北条時頼ってどんな人?その生涯や政治をわかりやすく紹介!【宝治合戦と引付衆】

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今回は、鎌倉幕府5代目執権の北条時頼(ほうじょうときより)について紹介します。

 

 

3代目執権の北条泰時もそうだったのですが、北条時頼は名前は有名なんですけど、「じゃあ何をした人なの?」って聞かれるとなかなか答えにくい人物です。

 

 

というのも、北条泰時もこの記事の主役である北条時頼も内政面で功績を残した人物だからです。内政で活躍した人ってどうしても地味な存在になってしまうんです。

 

 

北条時頼の功績は、歴代執権の功績と比べてみると北条時頼が何をした人物なのか自然とわかってきます。というわけで、本題入る前に歴代執権の活躍をおさらい。

 

初代 北条時政 数ある御家人の1つに過ぎなかった北条氏の地位を高める
2代 北条義時 北条氏を実質的な幕府の最高権力者にまで押し上げる
3代 北条泰時 北条政子などの偉人を失い、北条氏の影響力が低下するも幕府を合議体制へと移行し、周囲の不満を抑えながら見事に北条氏の権力の維持に成功する。
4代 北条経時 19歳での執権就任。その若さに付け入り、反北条派の動きが活発に。
5代 北条時頼 反北条勢力を潰し、北条泰時の頃に弱った北条氏の影響力を復活させ、再び北条氏専制の政治を行う。

 

北条時頼の功績とはズバリ「反北条勢力を潰し、再び北条義時の頃のような北条氏による専制政治を復活させた!」という点です。この記事では、そんな北条時頼の政策や生涯について詳しく見ていくことにします。

 

 

ちなみに初代〜4代執権は、個別の記事にもしていますので、気になる方は以下の記事も参考にしてみてください。

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北条時頼と宮騒動

1246年、北条時頼は、兄で4代目執権だった北条経時(ほうじょうつねとき)から執権の座を譲り受けます。執権の座を時頼に託したのは、北条経時が病に伏したためと言われています。

 

 

1246年当時、鎌倉幕府では北条氏に不満を持つ大きな勢力が形成されつつありました。その勢力は大きく3つの勢力で構成されていて

北条氏の宗家(嫡流)に不満を持つ分家(庶流)の北条光時
そもそも北条氏の権力掌握に反対する御家人たち。三浦氏が中心
北条光時らによって担ぎ出された4代目将軍の藤原頼経
の3勢力です。詳細は以下の記事で触れています。

 

4代目執権だった北条経時は、反北条氏グループの求心力にされていた4代目将軍の藤原頼経を解任し、息子の藤原頼嗣を5代目将軍に抜擢。

 

 

さらに頼嗣と妹の檜皮姫(ひわだひめ)を政略婚させ、北条経時自身が5代目将軍藤原頼嗣の外戚として将軍に意見することで反北条勢力の力を削ごうとします。

 

 

しかし、1246年4月に北条経時が亡くなってしまったことで、これらの努力は水の泡に。執権就任早々、北条時頼はこの反北条勢力への対応に迫られることになります。

 

 

当時、北条時頼はわずか18歳。おそらく舐められていたのでしょう。経時が亡くなった翌月の1246年5月、北条光時が北条時頼を失脚させるべく、軍事行動を企てます。

 

 

ところが北条時頼は情報を察知するや、18歳とは思えぬ行動力と決断力で北条光時の殲滅にかかります。

 

 

北条時頼は鎌倉に兵を集め、さらに鎌倉から外へ出る道を封鎖します。北条光時が気付いた時には時すでに遅し。北条光時は袋の鼠状態に追い込まれました。

 

 

こうして、北条時頼は北条光時の軍事行動を事前に防ぎ、関係者を罷免し光時は流刑に。さらに諸悪の根源だった前将軍の藤原頼経を京へ強制送還。反北条勢力を一掃することに成功したのです。

 

 

この一連の事件は宮騒動(みやそうどう)と呼ばれています。まだ20歳にもならぬ若さでしたが、北条時頼はその英断により危機を免れたのでした。大物の片鱗みたいなものを感じますね。

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北条時頼と宝治合戦

しかし、話はこれだけで終わりません。宮騒動には、反北条派の最大勢力とも言われる三浦氏は関与しておらず、依然として幕府内に君臨していたからです。

 

 

とは言え、三浦氏の棟梁だった三浦泰村(みうらやす村)も北条時頼も、無益な争いは望んでおらず、北条時頼と三浦泰村で協調の道を探ることになります。

 

 

しかし、これに納得できない人物がいます。それが安達景盛(あだちかげもり)です。安達景盛は北条時頼の母方のおじいちゃん。つまり外戚です。

 

 

日本では母方のじいちゃんは孫に強い発言力を持っており(今でも多くの場合そうですよね!)、安達景盛は北条時頼に絶大な影響力を持っていました。もちろん安達泰盛は、その影響力を利用して安達一族の地位を高めたいと考えます。

 

 

そして安達氏の地位向上を考えた時、北条に次ぐ勢力を持つ三浦氏が邪魔な存在に映ったわけです。

 

 

こうして1247年6月、安達景盛・北条時頼による三浦氏排斥事件が起こります。これがいわゆる宝治合戦(ほうじかっせん)ってやつです。

 

宝治合戦はその経過が非常に複雑なのでこの記事では紹介しきれませんが、以下の記事で紹介しています。気になる方は参考までに。

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宝治合戦によって北条時頼に対抗しうる反対勢力は一掃され、北条時頼の独壇場の時代が到来し、幕府運営は北条時頼の独裁政治の様相を呈してきます。この時、北条時頼はまだ20歳。末恐ろしい青年です。

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北条時頼と皇族将軍の登場

1252年、北条時頼は5代目将軍の藤原頼嗣を解任し、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王(むねたかしんのう)を6代目将軍として就任させます。これがいわゆる皇族将軍ってやつです。

 

鎌倉幕府の歴代将軍は

 

初代〜3代:源氏
4・5代:藤原氏
6代目以降:皇族

 

という流れになっています。(3代目からは将軍はお飾りだけの存在になる)

 

なぜ将軍を藤原氏から皇族へ変えたかというと、「そもそも最初から藤原氏ではなくて皇族を将軍にしたかったから!」という実にシンプルな理由。

 

 

それなのになぜ藤原氏が4代目将軍になったかというと、後鳥羽上皇に皇族を鎌倉に送ることを拒否られてしまったからです。詳細は以下の記事で紹介しています。

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しかし、1221年に起こった承久の乱で後鳥羽上皇が島流しになると、その後の皇位継承に幕府が深く介入するようになります。

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そして三代目執権だった北条泰時が四条天皇崩御後の次期天皇として即位させたのが後嵯峨天皇でした。1242年のお話です。

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北条氏の擁立によって即位した後嵯峨天皇ですから、今回は後鳥羽上皇の時のように皇族を将軍にすることを拒否されることもありません。

 

 

このような事情に加え、藤原将軍が反北条勢力の求心力になってしまったことも皇族を将軍にした大きな理由の1つです。宮騒動のような事件を繰り返さないため、藤原将軍とそこに関連する不穏な勢力を一掃したいと考えたわけです。

 

 

ただ、こんなことを表向きには発表できないので公式には「藤原頼嗣は文武の才がなく、遊んでばかりで将軍として適任ではない」という理由での将軍の解任でした。

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北条時頼と引付衆の設置

敵のいなくなった北条時頼の専制政治は実に巧み行われます。露骨な独裁アピールをしないまま、ジワリジワリと権力を手中に収めていく非常に狡猾なスタイルだったのです。

 

 

 

その代表例が、引付衆(ひきつけしゅう)の設置です。

 

 

引付衆は、北条泰時の設置した評定衆の下に設置された機関。幕府の最重要業務である所領裁判の判決案を作る仕事を担います。

 

 

これまでは、

 

問注所で証拠調べたり意見をまとめる。

評定衆でみんなの意見を聞いて判決を下す。

 

 

だった流れが、

 

問注所で証拠調べたり意見をまとめる。

引付衆で、ある程度の判決案まで作ってしまう。

評定衆は、引付衆の判決案で良いかどうかだけを議論する。

 

 

となって評定衆の仕事の負担が減って、業務の効率化が図られたのです。このように引付衆は、承久の乱以降増え続けていた訴訟問題に対応するための組織だったのです。

 

 

しかし!話はこれだけで終わりません。ここからが北条時頼の真骨頂です。

 

 

引付衆は3つの部門に分かれており、その3部門のトップは頭人(とうにん)と呼ばれていました。

 

 

そして、この3人いる頭人は全て北条氏から輩出され、しかもこの頭人は評定衆のメンバーも兼ねていました。

 

 

つまり引付衆で決めた判決結果について、同じ引付衆のトップ三人がまた評定衆で議論するわけです。なんかもう明らかに胡散臭いですよね。「それじゃあ、公平な判決なんかできないし、北条氏に有利すぎだろ・・・」と思ってしまうのは私だけでしょうか。

 

 

引付衆の頭人に評定衆を兼任させたのは、引付衆と評定衆の意見が異なって逆に業務が非効率になることを恐れたせいかもしれません。しかし、どんな理由であれ、引付衆の設置により北条氏は所領裁判という幕府の根幹をなす裁判権を我がものとすることに成功します。

 

 

つまり、「裁判に勝ちたいなら、俺の言うことに従え!」って感じになっていくわけです。(こんな露骨な言い方はしなかったと思うけど・・・)

 

 

北条時頼がどこまで考えて引付衆を設置したかはわかりません。しかし私は、「所領裁判の効率化という大義名分を隠れ蓑にした北条氏専制を目指した政策の1つであった」と考えています。

 

 

引付衆が設置されたのは1249年、北条時頼はまだ20代前半です。北条時頼に権力の強化という思惑があったのだとしたら、北条時頼はかなりの切れ者であり非常に優秀な政治家であったと言えるでしょう。

 

 

しかも北条時頼は、京都大番役という6ヶ月間の京都の警護を務める御家人の仕事を3ヶ月に半減するなどして、御家人達の批判を抑える政策も忘れません。

 

 

御家人たちへの融和政策と、引付衆という目に見えない形での権力掌握で着実に北条氏の権力を固めていくのでした。飴と鞭の使い方も巧みだったんですね。

 

 

北条泰時の時代に合議体制を敷かなければ北条氏の権勢を維持できなかったことを考えると、北条時頼の政策は北条氏の専制政治に向けての大きな一歩だったと言えます。

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北条時頼と得宗政治

1256年、北条時頼は病気を理由に30歳という若さで出家し、執権を辞任。6代目の執権は北条長時(ほうじょうながとき)へと移ります。

上の系図を確認してみると北条時頼は、嫡流ではない北条長時に次期執権を譲っており、なんだか違和感を感じるかもしれません。

 

 

北条時頼が次期権力者として望んでいたのは当然、自分の息子。1251年に後に元寇で活躍することになる北条時宗(ほうじょうときむね)が生まれていましたが、1256年時点ではまだ幼く、時宗が成長するまでのつなぎ役として北条長時が6代目執権に選ばれたのです。

 

 

北条長時は、権力欲に乏しく温和な性格でつなぎ役には適任だったようです。

 

 

 

さて、1256年以降、北条氏による幕府支配に大きな変化が起こります。というのも、引退したはずの北条時頼が依然として強大な発言力を持ち、北条嫡流家の家督として政界に君臨し続けたのです。

 

 

北条時頼とすれば、息子の北条時宗がちゃんと執権になれるよう後見したいと考えていたわけで、これは自然な成り行き・・・とも言えるかもしれません。

 

 

実はこれ、平安時代末期に行われた院政と全く同じことをしているんです。院政の武家バージョン。

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そして、北条時頼が家督の立場から色々と発言をすると、これまで最高権力者であった執権や連署などは発言力を失うようになり、役職自体が形骸化し始めます。これも平安時代末期に院政が始まるとそれまで権力を掌握していた摂関藤原氏の力が衰えていくのに似ています。

 

 

天皇家で行われる家督による政治は院政と呼ばれ、政治の実権を持つ者は「治天の君」と呼ばれました。

 

 

一方、北条氏の場合は、家督が権力を掌握した政治を得宗政治と呼び、政治の実権を持つ者は「得宗(とくそう)」と呼ばれました。

 

 

そんな得宗政治のきっかけを作ったのも実は北条時頼でした。北条時頼はとにかく権力掌握が得意技だったようです。

 

 

1263年、北条嫡流の権力を盤石にした北条時頼は没し、時代は蒙古襲来(元寇)という最大級の国難に立ち向かう時代へと進みます。この国難に立ち向かったのは、父時頼の意思を受け継いだ北条時宗でした。

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北条時頼の人物像

以上、北条時頼の生涯や政策について紹介しました。北条時頼の生涯・政策を一言で表すと

20〜30代という若さで北条時頼は北条氏の中でも特に嫡流の地位を高め、天皇家の院政を真似た北条家による得宗政治の礎を築いた。

という感じでしょう。

 

 

次に北条時頼の人物像について考えてみます。北条時頼は、北条氏嫡流の権力を盤石にする一方、周囲からの評判もとても良い少し変わった人物です。

 

 

というのも専制的な政治を行う人物って、普通はあんま評判が良くないからです。専制的な政治を目指しつつもその評判が良いのは、まさに北条時頼の政治スキルの高さを物語っているように思います。

 

 

北条時頼の評判がなぜ良いかというと、「質素剛健で信仰心が厚く、民に好かれていた」からです。

 

北条時頼は、禅宗の僧である蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や道元を鎌倉に招いたこともあり、信仰心の厚い人物だったと言われています。鎌倉市にある建長寺は、北条時頼と北条時頼が招いた蘭渓道隆によって建立されたお寺です。

 

 

また、北条時頼は御家人たちとの融和策を採る一方で、庶民たちの不満を抑えるための政策も広く行なっていたとされ、いわゆる善政を敷いた優れた指導者として認識されていました。

 

 

独裁的な政治をする人ってどうしても贅沢だったり残酷だったりっていうイメージがあります。しかし北条時頼は、独裁的な政治をしながらも質素倹約で宗教心も厚い、しかも善政を行った人格者であり、非常に変わった人物だと思います。

 

奢侈を好まず、善政を行い、その一方で北条氏嫡流の権力を強め専制の色を強める。相反する政策を同時にやってのけた北条時頼はやはり非常に優秀な政治家だったのだろうと思います。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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