
今回は江戸幕府の三奉行について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!寺社奉行・町奉行・勘定奉行の違い、財政だけじゃない勘定奉行の仕事、三奉行が顔をそろえる評定所、そして大岡忠相・遠山景元・小栗忠順まで。時代劇でおなじみの「お奉行さま」のイメージも、ちょっと広がるはずだよ!
この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
山川出版社『詳説日本史』準拠
時代劇で「お奉行さま」といえば、遠山の金さんや大岡越前のような町奉行を思い浮かべる人が多いでしょう。
ところが実は、江戸幕府の三奉行は、宗教・江戸の町・幕府のお金という幕府運営の根幹を分け合った3つの役職でした。しかも三奉行は、評定所という場で顔をそろえ、一緒に裁判を行う合議の中心でもあったのです。
さらに「財政担当」と習うことの多い勘定奉行は、直轄領の支配や訴訟まで受け持っていました。この記事では、三奉行それぞれの担当と違い、勘定奉行の仕事の広がり、評定所のしくみ、代表的な人物までを順番に解説します。「勘定奉行ってどんな仕事?」と気になって来た人にも、答えが見つかるはずです。
三奉行とは?江戸幕府の役職と位置づけ
- 三奉行は、江戸幕府の寺社奉行・町奉行・勘定奉行の3つの役職をまとめた呼び名
- 寺社奉行は大名から、町奉行と勘定奉行は旗本から選ばれ、宗教・江戸の町・幕府財政と直轄領をそれぞれ担当した
- 三奉行は評定所で重要な裁判や評議を一緒に行う、合議の中心メンバーでもあった
三奉行とは、江戸幕府の寺社奉行・町奉行・勘定奉行の総称です。「奉行」は、主君から命じられた仕事を責任をもって担当する役職を指す言葉で、江戸幕府にはほかにも多くの奉行が置かれていました。
徳川家康が開いた江戸幕府では、将軍のもとで政務をまとめる老中が置かれました。この老中を中心とする政権のもとで、実際の行政を動かした実務の柱が三奉行です。
幕府のしくみが整えられたのは、3代将軍徳川家光の時代です。1635年には寺社奉行が置かれ、同じ年に評定所の規則も初めて文章にまとめられたとされています。こうして、三奉行が評定所を構成する形が固まっていきました。

奉行って、町奉行のことだけじゃないの?時代劇だと「お奉行さま」って奉行所にいる人のイメージなんだけど…。

奉行は「ある仕事を任された責任者」くらいの意味なんだ。長崎奉行のように地方に置かれた遠国奉行もいたんだよ。そのなかで、幕府の中枢で実務を回した寺社・町・勘定の3つを、まとめて三奉行と呼ぶんだね!
⚠️ 名前が似ている用語に注意:三奉行は、豊臣政権の五奉行や、鎌倉幕府の評定衆とは別物です。三奉行は江戸幕府の寺社奉行・町奉行・勘定奉行のことを指します。なお辞書には、五奉行のうち特に力の強かった3人を「三奉行」と呼ぶ別の意味も載っていますが、ふつう三奉行といえば江戸幕府の3つの役職のことです。
3つの奉行は、上に立つ人も同じではありませんでした。寺社奉行は一時期老中の担当とされていましたが、1662年に将軍直属に改められたとされています。一方、町奉行と勘定奉行は、老中の支配を受ける役職でした。
つまり三奉行は、担当も格も違う3つの役職です。それでいて評定所では同じ席につく仲間でもありました。次の章では、まず3つの違いを整理していきます。
寺社奉行・町奉行・勘定奉行の担当と違い
三奉行の違いは、「どの身分から選ばれたか」「何を担当したか」「どんな勤務のしかただったか」という3つの軸で見ると整理しやすくなります。順番に見ていきましょう。
寺社奉行〜宗教と寺社領を預かる最高格
寺社奉行は、全国の寺院・神社と寺社領(寺や神社が持つ土地)を管理し、僧侶や神職などの宗教者を取りしまった役職です。宗教の統制という、幕府にとって重い仕事を担っていました。
選ばれたのは、譜代大名のなかでも奏者番(儀式で取り次ぎなどを担当する役)を務める人たちでした。三奉行のなかで唯一大名が就く役職で、最も格式が高いとされています。
定員はおおむね4人(3〜5人の時期もあったとされます)です。1か月ごとに当番の奉行を交代する月番のしくみで、仕事を回していました。

寺社奉行だけ大名で、町奉行と勘定奉行は旗本なんだね。なんで寺社奉行だけ違うの?

寺社奉行は全国の寺や神社を相手にする役職で、格がとても高かったんだ。大名から選ばれたのは、その格式の違いが背景にあるとされているよ。町奉行と勘定奉行は、将軍に直接仕える1万石未満の家臣、つまり旗本から選ばれたんだね。
町奉行〜江戸の行政・司法・警察を担う
町奉行は、江戸の町と町人に関する行政・司法・警察・消防などを担当した役職です。ただし武家屋敷の土地や寺社の土地は担当外で、町人が暮らす町地が受け持ちでした。
町奉行は旗本から選ばれ、老中の支配を受けました。旗本が就く役職のなかでは最高クラスのポストだったとされています。
定員は基本2人で、南町奉行所と北町奉行所に分かれ、1か月交代の月番制で勤めました。1702年から1719年までは中町奉行所も置かれ、3人体制だった時期があります。
奉行の下で、実際の仕事を担ったのが与力と同心です。
📝 与力・同心ってなに?:与力は奉行を補佐する上級の役人、同心はその下で見回りや捜査などにあたる下級の役人です。江戸の町奉行所の場合、与力は南北あわせて50騎ほど、同心は200人ほど(のちに増員)だったとされます。大坂町奉行所の元与力として知られるのが、のちに乱を起こす大塩平八郎です。

時代劇でよく見る南町奉行所と北町奉行所って、別々の組織なの?同じ時期に両方動いてたの?

南と北は、同じ町奉行の仕事をひと月ずつ交代で受け持っていたんだ。当番の月は新しい訴えを受け付けて、当番じゃない月はたまった案件の処理をしていたとされるよ。今でいう「警視総監と裁判長をあわせたような役職」とたとえられることもあるけど、ぴったり同じ仕事があるわけじゃないんだ。
勘定奉行〜幕府のお金と直轄領を預かる
勘定奉行は、勘定所という役所の長官です。幕府の財政を動かし、幕府の直轄領を支配して年貢を集め、お金や米の出し入れを管理しました。
勘定奉行も旗本から選ばれ、老中の支配を受けました。定員はおおむね4人(3〜5人の時期もあったとされます)です。
ただ、勘定奉行の仕事は「お金の計算係」で終わりません。財政以外にも大きな役割を持っていたのですが、それは次の章でくわしく見ていきます。
3つを3つの軸で整理すると

ザックリたとえると、寺社奉行は「宗教界の担当大臣」、町奉行は「江戸の市役所+警察+裁判所」、勘定奉行は「財務省+直轄地の管理役」みたいなイメージに近いよ。ただ、勘定奉行だけは財務のイメージで語りきれないんだ。次の章で中身をのぞいてみよう!
財政だけではない勘定奉行の仕事
勘定奉行といえば、幕府の財政担当というイメージが強いでしょう。けれども実際には、直轄領に暮らす人びとの支配や、訴訟の審理まで受け持っていました。
2027年の大河ドラマで主人公として描かれる予定の小栗忠順も、幕末にこの勘定奉行を務めた一人です。ここでは、勘定奉行が実際にどんな仕事をしていたのかを見ていきます。
勘定所の2つの顔〜財政と訴訟
勘定奉行が率いた勘定所は、1721年ごろ、仕事の中身によって2つの部門に分けられました。訴訟を扱う公事方と、財政や年貢などを扱う勝手方です。
勝手方は、年貢の取り立てや幕府の収入・支出の管理、金銀の出し入れといった、いわば「お金の部門」です。部門が分かれる前の元禄期には、のちに勘定奉行となる荻原重秀が貨幣の改鋳を進めるなど、勘定所が幕府の財政政策そのものを動かすこともありました。
一方の公事方は、訴訟を担当する部門です。勘定奉行が裁判を担うと聞くと意外に感じるかもしれません。けれども当時の幕府では、行政の役所がそのまま裁判も行うのがふつうでした。
勘定所が勝手方と公事方に分かれた年は、資料によって書き方が少し異なります。多くの辞典は「1721年に勘定所の仕事が2つの部門に分かれ、翌1722年に勘定奉行と勘定吟味役も両方の担当に分かれた」と説明しています。
一方で、勘定奉行の担当が分かれた1722年を区切りとして紹介する辞典もあります。どちらも同じ改革の別の段階を指していると考えると、混乱せずに済みます。この記事では「1721年ごろ」と表記しています。

勘定奉行って財政担当って習ったのに、裁判もやってたの?

そうなんだ!お金や土地をめぐる争いなど、村の人たちの暮らしに関わる訴えを、公事方の勘定奉行が受け付けていたんだよ。この裁判の仕事が、あとで出てくる評定所にもつながっていくんだ。
直轄領を治める郡代と代官
幕府が直接支配した土地を直轄領(天領)とよびます。直轄領から集める年貢は幕府の大切な収入で、その支配も勘定奉行の仕事でした。
とはいえ、勘定奉行が全国の直轄領を自分で見て回るわけにはいきません。現地を治めたのは、勘定奉行のもとに置かれた郡代と代官です。郡代や代官は、年貢の取り立てや村の訴えの処理など、現地の民政を担いました。
なかでも関東の直轄領を治めた関東郡代は、伊奈氏が代々受け継いだことで知られます。伊奈氏の世襲は1792年に終わり、その後は勘定奉行が関東郡代を兼ねるようになったとされています。
訴訟の面でも、関八州(関東の8か国)の村々や、各地の直轄領から出された訴えは、勘定奉行が受け付ける決まりだったとされています。

天領って、幕府が直接持っていた土地のことだよね?今でいう国有地みたいな感じ?

イメージとしては近いね!ただ天領は空き地じゃなくて、村があって人が暮らしている支配地なんだ。だから勘定奉行は、年貢を集めるだけじゃなく、そこに住む人たちの暮らしや争いごとにも責任を持っていたんだよ。
このように勘定奉行は、財政・直轄領の支配・訴訟という3つの仕事を抱えていました。そして訴訟を扱う公事方の勘定奉行は、幕府の最高の裁判の場である評定所にも加わっていきます。
三奉行が関わる「評定所」とは
ここまで三奉行を3つの別々の役職として見てきましたが、三奉行にはもう1つの顔がありました。それが、評定所という合議の場の中心メンバーとしての顔です。
評定所は、江戸幕府の最高の裁判機関とされます。複数の奉行の担当にまたがる事件や、大名・旗本が関わる訴訟などを審理し、老中から意見を求められた重要な問題にも答えました。
評定所に集まった顔ぶれ
評定所で審理と評議を担ったのは、寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行です。この顔ぶれを評定所一座とよびます。ただし勘定奉行のうち評定所一座に加わったのは公事方で、勝手方は加わらなかったとされています。
三奉行のほかに、大目付や目付も審理に加わりました。決まった日には老中も出席しています。書類づくりなどの実務は、勘定所などから出向した留役という役人が担ったとされています。
大目付は大名を、目付は旗本や御家人を監察する役職です。どちらも評定所の審理に加わったことは、多くの辞典で確認できます。
ただし、意見を述べて結論づくりに加わる権利(評議権)を持っていたのは評定所一座(三奉行)だけで、大目付・目付などには評議権がなかったと説明する辞典もあります(日本大百科全書)。そのため、この記事では「審理に加わった」と紹介するにとどめています。
式日・立合・内寄合〜3つの開き方
評定所の会議には、開き方の違う3つの形式がありました。
式日:老中も出席する定例の会議
式日は、毎月決まった日に開かれる会議です。三奉行の話し合いだけでは決着しない難しい事件を、老中が出席して審理することがもともとの目的だったとされています。1712年からは、毎月2日・11日・21日に開かれたとされます。
立合:三奉行がそろって審理する会議
立合は、三奉行が集まって事件を審理する会議です。式日との違いは、主に老中が出席するかどうかにあったとされています。
内寄合:月番の奉行の屋敷で行う審理
内寄合は、評定所ではなく、月番の奉行の役宅(仕事用の屋敷)で行われる審理です。なお評定所の裁決は多数決で決め、意見がまとまらないときは老中の判断にゆだねたとされています。

評定所って、鎌倉幕府の評定衆と同じもの?名前が似てて混乱する…。

まったくの別物だよ!評定衆は鎌倉幕府で執権と一緒に政治や裁判を話し合った役職、評定所は江戸幕府の裁判の場なんだ。
評定所の前に置かれた目安箱
評定所は、庶民の声とも無関係ではありません。享保の改革を進めた8代将軍徳川吉宗は、1721年に評定所の門前に目安箱を置き、庶民からの意見や訴えを直接受け取れるようにしました。
また、裁判の基準をまとめた公事方御定書も、評定所に編纂が命じられ、三奉行が関わってまとめられたとされています。1742年に完成し、その後の幕府の裁判のよりどころとなりました。

結局、三奉行って裁判官みたいなもの?それとも役人?

どっちでもあった、というのが答えかな。江戸時代は行政と裁判がはっきり分かれていなかったから、役所のトップがそのまま裁く側にもなったんだ。今の三権分立とはまったく違う仕組みだね。
こうした仕組みのなかで、実際に三奉行を務めた人たちはどんな仕事をしたのでしょうか。次の章では、時代劇や大河ドラマでも知られる3人を見ていきます。
大岡忠相・遠山景元・小栗忠順など、三奉行を務めた代表的な人物
制度は、人を通して見るとぐっとイメージしやすくなります。ここでは、町奉行・寺社奉行・勘定奉行を務めた3人を紹介します。
大岡忠相〜町奉行から寺社奉行へ
大岡忠相は1677年に生まれた旗本で、1751年に亡くなったとされています(1752年とする辞典もあります)。8代将軍・徳川吉宗の時代の1717年に町奉行(南町奉行)となり、1736年まで江戸の町を担当しました。

町奉行の時代には、町火消の組織づくりや小石川養生所の設立、物価への対策などに関わったとされています。
1736年には寺社奉行へ移りました。さらに1748年には奏者番を兼ね、領地を加えられて1万石の大名(三河国西大平藩)となっています。忠相は旗本のまま寺社奉行となり、のちに大名へ取り立てられたことになります。亡くなる直前の1751年には、病気のため寺社奉行を辞めています。
一方、時代劇でおなじみの大岡裁きは、史実の忠相とは分けて考える必要があります。
名奉行・大岡越前が知恵を働かせて難事件を解決する物語は、江戸時代の講談や読み物(大岡政談)を通じて広まりました。
しかし、その多くは中国などの裁判説話や、ほかの奉行の逸話を忠相の話に仕立てたものとされています。有名な天一坊事件の審理も、実際には忠相ではなく別の役人が担当したとされます。名奉行のイメージは、後世の人びとの人気が生んだものと考えるとよいでしょう。

大岡忠相は町奉行から寺社奉行になったんだよね。これって出世なの?

寺社奉行は三奉行のなかで一番格が高くて、ふつうは大名が就く役職なんだ。忠相は旗本のまま寺社奉行に抜てきされて、のちに大名にも取り立てられたんだよ。旗本と大名、2つの立場の奉行を1人で経験した人物なんだね。
遠山景元〜「遠山の金さん」のモデル
遠山景元(1793〜1855年)は、時代劇「遠山の金さん」のモデルとして知られる旗本です。1840年に北町奉行となり、天保の改革の時代に江戸の町を担当しました。

景元は、老中水野忠邦が進めた改革の厳しい命令に対して、町人の暮らしに配慮した慎重な姿勢をとったとされます。株仲間の解散令を町に伝えるのを遅らせたことや、江戸の芝居小屋を取りつぶさず、浅草の猿若町へ移して存続させたことが知られています。
このとき南町奉行として改革を厳しく進めたのが、鳥居耀蔵です。景元は耀蔵と対立し、1843年に大目付へ転じました。しかし1845年には、今度は南町奉行として町奉行に返り咲いています。

遠山の金さんって実在した人なの?桜吹雪の入れ墨も本当?

遠山景元は本当にいた町奉行だよ!ただ、桜吹雪の入れ墨があったという話は俗説で、確かな証拠はないんだ。お白洲で入れ墨を見せて悪人をこらしめる場面は、時代劇の脚色と考えておこうね。
小栗忠順〜幕末の勘定奉行
小栗忠順(1827〜1868年)は、幕末の旗本です。1860年には、日米修好通商条約の批准書を交換する遣米使節に目付として加わり、アメリカの近代的な工場や造船所を目にしました。
帰国後の1862年に勘定奉行に任じられ、その後も辞任と再任をくり返しながら、幕末にかけて何度もこの職を務めたとされています。外国奉行・町奉行・軍艦奉行なども歴任し、幕府の財政と近代化の両方を背負う立場にありました。
財政が苦しいなかで軍備や造船所の建設を進めるには、お金のやりくりを担う勘定奉行の力が欠かせませんでした。

幕府の台所が苦しいときこそ、勘定奉行の腕の見せどころだ。金のめどが立たなければ、新しい船も工場も夢で終わってしまうからな。
町奉行として江戸の町を治めた忠相と景元、そして幕末の財政を背負った小栗。三奉行は、制度で見ても人で見ても、江戸幕府の運営を支えた役職でした。
三奉行の理解を深めるおすすめ本

三奉行のなかでも、幕府のお金と直轄領を握っていた勘定奉行をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
『勘定奉行の江戸時代』は、近世史の研究者である藤田覚さんが、勘定奉行の仕事ぶりから江戸幕府の約270年をたどる、2018年刊のちくま新書です。
出版社の紹介では、勘定奉行は財政だけでなく、農政・交通・司法なども担い、寺社奉行・町奉行とともに政策決定に深く関わった役職として描かれています。年貢の増徴、新しい財源の模索、貨幣改鋳、財政の積極策と緊縮策の対立などが主なテーマです。
家格ではなく実力で、現場の経験を積んだ役人が奉行に昇進できる仕組みにも触れており、この記事の「勘定奉行は財政だけではない」という話を、さらに広げて読むことができます。
なお、紙の新書は出版社サイトで品切れの表示になっています(2026年10月確認)。電子版は購入できるので、紙で読みたい場合は図書館や古書店もあわせて探してみてください。
勘定奉行の仕事を、財政・農政・司法まで広く知りたい人。江戸幕府の盛衰を「お金」の側から読み直したい社会人や、教科書で習う幕府の財政改革の背景を深めたい高校生。
寺社奉行・町奉行まで含めた三奉行の全体像を、1冊で手早く整理したい人。
よくある質問(FAQ)
三奉行とは、江戸幕府の寺社奉行・町奉行・勘定奉行の総称です。寺社奉行は宗教、町奉行は江戸の町、勘定奉行は幕府の財政と直轄領を担当しました。三奉行は評定所一座として、重要な裁判や評議も一緒に行いました。
違いは担当と、選ばれる身分で整理できます。寺社奉行は全国の寺社と宗教者を担当し、譜代大名から選ばれました。町奉行は江戸の行政・司法・警察を、勘定奉行は幕府の財政と直轄領の支配などを担当し、どちらも旗本から選ばれました。
最も格式が高いのは寺社奉行とされています。三奉行のなかで唯一大名が就く役職で、1662年からは老中の担当を離れて将軍直属となったとされます。
いいえ、財政だけではありません。勘定奉行は直轄領の支配と年貢の徴収、配下の郡代・代官の監督、さらに訴訟の審理も担当しました。1721年ごろには、勘定所が財政を扱う勝手方と、訴訟を扱う公事方に分かれています。
評定所は、三奉行を中心に構成された江戸幕府の最高の裁判機関です。鎌倉幕府の評定衆とは名前が似ているだけの別物で、評定衆は執権とともに政治や裁判を話し合った役職です。
大岡忠相は実在の人物で、1717年から1736年まで町奉行を務めました。ただし「大岡裁き」と呼ばれる逸話の多くは後世の創作とされ、ほかの裁判説話などをもとに作られたと考えられています。
遠山景元は実在の旗本で、北町奉行と南町奉行の両方を務めました。ただし桜吹雪の入れ墨は俗説とされ、確かな証拠はありません。
まとめ
三奉行は、江戸幕府の寺社奉行・町奉行・勘定奉行の総称です。寺社奉行は大名から、町奉行と勘定奉行は旗本から選ばれ、それぞれ宗教・江戸の町・財政と直轄領を担当しました。
なかでも勘定奉行は、財政だけでなく直轄領の支配や訴訟まで受け持った役職です。そして三奉行は評定所で顔をそろえ、幕府の重要な裁判を担う合議の中心でもありました。

以上、三奉行のまとめでした。下の記事で徳川吉宗や天保の改革、小栗忠順もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年10月 / 参照:コトバンク(山川 日本史小辞典・日本大百科全書ほか)・Wikipedia日本語版
コトバンク「三奉行」「寺社奉行」「町奉行」「勘定奉行」「評定所」(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・山川 日本史小辞典ほか)(2026年10月確認)
コトバンク「関東郡代」「内寄合」「目安箱」「公事方御定書」「荻原重秀」「大岡忠相」「遠山景元」「小栗忠順」(2026年10月確認)
Wikipedia日本語版「三奉行」「寺社奉行」「町奉行」「勘定奉行」「評定所」「大岡忠相」「遠山景元」「小栗忠順」(2026年10月確認)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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