面白いほどわかる秩禄処分!簡単に徹底解説するよ【士族を没落させた金禄公債証書とは一体何?】

今回は、1876年に実施された秩禄処分ちつろくしょぶんと、それに利用された金禄公債証書きんろくこうさいしょうしょについてわかりやすく丁寧に解説していきます。

最初に教科書風に秩禄処分のことをまとめておきます↓

秩禄処分とは

政府は華族・士族に対して、額を減らしたが依然として家禄を支給し、王政復古の功労者には賞典禄を与えていた。この家禄と賞典禄を合わせて秩禄というが、その支出は国の総支出の約30%を占めて大きな負担となった。

政府は1873年に希望者に対して秩禄の支給をとめるかわりに一時金を支給する秩禄奉還の法を定め、さらに1876年には全ての受給者に年間支給額の5~14年分の額の金禄公債証書きんろくこうさいしょうしょを与えて、秩禄を全廃した(秩禄処分ちつろくしょぶん)。

この記事では秩禄処分について以下の点を中心に解説をしていきます。

  • 秩禄処分はなぜ行われたのか?
  • 秩禄処分ってどんな内容だったの?
  • 金禄公債証書って何?
  • 秩禄処分が与えた人々への影響は?
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そもそも「秩禄」って何?

本題に入る前に、「秩禄ちつろく」について確認しておきます。

秩禄とは・・・

仕えている者(士族)に与える褒美(米や金)のことを禄と言います。

褒美(禄)にもいろいろ種類があって、この記事で登場するのは主に以下の2つの禄になります。

・家(家を構成する個人)に対して与えられた禄→家禄かろく

・王政復古(明治維新)の褒美として与えられた禄→賞典禄しょうてんろく

そして、家禄と賞典禄を両方合わせて秩禄ちつろくと呼びました。

当時、秩禄は基本的に米によって支給されていて、士族たちは秩禄によって生計を立てていました。

一方で、士族に支給する秩禄は明治政府に多額の負担を強いるものであり、明治政府では秩禄廃止の議論が進められることになります。

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秩禄処分までの流れ

次は秩禄処分が行われるまでの流れを確認!

秩禄処分までの流れ

上の時系列からわかるように、秩禄処分は秩禄奉還と合わせて実施された明治政府の財政立て直し政策の1つでした。

秩禄奉還の法とセットなので、合わせて以下の記事を読んでいただくと理解がスムーズになるのでオススメです。

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秩禄「奉還」から秩禄「処分」へ

秩禄の廃止は、イコール「士族の生活手段を奪う」ということを意味していました。現代風に言えば、「急にリストラされて生活ができなくなる・・・」というのと同じです。

しかし、このまま秩禄を支給し続けることも不可能でした。なぜなら明治政府にはお金がないからです。当時、秩禄は毎年の政府支出の約30%を占めていて、富国強兵を目指し工場を建設したり、軍隊を整備するためにはこの30%がとても邪魔だったんです。

1873年、秩禄の扱いについて明治政府内で激しい議論が行われます。

井上馨<br>
井上馨

もはや政府の財源には一刻の猶予もない。

すぐにでも秩禄を全て廃止にしてしまうべきだ。

木戸孝允
木戸孝允

そんなことをしては、士族たちが必ず反乱を起こすぞ。絶対ダメだ!

もう少し、穏便な方法はないものか・・・。

西郷隆盛
西郷隆盛

秩禄をどうするにせよ、士族の生活は必ず守らなければならない。急な秩禄の廃止は良くない。

こんな感じで、明治政府の中でも意見は様々でした。ただ、「秩禄を今のまま放っておくと、明治政府の財政がマジでやばい」ってところでは意見は一致していました。

同じ1873年、賛成・反対の両意見の折衷案として秩禄奉還の法が定められます。

秩禄奉還の法の内容
  • 秩禄を廃止する。
  • その代わり、士族は約6年分に相当する秩禄を前払いで受け取れる
  • 前払い分の半分は米で支給する。
  • もう半分は国が公債として借り受ける。借りる代わりに、国は士族に対して毎年8%の利子を支払う。
  • 希望者にのみ実施する。強制はしない。

秩禄奉還の目的は、「前払いした資金を使って士族たちに新しい仕事を探してほしい」というものでした。まさに「秩禄廃止」と「士族保護」の折衷案とも言える内容です。現代で言えば、失業保険的なものでしょう。

しかし、これはうまくいきません。秩禄のたった3割を廃止しただけで、前払いの財源が無くなりそうになったからです。(当時、日本は秩禄奉還のためイギリスから借金(外債)をしていたけど、それでも足りなかった)

そのため1875年には秩禄奉還の法は廃止され、代わりに1876年に秩禄処分が実施されることになりました。

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秩禄処分の内容

そんな経過があるので、秩禄処分はできるだけ士族に対する支出を減らす形で行われます。つまり、秩禄奉還と比べて「秩禄廃止」>「士族保護」となったわけです。

その内容は以下のようなものでした。

秩禄処分の内容
  • 希望制ではなく、強制的に全ての士族の秩禄を廃止
  • 前払いでもらえる秩禄はお米からお金へ
  • 貰えるのは5〜14年の秩禄相当分。
  • 前払いでもらえる秩禄は全て公債へ。手元に入ってくるのは毎年の利息だけ。
  • 公債の返済期間は、最大30年。(秩禄奉還では7年だった)

秩禄処分によって、廃止対象者は希望者から全ての士族へと大きく拡大しました。

困った人
困った人

対象者を増やしたら、明治政府はさらに財政的に苦しくなるのでは・・・?

という疑問もあるかもしれません。・・・が、そこの対策はバッチリです。

まず、秩禄の支給をお米から現金に変更しました。過去3年間の米の価格を基に支給金額が計算されることになりました。

これは、実質的な支給額の減額に繋がります。なぜなら、年々お米の物価は上昇し続けていたからです。以下の具体例を見るとわかりやすいです。

例えば、お米1kgの価格が以下のように毎年値上がりしていたとします。(金額は私がテキトーに決めた額なので実際とは全然違います)

  • 1872年→100円
  • 1873年→105円
  • 1874年→115円
  • 1876年→120円
  • 1876年→130円

そして、士族Aさんが貰っていた秩禄相当分は毎月10kgだったとします。

これをお金に変換するため、1872年〜1874年の1kg当たり米価格の平均値を計算すると・・・

(100+105+115)/3≒106円

なので、Aさんが貰える毎月のお金は「1kg当たり106円」×10kg=1,060円です。

そして、秩禄処分が行われた1876年の米の価格とAさんが貰える金額を比較してみます。

  • 1876年の米(10kg)の価格
    130×10kg=1,300円
  • Aさんが貰える米(10kg)相当のお金
    1,060円

おかしいですよね。Aさんは秩禄相当分をお米で貰ってそれを売った方が240円得する計算です。逆に考えると、明治政府は支給方法をお米→お金とするだけで、財源を節約できることになります。

このようにして、お金で支給する秩禄のことを金禄きんろくと言います。

さらに、明治政府は金禄を現金で渡さず、全て公債としてしまいました。

公債こうさい

行政組織(明治政府)が借りているお金などの債務のこと。

明治政府は士族に金録を渡さず、全てを強制的に公債として借り入れてしまいました。

その代わりに、お金を貸している士族は毎年5〜10%の利息を国から受け取ることになります。(秩禄奉還の時は8%だった。)

この公債は、士族の金録を国が借りたものだったので金禄公債きんろくこうさいと呼ばれます。そして、士族たちには、金録を国に貸している証明として金禄公債証書が発行されました。

金禄公債は非常に強力で、下級士族たちはこの仕組みによって息の根を止められることになります。また具体例を挙げてみましょう。

士族Bさんの毎年の秩禄が1万円(10,000円)だったとします。さらに、Bさんに対する秩禄処分の内容が以下のとおりだったとします。

  • 前払い分の金禄は5年分
  • 金禄公債の利息は毎年5%
  • 金禄公債の返済期間は最大30年

まず、Bさんが貰える金録は10,000円×5年=50,000円

そしてこれが全て金禄公債となり、Bさんはその5%(50,000円×5%=2,500円)を利息として貰えます。

単純計算で、士族が貰える年間の秩禄は10,000円から2,500円へと75%も減っていることがわかります。これに加えて、上で述べたように物価の上昇しても、支給額が変わらないので、実質的に75%以上の減額となります。

しかも、明治政府に貸した5万円が戻ってくるのに最大30年も待たなければなりません。鬼畜ですね・・・

上の具体例をまとめると、士族の生活を苦しめた仕組みは以下のようになります。

  • 金録を現金で渡さず、全て金禄公債に。
  • 金禄公債の利息は低めに設定(最低5%)
  • 返済期間も長めに設定(最大30年)
  • 士族たちは手元に現金がなく、生活が困難に

これを政府視点から見ると全てが真逆となり、「支出額を減らせるし、返済期間を長くすることで財政への負担も減らせる」というとってもお得な制度となりました。

政府は、秩禄処分によって士族たちがブチギレてテロ行為を行わないよう、秩禄処分とほぼ同時に廃刀令たいとうれいを出しました。士族が刀を携帯することを禁じたのです。

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士族、終了のお知らせ

秩禄処分によって、ほとんどの士族が没落します。平穏無事に秩禄処分を乗り切れたのは、藩主レベルの高い身分の士族に限られました。(この他、西郷隆盛のいた薩摩藩も優遇された)

生活する術を失った士族の多くは、手元の金禄公債を売って、売ったお金で新しいビジネスを始めたり、仕事を探したりすることになります。

・・・が、その多くは失敗しました。商売に慣れていない士族がビジネスを立ち上げたところで、そのほとんどが上手くいかなかったのです。その様子から、慣れないことに手を出して失敗することを「士族の商法」なんて言われるようになります。

例えば、いつもセブンイレブンで買い物するのに、たまにローソンに買い物に行って欲しいものがなかった時に「あー、ミスった。士族の商法だわ」って使い方をします。

少しややこしいですが金禄公債は売れました。

士族から金禄公債を買い取った人は、その士族の代わりに利息を受け取り、30年以内に元本を受け取ります。

金禄公債は当時大量に設立された銀行から大人気で、買いたい人がたくさんいました。一方で、金禄公債を売って現金を欲しがる士族もたくさんいたので、金禄公債は活発に取引が行われます。

明治政府は士族たちに、「荒地の開墾」「北海道の開拓」という仕事を与えて士族を救おうともしました(士族授産しぞくじゅさん)が、これも上手くいきません。これらは過酷な労働・環境を強いるものだったので、辛うじて生活はできても、秩禄処分以前の生活水準を維持することはほとんど不可能であり、多くの氏族は厳しい生活を強いられました。

このように新しい道を手探りする士族たちもいれば、ストレートに明治政府に対して反乱を起こす士族たちもいました。反乱を起こす士族は九州地方に多く、これは最終的に1877年に勃発した西南戦争にまで発展することになります。



明治時代
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もぐたろう

薄給サラリーマン。まなれきドットコムを運営しています。
趣味はブログ・プログラミング・投資。

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