今回は、評判の悪さに定評のある2代目執権の北条義時(ほうじょうよしとき)について紹介しようと思います。
北条義時ってとにかくイメージが悪いです。なぜかというと・・・
からです。他にも幕府内の様々な謀略に北条義時が絡んでいると言われています。
北条義時をもし色で表わすとしたら、「限りなく黒に近いグレー」なんじゃないかと思っています。真っ黒じゃないのは、北条義時だって好きで父を失脚させたわけじゃないし、好んで朝廷に攻め入ったわけでもないから。
今回は、そんな「限りなく黒に近いグレー」な北条義時の生涯に迫ってみたいと思います。
父の北条時政の背中を見て育った北条義時
北条義時が生まれたは1163年。青年期には父の北条時政と共に源平合戦にも参戦しています。
源平合戦が終わった後は、鎌倉幕府内で行われる熾烈な権力闘争の様子を父時政の背中を見て学ぶことになります。
というのも1199年に源頼朝が亡くなり、その息子の源頼家が2代目将軍となると、にわかに御家人同士の権力争いが激化していくからです。
ここで言う権力争いって言うのは「どれだけ将軍とベッタリな関係になれるか」ってことです。
最初に争いの犠牲になったのは、梶原景時(かじわらかげとき)という人物。
【梶原景時】
梶原景時は源頼家からの信頼も厚く、まさに頼家とベッタリな人物の一人。そんな梶原景時を疎ましく思う人が当時は多くいました。
1200年、御家人たちの強い要請により梶原景時は失脚。京へ逃亡中に駿河国にて殺されることになります。

梶原景時が殺された駿河国は、北条時政が守護として管轄している地域であり、梶原景時の殺害の裏では北条時政が関与していたと言われています。
そして、次に起こった黒い事件が源頼家追放事件。父の北条時政が、乳母として育ててきた若き源実朝を次期将軍にして、その将軍の元で権力を振るおうと画策します。
しかし、源実朝を将軍にするには源頼家を将軍の座から引きずり下ろさなければなりません。しかも源頼朝の乳母を輩出した比企氏が日に日に発言力を増し、北条氏の地位が危うくなっていました。事は一刻を争います。
1203年、北条時政は娘息子の北条政子・義時と協力しながら強引に源実朝を将軍に就けてしまいます。(梶原景時を消したのは、頼家の力を削ぎ、実朝を擁立させるための伏線だったとも考えられる)
当時の詳細な情勢は以下の2つの記事を見ていただくとわかりやすいと思います。頼家も実朝も中々過酷な生涯を歩んだ人物なので人物伝としても面白いです。


北条義時と父時政との決別
【北条時政】
執務能力を持たない幼き実朝を将軍にしたことで、北条時政は絶大な権力を手に入れます。北条時政は、源実朝の育ての親であり将軍とはまさにベッタリすぎる関係。この関係を利用して、自らの権力を盤石なものにしていきます。
所領裁判や人事など幕府の重要な業務を幼い実朝の代わりに自らで行うことで北条時政は実質的な幕府の最高実力者に躍り出ます。
時政の息子である北条義時の将来もこれで安泰・・・と思った矢先、北条義時と父の時政の関係が悪化し始めます。北条時政が後妻の牧の方(まきのかた)の意向もあって娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)のことを色々ととりはからい始めたからです。
北条義時は時政の前妻の子。父が平賀朝雅にベッタリになることを快く思うわけがありません。しかも1205年になると、平賀朝雅がきっかけで畠山重忠という人物が北条時政の謀略により討ち滅ぼされる事件まで起こってしまいます。

北条義時「マジかよ・・・。父が平賀朝雅のために畠山重忠消しちまった。これは前妻との子である俺の立場も危うくなるんじゃねーか・・・」
北条政子「私も同感ね。最近の父は牧の方の言うことばっか聞いてて、なんかおかしいわ。」
北条時政「平賀朝雅を将軍にするわw」
北条時政の暴走は止まりません。同じ1205年、なんと北条時政が平賀朝雅を将軍位に就けようと動き始めたのです。裏で暗躍しているのは後妻の牧の方と言われています。
流石の北条義時もこれにはブチギレ模様。
北条義時「おいおい。実朝を将軍にしたのが1203年だから、まだ2年しか経ってねーぞw。しかも実朝のおかげで父は権力を手に入れられたのに、その実朝を将軍位から下ろさせるってどーゆーことだよ・・・。ってか、なんでそんな牧の方の言うことばっか聞くの?何?もしかして父のやつ年下の牧の方に惚れてんの?流石の俺も今回の父の行動は許すことはできない。こうなったら実力行使しかないな。」
北条政子「私も協力する。畠山重忠の時もそうだったけど、そもそもやり方が強引すぎるわ。こんなことを続けていたら無駄に敵を増やして北条氏は自滅してしまうわ。」
こうして北条義時は政子や他の御家人と協力し、時政追放のクーデターを起こします。時政と牧の方を伊豆へ幽閉され、北条時政はその後二度と政界に戻ることはなく静かに1215年にひっそりと亡くなっていきました。息子に追放された時政の余生はどのような人生だったのか・・・少し気になるところです。

さて、経過を追ってみると、北条義時だって好きで父を失脚させたわけじゃないって事がわかると思います。時政の動きを放っておけば、前妻の子である北条義時は立場を失う危険があったわけで、北条義時はその危険の芽を事前に潰したに過ぎません。
むしろ、自分の立場を冷静に分析して、実の父まで追放してしまったその実行力は、北条義時の手腕として評価されてしかるべきなんじゃないかなと思います。(見方を変えれば冷酷とも言えるけど・・・)
北条義時の政治手腕
幕府の最高権力者だった北条時政がいなくなり、次に幕府政治の実権を握ったのがこの記事の主役である北条義時です。
北条義時は、父が就いていた幕府の政治の中枢を担う政所(まんどころ)の代表を受け継ぎ、引き続き実質的最高実力者として幕府の統治を行います。父を追放した北条義時ですが、実はその政治路線は基本父と同じなんですね。

幼い源実朝を将軍に置いて、政治の実権は北条義時が握るという父譲りのスタイル。しかしその中身は父とは異なり、北条義時は実に慎重に政治を進めるようになります。
父の時政は実朝の代理として絶対的権力を持ち、将軍を無視して自分の署名で出す「下知状(げちじょう)」という文書で様々な命令を下していました。
この露骨に将軍を無視する時政の政治スタイルに多くの御家人は「俺らは将軍と主従関係を結んでいるわけで、北条氏の言いなりになるつもりは無いんだが?」と不満を募らせていきます・・・。
おそらく、北条義時が父の時政を追放できたのも、時政の政治に不満を持つ者が協力者になってくれたからという一面もあったのだろうと思われます。
北条義時は父と同じ過ちを犯さぬよう、同じ政所の重鎮である大江広元(おおえのひろもと)と相談を行い、源実朝の名で各種命令を下すようにしました。
そんな慎重さを持ち合わせる一方で、父の時政同様、義時は自分に逆らいそうな人物を率先して潰す行動力も持ち合わせていました。
政治を担う政所を支配していたのが北条義時なら、御家人を統率・管理し軍事や警察を担っていたのが侍所(さむらいどころ)であり、その侍所の代表が和田義盛(わだよしもり)という人物でした。
【和田義盛】
北条義時にとって最も反乱分子になりうる可能性があったのが幕府の軍事・警察を担う和田義盛です。そして北条義時は、和田義盛を失脚させよう画策を始めたのです。
1213年、和田義盛は北条義時の挑発に乗り、謀反の嫌疑により討ち滅ぼされてしまいます。(詳細は以下の記事を)和田義盛はエピソードを見る限り、多分めちゃくちゃいいヤツだったんじゃないかと思っています。

和田義盛が亡くなった後、北条義時は和田義盛の後釜として侍所の代表を併任するようになり、政治、軍事、警察という強大な権力を手に入れます。(これこそ政務と軍事の両方の権力を手に入れるのが北条義時の狙いだった!!)
慎重さと行動力を併せ持ち、周囲との調和を保ちながらしたたかに振る舞う北条義時は、政所と侍所の両方のトップになることで名実とも幕府の最高権力者として君臨することに。父の良きところは受け継ぎ、ダメなところは是正する。そんな柔軟な対応が北条義時を最高権力者にまで押し上げたのでした。
北条義時は後世の印象こそ悪いですが、政治家としてはバランス感覚にも優れていてとても優秀な人物であったように思います。個人的には源頼朝に次ぐ、鎌倉時代の偉大な政治家だったのでは?とすら思う。
そういえば、源頼朝も人気者の義経をディスっているせいであまり後世の評判は良くないです。優秀な政治家の評価とはすべからく低いのかもしれません(言い過ぎ?)。
北条義時の人生最大の試練、承久の乱
そんな北条義時におそらく人生最大であろう試練が訪れます。それが1221年に起こった承久の乱です。
幕府のやり方に不満を持つ後鳥羽上皇が、1219年の源実朝の死をきっかけに遂に倒幕のため挙兵したのです。後鳥羽上皇は、天皇の名で「北条義時追放!」の宣旨を発令し、倒幕行動を開始します。
日本の歴史上、承久の乱以前に大きな戦で宣旨に歯向かって勝者となったものは一人もいません。そんな絶対無敵の宣旨の標的となってしまったのが鎌倉幕府。幕府内では動揺が走ります。
御家人たち「宣旨に歯向かった者は、これまでみな敗北している。もはや幕府を見捨てて、朝廷に味方した方が良いのでは?」
そんな迷いが多くの御家人の心の中に生まれます。
「一刻も皆の迷いを取り払わなければ、幕府が瓦解してしまう!」と幕府の危機を悟った北条政子は御家人を一堂に集め、涙ちょちょぎれる名演説を行い、皆の心と幕府につなぎとめることに成功。政子の力により、鎌倉幕府は幕府の自然瓦解という最大の危機を乗り気ることができました。北条政子マジで凄い。
承久の乱の詳しい経過や政子の名演説については、以下の記事に詳しいので参考にしてみてください!

さて、ここで面白いのは名演説をしたのが、最高権力者の北条義時ではなく、北条政子だった点です。なぜ義時ではなかったのでしょうか?
これは推測するしかありませんが、控えめに言って北条義時はあまりに謀略に長けすぎています。そんな北条義時がみんなの前で綺麗事を言ったとしても「また北条義時がなんか企み始めたぞww」と御家人たちが全く信用してくれない・・・こんな事情があったんだと思います。
そして、北条義時自身もそのことを強く自覚していたからこそ、あえて北条政子が登場したのだと思うわけです。それに、北条政子の生涯を知ると、やはり北条政子の言葉には重みがあるように感じますしね。

いざ始まってみると承久の乱は幕府側の圧勝に終わり、北条義時は上皇3人を島流しにし、仲恭天皇を廃位。幕府に歯向かわなそうな後堀河天皇を即位させます。
実は、この上皇島流し事件こそが北条義時の評判を地に落としている大きな原因なんです。3人の上皇を同時に島流しにした人物なんて日本史上、北条義時しかいませんし、この時代に武士が皇位継承に深い介入を行うこともトンデモナイ出来事でした。
この皇室軽視の行為が、北条義時の評価を地に落とし、現代に至っています。ただ、語弊を覚悟で言えば、北条義時からすれば「売られた喧嘩に勝っただけ」であって不可抗力だったんじゃないかなとも思ったり。
父の時政を失脚させた時もそうですけど、北条義時が自らの意思で積極的にやってるわけじゃないんですよね。降ってきた火の粉を払った結果、なぜかみんなに嫌われていた・・・みたいな感じだと思う。
北条義時の人物像を考える
北条義時は承久の乱の3年後、病死で亡くなります。ただ、毒殺説なんかもあって北条義時の生涯は最後まで闇が深いです。毒殺が真実かはわかりませんが、煙のないところに噂は立ちませんからね。何か揉め事があったんでしょう。
冒頭で北条義時を色で表すなら「限りなく黒に近いグレー」って話をしましたが、みなさんどう感じたでしょうか?
北条義時っておそらく政治家としてはとても優秀な人物です。他人を蹴落とす行動力と知略、精神力を持ち合わせ、父を失脚させたり上皇軍に剣を向けたりと決断力もある。しかもそれがうまく成功しているし、政所と侍所を支配する幕府の最高権力者にも実際になっている。
さらに、承久の乱を通じて、東国のみならず西国までもを幕府の影響下に置いたことは、後世に名を残す鎌倉幕府の偉業であることに間違いはありません。
ただ、色々と暗躍しすぎたあまりにも黒い話が多すぎました。先ほどの毒殺の話もそうだし、2代目将軍の頼家追放にはほぼ確実に関与していたはずだし、3代将軍の実朝殺害にも関与していたのでは?って話まであります。
一方で、北条義時は幕府内の熾烈な政略戦争に晒され続けてたことも忘れてはいけません。他人を蹴落とさなければ、自分がやられるんです。鎌倉時代ってほんと混沌として殺伐とした時代なんです。
そんな世界を生き残るために必死で生きた結果が謀略まみれの黒い生涯だったとしても、さほど不思議な話ではないでしょう。
北条義時の生涯を端的に表しているのが以下の一文だと私は思ってます。
「義時の生涯は降りかかる災難に振り回され続けた一生であった、その中で自分の身と親族を守る為に戦い続けた結果、最高権力者になってしまった」
(出典:wikipedia「北条義時」)
北条義時は幾多の謀略を行い、将軍を傀儡にし、承久の乱で上皇を島流しにしてきました。そのおかげで「陰険な策謀家」とか「将軍や上皇を無下にして権力を欲しいままにした暴君」とか言われることがありますが、別な見方もできるんじゃないかな?とも思います。
こうやっていろんな考え方ができるのが歴史の面白いところであり、難しいところ。あの世の義時には失礼かもしれませんが、北条義時の生涯にはそんな歴史の面白さが詰まっているように思います。
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