

今回は後鳥羽上皇について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!承久の乱だけじゃない、その波乱万丈な生涯を一緒に見ていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
後鳥羽上皇といえば、承久の乱に負けた悲劇の人——そんなイメージを持っている人は多いでしょう。
でも実は、承久の乱に敗れた後も18年間、流された隠岐の島で和歌を詠み続け、日本文化に革命をもたらした天才でした。しかも今でも皇室のシンボルとして使われている菊花紋は、後鳥羽上皇が刀に彫らせた菊の意匠が起源だと言われています。
「敗れた天皇」ではなく、「歌・武芸・刀・政治のすべてに挑んだ多芸多才な革命家」——この記事では、教科書の数行では見えてこない後鳥羽上皇のリアルな生涯を、エピソードを交えながらわかりやすく解説していきます。
後鳥羽上皇とは?
① 三種の神器なしで即位した異例の天皇(1183年・第82代)。② 1221年に承久の乱を起こして鎌倉幕府の打倒を目指したが敗北し、隠岐島に流された。③ 新古今和歌集の撰進を命じた歌人でもあり、刀づくりを通じて菊花紋を皇室のシンボルにした文化人でもある。
後鳥羽上皇(1180〜1239年)は、平安末期から鎌倉時代初期にかけて生きた天皇・上皇です。高倉天皇の第四皇子として生まれ、わずか4歳で第82代天皇に即位しました。
19歳で土御門天皇に譲位したあとは「上皇」として院政を行い、武芸・和歌・刀づくり・政治を一手に取りしきりました。しかし強大化していく鎌倉幕府の権力をどうしても許せず、1221年に挙兵——いわゆる承久の乱を起こします。
結果は1ヶ月足らずでの完敗。後鳥羽上皇は隠岐島に流され、二度と都へは戻れませんでした。それでも18年間、流刑地で歌を詠み続け、日本の文学史に決定的な影響を残します。※承久の乱:1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を出して起こした、朝廷vs幕府の決戦。

後鳥羽上皇って、後醍醐天皇と混同しがちなんだけど、何が違うの?

名前が似てて紛らわしいよね!後鳥羽は鎌倉時代初期、後醍醐は鎌倉時代末期で、時代が100年以上ズレるんだ。両方とも「幕府を倒そうとして島流しになった天皇」って共通点があるから、セットで覚えると逆に混乱しないよ。後鳥羽=承久の乱(1221年)、後醍醐=建武の新政(1333年)って覚えよう!
後鳥羽天皇の誕生と「神器なき即位」
後鳥羽天皇が生まれたのは1180年(治承4年)。ちょうどこの年は平家物語でも描かれる源平合戦が始まった年でもあります。父は高倉天皇、母は七条院(藤原殖子)。安徳天皇の異母弟にあたります。
3歳のとき、状況が一変します。1183年、源義仲に追われて平家が都を脱出。その際、安徳天皇と三種の神器を抱えて西国へと逃げてしまったのです。
■ 三種の神器とは?
三種の神とは、天皇が代々受け継ぐ3つの宝物のことです。八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉の3つで、天皇の権威を示す「皇位のしるし」とされてきました。
この神器は、新しい天皇が即位するときに必ず引き継がれるものです。逆にいうと、神器がなければ「正統な天皇」とは認められない——それくらい重い意味を持っていました。
■ 神器なしでの即位が異例だった理由
ところが平家が安徳天皇と神器ごと西へ逃げてしまったため、後白河法皇は強引な判断をくだします。「神器を取り戻すまで待っていられない」として、わずか4歳の後鳥羽を新しい天皇として即位させてしまったのです。
1183年8月、後鳥羽天皇は三種の神器なしで第82代天皇に即位。これは日本の歴史上きわめて異例のことでした。さらに1185年、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したとき、神器の一つ「草薙剣」は安徳天皇とともに海の底へと沈んでしまいます。剣は二度と見つからず、後鳥羽天皇は剣のない天皇として生涯を送ることになりました。

このことが、後鳥羽の心にずっと影を落とします。「自分は本当に正統な天皇なのか?」という疑念を払拭するため、後鳥羽は誰よりも「天皇らしさ」を体現しようと、和歌・武芸・政治に異常なまでの情熱を注ぐようになっていきました。

三種の神器がないのに天皇になれたの?それって問題じゃないの?

当時の人にとっては大問題!「神器なき天皇」っていうのは、今でいうと「免許証なしで運転している人」みたいなイメージなんだ。本人にやる気があっても周りは「大丈夫なのその人…?」って見ちゃう。後鳥羽が後年あんなにムキになって武芸や政治を頑張ったのは、この劣等感をバネにしていたのかもしれないね。
多芸多才な青年天皇
後鳥羽天皇は1198年(建久9年)、19歳のときに皇子の土御門天皇に譲位し、「上皇」として院政を始めました。ここから23年間、後鳥羽上皇は実質的な国の最高権力者として、自分の興味の赴くままに様々な分野で才能を発揮していきます。

■ 和歌・蹴鞠・武芸を愛した天才
後鳥羽上皇の才能は、本当に何でもアリでした。記録に残るだけでも——
- 和歌:千首単位で歌を詠み、新古今和歌集の選定にも自ら関与
- 蹴鞠:当時の貴族のたしなみ。後鳥羽は名人クラス
- 武芸・弓馬・水泳・相撲:天皇とは思えないほど自ら鍛錬
- 刀づくり:自ら刀を打つほどの愛好家。御番鍛冶という制度まで作った
- 音楽・絵画・囲碁・双六:教養全般に通じる
特に有名なのが御番鍛冶の制度です。全国から名のある刀工たちを月替わりで御所に呼び、後鳥羽自身も加わって刀を打ちました。「歌人にして武人にして刀工」——こんな天皇は前にも後にもいません。

歌を詠み、剣を打ち、馬を駆る——どれも中途半端ではいけない。私が「神器なき天皇」と陰口を叩かれるのなら、その分だけ実力で示すのみだ。文も武も、本気でやらねば意味がない。
■ 菊花紋の由来
後鳥羽上皇は菊の花をことのほか愛しました。自ら打った刀の茎(柄の中の部分)に菊紋を刻んだほか、調度品や衣装にも菊の意匠を多用したと伝えられます。
これがきっかけとなり、菊の紋は徐々に「天皇家のシンボル」として定着していきました。現在私たちが目にする16弁の菊花紋(十六八重表菊)が皇室の正式な紋章として法制化されたのは明治時代に入ってからですが、その源流をたどると後鳥羽上皇の刀に行き着く——というわけです。

💡 豆知識:今でもパスポートの表紙や国会議事堂の装飾、菊の御紋として目にする「あの模様」は、800年以上前に後鳥羽上皇が刀に刻んだ菊が出発点と言われています。歴史って意外なところでつながっているんですね。
後鳥羽上皇の院政と幕府との対立
1198年に院政をスタートさせた後鳥羽上皇は、ただ風流を楽しむだけの上皇ではありませんでした。朝廷の権威を取り戻すこと——これが彼の最大の政治テーマだったのです。
当時、鎌倉では源頼朝が築いた幕府が東国を支配しており、朝廷の力は徐々に弱まっていました。とくに1199年に頼朝が亡くなったあと、鎌倉では北条氏が実権を握り、朝廷と幕府の力関係は微妙なバランスのうえに保たれていきます。
■ 西面の武士の設置
後鳥羽上皇はまず、自分の足元を固める手を打ちます。1200年ごろ、西面の武士を新たに設置しました。
これは上皇直属の軍事力です。すでに白河上皇が作っていた北面の武士(院の警護担当)に加え、西面の武士という独自の戦闘部隊を持つことで、後鳥羽上皇は幕府に頼らない武力を整備していきました。
※西面の武士:院政期に後鳥羽上皇が新設した院の直属軍事組織。北面の武士は院の御所の北側を警備したのに対し、西面はより実戦的な武力としての性格が強かった。
■ 北条義時追討という決断
後鳥羽上皇と幕府の関係は、ある事件をきっかけに大きく崩れます。1219年(承久元年)、3代将軍源実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺されてしまうのです。
なお実朝は和歌を通じて後鳥羽上皇と親しい間柄でした。しかし後鳥羽にとって、将軍が暗殺されて後継者が断絶したこの状況こそが千載一遇のチャンスでした。「将軍がいなくなったいま、鎌倉幕府は弱体化するはず」——そう判断した後鳥羽上皇は、幕府側の要求を次々と拒否し始めます。
そして1221年5月、ついに決定的な行動に出ます。鎌倉幕府の実権を握っていた執権北条義時を「逆賊」として、その討伐を全国の武士に命じる院宣を発しました。※院宣:上皇が出す命令書。天皇の命令である「宣旨」と並ぶ強い権威を持った。

なんで院宣を出しただけで終わらなかったの?幕府を相手に本当に勝てると思ったのかな。

後鳥羽上皇には勝てる根拠が3つあったんだ。①西面の武士で軍備は整っていた、②実朝暗殺で鎌倉幕府は内部もガタガタ、③そして何より「天皇の命令に逆らう武士はいないはず」っていう絶対的な自信。今でいうと「社長が辞令を出せば、現場は全員それに従うはず」って思い込んでた感じだね。でも、その思い込みが命取りになるんだ…。
承久の乱——挙兵と敗北
1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇はついに挙兵します。これが日本史上最大級の朝廷vs幕府の戦い——院政期の頂点を象徴する事件、承久の乱のはじまりです。
院宣を受け取った鎌倉幕府は震え上がりました。なにしろ「朝敵」になるかもしれない状況。御家人たちの中には「天皇に逆らうのはまずいのでは…」と動揺する者が続出します。幕府は崩壊寸前——後鳥羽の計画は、ここまでは順調でした。
■ 北条政子の演説——「頼朝の御恩を思え」
幕府の運命を変えたのが、頼朝の妻北条政子の演説でした。動揺する御家人たちを集め、政子は涙ながらに語りかけます。

皆の者、心して聞きなさい。これが私の最後の言葉です。故・頼朝公があなたたちにかけた御恩は、山よりも高く、海よりも深いのです。それを忘れて朝廷側につくというのなら——どうぞ私の首を取ってから鎌倉を出ていきなさい!
この演説は『吾妻鏡』に記録されており、御家人たちの心を一気にひとつにまとめました。「頼朝公の御恩」——これは御家人にとって絶対の言葉。土地と地位を与えてくれた恩義を持ち出されたら、もう動揺している場合ではありません。
こうして執権政治を主導する北条氏のもと、幕府軍は一丸となって西へと進撃を開始します。
■ 戦況と朝廷側の敗因
北条義時が動員した幕府軍は、なんと約19万騎と言われる大軍勢でした。東海道・東山道・北陸道の3ルートから一斉に京都へ進軍。対する朝廷側は数万騎ほどで、しかも寄せ集めの軍隊。勝負は始まる前から決まっていたといってもいいでしょう。

主な敗因は3つあります。
- 圧倒的な兵力差:幕府は鎌倉から大量動員、朝廷は地元勢力中心
- 政子の演説で御家人が結束:「離反するだろう」という後鳥羽の読みが外れた
- 朝廷側に統一指揮官がいなかった:寄せ集めの貴族・西国武士は連携が取れず
挙兵からわずか1ヶ月後の6月15日、幕府軍は京都に突入。後鳥羽上皇は降伏し、承久の乱は完全な敗北で幕を閉じました。
■ 承久の乱の歴史的意義
承久の乱は、日本史の流れを大きく変えました。乱後、幕府は京都に六波羅探題を設置して朝廷を直接監視するようになりました。また、乱後に新たに任命された地頭を新補地頭と呼び、その数は全国で3,000ヶ所以上に上ったとされます。上皇・天皇でも幕府には逆らえない時代に入っていきます。
承久の乱は、いわば朝廷と武家の天下分け目の戦いでした。もし後鳥羽上皇が勝っていたら、武家政権は鎌倉時代だけで終わり、室町・江戸の武士の時代は来なかったかもしれません。逆にいうと、この敗北があったからこそ「武士が日本を動かす約700年の時代」が始まったわけです。明治維新で天皇親政が復活するまで、朝廷は政治の主役には戻れませんでした。
隠岐島配流と晩年
承久の乱に敗れた後鳥羽上皇に下された処分は、想像を絶するものでした。隠岐島への配流——現在の島根県沖、日本海に浮かぶ離島へと流されたのです。
同時に息子たちも処分を受けます。土御門上皇は自ら申し出て土佐(後に阿波)へ、強硬派だった順徳上皇は佐渡へ。さらに孫の仲恭天皇はわずか78日で廃位され、史上最短在位の天皇となりました。
院政を担った上皇が島流しになるというのは、それまでの日本史にはなかった前代未聞の処分でした。これがどれほど朝廷の権威を傷つけたかは、想像に難くありません。
■ 隠岐での18年間
1221年7月、後鳥羽上皇は41歳で隠岐島に到着。それから亡くなる1239年まで、約18年間を流刑地で過ごしました。
隠岐の暮らしは決して華やかなものではありませんでしたが、後鳥羽上皇は和歌を詠み続けます。隠岐の風土・荒れる日本海・遠い都への想い——孤島での日々を歌に託しました。自ら編んだ和歌集『遠島御百首』や『遠島御歌合』には、敗者の悲しみだけでなく、なお消えない覇気と矜持がにじんでいます。

「我こそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波風 心して吹け」——私こそがこの新しい島の守り神だ。隠岐の海の荒波よ、私の前では遠慮して吹け。流されても、私は天皇である。その誇りだけは誰にも奪わせはしない。

流されたあとも18年も生きたんだ…。心折れちゃいそうな状況なのに、すごい精神力だね。

そうなんだよ。後鳥羽上皇のすごいところは、絶望のなかでも「歌人としての自分」を最後まで失わなかったこと。むしろ流刑後の方が歌の表現が深まったって言われているくらい。古今和歌集から続く和歌の伝統に、後鳥羽は隠岐で18年かけて新しい色を加えたんだ。
■ 崩御と後世の評価
1239年(延応元年)2月22日、後鳥羽上皇は隠岐島で崩御しました。享年60歳。最後まで都へ戻ることは叶いませんでした。
遺骨は隠岐に葬られたあと、ゆかりの地である大阪・水無瀬殿の近くにも分骨され、現在の水無瀬神宮(大阪府島本町)に祀られています。一方、隠岐島には隠岐神社(島根県海士町)が建てられ、こちらでも後鳥羽上皇が神として祀られています。

長らく「朝敵」のような扱いを受けていた後鳥羽上皇ですが、明治時代になり朝廷の権威が復活すると、徐々に名誉が回復されました。今では「敗者」というよりも、「日本文化に深い足跡を残した天才文化人」として評価されることが多くなっています。
次の章では、後鳥羽上皇のもう一つの大きな顔——歌人としての後鳥羽上皇と、彼が後世に残した『新古今和歌集』について、さらに深く見ていきましょう。
後鳥羽上皇の和歌と新古今和歌集
政治家・武人としての顔と並んで、後鳥羽上皇のもう一つの大きな顔が「歌人としての後鳥羽上皇」です。むしろ、現代では政治家としてよりも、和歌の世界での功績の方が高く評価されています。
1201年(建仁元年)、後鳥羽上皇は院御所のなかに和歌所という機関を設置しました。これは、勅撰和歌集(天皇・上皇の命令で編まれる公式和歌集)を作るための専門機関です。
※和歌所:上皇の命令で歌集を編纂するために設けられた役所。後鳥羽上皇は和歌所を院御所の中に置き、自ら撰者たちと議論しながら歌を選んでいったとされる。
■ 新古今和歌集とは?
後鳥羽上皇が編纂を命じたのが、八代集の最後を飾る勅撰和歌集——新古今和歌集です。
1205年(元久2年)に一応の完成を見たこの歌集は、約2,000首の和歌を収録。撰者には当代きっての歌人6名——藤原定家・藤原家隆・源通具・藤原有家・寂蓮・藤原雅経が選ばれました。
新古今和歌集の特徴は、「幽玄」「有心」「本歌取り」という独特の美学です。簡単にいうと、「言葉にできない奥深い余韻」「過去の名歌をふまえた重層的な表現」を重視するスタイル。古今和歌集の優美さに比べて、新古今はもっと内省的で、もっと複雑です。


古今和歌集と新古今和歌集って、名前は似てるけど何が違うの?

イメージで言うとね、古今和歌集は「シンプルでわかりやすいポップソング」、新古今和歌集は「歌詞に隠れた意味がたくさんある文学的なバラード」って感じだよ。古今は約300年前(醍醐天皇の時代)に作られた、優美でストレートな歌が中心。新古今はそれを下敷きにして「もっと深く、もっと複雑に」を狙ったんだ。だから新古今では、有名な古今の歌の一部をあえて引用する「本歌取り」がよく使われるんだよ。
幽玄とは、「言葉では言い表せない、奥深く神秘的な余情・余韻」のこと。有心は、藤原定家が重視した「深い心の動きを言葉に込める」歌風。そして本歌取りは、有名な古い歌の一部を新作のなかに引用する技法で、「過去の名歌を知っていて初めて味わえる重層的な意味」を生み出します。新古今和歌集は、この3つの美学が結晶した日本和歌史の到達点とされています。
■ 後鳥羽上皇と藤原定家の決別——天才同士の確執
新古今和歌集をめぐる物語に、実は人間ドラマがあります。後鳥羽上皇と藤原定家——二人は長年の盟友でしたが、1213年ごろに決定的な亀裂が入りました。
きっかけは定家が幕府側の人物に「暦(当時の朝廷発行のカレンダー)」を無断で贈ったことでした。後鳥羽上皇は「幕府に媚びた」と激怒し、定家を和歌所から追い出します。定家の日記明月記には、「君(上皇)の御こころを失い申し候」——上皇の信頼を失ってしまった——という無念の言葉が残っています。
ところが後鳥羽上皇は、隠岐に流された後も諦めませんでした。配流中の18年間、上皇は一人で新古今和歌集の撰歌を見直し続け、「隠岐本」と呼ばれる独自改訂版を完成させます。定家本より歌の数を絞り込んだ、より厳格な選択。政治では負けても、歌の世界での美意識だけは誰にも曲げない——後鳥羽上皇の意地がにじみます。

仲違いしたのに、一人で歌集を直し続けるって…よっぽど和歌への執念がすごかったんだね。

後鳥羽上皇と藤原定家って、まるでバンドが解散した後に「俺が正しい!」って各自でソロ活動するパターンだよね。定家版の新古今と後鳥羽の隠岐本、両方が現代まで残って研究されてるんだから、どっちも「負けてない」って感じがするよ。
■ 後鳥羽上皇の代表歌
後鳥羽上皇自身も、優れた歌人として多数の歌を残しています。百人一首では99番目に選ばれた次の一首が最も有名です。
人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は
(人がいとおしくも思え、また恨めしくも思える。なんとも味気ないこの世のことを思っていると、こうして物思いに沈んでしまう、この我が身は——)
承久の乱の前に詠まれたとされる一首で、人間関係や世の中への複雑な感情がにじみます。「人を愛しいと思いながら、同時に憎らしくも思える」——天皇という立場ゆえの孤独や葛藤がにじむ歌として知られています。
そしてもうひとつ、隠岐へ流された後に詠まれた歌が、前章でも紹介した「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」です。敗者になっても誇りを失わない、後鳥羽上皇の精神そのものを表した歌だといえます。

政治の世界では北条義時に敗れたが、私には和歌がある。新古今——あれは私の魂そのものだ。隠岐に流されてからも、私は撰歌の手を緩めなかった。たとえこの身が朽ちても、歌だけは千年の後まで残るだろう。
実際、後鳥羽上皇は隠岐に流された後も新古今和歌集の改訂を続け、「隠岐本」と呼ばれる独自の手直しバージョンを残しています。和歌への執念は、政治への執念以上だったのかもしれません。
後鳥羽上皇の人物像と意外な逸話
政治・和歌に加えて、後鳥羽上皇の人物像をさらに立体的にしているのが、「異常なまでに多才」だったエピソードの数々です。武芸・刀剣・蹴鞠・水泳・相撲——興味を持ったものはすべて極めようとする、強烈な探究心の持ち主でした。
■ 刀への情熱と菊花紋の由来
後鳥羽上皇のなかでも特に有名なのが、「自ら刀を打った天皇」というエピソードです。全国から名工を集めて御番鍛冶という制度を設け、月ごとに当番制で刀工を呼び寄せ、自身も鎚を握って刀を打ったと伝えられます。
※御番鍛冶:後鳥羽上皇が定めた、毎月交代で召し抱える刀鍛冶の制度。粟田口・備前・備中など全国の名工が選ばれた。
そして後鳥羽上皇は、自ら打った刀の茎に菊の紋を刻ませました。これが現在も皇室の紋章として使われている菊花紋のはじまりとされています。
菊は中国から伝わった花で、長寿・高貴のシンボルとされていました。後鳥羽上皇が個人的に菊を愛し、刀・牛車・調度品に菊紋を使い始めたのが起源とされます。ただし、菊花紋が正式に「皇室の紋章」として法的に位置づけられたのは、ずっと後の明治2年(1869年)のこと。後鳥羽上皇の個人的な趣味が、約650年の時を経て国家の象徴になったわけです。
■ 強盗を自ら取り押さえた話
後鳥羽上皇の武勇エピソードでもっとも有名なのが、強盗を自ら捕まえたという話です。当時の貴族社会では考えられないことですが、上皇は警備の検非違使に頼らず、自ら賊を組み伏せたと伝わります。
これは『古今著聞集』など中世の説話集に記された逸話ですが、「文武両道を地で行く帝」というイメージは当時の人々の間で広く共有されていたようです。和歌を詠み、刀を打ち、強盗を取り押さえる——なかなかパワフルな上皇です。
■ 蹴鞠・水泳・相撲——文武両道の極み
後鳥羽上皇は蹴鞠の名手としても知られ、自ら蹴鞠の名門・難波家を保護しました。さらに、水泳・相撲・笠懸(流鏑馬の一種)まで嗜んだとされ、貴族にしては異例なほどの身体派でした。

歌も剣も、蹴鞠も水泳も——本気でやらなければ意味がない。机の前でただ書を読んでいるだけでは、本当の天皇にはなれぬ。私は、自らの手と足と心で世界を知りたかったのだ。

強盗を自分で捕まえる天皇って、漫画みたいだね…!

そう、まさにヒーロー漫画みたいなエピソードだよね。だからこそ、後鳥羽上皇は「自分なら幕府にも勝てる」って思ったのかもしれない。「俺は天皇でありながら、武士よりも武士らしいんだぞ」っていう自負があったんだろうね。でもそれが結果的に承久の乱の挙兵につながったわけで——多才すぎることが、必ずしも幸せにつながらないのが歴史の難しさだなぁ。
後鳥羽上皇の家族と子孫
後鳥羽上皇の家族関係を整理しておきましょう。父は高倉天皇、母は七条院殖子(藤原殖子)です。父・高倉天皇は平清盛の娘・徳子(建礼門院)を中宮としていた人物で、後鳥羽は安徳天皇(壇ノ浦で入水した幼帝)の異母弟にあたります。
そして、後鳥羽上皇には多くの子供がいました。中宮や女御だけでなく多数の女性との間に皇子・皇女をもうけており、なんと男子だけで11人以上。そのうち3人が天皇になっています。
■ 土御門天皇・順徳天皇・仲恭天皇——3人の天皇となった子孫
後鳥羽上皇の子供のなかで、特に重要な3人が以下の天皇たちです。
- 土御門天皇(第83代・在位1198〜1210年):後鳥羽上皇の第一皇子。穏やかな性格で、父の挙兵には消極的だった。承久の乱後、自ら申し出て土佐(後に阿波)へ移った
- 順徳天皇(第84代・在位1210〜1221年):後鳥羽上皇の第三皇子。父と一緒に幕府打倒を強硬に主張した強硬派。承久の乱後は佐渡島に流され、約20年後にそこで崩御
- 仲恭天皇(第85代・在位1221年):順徳天皇の皇子で、後鳥羽上皇の孫。承久の乱の最中にわずか4歳で即位したが、敗戦後78日で廃位。歴代最短在位の天皇

■ 子供たちが受けた苛酷な処分
承久の乱で敗れた後、後鳥羽上皇の家族は徹底的に解体されました。3人の上皇(後鳥羽・土御門・順徳)はそれぞれ離島・遠国へ。仲恭天皇は廃位され、皇位は幕府が選んだ後堀河天皇(後鳥羽の兄・守貞親王の子)に移されました。
つまり後鳥羽上皇の直系は、いったん皇位から完全に外されてしまったのです。これは幕府が朝廷の人事に直接介入した画期的な出来事でした。
■ 子孫が皇統に復帰するまで
しかし、運命は皮肉なものです。後鳥羽上皇の直系は途絶えたかに見えましたが、土御門天皇の子・後嵯峨天皇が、約20年後の1242年に即位します。これにより、後鳥羽上皇の血統は皇室に復帰しました。

さらに、その後の持明院統(北朝の祖)と大覚寺統(南朝の祖)は、ともに後嵯峨天皇——つまり後鳥羽上皇の曾孫——の系統です。約100年後に勃発する南北朝の動乱の引き金となる両統迭立も、もとをたどれば後鳥羽上皇の血脈にいきつくわけです。

土御門と順徳って、両方とも「承久の乱で流された人」って覚えれば足りる?

テストではそれでもOKだけど、ちょっとだけ深く知っておくと得点が伸びるよ。土御門は「父の挙兵に反対だったのに、自分も流罪にしてくれと自分から願い出た」優しい性格。順徳は「父と一緒に幕府を倒すぞ!」と乗り気で、佐渡に流された後も都を恋しがり続けたガッツのある人。同じ「流された上皇」でも、性格はけっこう違うんだよ。「土御門=自分から土佐(自発・四国)」「順徳=佐渡(強硬派・北の島)」とセットで覚えると整理しやすいよ。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:承久の乱は「いに(1)にに(22)い(1)よ、後鳥羽(1221)」と語呂で覚えるのが定番。論述問題では「乱の結果として六波羅探題設置・新補地頭の増加・朝廷の弱体化」の3点セットで書けるようにしておくと安心。混同注意は後鳥羽上皇(鎌倉初期・承久の乱)と後醍醐天皇(鎌倉末期・建武の新政)——時代が約100年ずれている別人なので絶対に間違えないこと。

結局、後鳥羽上皇でテストに一番出るのってどこ?

最頻出はやっぱり承久の乱(1221年)と六波羅探題の設置!この2つは年号・原因・結果まで全部出る可能性大。あと、文化史では新古今和歌集と藤原定家のセットが超頻出だよ。共通テストの史料問題では、北条政子の演説の引用文も出やすいから、「山より高く海より深い御恩」のフレーズだけは丸暗記しておくとお得!
後鳥羽上皇についてもっと詳しく知りたい人へ

後鳥羽上皇についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
後鳥羽上皇は、神器なしで即位した異例の天皇として始まり、院政の頂点で幕府打倒を試みて敗れた政治家、そして新古今和歌集をプロデュースした天才文化人という、ふたつの大きな顔を持つ人物でした。
承久の乱の敗北だけを見れば「悲劇の上皇」ですが、隠岐に流されてからの18年間、最後まで歌の手を緩めなかった姿勢は、敗者という言葉では片づけられません。皇室の象徴となった菊花紋も、もとをたどれば後鳥羽上皇個人の趣味から生まれたもの。政治では負けても、文化と象徴の領域では勝者であり続けた——それが後鳥羽上皇という人の本当の姿だといえるでしょう。

以上、後鳥羽上皇のまとめでした!承久の乱の敗者というイメージだけじゃもったいない人物だってこと、伝わったかな?下の関連記事で承久の乱や北条政子、後醍醐天皇についてもあわせて読んでみてね。鎌倉時代全体の流れがグッと立体的に見えてくるよ!
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1180年高倉天皇の第四皇子として誕生(幼名・尊成)
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1183年三種の神器なしで即位(第82代天皇)
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1185年壇ノ浦の戦いで平家滅亡・草薙剣が海に沈む
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1198年土御門天皇に譲位・院政を開始
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1200年頃西面の武士を設置・独自の武力を整備
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1201年和歌所を設置・新古今和歌集の撰進を命じる
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1205年新古今和歌集が完成(藤原定家ら6名が撰者)
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1221年承久の乱——北条義時追討の院宣を発布・敗北して隠岐島へ配流
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1221〜1239年隠岐島で18年間を過ごし、遠島御百首など多数の和歌を残す
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1239年隠岐島にて崩御(享年60歳)・水無瀬神宮と隠岐神社に祀られる
よくある質問
後鳥羽上皇(1180〜1239年)は、平安末期〜鎌倉初期の天皇・上皇です。①三種の神器なしで即位した異例の天皇、②1221年に承久の乱を起こして鎌倉幕府の打倒を試み敗北し隠岐島に配流された政治家、③新古今和歌集の撰進を命じた天才文化人——という3つの顔を持ちます。皇室の菊花紋の起源とされる人物でもあります。
主な理由は3つあります。①幕府への不満:源頼朝・実朝の死後、北条氏が実権を握ったことで「武家政権を朝廷の下に取り戻したい」という思いが強まった。②自信過剰:西面の武士を整備して独自の武力を持ち、「自分なら幕府にも勝てる」と確信していた。③実朝暗殺(1219年)の機会:将軍不在で幕府がガタガタになったタイミングを狙って院宣を発した——という3点が重なり、1221年の挙兵につながりました。
名前は似ていますが、約100年以上時代の離れた別人です。後鳥羽上皇は1180〜1239年の人物で、鎌倉時代初期に承久の乱を起こして敗れ、隠岐に配流されました。一方の後醍醐天皇は1288〜1339年の人物で、鎌倉時代末期に幕府を倒して建武の新政を行いました。両者の共通点は「幕府との対立」と「流罪」(後醍醐も隠岐に流された経験あり)。同じ「隠岐」「幕府打倒」のキーワードで混同しやすいので、年号と時代区分でしっかり区別しましょう。
1239年(延応元年)2月22日、配流先の隠岐島(現在の島根県・隠岐の島)で崩御しました。享年60歳。承久の乱に敗れて隠岐に流されてから18年、ついに都へ戻ることは叶いませんでした。遺骨はゆかりの大阪・水無瀬殿の近くに分骨され、現在の水無瀬神宮(大阪府島本町)に祀られています。隠岐島にも隠岐神社(島根県海士町)が建てられ、こちらでも神として祀られています。
菊花紋(菊の御紋)は、現在も日本の皇室を象徴する紋章ですが、その起源は後鳥羽上皇にあります。後鳥羽上皇は菊の花をたいへん好み、自ら打った刀の茎や、牛車・調度品などに菊の紋様を多用しました。これが代々の天皇・上皇に受け継がれ、皇室の象徴となっていったと伝えられます。ただし、菊花紋が正式に「皇室の御紋章」として法的に定められたのは、ずっと後の明治2年(1869年)のことです。
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「後鳥羽天皇」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「承久の乱」(2026年5月確認)
コトバンク「後鳥羽院」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年5月確認)
コトバンク「承久の乱」(2026年5月確認)
コトバンク「新古今和歌集」(2026年5月確認)
コトバンク「菊花紋章」(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
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