今回は、鎌倉幕府を開いた源頼朝について、わかりやすく丁寧に紹介するよ!
関東の猛者、父の源義朝
1147年、源頼朝は、源義朝と由良御前の間に生まれました。
父の源義朝は、一族同士の所領争いが続いてた関東南部を、わずか20代という若さで治めた猛者でした。
おまけに源義朝は、後三年の役の勝者として関東武士たちに語り継がれていた英雄源義家の子孫でもあります。
この武勇と血筋によって、源義朝は南関東を治めるリーダーとして君臨し、その後は京での出世を考えるようになります。
1145年頃には、朝廷に大きな人脈を持っていた藤原季範の娘、由良御前を正室に。この人脈を活かし、時の権力者である鳥羽法皇に仕えました。
その後は、受領に就任するなど順調に出世を続けましたが、1159年、政争である平治の乱で平清盛に敗北。
反逆者となった義朝は平清盛の追手に殺され、息子の源頼朝は伊豆へ流刑となり幽閉生活を強いられることになります。
源頼朝の幽閉生活
こうして、まだ10代前半だった源頼朝は、青年期を幽閉先の伊豆で過ごすことになります。
英雄(源義家)の血を引く血筋、それに加えて南関東のボス源義朝の息子だったこともあり、源頼朝を慕う者も多く、幽閉されたわりには比較的恵まれた環境で育っていくことになります。
もちろん、完全なる自由というわけではありません。源頼朝には監視役が付けられ、不穏な動きがないか常に見張られていました。
・・・しかし、源頼朝は不穏な動きをすることもなく、お経を読んで父の弔いをしたり、山に狩りをしに出かけたりと、平和な日々を過ごしていました。
北条政子との出会い
幽閉生活も10年が経過すると、源頼朝も20代となり立派な大人に。
源頼朝は、罪人でありながら、その血筋からかなりモテました。(きっとルックスも良かった・・・?)
そして、モテすぎたがゆえにトラブルも起こります。1175年、監視役の伊東祐親が京に出張して不在だった隙に、源頼朝はその娘(八重姫)を妊娠させ、伊東祐親をブチギレさせてしまったのです。
八重姫よ、なんてことをしているんだ!!
罪人の源頼朝と伊東一族が血縁関係を持ったことが平家一門の知るところとなれば、伊東家は謀反の嫌疑をかけられ滅亡するんだぞ!
全ては、源頼朝が私の娘をたぶらかしたのが悪い。平家に存在がバレる前に乳飲児も源頼朝も消し去ってしまおう。
源頼朝は山へ逃げ込み、なんとか一命を取り留めましたが、しばらくして、また似たような事件を起こします。
1170年代後半、源頼朝は、伊豆の弱小一族北条時政の娘である北条政子と親密な関係を持つようになります。
伊東祐親と同じく、北条時政もこれに激怒します。
政子よ、お前は伊東祐親の娘の二の舞を踏むつもりか!
断じて源頼朝との結婚は認めん!伊豆国の目代である山木兼隆様との縁談を用意してあるから、そっちと結婚するんだぞ!!
※目代:国の支配者(国司)から現地の管理を任されている人のこと
父の逆鱗に触れた北条政子は、源頼朝から引き離されて山木兼隆の元へ送還されてしまいますが、旅路の途中で脱走。女性一人で危険な山道を歩き、源頼朝の元へ向かいます。
北条時政は、娘の頼朝への深い愛情を知ると、二人を引き離すのを諦め、源頼朝との結婚を認めた・・・と言われています。
伊東祐親の時と同じく、「源頼朝と血縁関係を持つ」=「平家にバレたら一族が滅びるかもしれない」ということです。
当時(1170年代後半)は、平家一門が朝廷を支配し、「平家にあらずんば人にあらず」という名言があるように、圧倒的な権力を持っていました。
そんな中、当時弱小一族だった北条時政が娘と源頼朝との結婚を認めたのは、ある意味で北条一族の命運をかけた大博打でした。
このまま平家に服従して過ごすぐらいなら、関東の英雄である源氏の血に人生を賭けてみようではないか。
もし北条政子と源頼朝の関係がバレれば、北条氏は滅亡。しかし、源頼朝が将来天下を取れば、北条氏もまた大出世できます。
感動の恋愛エピソードの裏には、そんな政治的な思惑も働いていました。
源頼朝、挙兵する
頼朝と政子が結ばれて少しが経過した1180年、源頼朝の運命を大きく変えることになった大事件が起こります。
1180年4月、平家一門のせいで皇位継承争いに敗れた以仁王が、平家に対して挙兵計画を企てたのです。
以仁王は、単独で平家に対抗するのは不可能とみて、全国各地の源氏たちに挙兵を呼びかけます。源氏の中には平家の横暴に不満を持っている者が多かったので、協力者も多いと考えたのです。
・・・が、1180年5月、以仁王の計画は実行前に平清盛に露呈。以仁王は、平家軍に討ち取られてしまいます。
挙兵を未然に防いだ平清盛は、これを機に全国各地の危険分子の排除を考えるようになります。
以仁王は、全国各地に挙兵を呼びかけていた。
これを放っておいては、各地で反乱が起こるかもしれん。というわけで、心当たりのある危険人物は今のうちに消しておこうと思う。
この平清盛の予想は、おおむね当たっていました。以仁王の呼びかけに応じて各地の源氏たちは、挙兵の準備を始めていたのです。
源頼朝のところにも1180年4月末、以仁王からの手紙が届いていました。しかし、頼朝は動かず様子見を続けます。
平家の監視下に置かれている状態で挙兵するなんて無謀すぎるしな・・・
しかし1180年6月、源頼朝のもとに不穏な知らせが入ります。
平家軍に源氏討伐の動きあり!このまま伊豆にいては危険!!
この知らせによって、源頼朝は否が応でも決断を迫られることになりました。
私の先祖である源義家は、後三年の役を平定した英雄であるし、父の源義朝は南関東の武士たちをまとめ上げた偉大な父であった。
だというのに、今の私は一体なんだ。このまま平家に怯えて、北条氏の世話になって暮らせというのか。
いま立たずしていつ立ち上がる!逃げなどせぬ!私は挙兵するぞ・・・!
関東地方では、北条時政のように表向きは平家に従いつつも、内心は源氏に期待をしている者が多くいました。
そこで源頼朝は、密使を関東各地に送って挙兵を呼びかけ、準備を進めることにします。
石橋山の戦い
挙兵のために源頼朝が最初のターゲットとしたのが、伊豆の目代である山木兼隆でした。
山木兼隆を討った後は、頼朝に賛同してくれた三浦半島の三浦氏と合流し、兵力を増強する計画です。
源頼朝は、参戦してくれそうな武士たちを集め、一人一人部屋に呼んでこう言います。
今私が本当に頼りにできるのはお前一人だけだ。今回の挙兵では、そなたの活躍に大いに期待している。
多勢に無勢の中、頼朝からの激励を受けた武士たちの士気は大いに高まります。
源頼朝は、強いリーダーシップを持ち、人心掌握がとても巧みだったと言われています。あえて、一人一人を個室に呼んで激励するこのエピソードも、そんな頼朝の性格を示すエピソードの1つです。
さらに山木兼隆の元へスパイを送り込んで、館内地図や周辺の地形を把握。準備が整った8月17日、ついに山木兼隆邸への奇襲攻撃が始まります。
この奇襲は大成功。山木兼隆の首を討ち取り、ひとまず計画の第一段階は成功しました。
・・・が、ここから先が茨の道でした。
源頼朝は、三浦半島を目指し北上をしますが、肝心の三浦氏がなかなかやってきません。モタモタしているうちに、平家の手先である伊東祐親・大庭景親が源頼朝に襲いかかってきました。
8月23日、源頼朝は相模の石橋山に陣取り300騎を率いて、約3000騎の伊東祐親・大庭景親と衝突するも、結果は惨敗。
大敗した源頼朝は洞窟の中に隠れますが、この洞窟も大庭景親軍に知られ、絶体絶命のピンチに陥ります。
・・・ところが、洞窟の発見者だった梶原景時という男が、大庭景親にこう報告します。
洞窟の中には、誰もいませんでした。向こうの洞窟が怪しいです!
梶原景時は、源頼朝に向かってこう囁きます。
この度は、源実朝殿をお助けいたします。
戦いに勝った暁には、私への褒美をお忘れなく
梶原景時よ、感謝する。助けられたこの命、絶対に無駄にはせぬ・・・!!
梶原景時のナイスプレイで一命を取り留めた源頼朝は、かろうじて三浦一族と合流。その後は、東京湾を渡って相模国(今の神奈川県)を抜け出し、安房国(今の千葉県南部)にて体制を立て直すことになりました。
※頼朝の命を救った梶原景時は、その後、源頼朝に仕えて大活躍することになります。
この時、源頼朝が隠れた洞窟は「おとどの窟」と呼ばれ、今では観光地になっています。
参考URL湯河原温泉 公式観光サイト「おとどの窟」
源義経との出会い【富士川の戦い】
安房国で源頼朝は、平家の政治に不満を持つ千葉常胤・上総広常などの有力武士を味方に引き入れ、戦力の大増強に成功。
源頼朝は、再挙して再び相模国を目指します。今で言う千葉県→東京都→神奈川県の順番で、東京湾に沿って陸上を進軍していきました。
道中では源頼朝に賛同する武士たちが次々と集まり、頼朝の軍が相模国に近づいた9月末には、2万を超える大軍団になっていたと言われています。
平家軍は膨れ上がった頼朝軍に圧倒され、これに手を出すことができません。大きな抵抗もなくあっさりと相模国に入った源頼朝は、そのまま鎌倉に向かい、ここを自らの本拠地に定めました。
1180年10月、京から送られてきた平家の遠征軍が富士川(今の静岡県富士市)に接近すると、源頼朝も、これを迎え撃つため出陣。
富士川で両者が衝突します。勝ったのは源頼朝。石橋山の戦いでの大敗とは打って変わって、見事な快勝に終わりました。(富士川の戦い)
富士川の戦いの後、源頼朝は、自分の下へ馳せ参じた生き別れの異母弟、源義経と感動の対面を果たしました。
兄上が挙兵したと聞いて、奥州からここまでやってきました。
これからは、兄のために私も戦います!
対面を果たした頼朝・義経兄弟。この2人は、なんとも数奇な運命を辿ることになります。
源頼朝の大躍進【寿永二年十月宣旨】
源頼朝は関東で多くの味方を手に入れました。しかし、日の浅い信頼関係では裏切りの可能性があったり、そもそも関東には源頼朝に敵意を示すものも残っていました。
この状態で京に進軍すれば、その隙を突いて本拠地の鎌倉が襲撃されるかもしれません。
そこで源頼朝は、後顧の憂いを断つため、平家を倒す前にまずは関東を平定することにしました。
※関東の背後にいる奥州藤原氏の動きを警戒していたことも大きな理由の1つでした。
源頼朝が関東の平定に力を注いでいる頃、頼朝と同じく以仁王の呼びかけに応じて信濃国(今でいう長野県)で挙兵した人物がいます。
その名は、源義仲(別名:木曾義仲)。
源義仲は破竹の勢いで平家軍を撃破。1183年7月には、ついに京から平家一門を追放することに成功します。平家を追放すると、源義仲は、後白河法皇に仕えることで平家に代わって強大な権力を得ようと考えます。
・・・しかし、平清盛に抑圧されていた後白河法皇は、源義仲が第二の平清盛になることを嫌います。
そこで後白河法皇は、源頼朝を京に呼び出して、この両者を争わせることを画策します。
これまでの歴史や私の経験上、武士というのは敵がいなくなると朝廷に圧力をかけてくる。平清盛が良い例だ。
つまり、常に武士たちを扇動し、争わせ続けた方が朝廷は安定するのだよ。
しかし、呼び出しを受けた源頼朝はタダでは動きません。源頼朝は、水面下で後白河法皇と交渉を行い、以下の条件で交渉はまとまりました。
この条件は、1183年10月、寿永二年十月宣旨と呼ばれる文書によって公式なものとなります。
源頼朝本人は、奥州藤原氏に備えるため鎌倉を動けないので代理の者を送ること
東海道・東山道の諸国から年貢(食料)を京に送ってあげる代わりに、源頼朝に東海道・東山道諸国の支配権を与えること
寿永二年十月宣旨を知った源義仲は、これに強い不快感を示します。
京から平家軍を追い出したのは俺だ!!
それなのに、なぜ後白河法皇は源頼朝を優遇するのだ。私をコケにするような言動を続けるのなら、後白河法皇とて容赦せん・・・!!
実は、源義仲の父は、源頼朝の父(源義朝)に関東での覇権争いで敗れ、命を落としています。
つまり、義仲にとって頼朝は父の仇同然の存在であり、源頼朝のことを認めることは到底デキることではありませんでした。
1183年11月、ブチギレた源義仲は後白河法皇を無理やり幽閉し、権力を掌握。(法住寺合戦)
この傍若無人な義仲の振る舞いは、源頼朝に絶好のチャンスを与えることになります。
源義仲とはいずれ対立することになる。今なら「後白河法皇を助ける!」という大義名分もあるし、これを機に源義仲を討ち取ってしまう!
1184年1月、源頼朝が送り込んだ源義経・源範頼軍と源義仲軍が宇治川にて衝突(宇治川の戦い)
これに勝利した源義経・範頼が今日に入ると、源頼朝が平家に代わる強大な力を手に入れることになりました。
内乱の終焉【一ノ谷・屋島・壇ノ浦の戦い】
京に平和が戻ると、後白河法皇は源頼朝に対して、すぐに平家追討を命じます。
源頼朝は、源義経・範頼を派遣し、平家軍を次々と撃破。1184年3月の一ノ谷の戦い、1185年2月の屋島の戦いで、平家軍を壇ノ浦まで追い詰ると、1185年3月、平家を滅亡に追い込みました。(壇ノ浦の戦い)
治承・寿永の乱で大きな名声と功績を残したのが、源義経でした。もともと自由奔放な性格だった源義経は、大きな武功を挙げると、自らの力を過信し、次第に兄の頼朝の言うことを無視するようになります。
この小さな軋轢は次第に大きくなり、日本全国を巻き込んだ壮大な兄弟喧嘩が始まることになります・・・。
兄弟争い【源頼朝VS源義経】
実は勝者となった源頼朝には、平清盛に代わる朝廷の権力者になってやろう!という野心を持っていませんでした・・・というか、それを超えるはるかに壮大な構想を考えていました。
朝廷の権力を握った平家一門は、反乱を起こした武士たちによって倒された。私が今のまま権力を握っても、また新しい反抗勢力が私を倒すであろう。
そもそも、各地で力をつけた武士たちに対して上から目線で命令するこれまでの仕組みでは限界がある。
だから私は、朝廷から独立した、武士たちを統率するための新しい組織(後の鎌倉幕府)を関東に立ち上げ、そのリーダーになろうと思う。
皮肉にも、この構想を実現する上で、最も邪魔な存在だったのが、戦いを勝利に導いた弟の源義経でした。
源頼朝は治承・寿永の乱が終わると、武士たちに対して「朝廷から勝手に官位を貰わないように!」と厳重な注意を言い渡します。
武士たちが官位をもらって朝廷に仕えてしまうと、武士たちの主君は朝廷ということになり、源頼朝が関東武士のリーダーとなる大義名分が失われてしまうからです。
しかし、源義経はこの命令を無視しました。世間でヒーロー扱いされていた義経の行動は、他の多くの武士にも影響を与えてしまいます。つまり、義経1人の命令無視が、武士100人の命令無視に繋がることだってあるわけです。
頼朝の父、源義朝は関東で過酷な同族争いを繰り返していました。
その背中を見て育った頼朝にとって、名声を得た弟(源義経)の存在は、我が身を滅ぼしかねない超々危険人物に映っていたのです。
ヒーロー扱いされて有頂天になっていた源義経は、このような兄の心境を理解することができませんでした。
源頼朝は、この弟の命令無視に大激怒。1185年5月、戦いを終えて帰国する義経を腰越(今の鎌倉市江ノ島の近く)で追い返し、鎌倉から追放してしまいます。
確かに兄の命令を無視したことは悪かった。でも、戦いを勝利に導いた俺の功績を考えれば、鎌倉に一歩も入れないというのは、あまりも酷い仕打ちだ。
兄がそこまで嫌がらせをすると言うのなら、俺は俺なりに抵抗させてもらうからな・・・!!
鎌倉から追放された源義経は、源頼朝に対抗するため京に向かい、後白河法皇を頼ることにしました。
後白河法皇も、源義経を歓迎して迎え入れます。後白河法皇からすれば、義経と頼朝が戦って、お互いに疲弊してくれるのは好都合だったのですから、歓迎するのは当然です。
平安時代の朝廷は、軍事を武家に頼っていたせいで、自前の軍事力を持っていませんでした。
なので、後白河法皇が成長する武家に対抗するには、法皇の権威を振りかざして人心を掌握し、武家同士を争わせ弱体化させるしかありませんでした。
後白河法皇は、当初は源義仲と源頼朝を争わせていましたが、次は兄弟同士で争いを起こさせようと考えていたのです。
1185年10月、先に動いたのは源頼朝でした。源義経が、京で不穏な動きをしていることを知ると、義経を暗殺するため、京へ軍を派遣したのです。
しかし、源義経の暗殺は失敗。源頼朝は、義経を討つため、次は北条時政を司令官とする大軍を京へ派遣します。
義経よ、お前はもはや関東に新組織を樹立するのに邪魔な存在だ。
弟とはいえ容赦はしない。全力を持ってお前を倒す・・・!!
鎌倉幕府の成立
頼朝の動きを知った源義経は、すぐさま後白河法皇の元へ向かい、嘆願します。
源頼朝を討つ命令を出していただけないでしょうか。
『朝廷の命令を受けて頼朝を討つ!』という大義名分を得ることで、兵たちの士気は上がり、思う存分戦うことができます!!
後白河法皇は、命令を出すことを躊躇いました。「源頼朝追討の命令を出す」=「最強の武家になっていた源頼朝に正面切って喧嘩を売る」だったからです。
しかし、義経の気迫に押され、最終的に源頼朝追討の命令を出してしまいました。そしてこの判断こそが、後白河法皇にとっての大きな大きな誤算となります。
というのも、いざ源義経が兵を集めようとすると、多くの武士たちが源頼朝の逆鱗に触れるのを恐れて、参戦を拒否してしまったからです
兵を集めることのできなかった源義経は西国へ逃亡。すると、危険を察した後白河法皇は手のひらが返しで、次は源義経追討の命令を出します。
源頼朝追討の命令はちょっと魔が差しただけで、撤回するから!!決して源頼朝に喧嘩を売ったわけじゃないから!!
私が本当に追討したいのは、源義経なんだ。一緒に協力して源義経を討ち取ろう!(震える声)
1185年11月、その隙に源頼朝が派遣した北条時政軍が京に到着。源頼朝は、手紙や北条時政を通じて、後白河法皇を脅します。
魔がさしただと?調子の良いことばかり言うな。
私は多くの朝敵(平家一門・源義仲など)を倒し、政治を法皇様にお返しした。
その私に対してなぜ追討命令が出るのだ。
源義経追討の命令を出したからといって、私に刃を向けた事実は変わらぬ。
私は義経と戦うため、全国の所領に配下の武士たちを送り込み、兵糧米の徴収や軍の指揮を任せたいと考えている。法皇様には、戦時中、私の配下が各地の所領を支配することを認めてもらいたい。
これは、北条時政の大軍を率いての脅しである。義経という軍事力を失った法皇様では、絶対にこれに逆らうことはできぬ。
大軍に脅されている後白河法皇は、この源頼朝の提案を受け入れざるを得ません。源頼朝は、売られた喧嘩を利用して、逆に全国の所領を実効支配する口実を手に入れ、各地に配下の武士たちを送りこむことに成功したのです。
源頼朝は、1183年の寿永2年10月宣旨ですでに東海道・東山道の支配権を認められています。今回の件で、たとえ戦時中の臨時措置とはいえ、源頼朝の支配権は全国に及ぶことになりました。
全国に支配権を広げた1185年11月をもって、源頼朝が関東で立ち上げた新政権は名実ともに強力な権力を持つと組織とみなされ、日本史では、この新政権を鎌倉幕府と呼んでいます。
※この時に送り込まれた武士たちは、後の守護・地頭となっていきます。
源頼朝の晩年
西に逃げた源義経は、各地を転々と渡り歩き、1188年、最終的に奥州藤原氏のところへ逃げ込みます。
※なぜいきなり奥州藤原氏が登場したかというと、治承・寿永の乱が起こる前まで源義経は奥州で暮らしていたからです。
奥州藤原氏とは、現時点では敵対関係にないが、圧倒的な力を持ちながら関東の背後に位置する危険な存在。
弟(義経)を匿ったことを口実に、関東の平和のため、弟もろとも奥州藤原氏も滅ぼしてしまおう・・・!!
1189年4月、源頼朝が奥州へと攻め込む構えを見せると、奥州藤原氏の4代目当主だった藤原泰衡は、これにビビって義経を匿うことをやめて、義経を自害に追い込んでしまいます。
・・・が、源頼朝は攻めの姿勢を緩めません。
今さら弟を亡き者にしたところで、奥州藤原氏がこれまで弟を匿っていた事実は変わらぬぞ!!
1189年7月、源頼朝は自らを総大将として奥州に攻め込みます。(奥州合戦)
結果は、源頼朝の勝利。源義経、そして奥州藤原氏の滅亡によって、敵のいなくなった源頼朝はまごうことなき天下人となったのです。
1192年には、日本No1の武士に与えられる征夷大将軍の役職を朝廷から与えられ、実力のみならず、公にも頼朝は武家の頂点に立つことになりました。
武家の頂点に立った源頼朝が次に狙ったのは、朝廷工作です。
源頼朝は、娘の大姫を有力貴族や皇族と政略結婚させることで、朝廷を内側から支配しようと画策したのです。・・・が、さすがの源頼朝も、陰謀うずまく朝廷を簡単に攻略することはできません。
1197年、病弱だった娘(大姫)がわずか20歳で亡くなると、源頼朝の朝廷工作は失敗に終わり、失意の中にあった1199年、源頼朝は突然の落馬によって急死。その生涯に幕を閉じることになりました。
源頼朝の生涯まとめ【年表付】
- 1147年源頼朝、生まれる
- 1159年父の源義朝が平治の乱に敗れ、源頼朝は伊豆に流される
- 1170年代後半源頼朝、流刑地の伊豆にて北条政子と結ばれる
- 1180年8月石橋山の戦い
源頼朝が平家を倒すため挙兵。初戦の石橋山の戦いで敗北する
- 1180年10月富士川の戦い
源頼朝VS平家。源頼朝が勝利する。戦いの後は、鎌倉を拠点に関東地方の平定を進める。
- 1183年7月源頼朝より先に源義仲が、入京。平家を京から追放する
- 1183年10月寿永二年十月宣旨
源義仲と朝廷の関係が悪化し、朝廷が密かに源頼朝に接近。源頼朝に東国の支配を認める。
- 1185年3月壇ノ浦の戦い
平家が滅亡し、治承・寿永の乱が終戦する。
- 1185年5月源義経を鎌倉から追放
- 1185年11月鎌倉幕府成立
「源義経を討つ軍の指揮と兵糧米確保のため」という口実で、全国各地に源頼朝配下の武士たちを送り込む。
源頼朝の影響力が全国に及んだこのタイミングが、教科書では鎌倉幕府の成立時期とされています。
※昔の教科書では、頼朝が征夷大将軍になった1192年が鎌倉幕府成立の年とされていました。
- 1189年奥州合戦
源義経を匿った奥州藤原氏を滅ぼす
- 1192年源頼朝、征夷大将軍になる
- 1197年娘の大姫が亡くなる
- 1199年源頼朝、落馬により急死
あまりにもあっさりとした死因なので、陰謀めいた何かがあったのでは?という説もあります。
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