執権政治と得宗専制政治って何が違うの?どっちも北条氏が実権握ってる話じゃないの?テストで聞かれたら絶対間違える自信ある…!

そこは混同しやすいポイントだね!ざっくり言うと「執権政治=みんなで会議して決める」「得宗専制政治=北条氏のトップ(得宗)が一人で決める」だよ。執権という役職は得宗専制の時代も残ってるんだけど、もう飾りになっちゃって、本当の権力は得宗が持つようになったんだ。
■ 執権政治から得宗専制へ——何が変わったのか
「得宗」とは、2代執権・北条義時(初代執権・時政の息子)の別称「徳崇」に由来すると言われています(法名・廟号・追号については諸説あります)。義時の子孫——つまり北条氏の本家筋を「得宗家」と呼び、その当主が「得宗」と呼ばれました。
得宗専制政治への流れは、5代執権・北条時頼のころから始まったとされます。時頼は1247年に有力御家人の三浦氏を滅ぼし(宝治合戦)、評定衆の中にいたライバルを排除しました。さらに自身の私邸で「寄合」と呼ばれる側近会議を開き、評定衆の合議を通さずに重要事項を決めるようになります。
この「寄合」が、執権政治から得宗専制への分かれ道でした。表向きは評定衆の合議制が続いていても、実際は得宗とその側近(御内人)だけで政策を決める仕組みに変わっていったのです。
📌 御内人とは?:得宗の家来のこと。御家人は将軍の家来だけど、御内人は得宗個人の家来。得宗専制の時代になると、御家人より御内人のほうが幕府で力を持つようになり、御家人たちの不満が高まっていったよ。御内人の代表格が内管領と呼ばれる役職で、後に平頼綱や長崎円喜が幕政を牛耳ることになる。
| 比較項目 | 執権政治 | 得宗専制政治 |
|---|---|---|
| 時期 | 1203年〜13世紀半ば | 13世紀後半〜1333年 |
| 意思決定 | 評定衆による合議制 | 得宗と御内人による寄合 |
| 中心人物 | 執権(北条氏全体) | 得宗(北条氏惣領家のみ) |
| 御家人との関係 | 御家人を尊重 | 御内人を重視・御家人の不満増大 |
| 象徴的な人物 | 北条泰時(御成敗式目) | 北条時宗・貞時・高時 |
■ 元寇と御家人の不満——幕府崩壊への道
得宗専制政治が決定的になったのは、8代執権・北条時宗の時代に起きた元寇(蒙古襲来)がきっかけでした。1274年の文永の役、1281年の弘安の役と、二度にわたって元(モンゴル帝国)の大軍が日本に襲来します。
非常事態に対応するため、時宗は得宗の権限を強めて九州の御家人を直接動員するようになりました。結果的に元軍は撃退できたものの、戦った御家人たちには大きな問題が残ります。恩賞として与える土地がなかったのです。

命がけで蒙古と戦ったのに、もらえる恩賞はなし…!武器代も借金もかさんで、もう生活が立ち行かない!それなのに得宗の側近たちは、ますます贅沢な暮らしをしている。これでは納得できないぞ!
御恩と奉公の仕組み(戦った見返りに土地をもらう)は、外国との戦いでは成り立ちません。攻めてきた元から土地を奪うわけにはいかないからです。御家人たちは借金を抱えて窮乏し、幕府への不満が一気に高まりました。
9代執権・北条貞時は1297年に永仁の徳政令を出して御家人を救おうとしますが、効果は一時的でした。得宗専制の時代には内管領・平頼綱(1284〜1293年に権勢をふるい貞時に誅殺)や、後の長崎円喜ら御内人が政治を独占し、御家人の不満はさらに大きくなっていきます。
そして1333年、最後の執権・北条守時のとき、後醍醐天皇の倒幕計画に応じた足利尊氏・新田義貞らが立ち上がります。新田義貞の鎌倉攻めにより、14代執権・得宗家当主の北条高時をはじめとする北条一門は東勝寺で自害。130年続いた執権政治は、ここに完全に幕を下ろしました。

北条泰時が築いた「みんなで決める」執権政治の良さは、得宗専制で失われてしまったんだ。御家人たちは「自分たちの声が届かない幕府」に愛想を尽かし、結果的に幕府は内側から崩れていった。合議制を捨てた瞬間に、武家政権の正当性も失った——これが鎌倉幕府滅亡の本質的な理由だよ。
執権政治の理解を深めるおすすめ本

執権政治についてもっと詳しく知りたい人には、この1冊がおすすめだよ!北条氏の視点から鎌倉幕府の政治をわかりやすく解説してくれている。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

結局、執権政治で一番テストに出るのはどこなの?範囲が広すぎて全部覚えるのキツイんだけど…!

絶対に外せないのは「承久の乱(1221年)」と「御成敗式目(1232年)」と「執権=北条氏」の3つ!この3つは中学・高校・大学受験どれでも必出だよ。論述で出るなら「執権政治と得宗専制政治の違い」を200字でまとめる練習がオススメ。「合議制 vs 一人支配」「評定衆 vs 御内人」の対比で書けば点数が取れるよ!
よくある質問
執権とは、鎌倉幕府で将軍を補佐しながら幕府の実権を握った役職のことです。1203年に北条時政が初代執権に就任して以降、北条氏が代々この役職を独占しました。「執権政治」とは、この執権を中心に北条氏が政治を主導した体制を指します。
北条氏は源氏や藤原氏のような高い家格を持たなかったため、将軍位に就くと家柄を理由にした反発を招くおそれがありました。そこで「将軍を補佐する執権」という立場のまま実権を握る方法を選んだとされます。形式的に将軍を立てつつ実権を独占することで、御家人たちの反感を抑えながら政治を主導したのです。
3代執権・北条泰時が1225年に整えた政治の仕組みで、執権を補佐する「連署」と、有力御家人で構成される「評定衆」が会議で重要事項を決める体制です。執権1人の独断ではなく、複数の御家人で議論することで公平性を保ち、武家政権の安定を図りました。今でいう取締役会のような役割を果たしていました。
1221年の承久の乱で2代執権・北条義時が後鳥羽上皇の挙兵を撃退したことで、幕府の朝廷に対する優位が確立しました。乱後に京都へ設置された六波羅探題は、朝廷の監視と西国御家人の統括を担い、執権政治の権力基盤を全国に広げました。承久の乱は執権政治確立の決定的な転換点と評価されています。
執権政治は執権・連署・評定衆による合議制で政治を行う体制で、北条泰時の時代に完成しました。一方の得宗専制政治は、北条氏惣領家(得宗)とその側近である御内人による独裁体制を指します。得宗専制の時代には執権という役職は残りましたが、実際の意思決定は得宗の私邸で行われる「寄合」に移り、合議制の精神は失われていきました。
1232年に3代執権・北条泰時が制定した、武家初の本格的な成文法です。全51か条で、貞永式目とも呼ばれます。武士の慣習や道理に基づいて御家人の所領訴訟や紛争解決の基準を示しました。律令法のような難解な漢文ではなく、武士にもわかりやすい形で書かれており、室町・戦国時代の武家法にも大きな影響を与えました。
初代の北条時政から最後の北条守時まで、執権は16代続きました(数え方によって異なる場合もあります)。テストで特に重要なのは、初代・時政、2代・義時(承久の乱)、3代・泰時(御成敗式目)、5代・時頼(引付衆)、8代・時宗(元寇)、9代・貞時(永仁の徳政令)の6人です。
まとめ:執権政治のポイントをおさらい
ここまで、鎌倉幕府の執権政治について「執権とは何か」「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか」「合議制の仕組み」「歴代執権の流れ」「得宗専制への変化」を見てきました。最後にポイントをおさらいします。
- 1199年源頼朝が死去——13人の合議制が始まる
- 1203年北条時政が初代執権に就任
- 1221年承久の乱——北条義時が後鳥羽上皇の挙兵を撃退・六波羅探題設置
- 1225年北条泰時が連署・評定衆を設置——合議制の確立
- 1232年北条泰時が御成敗式目(貞永式目)を制定
- 1249年北条時頼が引付衆を設置——得宗専制への移行が始まる
- 1274年文永の役(元寇1回目)——北条時宗が対応
- 1281年弘安の役(元寇2回目)——御家人の不満が高まる
- 1297年永仁の徳政令——北条貞時が御家人救済策を実施
- 1333年鎌倉幕府滅亡——最後の執権・北条守時と得宗・北条高時が自害

以上、執権政治のまとめでした!北条氏が「将軍にならずに実権を握る」という独特の方法を編み出したこと、そしてその政治が合議制から一人支配へ変質して幕府滅亡につながったこと——この大きな流れを押さえれば、鎌倉時代後半の理解はバッチリだよ。下の関連記事もあわせて読んでみてね!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』
Wikipedia日本語版「執権」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「承久の乱」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「得宗」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「北条義時」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「御成敗式目」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「比企能員」(2026年5月確認)
コトバンク「執権」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「御成敗式目」(デジタル大辞泉)
コトバンク「得宗専制」(日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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