この記事では、六波羅探題(ろくはらたんだい)について紹介します。
六波羅探題って言葉の響きめっちゃいいですよね。墾田永年私財法レベルで日本の歴史っぽい響きだと思う。
六波羅探題、その響きの良さから名前を知っている人は多いかもしれませんが、その中身となるとどうでしょうか?
というわけで今回は、そんな六波羅探題について見ていきます。
六波羅探題は何をするところ?
六波羅探題は、簡単に言ってしまうと「幕府が、京都の不穏な動きの監視を強化するために六波羅に置いた監視機関」です。
ちなみに「六波羅」っていうのは地名です。今で言う京都市の東山エリアの六波羅蜜寺、建仁寺、清水寺あたり。
※地名の「六波羅」は仏教用語の「六波羅蜜」が由来ですが、その辺の話は省略します。
事の発端は1221年に起きた承久の乱。朝廷の権限を次々と奪っていく幕府に堪忍袋の尾が切れた後鳥羽上皇が、幕府に対して挙兵をしました。全面戦争です。
承久の乱は幕府方の圧倒的勝利に終わり、その後「二度とこのようなことは起こさせない」そんな幕府の強い想いで設置されたのが六波羅探題なのです。承久の乱については以下の記事をどぞ。
・・・と、ここまではよくある六波羅探題のお話。この記事ではもう少し掘り下げて六波羅探題のことを紹介します。
六波羅探題の前身「京都守護」
六波羅探題は、「京都の監視を強化するために設置された」という説明をしましたが、強化するということは承久の乱以前から監視自体は行われていたということになります。
そして、六波羅探題が置かれる前までの間、京都の監視任務にあたっていたのが京都守護という役職でした。
学校の教科書なんかだと、突如として六波羅探題が登場することがありますが、六波羅探題が登場するのにはそれなりの歴史がちゃんとあるというわけです。
初代京都守護は北条時政!
さらに歴史を京都守護の始まりまで遡ってみると、初代京都守護の北条時政まで遡ることができます。
時は1185年11月。3月の壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、源頼朝が戦後処理に追われている頃でした。
当時の源頼朝が最も頭を悩ませていたのは、弟の源義経が命令を無視して、謀略のプロである後白河法皇に懐柔されてしまっていたことでした。
1185年10月、源頼朝にディスられて不満を持っていた源義経と源行家が源頼朝を討とうと後白河法皇に「官軍として戦いたいから源頼朝の追討宣旨を出せ」と迫ります。
後白河法皇は、これを断ることができず源頼朝追討宣旨を出しますが、誰もこれに従いません。(専制的な政治をしていた平家を滅ぼした源頼朝に不満を持っている人は少なかった!!)
結局、これは源頼朝を怒らせるだけの結果に終わり、後白河法皇は源頼朝に弁明します。
後白河法皇「追討宣旨の件は、魔が差しちまったわww超反省wwだから許してくれよーww」
源頼朝「こいつの言うこと軽すぎて全く信用できないんだが・・・。日本一の大天狗とはまさにこのこと。私のことを甘く見るとどうなるかわからせてやろう。北条時政よ、兵を引き連れて京へ迎え。」
北条時政「ははっ!」
こうして1185年11月、源頼朝に命じられた北条時政は兵を引き連れて京へ向かい、後白河法皇に強引に政治交渉(と言う名の脅迫)を進めます。
北条時政は源頼朝の代理人として後白河法皇と交渉を続け、なんと!あの有名な守護・地頭の設置を後白河法皇に認めさせました。
北条時政は、その後も京に残り戦後で無法地帯と化す京の治安維持に努めました。この他にも平家残党の捜索や源義経の監視など多岐にわたる活躍をします。
・・・というのが、京都守護の始まりでもあり、六波羅探題の原型でもあります。
京都守護の主な役割は、朝廷の監視、朝廷との交渉、京内の御家人の統率でです。六波羅探題の前身だけあって、六波羅探題と役割が似てますね!
六波羅探題の役割
承久の乱により京の監視を強化するために設置された六波羅探題ですが、具体的にはどんな役割を担っていたのでしょうか。
まず、京都の監視能力の強化ということで2点、京都守護との大きな違いがあります。
1つが、京都守護が代表が1人だったのに対して六波羅探題では代表が2人いたこと。六波羅の南と北にそれぞれ2人が構えていたので、南方と北方と言います。監視強化の1つとしてシンプルに人数を増やしたわけです。
2つ目が、鎌倉幕府の次期エースが赴任するようになった点です。初代は御成敗式目を制定したことで有名な3代目執権の北条泰時でした。その後、六波羅探題は北条氏の世襲となり、特に北方は出世コースであり、京都守護と比べて赴任する人物のレベルも上がりました。
こうして監視体制を強化した六波羅探題には以下のような役割が求められていました。
それぞれ簡単に解説します。
最初の朝廷の監視は、これまで話してきた流れのとおり!
そして2の西国御家人の人事や監視は、承久の乱以後初めて必要となった役割となります。当時はメールも電話もない時代ですから、鎌倉幕府と物理的な距離が離れれば離れるほど統治が難しくなるわけで、そこで西国御家人の管理を任されたのが六波羅探題なのでした。
これは大きすぎる権限のように感じるかもしれません。しかし、前述したように京都守護と比べて六波羅探題のトップにはエース級の人物が就任することが多かったので、そこまで不思議な話でもないんです。
承久の乱の後、西国には次々と地頭が設置されていきます。地頭とは幕府直轄の徴税任務の代表者。「地頭ってなんだ?」って方は以下の記事を読んでみてください!
地頭は他人から金を徴収するその仕事柄、色々とトラブルも多く、そんな争い事の裁判役として機能したのが六波羅探題でした。これが3番目の内容。
最後に京内の治安維持ですが、どうやら当初は京内の治安維持は朝廷に任せる方針だったと言われています。(朝廷には「検非違使(けびいし)」という京内の治安を守る役職がちゃんとあった!)
ところが、当時の情勢を考えると朝廷が治安維持などできるわけがありませんでした。なぜかというと、承久の乱で京方の兵が軒並み消え去ってしまったから。
肝心の兵力を戦で失った朝廷が京内の治安維持などできるわけがなく、なし崩し的に六波羅探題が京の治安維持の任を行うようになりました。
ザッと六波羅探題の役割を紹介してみました。六波羅探題の役割には大別して以下の2種類があることがわかりますね。
六波羅探題まとめ
以上、六波羅探題について紹介してみました!
六波羅探題の設置によって、京や西国をも監視下に置いた幕府はようやく本格的な武家政権を確立させることになります。そして、これと同時に朝廷権力は失墜し、皇位継承も不安定になっていきます・・・。
六波羅探題は1331年に始まった後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)に幕府が敗北したことで、その役割を終えることになります。
ちなみに室町時代になると、幕府そのものが京に置かれることになるので、京を監視するための組織は不要となり、六波羅探題と類似するような機関は登場しなくなります。
あと六波羅探題に似た組織で「鎮西探題」っていうのもありますが、これは元寇で九州が緊急事態に陥った後に設置された機関なので六波羅探題とはまた別な機関になります。ただ、鎮西探題にも六波羅探題にも共通しているのは「元寇」「承久の乱」という大きな事件があった後に設置されたという点です。
コメント
平家物語では、六波羅は地名としてあったのですが、太平記で六波羅探題とあるので、混乱していましたが、これで良く解りました。