徳川斉昭とは?水戸藩の改革・井伊直弼との対立・慶喜との関係をわかりやすく解説

この記事の目次 22項目はじめに
  1. 徳川斉昭とは?どんな人で何をした人?
  2. 生い立ち――三男から水戸藩主へ(1829年)
  3. 水戸藩の改革と挫折――人材登用・弘道館・大砲づくり
    1. 藤田東湖らの登用
    2. 弘道館と偕楽園
    3. 社寺改革と大砲づくり、そして「ハイテク攘夷」
    4. 突然の隠居・謹慎(1844年)と復権(1849年)
  4. ペリー来航と海防参与――阿部正弘に呼ばれた斉昭
  5. 将軍継嗣問題と条約問題――慶喜を推した一橋派
  6. 井伊直弼との対立――不時登城・戊午の密勅・永蟄居
    1. 不時登城(1858年6月)
    2. 戊午の密勅(1858年8月)と安政の大獄
  7. 水戸での最期――「烈公」の意味と死因は?
  8. 斉昭の家族と人間像――慶喜との親子関係
  9. 斉昭が残したもの――桜田門外の変・天狗党・慶喜
    1. 天狗党の乱(1864年)
    2. 父が推した慶喜が「最後の将軍」に
  10. 大河ドラマ『逆賊の幕臣』と徳川斉昭
  11. テストに出るポイント
  12. 徳川斉昭についてもっと詳しく知りたい人へ
  13. よくある質問(FAQ)
  14. まとめ
もぐたろう
もぐたろう

今回は徳川斉昭について、わかりやすく丁寧に解説していくよ! どんな人で何をしたのか、水戸みと藩の改革、幕府の大老とのはげしい対立、息子との親子関係、そして2027年の大河ドラマとのつながりまで、まとめて見ていこう!

この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
山川出版社『詳説日本史』準拠
定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 徳川斉昭はどんな人?(1800〜1860年を生きた水戸藩主で、最後の将軍・徳川慶喜とくがわよしのぶの父)
  • 水戸藩の改革(人材の登用・藩校・大砲づくりと、「攘夷じょうい」のイメージが変わる理由)
  • 幕府の政治への登場(ペリー来航後に幕府へ呼ばれた経緯と、将軍の後継ぎ争い・条約問題での立ち位置)
  • 井伊直弼いいなおすけとの対立(朝廷から水戸藩へ出された密書をめぐる対立から、安政あんせいの大獄での処分、水戸での最期まで)
  • 家族と人柄(慶喜との親子関係と、伝えられる逸話はどこまで確かなのか)
  • 斉昭が残したもの(桜田門外さくらだもんがいの変・その後の水戸藩・2027年の大河ドラマとの関係)

「攘夷を叫んで井伊直弼とぶつかった、頑固な水戸のご隠居」。徳川斉昭とくがわなりあきには、そんなイメージを持つ人が多いかもしれません。

でも実は斉昭は、外国を打ち払えと唱えながら、西洋式の大砲をつくるために反射炉を築かせ、蘭学者らんがくしゃまで招いていた人物だったとされています。いわば「ハイテク攘夷」の人だったのです。

この記事では、最後の将軍・慶喜の父でもある斉昭が何をした人なのかを、生涯の流れにそってわかりやすく解説します。

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徳川斉昭とは?どんな人で何をした人?

3行でわかる徳川斉昭
  • 水戸藩(御三家の一つ)の第9代藩主(1800〜1860年)で、最後の将軍・徳川慶喜の父
  • 藩の改革と強い海防論で知られ、ペリー来航後は老中・阿部正弘あべまさひろに招かれて、幕府の海防の相談役として幕政に加わった
  • 将軍の後継ぎ争いと条約問題で井伊直弼と対立し、安政の大獄で厳しい謹慎の処分を受け、1860年に水戸で亡くなった

徳川斉昭は、江戸時代の終わりごろに水戸藩(現在の茨城いばらき県)を治めた第9代藩主です。1829年に藩主となると、苦しい藩を立て直すために大がかりな改革を進めました。

徳川斉昭の肖像画
徳川斉昭の肖像(幕末から明治ごろの作とされる)/著作者:不明/出典:Wikimedia Commons/ライセンス:Public domain

その後はペリー来航をきっかけに幕府の政治にも加わり、外国とどう向き合うか、次の将軍を誰にするかをめぐって、大老の井伊直弼とはげしく対立します。のちに最後の将軍となる徳川慶喜は、斉昭の七男です。

つまり斉昭は、「藩の改革者」「幕末の政治を動かした主役のひとり」「慶喜の父」という3つの顔を持つ人物ということになります。

ゆうき
ゆうき

ねえ、「御三家」ってよく聞くけど何のこと? 将軍家とは何が違うの?

もぐたろう
もぐたろう

御三家は、徳川家康の子どもたちから始まった尾張おわり・紀伊きい・水戸の3つの徳川家のことだよ。将軍家の“親戚の本家筋”みたいな存在で、将軍の跡継ぎが絶えたときの備えとも言われているんだ。水戸家は3家の中では領地が小さめだったけど、将軍家に近い家柄として重んじられていたんだよ。

ここからは、生い立ち、水戸藩の改革、幕府への登場、井伊直弼との対立、そして最期という順に、斉昭の生涯をたどっていきます。まずは、藩主になるまでの意外な経歴から見ていきましょう。

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生い立ち――三男から水戸藩主へ(1829年)

斉昭は1800年、水戸藩の第7代藩主・徳川治紀とくがわはるとしの三男として生まれました。父の跡は兄の斉脩なりのぶが継いで第8代藩主となったため、三男の斉昭には藩主になる見込みがほとんどありませんでした。

当時の大名家では、家を継がない次男・三男は実家の屋敷で暮らし続けることが多く、こうした立場を部屋住みと呼びました。斉昭もこの部屋住みの身で、長いあいだ学問や武芸に励んでいたとされています。

あゆみ
あゆみ

三男でも藩主になれるの? それに「部屋住み」って、今でいうニートみたいなもの?

もぐたろう
もぐたろう

ニートとはちょっと違うかな。部屋住みは、家を継ぐ予定がないまま実家に残っている立場のこと。働かないというより、“進路が決まらないまま待機している”ってイメージに近いよ! 養子先が見つかれば他の家を継ぐこともあったけど、見つからなければずっとそのまま…ということもあったんだ。

斉昭が若いころ、水戸藩では外国への危機感が一気に高まる出来事も起きていました。1824年、イギリスの捕鯨船の乗組員が、水戸藩領の大津浜おおつはま(現在の北茨城市)に上陸する事件が起きたのです。

翌1825年には、幕府が外国船の撃退を命じる異国船打払令を出しています。外国船の接近は、水戸藩にとって決して遠い話ではありませんでした。

転機が訪れたのは1829年です。兄の斉脩が、跡継ぎのないまま亡くなったのです。

藩の重臣の中には、将軍家から養子を迎えようとする動きもあったとされます。これに対して、藤田東湖ふじたとうこら改革をめざす藩士たちが斉昭を強く推しました。

こうして1800年生まれの斉昭は、1829年に数え年30歳で水戸藩の第9代藩主となりました。苦しい財政と、身近に迫る外国船。この2つの課題に向き合うため、斉昭が最初に手をつけたのが藩全体を作り直す大改革です。

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水戸藩の改革と挫折――人材登用・弘道館・大砲づくり

藩主となった斉昭は、人材の登用、藩校の設立、領地の調べ直し(検地)、軍備の強化などを次々と進めていきます。この改革は幕府の天保の改革とほぼ同じ時期に行われたため、「水戸藩の天保の改革」と呼ばれることもあります。

ただし改革が急進的だったこともあって、斉昭はやがて幕府から処分を受けることになります。改革の中身と、その思わぬ結末を順に見ていきましょう。

藤田東湖らの登用

斉昭は家柄にとらわれず、藤田東湖や会沢正志斎あいざわせいしさいといった学者肌の藩士を重く用いました。2人は、水戸藩で受け継がれてきた水戸学を代表する学者でもあります。

水戸学の源流は、江戸時代前期に水戸藩主の徳川光圀とくがわみつくにが始めた歴史書『大日本史だいにほんし』の編さんにあるとされます。幕末には、天皇を敬う「尊王そんのう」と、外国を打ち払う「攘夷」を結びつけた考え方へと発展していきました。

ゆうき
ゆうき

水戸学って、結局どんな学問なの? テスト範囲の「尊王攘夷」とどうつながるのかがわからなくて…。

もぐたろう
もぐたろう

ザックリ言うと、日本の歴史を研究するなかで「日本の中心は天皇だ」という考えを強めていった学問だよ。そこから“天皇を敬い、外国を打ち払え”という尊王攘夷の考えが、理論として整えられていったんだ。会沢正志斎が書いた『新論しんろん』は、のちの幕末の志士たちにも広く読まれたと言われているよ!

弘道館と偕楽園

斉昭は藩士の教育にも力を入れ、1841年に藩校の弘道館こうどうかんを開きました。ここでは儒学や歴史だけでなく、武芸や医学なども教えられたとされています。

水戸の弘道館の建物(2020年撮影)
水戸藩の藩校・弘道館の建物(2020年撮影)/著作者:Miyuki Meinaka/出典:Wikimedia Commons/ライセンス:CC BY-SA 4.0

翌1842年には、偕楽園かいらくえんを開きます。名前は「民と偕ともに楽しむ」という意味の言葉に由来するとされ、藩士だけでなく領民にも開かれた庭園でした。

弘道館と偕楽園は、どちらも現在の水戸市に残っています。とくに偕楽園は梅の名所として知られ、日本三名園のひとつに数えられています。

社寺改革と大砲づくり、そして「ハイテク攘夷」

海防に強い関心を持っていた斉昭は、軍備の強化にも乗り出します。その材料として目をつけたのが、寺院の梵鐘ぼんしょう(お寺のつり鐘)でした。

斉昭は領内の寺院を整理し、集めた梵鐘を溶かして大砲をつくらせたとされています。こうした寺院への厳しい政策は、明治時代の初めに全国で起きた廃仏毀釈はいぶつきしゃくとは別の、水戸藩独自の宗教政策です。

時期は少し後になりますが、1850年代には西洋式の大砲をつくるため、那珂湊なかみなと(現在のひたちなか市)に反射炉が築かれました。築造には、盛岡もりおか藩出身の蘭学者・大島高任おおしまたかとうらが招かれたとされています。

反射炉の1号炉は1855年、2号炉は1857年に完成したとされ、1856年からは実際にここで西洋式の大砲が鋳造されました。

「外国を打ち払え」と唱える一方で、西洋の技術を積極的に取り入れる。斉昭の攘夷は、ただ外国を嫌うだけのものではなかったと見ることができるのです。

反射炉ってなに?

反射炉は、鉄などの金属を高い温度で溶かすための炉です。燃料を燃やした熱を、アーチ形の天井や壁に反射させて炉の中に集めるしくみから、この名前がつきました。

一度にたくさんの鉄を溶かせるため、幕末には西洋式の大砲づくりのために各地で築かれました。那珂湊の反射炉は1864年の水戸藩の内乱で壊され、現在ひたちなか市で見られるのは1937年に復元されたものです。

あゆみ
あゆみ

外国を打ち払えって言っている人が、西洋の技術で大砲をつくるのって矛盾してない?

もぐたろう
もぐたろう

そう感じるよね。でも斉昭の側から見ると、筋は通っていたんだ。外国を追い払うには、外国に負けない武器がいる。だから“相手の技術を学んで、相手に対抗する”という考え方だった、という見方があるんだよ。攘夷=何でも西洋嫌い、とは限らなかったんだね。

突然の隠居・謹慎(1844年)と復権(1849年)

改革を進めていた斉昭に、突然の処分が下ります。1844年5月、幕府から隠居と謹慎を命じられたのです。

処分の理由については、寺院の整理など改革のやり方が過激だと見られたこと、大がかりな鉄砲の一斉射撃など軍備の強化が幕府の警戒を招いたこと、改革に反発する藩内の保守派が幕府に働きかけたことなど、いくつかの説明があります。どれか一つに絞ることはできず、複数の要因が重なったと考えられています。

藩主の座は、嫡男の徳川慶篤とくがわよしあつが継ぎました。1829年から1844年まで、約15年にわたった斉昭の藩主時代は、こうして思わぬ形で幕を閉じたのです。

それでも斉昭の影響力は消えませんでした。1849年3月には藩の政治に関わることが再び許され、事実上の復権を果たします。ただし藩内では改革派と保守派の対立が続き、この争いはのちの水戸藩に大きな影を落としていきます。

そして1853年、斉昭が長年おそれていた事態が、ついに現実のものとなります。

ペリー来航と海防参与――阿部正弘に呼ばれた斉昭

1853年、アメリカの使節ペリーが軍艦を率いて浦賀うらがに現れました。いわゆるペリー来航です。開国を求めるアメリカにどう対応するか、幕府は大きな決断を迫られました。

このとき老中のトップだった阿部正弘は、これまでの幕府のやり方を変え、大名や幕臣に広く意見を求めます。そして、以前から海防の強化を訴えてきた斉昭を、幕府の海防参与かいぼうさんよに迎えました(辞典によっては「幕政参与」とも呼ばれます)。

同じ年、12代将軍の徳川家慶とくがわいえよしがペリー来航の直後に亡くなり、13代将軍に徳川家定とくがわいえさだが就きました。幕府は、将軍の交代と外国への対応という2つの難題を、同時に抱えることになったのです。

ゆうき
ゆうき

海防参与って、老中とどう違うの? 斉昭は何でも決められたの?

もぐたろう
もぐたろう

老中は幕府の政治を動かす正式な役職で、今でいう大臣クラス。海防参与は、そういう役職とは別に、幕府が意見を聞くために迎えた“特別顧問”みたいな立場だよ。意見は言えるけど、最後に決めるのは老中たち。だから斉昭の主張が、そのまま通るわけではなかったんだ。

徳川斉昭
徳川斉昭

わしが何より案じておったのは、異国の船が日本の近海に次々と現れることじゃ。まずは海の守りを固め、むやみに外国の求めに応じてはならぬ。それがわしの立場であった。

斉昭は、外国の要求をはねつけ、戦いも辞さない構えで臨むべきだと主張したとされます。一方の阿部正弘は、斉昭の意見を重んじながらも、戦争を避ける現実的な道を探っていました。

1854年、幕府はアメリカと日米和親条約を結び、ついに開国へと踏み出します。開国に反対していた斉昭にとっては、受け入れがたい決定だったと考えられます。

それでも斉昭は幕政に関わり続け、大型船の建造の解禁や軍制の改革などに参画したとされます。阿部正弘が進めたこうした国防強化の政策は、安政の改革と呼ばれます。水戸藩も、江戸の石川島いしかわじまで洋式の大型帆船の建造に取り組んだとされています。

しかし1857年、斉昭を幕政に迎えた阿部正弘が亡くなると、斉昭も参与の役目を離れることになりました。大きな後ろ盾を失ったこのころから、幕府の政治は大きく揺れ動いていきます。

将軍継嗣問題と条約問題――慶喜を推した一橋派

13代将軍の家定は体が弱く、跡継ぎとなる子もいませんでした。そこで、次の将軍を誰にするかをめぐる争いが起こります。これが将軍継嗣けいし問題です。

斉昭が推したのは、自分の七男で、1847年に一橋ひとつばし家を継いでいた慶喜でした。慶喜を推したグループは、慶喜が当主を務める家の名前から一橋派と呼ばれます。

これに対して、紀州藩主の徳川慶福とくがわよしとみ(のちの14代将軍・徳川家茂とくがわいえもち)を推したのが南紀派です。南紀派の中心には、彦根ひこね藩主の井伊直弼がいました。

一橋派と南紀派、誰がどっち?
  • 一橋派:徳川斉昭(水戸)、松平慶永まつだいらよしなが(越前えちぜん)、島津斉彬しまづなりあきら(薩摩さつま)など、有力な大名が中心。推したのは一橋家の慶喜
  • 南紀派:井伊直弼(彦根)を中心とする譜代ふだい大名など。推したのは紀州藩主の慶福
  • 斉昭の立場:御三家の水戸藩の前藩主として、将軍家の後継ぎ問題にも強い発言力を持っていた。ただし自分の子を推したことで、周囲からは警戒もされたとされる
あゆみ
あゆみ

どうして斉昭は、自分の子を将軍にしたかったの? ちょっと親ばかじゃない?

もぐたろう
もぐたろう

そう見えちゃうよね。でも一橋派の言い分は、“外国が迫っている今こそ、年長で賢い将軍が必要だ”ということだったんだ。1858年の時点で、1837年生まれの慶喜は20歳を過ぎていて優秀だと評判。対する1846年生まれの慶福は、まだ10代前半の少年だったんだよ。もちろん、父として息子を推したい気持ちもあったかもしれないね。

もう一つの大問題が、アメリカとの通商条約でした。老中の堀田正睦ほったまさよしは、条約を結ぶにあたって朝廷の許し(勅許ちょっきょ)を得ようとしましたが、1858年、朝廷はこれを認めませんでした。

外国との貿易を開く日米修好通商条約に、攘夷を唱える斉昭は強く反対していました。とくに、天皇の許しを得ないまま条約を結ぶことは許されない、という立場をとったとされます。

こうして、将軍の後継ぎをめぐる争いと、条約をめぐる争いが一つに重なっていきます。この2つの争いの中で、斉昭は井伊直弼と正面からぶつかることになるのです。

井伊直弼との対立――不時登城・戊午の密勅・永蟄居

1858年4月、井伊直弼が幕府の最高職である大老に就きます。井伊は同じ年の6月、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印しました。さらに次の将軍を慶福に決め、一橋派を押さえにかかります。

条約は同じ年のうちに、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばれました。これらをまとめて安政五カ国条約と呼びます。

不時登城(1858年6月)

勅許のないままの調印に怒った斉昭は、1858年6月24日(旧暦)、子で水戸藩主の慶篤や、尾張藩主の徳川慶勝とくがわよしかつらとともに、決められた日ではないのに江戸城へ押しかけ、井伊直弼を問いつめました。これを不時登城ふじとじょうといいます。

しかし、井伊は動じませんでした。翌7月、斉昭はかえって謹慎を命じられてしまいます(辞典によっては「急度慎きっとつつしみ」という処分名で記されています)。

ゆうき
ゆうき

不時登城って、そもそも何がいけなかったの? 意見を言いに行っただけだよね?

もぐたろう
もぐたろう

大名が江戸城に登城する日は、きっちり決められていたんだ。その決まりを破って、予定外の日にいきなり押しかけて大老に詰め寄る…今でいえば、アポなしで社長室に乗り込んで抗議するようなものだね。言っている中身が正しくても、“ルール違反”として処分の口実を与えてしまったんだよ。

戊午の密勅(1858年8月)と安政の大獄

1858年8月、事態はさらに大きく動きます。孝明天皇こうめいてんのうの意向を受けた朝廷が、幕府を通さずに水戸藩へ直接、天皇の命令書を下したのです。これを戊午の密勅ぼごのみっちょくといいます。

密勅は、幕府が独断で条約に調印したことを責め、幕府と諸大名が協力して国の危機にあたるよう求める内容だったとされます。本来、朝廷の意向は幕府を通して諸大名に伝えるのが決まりでした。それを飛び越えて水戸藩に密勅が届いたことは、幕府の権威を大きく揺るがす出来事だったのです。

あゆみ
あゆみ

朝廷が藩に直接手紙を出しただけで、そんなに大問題になるの?

もぐたろう
もぐたろう

なるんだよ。江戸時代は、幕府が朝廷と大名の間に立って、情報も命令も握っていたからこそ全国をまとめられたんだ。朝廷が水戸藩に直接指示を出すのは、その仕組みを飛び越える行為。会社でいえば、社長を通さずに取引先が部長へ直接指示を出すようなものだね。井伊直弼は、この密勅の背後に斉昭ら水戸藩がいると疑ったと言われているよ。

井伊は、一橋派の大名や、朝廷への働きかけに関わった公家くげ・藩士・学者たちを次々と処分しました。これが安政の大獄(1858〜1859年)です。長州ちょうしゅう藩の吉田松陰よしだしょういんも、この弾圧のなかで処刑されています。

斉昭も1859年8月、水戸での永蟄居えいちっきょを命じられました。永蟄居とは、屋敷の一室に閉じこもり、外に出ることを許されない重い処分のことです。

慶喜もまた隠居・謹慎の処分を受け、一橋派は大きな打撃を受けました。斉昭が政治の表舞台に戻ることは、二度とありませんでした。

水戸での最期――「烈公」の意味と死因は?

永蟄居となった斉昭は、水戸で日々を送ります。そのさなかの1860年3月、江戸で衝撃的な事件が起こりました。水戸藩を脱藩した浪士らが、江戸城の桜田門の外で大老・井伊直弼を襲い、殺害したのです。これが桜田門外の変です。

襲撃した浪士たちの多くは、斉昭を処分し水戸藩を追いつめた井伊への怒りを抱いていたとされます。ただし、斉昭本人がこの襲撃にどこまで関わっていたかは確かめられておらず、斉昭が命じた事件と単純に結びつけることはできません。

事件から約5か月後の1860年8月15日(旧暦)、斉昭は水戸で亡くなりました。1800年生まれの斉昭は、数え年で61歳(満60歳)でした。永蟄居の処分は、解かれないままの最期だったとされています。

死因については、辞典でも「病没」「急死」と書き方が分かれています。心臓の病気(心筋梗塞しんきんこうそく)だったと推定する見方もありますが、はっきりしたことはわかっていません。

斉昭は亡くなった後、烈公れっこうと呼ばれるようになります。烈公は、亡くなった人の生前の行いをたたえて贈られる名前、つまり諡おくりなです。

「烈」の字には「激しい」「まっすぐで強い」といった意味があります。信念を曲げずに藩の改革や攘夷を貫いた斉昭の生き方を、よく表した名前だといわれています。

では、そんな斉昭は家庭ではどんな父親だったのでしょうか。次の章では、慶喜との親子関係と、斉昭の人間像を見ていきます。

斉昭の家族と人間像――慶喜との親子関係

斉昭の正室は、皇族の有栖川宮ありすがわのみや家から迎えた吉子女王よしこじょおう(登美宮とみのみや)です。織仁親王おりひとしんのうの王女で、嫡男の慶篤と七男の慶喜は、ともに吉子女王の子とされています。

徳川斉昭が自ら描いた自画像(1838年)
徳川斉昭が江戸の小石川の藩邸で描いたとされる自画像(1838年)/著作者:徳川斉昭/出典:Wikimedia Commons/ライセンス:Public domain

斉昭は子だくさんでも知られ、男女あわせて30人を超える子がいたとされます。子どもたちは江戸の華やかな暮らしに染まらないよう、国元の水戸で育てる方針だったと伝えられています。

1837年に江戸の藩邸で生まれた慶喜も、翌1838年には水戸へ移されました。そして1847年に一橋家を継ぐまでの約9年間を水戸で過ごし、弘道館で会沢正志斎らから学問と武芸を学んだとされています。

逸話はどこまで確かなのか

斉昭には多くの逸話が残っていますが、記録で裏づけられる話と、後世に広まった話が混じっています。ここでは比較的よく知られたものを、確かさの度合いとあわせて紹介します。

質素な食事:藩主になったあとも、部屋住みのころと同じ質素な食事に戻させたと伝えられています。倹約を説いた斉昭らしい話ですが、細部まで確かめられるわけではありません。

食へのこだわり:斉昭は料理書『食菜録しょくさいろく』を編さんしたとされ、食や健康への関心が高かったことがうかがえます。この料理書は、現在も水戸で研究や料理の再現が続けられています。

農人形:農民への感謝を忘れないよう、農民の姿の人形をつくらせ、食事のたびにご飯を供えたと伝えられています。

あゆみ
あゆみ

慶喜のお父さんとしての斉昭は、どんな人だったの? やっぱり厳しかったのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

水戸で学問も武芸もしっかり仕込んだから、教育には厳しい父親だったと言われているよ。おもしろいのは、その慶喜が最後には大政奉還で幕府の政治を朝廷に返す道を選んだこと。父から受け継いだ「天皇を敬う」水戸学の考えが、その決断につながったと見る向きもあるんだ。

斉昭が亡くなったあとも、斉昭の考えや人脈は水戸藩と慶喜に大きな影響を残していきます。

斉昭が残したもの――桜田門外の変・天狗党・慶喜

斉昭のもとで育った水戸学は、尊王攘夷を唱える各地の志士たちにも影響を与えたとされます。1860年の桜田門外の変を起こした水戸の浪士たちも、こうした考えのなかから生まれた人たちでした。

一方で水戸藩の中では、斉昭が失脚したころから、改革派と保守派の対立が深まっていました。斉昭という重しを失うと、その争いは歯止めがきかなくなっていきます。

天狗党てんぐとうの乱(1864年)

1864年3月、藤田東湖の子・藤田小四郎ふじたこしろうらが、攘夷の実行を求めて筑波山つくばさんで兵を挙げました。改革派の流れをくむこの一派は天狗党と呼ばれ、保守派の諸生党しょせいとうや幕府の軍と戦います。

天狗党には武田耕雲斎たけだこううんさいらも加わり、一行は京都にいた慶喜を頼って西へ向かいました。しかし途中で加賀かが藩に降伏し、1865年、敦賀つるが(現在の福井県)で350人を超える人々が処刑されたとされています。

前の章で触れた那珂湊の反射炉が壊されたのも、この内乱のさなかでした。藩内の争いは明治の初めまで続き、水戸藩は多くの人材を失ったと言われています。

父が推した慶喜が「最後の将軍」に

斉昭の没後、幕府は朝廷との協調をめざす公武合体へと方針を切り替えます。その流れの中で、慶喜は1862年に将軍後見職に就き、1866年には15代将軍となりました。

斉昭が将軍にと望んだ息子は、父の死後にその座へたどり着いたことになります。ただし慶喜は1867年に大政奉還を行い、江戸幕府の政治に自ら幕を下ろしました。父の願いがかなった先で幕府が終わったのは、歴史の皮肉とも言えるかもしれません。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』と徳川斉昭

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、斉昭を柄本明えもとあきらさんが演じることが、2026年6月に発表されました。同じ発表では、阿部正弘や徳川家定など、この記事に登場した人物の配役もあわせて公表されています。

ドラマの主人公は、幕臣の小栗忠順おぐりただまさです(松坂桃李まつざかとおりさんが演じます)。斉昭が水戸で亡くなった1860年は、小栗が万延元年遣米使節の一員としてアメリカへ渡った年でもありました。

外国を打ち払えと唱えた斉昭の時代が終わるのと同じ年に、アメリカの技術や社会を自分の目で見た小栗の時代が始まる。そう考えると、2人の生き方の対比がよく見えてきます。小栗の人物像を先に知っておきたい人は、『逆賊の幕臣』のおすすめ本も参考にしてください。

あゆみ
あゆみ

ドラマで斉昭を見る前に、これだけは知っておきたいポイントってある?

もぐたろう
もぐたろう

史実として押さえておきたいのは3つだよ。①「外国を打ち払え」と唱えながら大砲づくりも進めた改革者だったこと、②将軍の後継ぎと条約をめぐって井伊直弼と対立したこと、③最後の将軍・慶喜の父だったこと。この3つを知っておくと、幕末の人間関係がぐっとわかりやすくなるはずだよ!

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 藩主就任1829年・謹慎1844年・復権1849年:水戸藩の改革(藤田東湖らの登用・弘道館・大砲づくり)を進めたが、幕府から隠居・謹慎を命じられた。処分の理由は諸説ある
  • 海防参与1853年:ペリー来航後、老中・阿部正弘に招かれて幕府の海防に関わった。辞典によっては「幕政参与」とも呼ばれる
  • 一橋派と南紀派:斉昭は子の慶喜を推す一橋派、井伊直弼は紀州藩主の慶福(のちの家茂)を推す南紀派
  • 不時登城(1858年6月)→戊午の密勅(同年8月)→安政の大獄:勅許のない条約調印に抗議した斉昭は処分され、1859年に永蟄居となった
  • 水戸学・桜田門外の変・天狗党の乱:桜田門外の変(1860年3月)は斉昭の死(同年8月)より前、天狗党の乱(1864年)は斉昭の死より後の出来事

📌 混同しやすい点:①慶喜は水戸藩主ではなく、一橋家を継いでから将軍になった ②安政の大獄で斉昭が受けた処分は永蟄居で、吉田松陰のような処刑ではない ③桜田門外の変は斉昭の死より前の出来事で、斉昭が命じたとは確かめられていない

ゆうき
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斉昭が出てくる問題って、結局どこが一番大事なの?

もぐたろう
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ここが一番テストで出る!「一橋派の中心=斉昭」「南紀派の中心=井伊直弼」の対立から、戊午の密勅、安政の大獄、斉昭の永蟄居へとつながる流れだよ。人物と出来事を、この順番のまま説明できるようにしておこう!

徳川斉昭についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
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斉昭だけを主人公にした入門書は多くないんだ。だから、幕末全体の流れ、息子の慶喜、水戸学の背景という3つの方向から斉昭を読める本を選んだよ!

①幕末の流れを一気につかみたいなら|黒船来航から西南戦争までを通して読める

半藤一利さんの『幕末史』は、黒船来航から西南戦争までの約25年間を一冊で語る新潮文庫です。斉昭が活躍したペリー来航後の政局を、前後の出来事とつなげて確かめられます。

幕末史

半藤一利 著|新潮社

✓ こんな人におすすめ

斉昭の動きを、幕末全体の流れの中に置き直したい人。定期テスト前に、年表だけでは見えにくい因果をつかみたい人にも向いています。

△ こんな人には向かない

斉昭だけを深く知りたい人。幕末全体を扱う通史なので、斉昭を主題にした本ではありません。


②斉昭の息子をじっくり知りたいなら|最後の将軍の生涯を学術的に読む

家近良樹さんの『徳川慶喜』は、吉川弘文館の人物叢書じんぶつそうしょの一冊です。慶喜の77年の生涯を、最新の研究動向を踏まえてたどる評伝になっています。

徳川慶喜

家近良樹 著|吉川弘文館

✓ こんな人におすすめ

大河ドラマの予習として、斉昭の息子である慶喜の人生まで踏み込んで読みたい人。歴史学の評伝を読み慣れたい高校生や大人にも向いています。

△ こんな人には向かない

斉昭の評伝を探している人。主人公はあくまで慶喜なので、斉昭を主題にした本ではありません。


③水戸学の背景を読み物で知りたいなら|斉昭の思想的な土台に触れる

片山杜秀かたやまもりひでさんの『尊皇攘夷―水戸学の四百年―』は、水戸学の源流から天狗党の乱、さらに近代までをたどる新潮選書です。斉昭が育った水戸藩の思想的な空気を、読み物として味わえます。

✓ こんな人におすすめ

「水戸学」と「尊王攘夷」が、結局どんな思想だったのかを知りたい人。幕末の水戸藩に、教科書より一歩踏み込んでみたい大人の読者に向いています。

△ こんな人には向かない

テスト対策の参考書を探している人。思想史の読み物なので、年号や用語を整理する用途には向きません。

よくある質問(FAQ)

水戸藩の第9代藩主として、人材の登用や弘道館の開設などの藩政改革を進めた人物です。ペリー来航後は老中・阿部正弘に招かれて幕府の海防に関わりました。将軍の後継ぎ争いと条約問題で井伊直弼と対立し、安政の大獄で永蟄居の処分を受けています。

烈公は、斉昭が亡くなった後に贈られた名前、つまり諡です。「烈」の字には「激しい」「まっすぐで強い」といった意味があります。信念を曲げずに改革や攘夷を貫いた斉昭の生き方を表した名前だといわれています。

大きな理由は2つあります。1つは将軍継嗣問題で、斉昭は子の慶喜を、井伊は紀州藩主の慶福を推しました。もう1つは条約問題で、井伊が1858年に勅許のないまま日米修好通商条約に調印したことに斉昭は強く反発しました。不時登城や戊午の密勅を経て、井伊は安政の大獄で斉昭らを処分しています。

父と子です。慶喜は斉昭の七男で、母は正室の吉子女王とされています。水戸で育ったのち1847年に一橋家を継ぎ、1866年に江戸幕府の最後の将軍となりました。

斉昭は1860年8月15日(旧暦)、水戸で亡くなりました。永蟄居の処分は解かれないままだったとされます。辞典でも「病没」「急死」と書き方が分かれ、死因ははっきりわかっていません。心臓の病気(心筋梗塞)だったと推定する見方もあります。

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で、斉昭は柄本明さんが演じると2026年6月に発表されています。ドラマの主人公は幕臣の小栗忠順です。

はい。藩校の弘道館は1841年、庭園の偕楽園は1842年に、斉昭の改革の一環として開かれました。どちらも現在の水戸市に残っており、偕楽園は梅の名所として知られています。

まとめ

徳川斉昭は、攘夷を唱える頑固な水戸のご隠居というイメージの一方で、藩の改革を進め、西洋の技術にも目を向けた人物でした。その動きは井伊直弼との対立を通して、幕末の政治を大きく揺り動かしていきます。最後に、斉昭の生涯を年表で振り返っておきましょう。

徳川斉昭の年表
  • 1800年
    水戸藩7代藩主・徳川治紀の三男として誕生
  • 1829年
    水戸藩第9代藩主に就任し、藩政改革を始める
  • 1841年
    藩校・弘道館を開設
  • 1842年
    偕楽園を開設
  • 1844年
    幕府から隠居・謹慎を命じられる
  • 1849年
    藩の政治に関わることを再び許される
  • 1853年
    ペリー来航。幕府の海防参与となる
  • 1857年
    阿部正弘の死去ののち、参与の役目を離れる
  • 1858年
    不時登城で井伊直弼を問いつめ、謹慎となる。朝廷から水戸藩へ密勅が出される
  • 1859年
    安政の大獄で、水戸での永蟄居を命じられる
  • 1860年
    3月に桜田門外の変。8月、水戸で死去
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以上、徳川斉昭のまとめでした。頑固な攘夷論者と、西洋の技術も取り入れた改革者。その両方の顔を知ると、幕末の見え方がぐっと変わるはずだよ。下の記事で、息子の慶喜やライバルの井伊直弼のこともあわせて読んでみてください!

📅 最終確認:2026年10月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』

参考文献

山川出版社『詳説日本史』
コトバンク「徳川斉昭」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典・デジタル版 日本人名大辞典+Plus・ブリタニカ国際大百科事典 ほか)(2026年10月確認)
コトバンク「戊午の密勅」「天狗党の乱」「武田耕雲斎」「藤田小四郎」(2026年10月確認)
Wikipedia日本語版「徳川斉昭」「徳川慶喜」(2026年10月確認)
茨城県教育委員会「那珂湊反射炉跡」(茨城県指定文化財の解説)(2026年10月確認)
茨城県立図書館「『食菜録』とその普及を考える」シンポジウム案内(水戸食菜録研究会、2024年)(2026年10月確認)
NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』出演者発表に関する報道(クランクイン!、THE FIRST TIMES、2026年6月23日)(2026年10月確認)

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