今回は、多芸多才で破天荒、そして承久の乱を起こした張本人である後鳥羽天皇(ごとばてんのう)について紹介してみようと思います。
後鳥羽天皇の生涯は、とにかく破天荒で破茶滅茶。その生涯を本にするだけできっと超面白い小説が書けます。これほど激しい一生を送った天皇はそう多くはいません。そんな後鳥羽天皇の生涯をわかりやすく紹介します!
【悲報】後鳥羽天皇、即位時点でもうヤバい
後鳥羽天皇は、1180年に生まれました。1180年と言えば、以仁王が挙兵し、ちょうど源平合戦が始まった頃です。
こんな混沌とした時代に生まれてくる時点で後鳥羽天皇には壮絶な人生が運命付けられていたんじゃないかと思います。
1184年、後鳥羽天皇は4才で天皇即位することになりますが、これがもう前代未聞のトンデモナイ即位でした。その理由は大きく2つあって・・・
それぞれ解説していきます。
安徳天皇と後鳥羽天皇
実は後鳥羽天皇が即位した当時、安徳天皇という別な天皇がすでに即位していました。安徳天皇は、平清盛が強権により即位させた天皇です。
何かの偶然かそれとも運命か。安徳天皇も後鳥羽天皇と同じ1180年生まれ。
つまり、4歳という幼少の天皇が2人同時存在したことになります。まさに異例中の異例です。1184年は源平合戦の真っ最中であり、安徳天皇は平家に担がれて西国に落ち延びていたところです。
そんな中、なぜ天皇が2人同時に即位するという異常事態となったのでしょうか?
それは、安徳天皇が平清盛の意思によって即位した天皇だからです。ポイントは「平清盛の意思」ってところ。当時の天皇指名権は天皇家の家長(家督)にあるっていうのが一般常識。天皇家の家長は治天の君(ちてんのきみ)とも呼ばれ、当時の治天の君は後白河法皇でした。
後白河法皇本人も含めて、有職故実(ゆうそくこじつ。過去の前例・しきたりのこと)を重んじる朝廷はこんなことを思っていました。
「天皇家の家長たる後白河法皇が指名していない安徳天皇は正式な天皇ではない。つまり、今は天皇不在の状態なのだ!!天皇不在ではいけないから、一刻も早く次期天皇を後白河法皇の意思で決めなければならない!!」
朝廷としては「武士にこれ以上好き勝手やらせるか!」という矜持(きょうじ。プライド)もあったのだろうと思います。
さらに、こうした強気な姿勢を示せた背景には、1184年当時、平家が源義経らに打ち負かされ、四国へ逃げていたという事情もあります。平家の力恐るるに足らず!というわけです。
・・・しかし、それでも天皇を擁立する話はすぐには決まりませんでした。というのも、天皇即位の儀に必要な三種の神器の全てを四国にいる平家軍が持っていてしまっていたからです。
三種の神器と後鳥羽天皇
平安京に三種の神器がない以上、天皇即位の儀を完遂することはできません。すると「安徳天皇に正統性がないのはわかる。しかし、三種の神器なしで即位した天皇も正統な天皇とは言えないのでは?」という議論が湧き上がったのです。
完全に八方塞がりとなった朝廷の議論ですが、最終的に
「後白河法皇の意思に反して即位した安徳天皇に天皇としての正当性なし。よってこれから即位する後鳥羽天皇が正式な天皇である。
・・・ん?三種の神器がないだって?
んなこまけーこたぁいいんだよ。後から平家から奪い返せば万事OK!!(強引)」
こうして1184年、問題が山積した状態のまま即位したのが後鳥羽天皇でした。幼い頃からアクセル全開の生涯です。
その後三種の神器がどうなったかというと、1185年の壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に海に沈んでしまいました。壇ノ浦の戦いと安徳天皇については以下の記事も参考にしてみてください!
源平合戦が終わった後、壇ノ浦の戦いの舞台となった下関で三種の神器の探索が続けられましたが、結局、三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)だけはどうしても見つかりません。
三種の神器を揃えられず不完全なまま即位してしまったことは後鳥羽天皇の生涯のコンプレックスになったと言われています。
コンプレックスになった理由は推測するしかありませんが、なんとなく想像できます。
後鳥羽天皇が何か失敗する度に「後鳥羽天皇はどうせ三種の神器なしで即位した怪しい天皇だもんな。そりゃダメだよな」みたいな話がおそらく朝廷内で噂されていて、それを多感な青年期に嫌になる程聞かされれれば、誰だって嫌になるだろうな・・・と私は思っています。
多才な青年だった後鳥羽天皇
色々と問題だらけの天皇即位とは正反対に、後鳥羽天皇は多芸多才なスーパー天皇でした。
和歌を好んでは、今でも教科書に載っている「新古今和歌集」を編纂し、刀剣を好んでは、自ら刀鍛冶を行い、朝廷の有職故実については後鳥羽天皇に並ぶ者がいないほどの知識の持ち主でした。
このほか、蹴鞠や管楽、囲碁などのゲームも好み、相撲・水泳・競馬などの武芸にも秀でていたと言われています。それだけに留まらず、自ら狩猟に赴いたり、果てには盗賊を自分で捕まえてしまったりととにかくアクティブ!
後鳥羽天皇は菊を非常に好んでいたことから、刀に菊模様を入れて楽しんでいたと言われています。武器に芸術性を求めるこの感性は多才な後鳥羽天皇だからこそって感じです。
みなさん、こんな模様を一度は見たことありませんか?
これは皇室の菊花紋と呼ばれるものですが、その起源は後鳥羽天皇が菊を好んだことによる・・・とも言われています。身近なものでは和菓子や仏具なんかでこの模様を見ることができます。
とにかく多才な後鳥羽天皇ですが、これは前述したような天皇としての強いコンプレックスの反動・・・とも考えることができます。同じくコンプレックスの反動なのかはわかりませんが、後鳥羽天皇はその多芸多才さに加え、とにかく衝動的で激情的な性格の持ち主でもありました。
その性格は、1192年に亡くなった祖父の後白河法皇に似ています。後白河法皇もかなり激動の人生を歩んでいるので合わせて以下の記事を読んでみてほしいです。
後鳥羽天皇の院政
1198年、後鳥羽天皇は土御門天皇に上位し、上皇(治天の君)となります。
実は当時、政治の実権を握っていたのは後鳥羽天皇ではなく、土御門通親(つちみかどみちちか)という人物でした。
【土御門通親。貫禄がある!!】
土御門天皇はその名前から予想できるとおり、土御門通親の孫に当たります。そんな間柄なので、土御門通親は外祖父として絶大な権力を誇ります。
そのため、土御門通親が生きている間は治天の君とは言え、後鳥羽上皇の衝動的・激情的な行動は抑えられていました。後鳥羽上皇の激しい性格が政治上で問題になることはありませんでした。
ところが1202年、その土御門通親が亡くなると後鳥羽上皇は暴走します。後鳥羽上皇は血気盛んな23歳。後鳥羽上皇は自分を抑え付けていた土御門派の人物を一掃し人事を刷新、院政をスタートさせます。
後鳥羽上皇の政治理念は、非常にシンプルで「朝廷主導の政治を復活させる!」というものでした。「朝廷主導の政治」とは具体的に平安時代中期の延喜の治世を目指しました。延喜の時代には古今和歌集が編纂されており、後醍醐天皇が編纂した和歌集に「新古今和歌集」と命名したことからも、その志が溢れ出ています。延喜の治って何?って方は以下の記事が参考になると思います。
しかし後鳥羽上皇の「朝廷主導政治」の志は、激しい性格のあまりパラメータが全て「武力」に注がれてしまい、色々と不穏な動きをするようになります。
後鳥羽上皇「幕府ぶっ倒す」
自由に院政を行えるようになった1203年以降、京では不穏な動きが少しずつ増え始めます。その1つが西面の武士の設置です。
後鳥羽上皇は、「皇居の警備の強化」と言う名目で軍事力の強化を図ります。公には宣言していませんが、十中八九幕府に対抗するための軍事力確保のためでしょう。
そして、1207年には幕府を呪詛するために建立されたと噂の最勝四天王寺が完成し、1210年には温和な性格だった土御門天皇を譲位させ、後鳥羽上皇と同じく「幕府ぶっ倒そうぜ」派だった順徳天皇を即位させます。
これらの不穏な動きと合わせて、政治の世界でも色々と問題が起こります。まず、後鳥羽上皇は非常にキレやすく、気まぐれな性格でした。「突然ブチ切れて、怒らせたやつはすぐに失脚してしまった・・・」なんて話があるほど。当時の官僚たちは常にビクビクだったことでしょう・・・。
さらに、後鳥羽上皇の治世では売官行為が横行していたという記録まで残っています。後鳥羽上皇は、異常なほど熊野行幸に赴いて、その途中、和歌や白拍子、相撲など様々な催しを楽しんだとされています。このようなイベントや公共事業に賄賂によって得られたお金がジャブジャブと使われていたのです・・・。
先ほど、「後鳥羽上皇は昔々の醍醐天皇の延喜の治を目指していた」というお話をしましたが、その実態は後鳥羽上皇が目指した善政「延喜の治」とは著しくかけ離れたものでした。
承久の乱勃発!!!
1219年、鎌倉幕府三代目将軍の源実朝が甥っ子の暗殺され、幕府内はにわかに騒がしくなります。
次期将軍には多くの御家人たちが納得しうる人物選ぶ必要があります。そこで幕府の幹部らが考えたのが「皇族出身の者を京から連れて将軍にしよう!」という案。
早速その提案を後鳥羽上皇に伝えますが、倒幕を考えている後鳥羽上皇がこれを認めるわけがありません。むしろ、幕府内部のイザコザは後鳥羽上皇にとって、幕府を倒す絶好のチャンスに映ったはずです。
幕府は兵を京に向かわせ、脅しをかけてまで後鳥羽上皇に提案を飲ませようとしますが、後鳥羽上皇の意志は鉄のように固く、朝廷と幕府の関係は微妙に。その後も、京からは不穏な情報が幕府にも伝わり続け、両者は一触触発の状態になります。
そして1221年、遂に後鳥羽上皇は念願の倒幕運動を開始します。畿内の兵を集め、京内で自分に逆らう幕府派の人間を幽閉・排除し、本格的な挙兵を始めたのです。有名な承久の乱の始まりです。
「北条義時追討!」の宣旨(せんじ。天皇からの命令)を全国に下し、後鳥羽上皇は上機嫌です。というのも、宣旨に逆らって勝てた者は過去にほとんどおらず、後鳥羽上皇は宣旨を各地に送った時点で勝ちを確信していたのです。
朝廷兵A「報告です!」
後鳥羽上皇「うむ!待っていたぞ!(勝利フラグキタコレ!!)」
朝廷兵A「幕府軍は約19万騎。味方は次々と破れ、京へと進軍中!!」
後鳥羽上皇「( ゜Д゜)・・・こうなったら宇治川で最終決戦や!!!!(涙)」
北条政子ら幕府の優秀な幹部よって、後鳥羽上皇の想定以上に幕府軍は一致団結しており、幕府側に味方する武士が少なかったのが大きな原因でした。この時に登場するのが北条政子の有名な演説です。以下の記事で紹介しているので気になる方は読んでみてください。
最終防衛ラインの宇治川では両者拮抗した戦いを繰り広げますが、余裕をかましていた朝廷軍が勝てるはずもなく敗北。おおよそ一ヶ月ほどで承久の乱は鎮圧されることになります。
後鳥羽上皇のクソ上司ぶりがヤバい
承久の乱で敗北が確定した後、後鳥羽上皇は乱の責任部下になすりつけようと考えます。
敗北を知った部下たちが後鳥羽上皇の元に集まってきても、後鳥羽上皇は門を開けようとしません。
後鳥羽上皇「お前らを中に入れたら、俺も共犯者だと思われるからな。承久の乱はお前らが起こしたことにしといてくれ。よろしくwww」
トップに裏切られた武将たちは絶望し、ある者は死を覚悟で特攻し、ある者は捕らえられ刑に処されたと言われています。クズすぎワロタ。
後鳥羽上皇は幕府方にも同じようなことを繰り返し発言します。
後鳥羽上皇「今回の乱はね、俺じゃなくて部下たちが勝手にやったの。だから俺を処罰するのは間違っているからな。そこんとこ間違えないように」
こんな話が幕府方にまかり通るわけもなく、後鳥羽上皇は隠岐へ流され、その地で一生を終えることになります。
そして、後鳥羽上皇と共にイケイケ派だった順徳上皇は佐渡へ流され、乱に関与していなかった土御門上皇も「後鳥羽も順徳も島流しで自分だけ流されないのも悪いから・・・」という聖人っぷりを発揮して土佐へ流されます。
そして後鳥羽上皇の意向で即位していた仲恭天皇は廃帝へ。新しく後堀河天皇が即位します。
こうして見てみると、承久の乱の戦後処理は前代未聞なほど皇室に対して厳しい措置が取られており、事の大きさを物語っています。
後鳥羽上皇、怨霊へ
後鳥羽上皇は1237年、
「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」
との置文を残していったと言われ、後鳥羽上皇は今でも隠岐の中ノ島という場所にある隠岐神社に祀られています。
その2年後の1239年、後鳥羽上皇は隠岐でひっそりと崩御することとなります。その後、四条天皇を始めとし、次々と天皇が若死したりして、後鳥羽天皇の怨霊の仕業だとガチで恐れられていました。死してもなお、後鳥羽上皇は「恐怖」という形で人々の心の中で生き続けたのでした。
後鳥羽上皇の人物像
簡単にですが、後鳥羽上皇の生涯についてまとめてみました。後鳥羽上皇の人物像を箇条書きで表すと次のような感じになると思います。
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