

今回は、鎌倉幕府の重要な役職「守護」と「地頭」について、その違いや設置の目的をわかりやすく丁寧に解説していくよ!
「守護・地頭」と聞くと、教科書に出てくる堅い制度をイメージする人が多いと思います。
しかし実は、守護・地頭は源頼朝が弟・義経の追討を口実にして朝廷から巧みに勝ち取った「政治的な切り札」でした。戦時中の一時的な特権が、なし崩し的に平時にも引き継がれて、やがて日本の統治の根幹を変えてしまったのです。
守護・地頭とは
まずは守護と地頭、それぞれの定義をおさえておきましょう。
守護は、各国に1人ずつ置かれた鎌倉幕府の役職です。国の治安維持(警察の役割)を担い、戦時中には国内の御家人を指揮するのが仕事でした。
今でいえば「各県に1人配置された警察署長兼・軍の司令官」のようなイメージです。
地頭は、荘園や公領に配置された役職です。現地の土地や民衆の管理・支配、年貢の徴収などを担いました。
今でいえば「その地域に住み込んで税金の徴収や治安維持を行う現地マネージャー」のようなイメージです。
守護も地頭も、任命したりクビにしたりする権利(任免権)は鎌倉幕府の将軍が持っていました。

ざっくり言うと、守護は「国全体を見る管理職」、地頭は「現場で直接支配する実務者」だね。次に、なぜこの役職が生まれたのか、その背景を見ていこう!
守護・地頭はなぜ生まれたのか?
守護・地頭誕生の秘密は、治承・寿永の乱に隠されています。
■治承・寿永の乱と源頼朝の東国支配
1180年、以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨を発したことで、治承・寿永の乱が始まります。
源頼朝も以仁王に呼応して挙兵すると、多くの東国武士たちが源頼朝の下に集まり、源頼朝は朝廷を無視して独自に東国一帯を治めることになりました。

これは朝廷から見れば明らかな越権行為です。しかし、当初は朝廷もこれを黙認しました。
なぜかというと、朝廷の貴族たちも朝廷を私物化していた平清盛のことをよく思っていなかったからです。
つまり、朝廷は「源頼朝が平家を倒してくれるのなら、少しぐらいの越権行為は多めに見てあげようじゃないか!」と考えていたのです。
しかし、朝廷の妥協はあくまで戦時中だけの話。源頼朝が平家を倒した瞬間、朝廷にとって源頼朝は「次の平清盛になりうる消すべき存在」になります。
源頼朝も、朝廷の思惑を十分に理解していたため、次のように考えました。

この戦いが終わったら、次は俺が朝廷に潰されるかもしれぬ。
そうなる前に、この戦乱を利用して、朝廷に俺の東国支配を公式に認めさせよう!
■寿永二年十月宣旨で東国支配を獲得
こう考えた源頼朝は、1183年、大きく動きます。
「平家を倒すため!」という名目で、自らの東国支配を朝廷に認めさせようとしたのです。
この作戦は大成功。源頼朝は朝廷から東国支配を公式に認められることになりました。(寿永二年十月宣旨)

寿永二年十月宣旨によって、東国の荘園・公領に対する支配権が頼朝に認められたんだ。これが後の守護・地頭設置の布石になるんだよ!
■文治の勅許で守護・地頭を獲得
しかも、源頼朝の攻勢はこれだけでは終わりません。
1185年、源頼朝が壇ノ浦の戦いで平家軍を破ると、頼朝の弟である源義経が後白河法皇に強く働きかけ、頼朝追討の院宣を引き出しました。
※院宣とは、上皇や法皇が出す命令書のことです。天皇の命令(詔勅)に次ぐ権威を持ちました。


平家は没落したが、正直、頼朝が強くなりすぎた。義経と頼朝が兄弟喧嘩をしているのは利用できる。
ここは義経に院宣を与えて、頼朝を牽制してやるか。
※後白河法皇にも頼朝の権力拡大を牽制したい思惑がありましたが、義経の側から強く院宣を求めた面が大きいとされています。
これにブチギレた源頼朝は、北条時政を京に送り込み、武力を背景に後白河法皇に院宣の撤回を迫りました。
さらに、頼朝の要求はそれだけでは収まらず、次のようなことを朝廷に要求します。
※3・4の部分が大事!!
軍事力で脅されている朝廷に、選択肢はありません。朝廷は頼朝の要求を受け入れ、義経の追討を命じます。
こうして頼朝が朝廷から勝ち取った「各地に配下を送り込んで、現地を支配する権利」こそが、守護・地頭の設置を認めた文治の勅許(1185年)です。
※勅許とは、朝廷が正式に許可を与えることです。当時は後白河法皇が院政を行っていたため、実質的には法皇の判断で出されました。
義経は身を隠しながら全国各地を転々とした後、1189年、頼朝の圧力を受けた藤原泰衡に衣川で攻められ自害しました。その後、頼朝は奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、長きに渡る戦いがようやく終わりました。
約10年続いた戦乱が終わると、朝廷貴族たちの多くは、源頼朝に与えた特権は当然に解除されるものと考えていました。


でも、屈強な武士たちを従える東国の支配者となっていた頼朝は、朝廷の期待を裏切り、朝廷を脅したり交渉したりしながら、守護・地頭の設置を平時でも維持することを認めさせてしまったんだ。
つまり、もともとは「義経追討」という戦時の名目で認められた特権が、平時にも引き継がれたのが守護・地頭だったのです。
守護の役割と大犯三カ条
守護は各国に1人配置され、国の治安維持(警察の役割)を担ったり、戦時中に国内の御家人を指揮するのが仕事です。
治承・寿永の乱やその後の義経追討の際、守護は惣追捕使と呼ばれていました。1190年代に入ると「守護」の名称に変わっていきます。
守護のメインの仕事は3つあって、3つまとめて大犯三カ条と言います。
※大犯三カ条は、1232年の御成敗式目で正式に明文化されました。
テストに出るポイント
❶ 守護の仕事=大犯三カ条(大番催促・謀反人逮捕・殺害人逮捕)
❷ 守護は各国に1人、地頭は荘園・公領ごとに配置
❸ 設置のきっかけ=1185年の文治の勅許(義経追討が名目)
❹ 任免権は将軍が持つ(朝廷ではない!)

守護の権限は、あくまで「治安維持」に限定されていたのがポイントだよ。土地を直接支配して年貢を取る権限は、守護にはなかったんだ。
大犯三カ条については、以下の記事で詳しく解説しています。
地頭の役割と権限
地頭は、守護よりもさらに現地に密着した役職です。
荘園や公領に送り込まれて、現地の土地や民衆を管理・支配し、年貢を徴収するのが地頭の仕事でした。
地頭は、荘園・公領での徴税・軍事・警察など多岐にわたる権限を持っていたため、現地で圧倒的な権力を持つようになります。
また、「地頭に任命される」≒「荘園・公領の支配者になる」とほぼ同じ意味だったため、地頭の任命は、将軍から御家人への御恩(ご褒美)の1種(新恩給与・本領安堵)として行われました。
※新恩給与=新しい土地を与えること。本領安堵=もともと持っていた土地の所有権を将軍が保証すること。
地頭に任命されたのは鎌倉幕府で活躍していた屈強な武士たちでした。
血気盛んな武士たちの中には、現地の民衆を武力で支配する者も多く、基本的に地頭は人々から恐れられていました。
有名なことわざに「泣く子と地頭には勝てぬ」というのがあります。意味は「聞き分けのない子や権力者と争っても無駄である」というもの。
実際に、紀伊国の阿弖河荘(現在の和歌山県)の百姓たちが荘園領主に出した訴状には「地頭が年貢を横取りする」「農民を使役して私腹を肥やす」といった切実な訴えが記録されています。
民衆たちの地頭への恐怖心は、実は、今もなお諺という形で残っているのです。
守護と地頭の違いとは?
ここで、守護と地頭の違いを整理しておきましょう。
守護:各国に1人置かれる。仕事は治安維持・軍事指揮(大犯三カ条)。土地支配の権限はなし。
地頭:荘園・公領ごとに置かれる(多数)。仕事は年貢徴収・土地管理・治安維持。現地での実質的な支配者。

ってことは、守護の方が偉いの?守護と地頭って、別々の人が任命されるのかしら?

実は、守護は基本的に地頭も兼任しているんだ。
御家人たちは、将軍から御恩(新恩給与・本領安堵)として地頭に任命されることで、生計を立てていました。荘園・公領から徴収するお金や作物が御家人たちのお給料だったのです。
守護の仕事は確かに重要ですが、守護に任命されるだけでは御家人は生計を立てられません。なぜなら、守護の仕事は一国の完全支配ではなく、あくまで大犯三カ条などの限定的な職務だったからです。
つまり、守護は地頭として生計を立てた上で、多くいる地頭の中から「リーダー役」として抜擢された存在だったのです。
守護・地頭と国司はどう違う?

守護・地頭が各地に送り込まれたのはわかったけど、地方って平安時代からもともと朝廷が国司を任命して支配していたはずよね?国司とはどう違うの?
とても良い疑問です。守護・国司・地頭の違いを整理しましょう。
国司:朝廷が各国に派遣した地方官。徴税・裁判・行政などを幅広く担当。
守護:鎌倉幕府が各国に配置した武士。仕事は大犯三カ条に限定。
地頭:鎌倉幕府が荘園・公領に配置した武士。年貢徴収・土地管理を担当。

一番大きな違いは「誰が任命したか」だよ。国司は朝廷が任命、守護・地頭は鎌倉幕府(将軍)が任命したんだ。つまり、指揮系統がまったく違うんだね。
重要なのは、守護・地頭が設置されても、朝廷の国司制度は廃止されなかったという点です。
鎌倉時代の地方では、朝廷が任命した国司と、幕府が任命した守護・地頭が同時に存在する形になりました。これが「公武二元支配」と呼ばれる状態です。朝廷(公家)と幕府(武家)の両方が地方を支配するため、こう呼ばれます。
鎌倉幕府と朝廷の公武二元支配
二元支配の仕組みを、図解で見てみましょう。
まず、守護・地頭が置かれる前の状況↓↓

※図の中で役職がたくさん登場していますが、役職のことを知らなくても守護・地頭の話は理解できます。そのまま読み進めてみてください。
地方の土地は大きく公領と荘園に分かれ、それぞれ中央政府である朝廷が支配していました。この平安時代の土地制度を荘園公領制と言います。
ただ、中央政府(朝廷)が日本中の土地・人民を直接支配することは不可能です。そこで朝廷は、土地・人民を現地で直接支配する役目を地方の人たちに任せました。(上図の点線より下の部分!)
次に、守護・地頭が置かれた後の図がこちら↓↓

この図から、1つとても重要なことがわかります。それは「守護・地頭は地方に置かれた存在であり、朝廷の地方支配の仕組みは一切変わっていない!」という点です。

え、朝廷の仕組みがそのまま残っているのに、守護・地頭がいても問題ないの?

その秘密は「建前」にあるんだ。守護・地頭は、建前上は『朝廷の地方支配を助けるため』という名目で置かれたんだよ。
建前上、守護は一国の公領を支配している在庁官人の仕事の一部(大犯三カ条など)を補佐したり、在庁官人を兼ねることで、朝廷の地方支配と共存することができました。
地頭も建前上は、朝廷の地方支配を助ける目的でした。公領では地頭が郡司・郷司を兼任して徴税業務を支援し、荘園では下司に代えて地頭が直接配置されることもありました。
しかし実態は、朝廷の地方支配の仕組みを残したまま、幕府の守護・地頭が送り込まれたため、朝廷と幕府が入り乱れたとても複雑な二重統治になってしまったのです。今でいえば、県庁と国の出先機関が同じ地域で別々の指揮系統で動いているようなものですね。
東国と西国で異なる守護・地頭の実態
守護・地頭の実態は、東国と西国で大きく違いました。
■東国の守護・地頭
東国には、関東御分国・関東御領と呼ばれる将軍が持っている所領が大量にありました。
将軍家が知行国主(その国の支配権を持つ人物)として支配している公領(国衙領)のこと。将軍が国司の人事に関与でき、実質的な支配権を持っていました。
将軍家が持っていた荘園のこと。源氏累代の所領に加え、治承・寿永の乱で倒した平家から没収した所領(平家没官領=平家が滅んだ後に幕府が没収した所領)も含まれていました。
関東御分国・関東御領では、将軍が国司の人事にまで影響力を持っています。
そのため、守護を在庁官人と兼任させたり、地頭を郡司・郷司・下司と兼任させることで、守護・地頭による一国支配が可能でした。

つまり東国では、二元支配と言いつつも、実態としては鎌倉幕府がほぼ完全に支配していたんだね。
■西国の守護・地頭
一方、鎌倉時代初期の西国には、関東御分国は存在せず、関東御領が一部あるだけでした。
※西国に関東御領があるのは、平家が西国に持っていた所領を平家没官領として鎌倉幕府が没収したためです。
しかも西国では、鎌倉幕府ができた後も朝廷が依然として強い影響力を持っていました。そのため、そもそも地頭を置けなかったり、置けたとしても形だけの地域がほとんどでした。
西国に本格的に守護・地頭が置かれるのは、1221年に鎌倉幕府が承久の乱に勝利するのを待たなければなりません。
地頭VS荘園領主・国司
地頭が置かれるようになると、公領では地頭VS知行国主、荘園では地頭VS荘園領主(本家・領家)の争いが頻繁に起こるようになります。
知行国主や荘園領主からみれば、守護・地頭は「自分ではなく、将軍に従う部下」です。

これを野球チームで例えるなら、朝廷チームの監督(知行国主・荘園領主)が、将軍チームの命令にしか従わない選手を引き連れて試合をするようなものだよ。これじゃ、まともにチーム運営できないよね…。
こうした指揮系統の違いから、鎌倉時代が進むにつれ、地頭と知行国主・荘園領主の争いが各地で目立つようになっていきます。特に鎌倉幕府の影響力が弱かった西国や畿内で対立が激化しました。
両者が争いに疲れ果てるようになると、妥協案として地頭請・下地中分といった和解策が採られることもありました。
地頭請:地頭が荘園領主に一定額の年貢を納めることを請け負い、残りは地頭の取り分とする契約
下地中分:土地そのものを地頭と荘園領主で分割してしまう方法
承久の乱と新補地頭
1221年、承久の乱が起こります。後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとしましたが、幕府側が圧勝しました。

この勝利は、守護・地頭の歴史においても大きな転換点となります。
幕府は、朝廷方についた公家・武士の所領約3000箇所を一気に没収し、そこに新しい地頭を送り込みました。朝廷の権威を盾にして幕府を潰そうとした後鳥羽上皇の計画は、完全に裏目に出てしまったのです。この承久の乱後に新たに設置された地頭を「新補地頭」と呼び、それ以前から存在していた地頭を「本補地頭」と呼んで区別します。

承久の乱をきっかけに、それまで幕府の力が弱かった西国にも大量の地頭が送り込まれたんだ。これによって、鎌倉幕府の支配力は一気に全国に広がったんだよ!
また、幕府は京都に六波羅探題を設置して、朝廷の監視と西国の統治を強化しました。
守護から守護大名へ ― その後の発展
最後に、守護・地頭がその後どうなったのかを簡単に見ておきましょう。
鎌倉時代の守護は大犯三カ条に権限が限られていましたが、室町時代に入ると守護の権限は大幅に拡大していきます。
室町時代の守護に追加された権限
❶ 刈田狼藉()の検断権:他人の田の稲を刈り取る行為を取り締まる権限
❷ 使節遵行(:幕府の命令を国内で実行する権限
❸ 半済:荘園の年貢の半分を軍事費として徴収する権限
こうした権限拡大により、室町時代の守護は国内の武士たちを家臣化し、一国を実質的に支配する「守護大名」へと成長していきます。
さらに戦国時代に入ると、守護大名の中から実力で領国を支配する「戦国大名」が登場し、日本は群雄割拠の時代を迎えることになるのです。

鎌倉時代に「治安維持のお手伝い」として始まった守護が、やがて国を丸ごと支配する守護大名になっていくなんて、歴史って面白いよね!実は、あの有名な戦国大名・武田信玄も今川義元もルーツをたどれば守護大名なんだよ。
守護・地頭の年表
- 1180年治承・寿永の乱が始まる。源頼朝が東国で独自の支配を開始。
- 1183年寿永二年十月宣旨:頼朝の東国支配が朝廷から公認される。
- 1185年壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。文治の勅許により守護(惣追捕使)・地頭の設置が認められる。
- 1189年源義経が衣川で自害。奥州合戦で奥州藤原氏が滅亡。
- 1221年承久の乱:幕府勝利。西国に新補地頭が大量設置される。六波羅探題設置。
- 1232年御成敗式目制定。大犯三カ条が正式に明文化される。
- 室町時代守護の権限が拡大(刈田狼藉検断権・使節遵行・半済)。守護大名へと発展。

以上、守護・地頭のまとめでした。下の記事で鎌倉時代の関連トピックも解説しているので、あわせて読んでみてください!
- 山川出版社『詳説日本史』
- Historist「守護」「地頭」「文治の勅許」「大犯三箇条」「承久の乱」
- コトバンク「守護」「地頭」「大犯三箇条」「関東御領」「関東御分国」(日本大百科全書・世界大百科事典)
- Wikipedia日本語版「守護」「地頭」「文治の勅許」「奥州合戦」「承久の乱」「守護大名」
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