

今回は、鎌倉幕府を支えた大事な仕組み「御恩と奉公」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
御恩と奉公とは?
御恩と奉公とは、鎌倉幕府の将軍と御家人(将軍と主従関係を結んだ武士)が互いに利益を与え合った仕組みのことです。将軍が御家人に土地の支配権を認める「御恩」を与え、御家人は将軍のために戦う「奉公」をするという、ギブアンドテイクの関係で成り立っていました。

今でいうと「会社と社員の関係」に近いかな。会社(将軍)が社員(御家人)に給料(土地)を払って、社員は会社のために働く(奉公する)。ただし現代と違って、土地という「モノ」でのやり取りだったんだ。

この御恩と奉公の仕組みは、源頼朝が鎌倉幕府を創設するなかで生まれ、鎌倉時代を通じて武士社会の基盤となりました。
御恩と奉公の関係が始まった時代背景
御恩と奉公が生まれた背景を理解するには、1180年〜1185年にかけて起こった治承・寿永の乱(源平合戦)にさかのぼる必要があります。
治承・寿永の乱は、以仁王という人物が「平家を打倒しよう!」と全国に呼びかけ、これに呼応した人々が平家と戦った大規模な戦乱です。
そして、以仁王の呼びかけに応じた人物の一人に、平清盛によって伊豆へ流罪にされていた源頼朝がいました。

源頼朝が「打倒!平家!」と挙兵すると、関東の武士たちが源頼朝の下へ次々と集まり、やがて源頼朝は関東一帯の武士たちを束ねるリーダーとなっていきました。

他にもいろんな人物が以仁王の呼びかけに応じて立ち上がっているのに、なぜ源頼朝がリーダー的存在になったの?
武士たちが源頼朝に従った理由は大きく3つあります。
さらに当時、関東の武士たちは2つの深刻な悩み・問題を抱えていました。
悩み①:朝廷からの冷遇

朝廷の貴族たちは、俺らのことを野蛮な番犬としか見ていない。命をかけて戦っているのに、活躍に見合った恩賞もくれないし、誰か武士が報われる世界に導いてくれないかなぁ・・・。
悩み②:武士同士の所領争い

武士同士の所領争いが凄すぎて、関東一帯がカオスになってるんだが・・・。源義朝殿のように武士を束ねて平和に導いてくれるリーダーはいないだろうか。
関東武士たちは、こうした深刻な悩みを解決してくれる存在として、血筋よし・父は実力者・人柄もOKな源頼朝に期待するようになったわけです。
御恩と奉公が始まった理由
関東一帯の武士を束ねるリーダーとなった源頼朝は、武士たちの期待に応えるため新しい仕組みを考えます。

武士たちの利害関係は複雑だし、朝廷のような上からの支配も嫌っている。屈強な武士たちを束ねるには、これまでにない新しい仕組みが必要だ・・・!
こうして源頼朝が考え出したのが、御恩と奉公というギブアンドテイクの仕組みです。

なに、簡単なことよ。要するにギブアンドテイクの精神だ。
私が武士たちの悩みを解決する(御恩)代わりに、武士たちには平家を倒すために共に戦ってもらう(奉公)。互いにwin-winの関係になることが重要だ。
この時に源頼朝と御恩と奉公の関係(主従関係)を結んだ武士のことを御家人と言います。

つまり「将軍と主従関係を結んだ武士」=「御家人」ってことだね。御家人は将軍に忠誠を誓う代わりに、将軍からの保護・恩賞を受けられたんだ。
源頼朝は、朝廷を無視して独自に武士たちに所領や役職を与えるようになります。
その後、1183年には源頼朝が東国を支配することを朝廷に認めさせ(寿永二年十月宣旨)、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした1185年には、各地に守護・地頭を設置する権限を朝廷に認めさせました。
こうして、東国を中心とする御恩と奉公による武士統治の新システムが、朝廷公認のもとで完成したのです。
御恩とは?将軍から御家人への褒美
御恩とは、鎌倉幕府の将軍が御家人に与える褒美のことです。簡単に言えば、「将軍が御家人の土地の支配を認めてあげること」を意味します。
御恩には大きく分けて2つの方法がありました。それが本領安堵と新恩給与です。
■本領安堵(ほんりょうあんど)
本領安堵とは、御家人が先祖代々受け継いできた所領の支配権を、将軍が公式に保障してあげることです。

今でいう「不動産の所有権を国が公式に登記してくれる」ようなイメージだね。将軍の保障があるから、誰にも土地を奪われなくなるんだ。
■新恩給与(しんおんきゅうよ)
新恩給与とは、戦での活躍などの功績に応じて、御家人に新しい所領を与えることです。

本領安堵が「今の土地を守ってあげる」なら、新恩給与は「新しい土地をプレゼントする」ってことだね。

■地頭職を通じた御恩の方法
本領安堵・新恩給与の方法は少し変わっていて、「御家人に直接土地を渡す」のではなく、「その土地の管理を任せる役職(地頭)に任命する」という方法で行われました。
本領安堵の場合は、御家人が昔から住んでいた地域の地頭に任命してあげます。
新恩給与の場合は、御家人を新しい土地の地頭に任命してあげます。
御家人はあくまで「地頭として所領の管理を任されているだけ」なので、地頭職を解任されるとただの人になってしまいます。地頭の任命・解任の権限は将軍が持っていたため、御家人は身分を守るためにも将軍への奉公が欠かせませんでした。
奉公とは?御家人から将軍への忠誠
奉公とは、御恩をもらった見返りとして、御家人が将軍のために忠誠を尽くして働くことを言います。簡単に言えば、「土地をもらった代わりに将軍のために戦ったり、警備をしたりすること」です。
御恩と奉公ができた当初は治承・寿永の乱の真っ最中だったため、奉公=「源頼朝と共に平家と戦うこと」でした。しかし戦乱が終わり平時になると、奉公は主に3つの方法で行われるようになります。
■戦があった時の軍役
戦が起こった時に、鎌倉幕府のために武器を持って戦うことです。
源頼朝が生きていた頃は大きな戦いは少なかったものの、頼朝の死後は鎌倉幕府内外の争いが増え、軍役の機会が多くなります。大きな軍役の事例としては、承久の乱(1221年)や文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)などの元寇があります。
■京都大番役(メインの仕事!)
京都大番役は、天皇や上皇の御所を警備する仕事です。3つの奉公の中でも最も重要な仕事でした。
東国からはるばる京都までやってきて、6ヶ月間にわたって御所の護衛・警備にあたります。

鎌倉から京都まで何日もかけて移動して、半年間も家を離れて警備をするわけだから、御家人にとってはかなり重い負担だったんだ。鎌倉時代の中頃には、あまりの負担の重さから期間が3ヶ月に短縮されたよ。
■鎌倉番役
鎌倉番役は、鎌倉にある幕府を警備する仕事です。京都大番役の鎌倉バージョンと思ってもらえればOKです。
犠牲になった源義経
御恩と奉公のシステムは、将軍と御家人のwin-winの関係の上に成り立つもの。どちらか一方がメリットを感じられなくなれば、両者の関係はたちまち崩壊してしまいます。
だからこそ、御家人に御恩と奉公のメリットを感じ続けてもらうことは、リーダーである源頼朝にとって最も重要な課題でした。
源頼朝は、御家人同士の人間関係や弱みを常に把握し、不満を抑えるために全力を注ぎ、御恩と奉公のシステムを乱す者には味方であっても容赦しませんでした。
こうして犠牲になったのが、頼朝の弟である源義経です。
源義経は、頼朝の配下でありながら、独断で朝廷から官位を受けて朝廷にも仕えていました。しかし、御恩と奉公のシステムを成立させるためには、御家人が2人の主君(朝廷と源頼朝)に仕えることはあってはなりません。

義経が朝廷で優遇されているのを見て、他の御家人たちも朝廷に仕えるようになってしまったら、鎌倉幕府はたちまち崩壊する。弟であっても、絶対に容赦はしない。
1189年、源頼朝は奥州合戦によって、義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼしました。源義経はその直前、奥州藤原氏の当主・藤原泰衡に攻められて自害しています。

源義経の悲劇的な最期は「判官びいき」という言葉として今に残っているよ。弟を犠牲にしてでも御恩と奉公のシステムを守った頼朝の覚悟が伝わってくるね。
元寇と御恩・奉公の崩壊
源頼朝が築き上げた御恩と奉公の仕組みは、鎌倉時代の後半になると大きくゆらぎ始めます。その最大のきっかけとなったのが、元寇(文永の役・弘安の役)でした。

1274年の文永の役と1281年の弘安の役で、御家人たちは命がけでモンゴル帝国(元)と戦いました。しかし、元寇は外国からの侵略を防いだ「防衛戦」であったため、勝利しても新たな土地を得ることができませんでした。

命がけで戦ったのに、ろくな恩賞ももらえないとは・・・。もう幕府に奉公する意味がないじゃないか!
つまり、御恩と奉公のギブアンドテイクが成立しなくなったのです。御家人は奉公(命がけの戦い)をしたのに、将軍は十分な御恩(恩賞の土地)を与えることができませんでした。
さらに、惣領制のもとで行われた分割相続も御家人の困窮に拍車をかけました。代を重ねるごとに所領が子どもたちに分割され、一人あたりの土地がどんどん小さくなっていったのです。
生活に苦しくなった御家人たちは、土地を担保にお金を借りるようになりますが、やがて返済できなくなり、土地を手放す御家人が続出しました。
こうした状況を打開するために幕府が出したのが、1297年の永仁の徳政令です。御家人が売却した土地を無償で取り戻せるようにしたのですが、この政策はかえって混乱を招き、御家人の幕府への不満は決定的なものとなりました。

御恩と奉公のギブアンドテイクが崩れたことで、御家人の幕府離れが進んでいき、やがて鎌倉幕府は1333年に滅亡することになるんだ。御恩と奉公の崩壊が、そのまま鎌倉幕府の崩壊につながったんだね。
封建制度と御恩・奉公の関係
御恩と奉公のように、土地を仲立ちとして主君と家臣が主従関係を結ぶ仕組みのことを、歴史用語で封建制度と言います。
「封建制度」は世界共通の仕組みであり、「御恩と奉公」は日本独自の封建制度の形です。つまり「御恩と奉公」=「封建制度の一種」という関係にあります。
中世ヨーロッパでも、国王が領主に土地を与え、領主が国王に軍事奉仕をするという封建制度がありました。日本の御恩と奉公はこれとよく似た仕組みです。

鎌倉幕府の成立によって日本でも封建制度が始まり、この封建制度は江戸時代まで長く続くことになるよ。
テストに出る!御恩と奉公の重要ポイント
■覚え方のコツ

御恩と奉公は「御恩=将軍→御家人(土地をあげる)」「奉公=御家人→将軍(戦う・警備する)」と、矢印の向きをセットで覚えると間違えにくいよ!
よくある質問
鎌倉幕府の将軍が御家人に土地の支配権を保障する(御恩)代わりに、御家人が将軍のために戦ったり警備をしたりする(奉公)という、ギブアンドテイクの関係のことです。
1180年の治承・寿永の乱(源平合戦)のなかで、源頼朝が関東の武士たちを束ねる際に始まりました。1185年に守護・地頭の設置権が認められたことで、仕組みとして完成しました。
本領安堵は御家人が先祖代々持っていた土地の支配権を保障すること。新恩給与は戦の功績に応じて新しい土地を与えることです。どちらも地頭職への任命という形で行われました。
元寇は外国の侵略を防ぐ防衛戦だったため、勝利しても新たな土地(恩賞)を得られませんでした。御家人は命がけで戦った(奉公)のに十分な御恩を受けられず、ギブアンドテイクの関係が崩れました。さらに分割相続による所領の細分化も加わり、御家人の窮乏と幕府への不信が広がりました。
封建制度とは土地を仲立ちとして主従関係を結ぶ仕組みの総称です。御恩と奉公はその日本版であり、封建制度の一種です。中世ヨーロッパにも同様の仕組みがありました。
御恩と奉公の年表
- 1180年源頼朝が挙兵。関東武士を束ねるなかで御恩と奉公の関係が始まる
- 1183年寿永二年十月宣旨で東国支配が朝廷に公認される
- 1185年守護・地頭の設置権を獲得。御恩と奉公の仕組みが完成
- 1189年奥州合戦。源義経と奥州藤原氏が滅びる
- 1221年承久の乱。幕府が勝利し、西国にも地頭を設置
- 1274年文永の役(元寇)。御家人が元軍と戦う
- 1281年弘安の役(元寇)。恩賞不足で御家人の不満が高まる
- 1297年永仁の徳政令。御家人救済を図るも混乱を招く
- 1333年鎌倉幕府滅亡。御恩と奉公の仕組みも終焉を迎える
笹山晴生ほか『詳説日本史 改訂版』山川出版社
Wikipedia日本語版「御恩と奉公」「御家人」「封建制」「元寇」
コトバンク「御恩」「奉公」「本領安堵」「新恩給与」「京都大番役」(日本大百科全書・世界大百科事典)

以上、御恩と奉公についてのまとめでした。御恩と奉公は鎌倉時代の基本中の基本なので、しっかり理解しておこう!下の記事もあわせて読んでみてね!








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