今回は、鎌倉幕府の重要な役職「守護」と「地頭」についてわかりやすく丁寧に解説していくよ
守護・地頭とは
守護も地頭も、任命したりクビにしたりする権利(任免権)は鎌倉幕府の将軍が持っていました。
守護・地頭はなぜ生まれたのか?
守護・地頭誕生の秘密は、治承・寿永の乱に隠されています。
本題からは少し逸れてしまいますが、治承・寿永の乱について簡単にお話をしていきます!
1180年、以仁王が平家に対して挙兵したことで、治承・寿永の乱が始まります。
源頼朝も以仁王に呼応して挙兵すると、多くの東国武士たちが源頼朝の下に集まり、源頼朝は朝廷を無視して独自に東国一帯を治めることになりました。
これは朝廷から見れば明らかな越権行為です。しかし、治承・寿永の乱が始まった当初、朝廷は源頼朝の行動を黙認しました。
なぜかというと、朝廷の貴族たちも朝廷を私物化していた平清盛のことをよく思っていなかったからです。
つまり、朝廷は「源頼朝が平家を倒してくれるのなら、少しぐらいの越権行為は多めに見てあげようじゃないか!」と考えていたのです。
しかし、朝廷の妥協はあくまで戦時中だけの話。源頼朝が平家を倒した瞬間、朝廷にとって源頼朝は次の平清盛になりうる消すべき存在となります。
源頼朝も、朝廷の思惑を十分に理解していたため、次のように考えました。
この戦い(治承・寿永の乱)が終われば、私も朝廷の標的にされるかもしれぬ。
そうならないためにも、この戦乱を利用して、なんとかして朝廷に私の東国支配を公式に認めさせる必要がある。
こう考えた源頼朝は、1183年、大きく動きます。
「平家を倒すため!」という名目で、自らの東国支配を朝廷に認めさせようとしたのです。
この作戦は大成功。源頼朝は朝廷から東国支配を公式に認められることになりました。(寿永二年十月宣旨)
しかも、源頼朝の攻勢はこれだけでは終わりません。
1185年、源頼朝が壇ノ浦の戦いで平家軍を破ると、次は、戦乱を通じて強くなり過ぎた源頼朝を排除しようと、予想通り、朝廷が頼朝に宣戦布告をしてきました。
しかも、朝廷が頼朝と戦わせようとしたのは、頼朝の弟である源義経。
これにブチギレた源頼朝は、兵力を京に送り込み、武力で朝廷を脅して宣戦布告を撤回させました。
さらに、頼朝の要求はそれだけでは収まらず、次のようなことを朝廷に要求します。
※3・4の部分が大事!!
軍事力で脅されている朝廷に、選択肢はありません。朝廷は頼朝の要求を受け入れ、義経の追討を命じます。
源義経は、身を隠しながら全国各地を転々としますが、1189年、奥州での戦いに敗れ、長きに渡る戦いがようやく終わりました。。(奥州合戦)
約10年続いた戦乱が終わると、朝廷貴族たちの多くは、源頼朝に与えた特権は当然に解除されるものと考えていました。
源頼朝に与えた特権は、あくまで戦時中の特例的なもの。平和が戻れば、頼朝の特権もなくなり、平安時代のような貴族の時代が再開するんだ・・・!
・・・が、屈強な武士たちを従える東国の支配者となっていた源頼朝は、朝廷の期待を裏切り、朝廷を脅したり交渉したりしながら、自らの特権を平時でも維持することを認めさせてしまいます。
そして、上で紹介した義経追討の際の4つの特権のうち、3・4の「義経追討のため、各地に頼朝の配下を送り込んで、現地を支配する」の部分が、平時になっても採用されて、各地に送り込まれるようになったのが守護・地頭でした。
・・・というのが、守護・地頭が生まれたきっかけです。
次に、守護・地頭それぞれの役割について見ていきます!
各国の御家人たちをまとめるリーダー的存在「守護」
守護は各国に1人配置され、国の治安維持(警察の役割)を担ったり、戦時中に国内の御家人を指揮するのが仕事です。
治承・寿永の乱やその後の義経追討の際には、守護は惣追捕使(※)と呼ばれていて、各国で兵糧米の徴収をしたり、不穏分子の監視・逮捕を担いました。
※1185年に義経追討が始まってからは、国地頭と呼ばれることもありました。
守護のメインの仕事は3つあって、3つまとめて大犯三カ条と言います。
大犯三カ条については、以下の記事で詳しく解説しています。合わせて読んでみてくださいね↓
現地に根付いて土地・人民を支配する「地頭」
地頭は、守護よりもさらに現地に密着した役職。
荘園や公領に送り込まれて、現地の土地や民衆を管理・支配するのが地頭の仕事です。
地頭は、荘園・公領での徴税・軍事・警察など多岐にわたる権限を持っていたため、現地で圧倒的な権力を持つようになります。
また、「地頭に任命される」≒「荘園・公領の支配者になる」とほぼ同じ意味だったため、地頭の任命は、将軍から御家人への御恩の1種(新恩給与・本領安堵)として行われました。
守護は地頭と兼任するもの【補足】
一般的な守護・地頭の説明だと、守護に選ばれる人と地頭に選ばれる人が別々だと考えてしまうこともあるかもしれませんが、基本的に守護は地頭も兼任しています。
わかりにくいので、少し補足説明しておきます。
御家人たちは、将軍から御恩(新恩給与・本領安堵)として地頭の任命を受けることで、生計を立てていました。任された荘園・公領の土地・民衆から徴収するお金や作物が御家人たちのお給料だったのです。
守護の仕事は、確かに立派です。内容だけ見れば、守護>地頭と感じるかもしれません。しかし、守護に任命されるだけでは、御家人たちは生計を立てることができません。なぜなら、守護の仕事は一国の完全支配ではないからです。あくまで、大犯三カ条を筆頭とする将軍に命じられた仕事をこなすのが守護の役目。
なので、守護は基本的に地頭にも任命されていて、自分の支配地を持っていました。地頭として生計を立てた上で、多くいる地頭の中から、他の地頭をまとめられるリーダー的存在として抜擢されたのが守護なのです。
鎌倉幕府と朝廷による二元支配
さて、ここまでの話だけだと1つ大きな疑問が生まれます。
鎌倉幕府が、守護・地頭を各地に送り込んで地方を支配しようとしているのはわかったよ。
でも、地方って平安時代からもともと朝廷が国司を任命して、支配をしていたはずだよね?朝廷による地方支配はどうなっちゃったの??
答えは「守護・地頭が置かれても朝廷による地方支配は続いていた」です。
この答えを聞くと、さらにもう1つ、疑問が生まれます。
なぜ守護・地頭が存在しているのに、朝廷が地方を支配することができるの?
その答えは、「地頭・守護は、建前上『朝廷の地方支配を支援するため』という名目で置かれたものだから」です。
言葉だけだとわかりにくいので、少し図解をしていきます。
まず、守護・地頭が置かれる前の状況↓↓
※図の中で役職がたくさん登場していますが、役職のことを知らなくても守護・地頭の話は理解できます。そのまま読み進めてみてください。
地方の土地は大きく公領と荘園に分かれ、それぞれ中央政府である朝廷が支配していました。この平安時代に土地制度を荘園公領制と言ったりします。
ただ、中央政府(朝廷)が日本中の土地・人民を地域に密着して直接支配することは不可能です。そこで朝廷は、土地・人民を現地で直接支配する役目を地方に人たちに任せました。(上図の点線より下の部分!)
次に、守護・地頭が置かれた後の図がこちら↓↓
この図から、1つとても重要なことがわかります。それは「守護・地頭は地方に置かれた存在であり、朝廷の地方支配の仕組みは一切変わっていない!」という点です。
建前上、守護は一国の公領を支配している在庁官人の仕事の一部(大犯三カ条など)を補佐したり、在庁官人を兼ねることで、朝廷の地方支配と共存することができました。
地頭も建前上は、朝廷の地方支配を助けてあげることが目的でした。公領では、地頭が郡司・郷司を兼任して朝廷に納める税金の徴税業務を支援したり、荘園では下司に代えて地頭が直接置かれて地方支配を行ったりしていました。
朝廷の地方支配の仕組みを残したまま、地方にだけ守護・地頭を送り込んだため、当時の地方支配の実態は、朝廷と鎌倉幕府が入り乱れたとても複雑な形になってしまったのです・・・。
それゆえ、一言に守護・地頭と言っても、その実態は、各地の事情に合わせて様々でした。
場所によっては守護・地頭が置かれない場所もあれば、逆に守護・地頭が地方の全てを支配している地域もあったりします。
いろんなタイプの守護・地頭
少しだけ、守護・地頭の実態を見てみましょう。
結論から言うと、守護・地頭のあり方は東国と西国で大きく違いました。
東国の守護・地頭
東国には、関東知行国・関東御領と呼ばれる将軍が持っている所領が大量にありました。
上の図で言うと、
関東知行国:将軍が公領(国衙領)の知行国主になっている国
関東御領:将軍が荘園の本家・領家になっている国
という感じです。
関東知行国・関東御領では、将軍は上図で言うところの「知行国主」「本家・領家」より下の役職の人事について強い影響力を持っています。
そのため、守護を在庁官人と兼任させたり、地頭を郡司・郷司・下司と兼任させることで、守護・地頭による一国支配が可能でした。
このような事情があるので、関東知行国・関東御領の多い東国では、二元的支配と言いつつも、実態としては鎌倉幕府が強い支配力を持っていました。
西国の守護・地頭
鎌倉時代初期の西国には、関東知行国は存在せず、関東御領が一部あるだけでした。
※西国に関東御領があるのは、平家が西国に持っていた所領を平家没官領として鎌倉幕府が奪ったためです。
しかも西国では、鎌倉幕府ができた後も朝廷が依然として強い影響力を持っていました。
そのため、そもそも地頭を置けなかったり、置けたとしても形だけの地域がほとんどでした。守護に関しても、朝廷の妨害工作などによって機能していない地域もありました。
西国に本格的に守護・地頭が置かれるのは、1221年に鎌倉幕府が承久の乱に勝利するのを待たなければなりません。
地頭VS国司・荘園領主(本家・領家)
地頭が置かれるようになると、公領では地頭VS知行国主、荘園では地頭VS荘園領主(本家・領家)の争いが頻繁に起こるようになります。
知行国主や荘園領主からみれば、守護・地頭は「自分ではなく、将軍に従う部下」です。
これを野球チームで例えるのなら、朝廷チームの監督(知行国主・荘園領主)が将軍チームの命令にしか従わない選手を引き連れて試合をするようなものです。
将軍が選手に「朝廷チームが負けるように試合をしろ」と指示すれば、朝廷チームは試合に勝てません。朝廷チームの監督は勝つために、手を抜いている選手たちを怒鳴りつけますが、選手たちは将軍の言うことにしか従わないので、意味がありません。
こうした指揮系統の違いから、鎌倉時代が進んでいくにつれ、地頭と知行国主・荘園領主の争いが各地で目立つようになっていきます。
※特に、鎌倉幕府の影響力が弱かった西国や畿内で対立が激化しました。
両者が争いに疲れ果てるようになると、地頭と国司・荘園領主の間で、妥協案として地頭請・下地中分といった和解策が採られることもありました。
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