今回は、江戸時代に制定された武家諸法度について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
武家諸法度とは
武家諸法度とは、江戸幕府が国を安定して統治するため、「大名たちがしてはいけないこと13選!」を定めた法のことを言います。
武家諸法度は、江戸幕府が全国の大名たちを統率するための超重要な法でした。
江戸時代が約260年間(1603年〜1868年)という長い期間続いたのも、武家諸法度がうまく機能して大名たちの暴走を抑える方ができたから・・・というもあったりします。
武家諸法度が制定された時代背景
武家諸法度が制定されたのは1615年。同じ年、江戸幕府にとって超重要な大イベントがありました。
・・・それは、大阪の陣です。
1600年、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が起こり、豊臣軍が敗北しました。
敗北した豊臣軍の残党は大阪城に籠り、関ヶ原の戦い後も一定の勢力を保ち続けました。・・・つまり、天下をめぐる徳川VS豊臣の戦いは完全には終わっていなかったわけです。
1614年、徳川軍は豊臣軍の残党を根絶やしにするため大阪城に攻め込み、翌年1615年、これを滅ぼしました。
敵を一掃した徳川氏は、完全なる天下を手中に収めることに成功します。
そして、第二の豊臣氏を生まないため、大阪の陣に勝利したのと同じ年(1615年)に出されたのが武家諸法度でした。
・・・要するに、武家諸法度は「大名たちが強くなりすぎないようにするための法」というわけです。
武家諸法度の発布
武家諸法度は、当時将軍だった徳川秀忠の名前で発布されます。
※発布:法律などを世間に広く告げ知らせること。
・・・が、実際に武家諸法度の制定に向けて動いていたのは秀忠の父である徳川家康でした。
大御所の徳川家康は、側近の崇伝に命じ、崇伝の手によって武家諸法度が制定されました。
崇伝はもともと南禅寺の僧だったんだけど、有能すぎて家康の側近に抜擢され、家康の内政全般を担っていました。
崇伝は、黒衣をまとった僧でありながら幕政に深く関与していたことから、黒衣の宰相(※)と人々から呼ばれていました。
※宰相:君主を補佐する人のこと
武家諸法度は大名を統制するための法ですが、実は同じタイミングで幕府は、公家や天皇の行動を厳しく規制する禁中並公家署法度という法も制定しています。
そして、禁中並公家署法度もまた崇伝が立案したものだと言われています。
武家諸法度の内容
武家諸法度がどんな内容だったかというと、ざっくりと次のような内容でした。
内容を全て覚える必要はありません。
・・・ただ、中学校or高校の教科書でよく載っている赤線部分(3箇所)はしっかり覚えておきましょう!
赤線部分(第1条・第6条・第8条)について、少しだけ補足説明をしておきます。
第1条
文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事。
第一条は、ルールというよりも、大名に武士としての心構えを示したものです。
当時はまだ戦国時代が終わった直後だったため、大名には知力・武勇が求められました。
・・・が大名に求められる心構えは時代に合わせて変化していき、のちに第一条の内容は見直されることになります。(詳細は後でももう一度説明します。)
第6条
諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停 止セシムル事。
大名が城を修復したり新築することを禁止することで、大名のパワーアップを防ぐことを目的としたものです。
実は武家諸法度が制定されたのと同じ1615年、武家諸法度とは別に一国一城令という法も制定されていました。一国一城令は、「大名は一国に1つしかお城を持っちゃだめ!」っていう法です。
一国一城令の目的は武家諸法度第6条と同じです。複数の城を持つことを禁止することで、大名が力を削ごうとしたのです。
複数のお城を持っている大名には、城の廃城が求められました。
一国一城令で城を減らした後、大名が再び城を再建することができないよう、釘を刺したのが武家諸法度第6条の目的です。
第8条
私ニ婚姻を締フヘカラサル事。
ここでいう結婚というのは、いわゆる政略婚のことを言います。
大名たちが政略婚で関係を深めることで、大名同士が連携して江戸幕府に謀反を起こそうとするのを防ぐために設けられた規定です。
武家諸法度のルールを破ったらどうなるの?
武家諸法度は、幕府の治安を守る(大名たちの謀反を防ぐ)重要な法だったため、武家諸法度のルールを破れば、大名には厳しい処罰が与えられました。
処罰を受けた例として教科書にもよく取り上げられる広島藩の大名、福島正則の事例を確認しておきましょう!
武家諸法度が制定されてから4年後の1619年、福島正則は台風で破壊された城を直すため、武家諸法度の第6条に従って江戸幕府に届出を出しました。
武家諸法度を守って、ちゃんと届出してからお城を直すぞ!
・・・が、いくら待てども幕府からお城を直してOKかどうか、連絡が来ません。
うーん、お城をボロボロのまま放置しておけないし、幕府から連絡が来る前にお城を直してしまおう!
はいアウトー!
幕府の許可を得ずに城を直した武家諸法度違反で、福島正則には処罰を下しまーすww
えっ・・・!?
こうして福島正則は、改易(※)と呼ばれる処罰を受け、広島藩の藩主をクビにされてしまいました。
※改易:役職や所領を没収する刑罰のこと。
福島正則は、関ヶ原の戦いで先陣を切って武功をあげた功労者でした。
・・・が、たとえ功労者であっても武家諸法度に違反すれば、容赦なく重い処罰が下されました。
※ちなみに福島正則は、もともと豊臣家の家臣だったため江戸幕府にマークされていた・・・という特殊事情もありました。
寛永令と天和令
武家諸法度は、「一回制定したらはい終わり!」っとはならず、将軍の代がわりがあると繰り返し改正され、時代に合わせた見直しが行われました。
そのため武家諸法度と一言に言っても、「いつ改正されたものなのか?」によってその内容は全く違ってきます。
なので、どの時代の武家諸法度なのかを区別するために、武家諸法度を改正された年号で呼ぶことがあります。
例えば、先ほど紹介した13条からなる1615年に制定された武家諸法度は、1615年当時の年号「元和」を採って元和令と呼ぶことがあります。
数ある改正内容のなかで、教科書にも載っている特に重要なのが、
3代将軍徳川家光が改正した寛永令
5代将軍徳川家綱が改正した天和令
の2つです。
それぞれどんな内容だったのか、しっかり確認しておきます!
寛永令
寛永令は1635年(寛永12年)、3代将軍家光の時代に改正された武家諸法度です。条文数も13条から19条へと増えています。
寛永令の改正内容の大事なポイントは「参勤交代が義務化された」という点です。
元和令では「参勤交代するならルールを守ってね!」という内容でしたが、
寛永令では参勤交代が義務化され、参勤交代しないと武家諸法度違反で処罰を受けることになりました。
寛永令による参勤交代の義務化は、大名たちに重い負担が課して大名たちの力を削ぐことになっただけではなく、
各地方から江戸に向かう交通網が整備されたり、江戸の文化が各地方に広まったりと、社会に大きな影響を与えたよ。
天和令
天和令は1683年(天和3年)、5代将軍綱吉の時代に改正された武家諸法度です。
天和令の改正内容でポイントになるのは、大名の心構えを示していた第一条の内容です。
当初の武家諸法度(元和令)に比べて、「忠孝」や「礼儀」と言った儒教でよく使われる言葉が新たに増えています。
大名に求められる心構えが見直された背景には、社会情勢の大きな変化がありました。
初代家康〜3代家光の時代(1603年〜1651年まで、江戸幕府は大名を厳しい統制下に置いていました。
幕府の命令に背く大名には容赦なく改易の罰を与え、反抗する者は武力によって押さえつけることで、反乱の芽を摘んできたわけです。
・・・ところが時代が進むにつれ、各地で大規模な暴動が起こるようになり、武力と処罰だけでは治安を維持できなくなっていきます。
改易により大名がリストラされると、その家臣たちも職を失うことになります。
改易によって多くの大名がリストラ(改易)された結果、多くの家臣たちも職を失ってニート(牢人)となり、幕府への不満から各地で不安な動きが見られるようになったのです。
※特に大規模な反乱として、1637年には島原の乱、1651年には慶安の乱(由比正雪の乱)が起こりました。
うーん、幕府への不満を力で押さえつけるのはもう限界だ。
何か、他にいい方法はないものか・・・。
いろいろ考えた末、江戸幕府が採用したのが儒教の教えでした。
天和令第一条にある「忠孝」というも、儒教で重んじられている考え方です。
忠:臣下が君主に対して誠実に尽くすこと
孝:子が親のことを敬うこと
さらに儒教では、忠孝の気持ちを表現するための行いが礼儀であると考えられていました。
幕府が特に注目したのは「忠」の思想です。
儒教の教えが広まって大名たちが「忠」を重んじるようになれば、将軍に逆らう者は減っていくはず・・・!
もともと「武士道」の思想には仏教・儒教が色濃く反映されていたから、儒教の教えは大名たちにとっても受け入れやすい思想だったんだ。
まとめると、5代将軍家綱の時代は、武力に頼らない政治(文治主義)を目指していて、そんな事情を反映して改正されたのが天和令だったのです。
武家諸法度の改正は天和令以降も行われ、江戸幕府が滅亡するまで効力を持ち続けました。
武家諸法度まとめ
最後にここまでの話をまとめます。
確認問題
答: 2徳川秀忠
徳川家康と勘違いしやすいので注意!徳川家康は大御所として裏で動いていただけで、当時の将軍は2代将軍の秀忠でした。
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