鎌倉幕府の守護・地頭を簡単にわかりやすく解説する!

今回は、鎌倉幕府に源頼朝によって配置された「守護」「地頭」という役職について紹介してみます。

 

教科書的に言えば、

  1. 地頭:各国の年貢徴収や土地管理の責任者。
  2. 守護:国の治安維持を行う軍事責任者

 

という感じでしょう。これだけだと無味乾燥で面白くありませんので、ここではもう少し掘り下げて守護地頭について解説してみようと思います。

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守護・地頭はとても難しい!

守護と地頭の話。複雑で難しいと感じたり、話の流れが掴めない・・・なんて人が多いと思いますが、実はその感覚は正しいです。

 

源頼朝が守護・地頭という組織をどのように形成したのかは、昔から多くの議論が重ねられていますが、今でもわからない点が多いのです。

 

わからない点が多いだけではなく、守護・地頭と一言に言っても、各地でその権限やあり方などに地域差があり、簡単に守護・地頭を説明するのは至難の技です。

 

ここでは、詳細な説明まではできませんが、簡潔に紹介してみたいと思います。

鎌倉幕府の「守護」とは?

守護は、各国の治安維持のために置かれた軍事機関ですが、そもそもの起源は源平合戦にあります。

 

源頼朝は1185年、自分に刃を向けた弟の義経を捕らえるため、各地に惣追捕使(そうついぶし)という軍隊の配置を朝廷に認めさせ、各地に武士たちを派遣させます。

 

この戦時中の義経逮捕部隊を、源頼朝は自らの武力や朝廷への根回しなどによって平時の治安維持部隊へと変化させてしまいます。それが「守護」という役職です。

 

「守護を置きます!」とかそんなはっきりした感じじゃなくて、戦時中の惣追捕使をうやむやな状態で平時にも置き続け、その存在を既成事実化させて出来上がったのが「守護」なんです。

 

このうやむや感がなんとも源頼朝らしいです。平安京の朝廷があるのに、鎌倉幕府の方で「守護を置くからよろしく!」なんて言っても朝廷軽視で印象が悪いですからね。うやむやに周囲の人が理解できないうちに既成事実化したのは、無駄な対立や批判を抑えたい政治・外交のプロだった源頼朝の策略なんじゃないかと私は思ってます。

 

そして、そんななし崩し的に創設された役職であるがゆえに、その詳細に迫るのが難しいというわけです。

守護は後の戦国大名になる

鎌倉時代初期の守護は、鎌倉幕府の将軍に任命権がありました。なので定期的な人事異動みたいなものもあったのですが、これが次第に世襲化し、世襲化した武家がその地域に土着し始めます。

 

土着化が進むと守護は、治安維持だけでなく担当区域の年貢の徴税にも関与するようになり、軍事力と徴税権を兼ね揃えた一国の主人みたいなポジションに変貌してゆきます。これが鎌倉時代後期〜室町時代に登場する守護大名ってやつです。守護のパワーアップバージョンみたいな感じです。

 

そして守護大名の中には、戦などにより隣国を合併し数国規模の地域を支配する超強力な守護大名も登場します。それが戦国大名。

 

この戦国大名が争い合い、国を1つにまとめ上げようとしたのが戦国時代になります。

 

守護という役職は、織田信長などの後の戦国大名に繋がる重要な役職なんです。

 

鎌倉幕府の「地頭」とは?

地頭も成立の背景は守護と似ています。

 

1183年、源頼朝は朝廷から「東国の徴税(米を朝廷に運ぶ!)は頼朝に任せる!」と宣旨をもらいます。いわゆる寿永2年10月宣旨というやつです。詳しくは以下の記事をどうぞ。

寿永二年十月宣旨とは?わかりやすく紹介【源頼朝と後白河法皇の外交戦】
前回は、倶利伽羅峠の戦いについて紹介しました。 倶利伽羅峠の戦いに大勝利した木曽義仲は、念願の平安京入りを果たします。木曽義仲は鎌倉にいた源頼朝にとってはライバル。源頼朝にとって木曽義仲の平安京入りはライバルに先を越されたことを意味します。 不利な状況となった源頼朝が、一戦の戦いもすることなく朝廷との巧みな外交術の...

 

こうして1183年に源頼朝は東国限定ですが、地方統治に介入する機会を得ました。

 

さらに1185年、守護の紹介部分でも触れた源義経追討のため、源頼朝は兵糧米の徴収権限を自分によこせ!!と朝廷に圧力を掛けます。

 

戦時中というイレギュラーな事態を利用して得た兵糧米の徴収権限を、そのまま平時の税徴収権限へと移し替えたのが地頭です。

 

これも守護と同じで、源平合戦や1190年の奥州合戦、さらにはその後の後白河法皇の崩御などの混迷ぶりを利用して、なし崩し的に地頭の存在を既成事実化してゆきます。

 

守護も地頭も、ポンと突如として創設されたわけではありません。戦乱を利用し、巧みに朝廷の反対を抑えた源頼朝の政治・外交スキルの賜物に他ならないのです。

 

地頭と国司(受領)の二重行政

 

地頭は源頼朝が任命権をもった役職で、鎌倉時代初期は同じ徴税業務を担う国司や各地の荘園領主と並存する形で設置されました。

 

地頭と、国司・荘園領主らはその立場上、対立関係にありました。要は税金の取り合いをしてるわけです。朝廷が税金をゲットするのか、それとも鎌倉爆破が勝手するのか、そんな戦い。

 

地頭と国司・荘園領主らの関係は非常に複雑で各地域でその関係は様々でした。

 

地頭請と言って、地頭が国司や荘園領主の納税業務を請け負い、地頭がマージンを得る形で実質的に税を折半したり、

 

そもそも管理する土地を地頭と荘園領主らで分けることもあったそうです。

 

これらは一例で、中には地頭がすべてを支配した地域があったり、逆に国司が強くて地頭が何もできない地域なんかもあったんじゃないかと思います。

 

また、地頭と荘園領主らの力関係は、鎌倉に近い東ほど地頭が強くて、西に行くほど荘園領主が力を持っていました。

 

というか、鎌倉時代初期は平安京以西では、国司らの力が強くて地頭を置くことすらできない地域がほとんどでした。

 

いずれにしても、地頭は従来の朝廷の税調権限を大きく侵食し、朝廷の力を大きく削ぎました。地頭の設置は、武士の世が到来したことを示す象徴的存在であるように思います。

 

泣く子と地頭には勝てぬ

 

地頭は武家政権「鎌倉幕府」の将軍に任命権があるので、当然ながら武士が任命されることが多かったのですが、武士はトラブルが起こるとすぐに武力で解決しようとするので、地頭は農民から恐れられていたと言います。

 

それに、地頭の仕事は税金の徴収ですから、トラブルがないわけがありません。

 

そんな喧嘩っ早い地頭を人々が恐れる様子から

 

泣く子と地頭には勝てぬという言葉が生まれるほどでした。

 

 

一応弁護しておくと、鎌倉幕府自体は武力による恐怖政治を望むはずはなく、鎌倉幕府には、農民からの訴えを聞き裁判をする機関もありました。問注所(もんちゅうじょ)って言います。

 

しかし、裁判の結果に納得できない地頭が暴れることもたびたびで、やはり地頭は恐ろしい存在だったのです。

守護地頭まとめ

 

以仁王の挙兵当時、源頼朝は反乱軍の一員でした。

 

それが1183年に木曽義仲と朝廷とのいざこざにつけ込むことで源頼朝は反乱軍の汚名を返上。

 

1185年、これまで私的な軍事組織に過ぎなかった源頼朝の鎌倉幕府は源義経追討を理由に朝廷に守護地頭の設置を要求。(当時はおそらく守護・地頭という名称もなかったのではと思う。)

 

こうして、源頼朝の鎌倉幕府は朝廷お墨付きの正式な軍事組織となります。

 

源頼朝は、戦時中に認められたこの権限を巧みな政治術や武力を背景に既成事実化します。源平合戦で平家が滅びると、源頼朝に対抗できる武力は無くなり、源頼朝は交渉を有利に進めることができました。

 

平時においても義経追討部隊はそのまま治安維持部隊に。これが守護。

 

そして、兵糧米の徴収権限はそのままその地域の税徴収権限に。これが地頭。

 

教科書的な感じで守護・地頭の話を聞くと面白くないけど、源頼朝の卓越した政治・外交術の集大成として守護・地頭制度を見てみるとなかなか興味深く感じることができます。というか、源頼朝は政治が上手すぎます・・・。

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