今回は、鎌倉時代の初期〜中期に行われた執権政治について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
そもそも執権って何?
執権とは、将軍を補佐する立場から鎌倉幕府の権力を掌握して、実質的な幕府の最高権力者だった役職のことを言います。
執権が登場したのは、鎌倉幕府3代目将軍の源実朝の時代。
※実は、執権登場の時期には諸説があります。ここでは手元の教科書「詳説日本史B」に沿って源実朝の時期としています。
源頼朝→源頼家と初代・2代目までの鎌倉幕府は、名実ともに将軍が権力を握っていました。
・・・が、3代目の源実朝の時代になると、将軍はお飾りとなり、鎌倉幕府の政治(幕政)は執権の手によって行われるようになります。
つまり、執権の登場によって、鎌倉幕府の政治の仕組みが大きく変わってしまったのです。
そのため、歴史上では、将軍が自ら実権を持っていた頼朝・頼家の時代と区別して、執権が幕政を牛耳ったことを執権政治と呼ぶことにしています。
執権政治の始まり
執権政治の意味はわかったけど、なぜそんな政治が始まるようになったの?
という疑問があるかと思います。
この謎を解くヒントは、3代目将軍の源実朝にあります。なぜなら、執権政治は、源実朝の将軍就任と同時に始まっているからです。
タイミングが同時なのは決して偶然ではなく、両者の出来事は深い関係を持っています。・・・というわけで、少しだけ源実朝が将軍に就任した時のお話をしようと思います。
話は2代目将軍の源頼家の時代にさかのぼります。
1199年に源頼朝が亡くなると、その後継者として息子の源頼家が幕政を仕切るようになりました。
・・・が、源頼家は幕府を支えてくれている御家人たちを統率することができません。
血気盛んで一癖も二癖もある御家人たちをまとめるには、強力なリーダーシップが必要でしたが、源頼家はそれを持ち合わせていなかったのです。(というか、源頼朝のリーダーシップが凄すぎた・・・!)
すると、頼りにならない源頼家に不満を持つ御家人が増え始め、幕府内で争いが起こるようになります。
いやいや、何を言っているんだ!
御家人たちが好き勝手なことを言い始めたら、鎌倉幕府がメチャクチャになる!
これまでどおり、頼家殿の言うことに従うんだ!
という感じで、御家人たちVS源頼家に近しい人々の構図で争いが起こりました。
この時に、頼家に反対する御家人たちの代表に立ったのが、北条時政という人物です。
北条時政は、独自に13人の合議制と呼ばれる仕組みを作って御家人による政治を行うことで、源頼朝に対抗しようとしました。
※13人の合議制が敷かれた理由ははっきりとわかっておらず、今も諸説があります。
御家人VS源頼家側近の争いはしばらく続き、1203年、ついに決着がつきます。
源頼家の乳母であり頼家を支持してきた比企一族が、北条時政の陰謀によって滅亡。源頼家は味方を失い、幕府内で完全に孤立することになりました。
すると、北条時政はこんなことを考えます。
統率能力がないのに中途半端に自分の意見を言う頼家よりも、いっそのこと何も言わずに私の言いなりになってくれそうな源実朝を将軍に擁立した方が良いのでは?
1204年9月、孤立した源頼家は、母の北条政子の手によって修禅寺に幽閉。これと同時に、頼家の弟である源実朝の将軍就任が決まりました。
さらに実朝の将軍就任に合わせて、北条時政は政務を司る政所のトップ(別当)となります。こうして、政所別当として将軍を補佐するという名目で、幕政の実権を握ることに成功したのです。
将軍を補佐する立場で幕政の実権を握った北条時政のポジションのことを、執権と呼びます。
執権政治、完全体になる【和田合戦】
しかし、この時点での執権は完全な権力を持っていたわけではありません。
なぜなら、北条時政は鎌倉幕府の軍事を司っていた侍所を掌握することができなかったからです。
当時、侍所の別当には和田義盛という人物が就いていました。
和田義盛自身には、北条氏と敵対する意思はありませんでした。しかし、それはたまたま両者の利害関係が一致しているか、互いに無関心だったからにすぎません。
もし何かトラブルで対立でも起これば、和田義盛には多くの武士を率いて北条氏に攻め込む強力な軍事力を持っているのです。
そのため、執権になった北条時政も、和田義盛の意見は簡単に無視はできませんでした。つまり、軍事力を和田義盛が握っている限り、北条氏が幕政の実権を完全に握ることはできないわけです。
和田義盛は、質実剛健な男で、悪く言えば愚直な性格でした。
そのため、権力欲を抱いて北条氏と対立する・・・というようなこともありませんでした。
しかし、その性格ゆえに和田義盛は人望厚く、義盛を慕う武士も多くおり、その実力は決して無視できないものがありました。
1205年、権力を握って傍若無人に振る舞うようになった北条時政と息子の北条義時の間で争いが起こります。
この争いで、北条義時は父の時政を幕府から追放。自ら2代目の執権として幕政を握ります。
執権になった北条義時は、権力の全てを手中に収めるため、これを邪魔しうる勢力の排除に乗り出しました。
1219年、北条義時の魔の手は、和田義盛にも忍び寄ります。
北条義時は、プライドの高い和田義盛をあえて挑発。その後、挑発に乗った和田義盛を謀反の嫌疑で討ち取ってしまいます。(和田合戦)
和田義盛を排除した北条義時は、政所別当に加えて侍所別当も兼任。政務・軍事の両方を掌握したことで、執権は名実ともに幕府の実質的な最高権力者として君臨することになったのです。
北条時政が作り上げ、北条義時が完成させた執権のポジションは、義時以降、北条氏が世襲することになります。
和田合戦によって執権は、政所と侍所の別当になって将軍を補佐する役職となりました。
ということは、「執権が北条氏の世襲制になる」=「侍所・政所の別当も北条氏の世襲制になった」ということです。
執権が世襲制になったことで、北条氏が幕政を支配するシステムが完成。鎌倉幕府は滅亡するまで北条氏を中心に運営されていくことになります。
北条氏が絶対的な力を手に入れると、完璧ではないにせよ、大規模な御家人同士の争いも減り始め、少しずつ鎌倉時代に平和らしきものが見えるようになってきました。
執権政治の全盛期【北条泰時の時代】
執権政治は、3代目執権の北条泰時の時代に全盛期を迎えます。
北条泰時は、強大な権力を持つ執権が暴走することのないよう、幕政のシステムを大きく変えました。
具体的には、幕府内に評定衆と呼ばれる御家人たちが意見を出し合う場を設けたり、御成敗式目と呼ばれる決まり事を定めたり、意思決定に公平性と客観性を持たせるようにしました。
この政策によって、執権(北条泰時)と御家人たちは良好な関係を築けるようになり、鎌倉幕府は安定した平和な時代を迎えます。北条泰時の時代が執権政治の全盛期と呼ばれる所以は、この抜群の安定性と平和にあります。
※権力を持ったからといって、上から目線で命令ばかりしていては御家人との争いの火種になります。北条泰時はそれを理解し、鎌倉幕府の平和的な統治を目指したのです。(そして、少なくとも泰時の時代には、それが成功していた!)
執権政治から得宗専制政治へ
しかし、5代目執権の北条時頼の頃から、執権政治に少し変化が見られます。
1256年、北条時頼は執権を引退しますが、その後も北条一族のボスという立場から、幕政の実権を握り続けました。
イメージは、天皇がいるのに上皇が実権を握った院政のイメージに近いです。
この傾向は北条時頼も後も続き、次第に執権の地位は失墜。執権に代わって北条一族のボスが幕政の実権を握るようになります。
北条一族のボスは得宗と呼ばれていたので、得宗が実権を握った政治のあり方のことを得宗専制政治と呼びます。
得宗専制政治が始まると、執権は得宗によって選ばれて得宗に従うだけのポジションとなり、鎌倉幕府の命運は、北条一族のボス(得宗)に握られることになりました。
執権政治も得宗専制政治も北条氏が実権を握った点は変わりありません。しかし、得宗専制政治の時代になると、北条氏が露骨に優遇されるようになり、鎌倉時代末期には守護・地頭の多くを北条一族が占めるようになりました。
そうなると、御家人たちはまともな恩賞ももらえず、北条氏に服従するだけの存在になってしまいます。そして最終的に、北条氏に不満を持つようになった御家人たち(足利尊氏や新田義貞など)によって、鎌倉幕府は滅ぼされることになるのです・・・。
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