今回は、1858年〜1859年にかけて起こった安政の大獄(あんせいのたいごく)という事件について解説します。
安政の大獄は、井伊直弼(いいなおすけ)が自分の政治に不満を持つ者を弾圧した事件です。弾圧された人数は100名を超え、吉田松陰など優秀な人たちも次々と命を奪われました。
なぜ、井伊直弼はこのような過酷な弾圧を行ったのでしょうか・・・、というわけで安政の大獄についてその経過や目的を中心に解説していきます。
きっかけは日米修好通商条約
井伊直弼が弾圧(安政の大獄)をしたきっかけは、1858年に結ばれた日米修好通商条約でした。井伊直弼は、多くの人たちが反対する中、強引にアメリカと日米修好通商条約を結んでしまったんです。
しかも、反対する人の中には孝明天皇の姿もありました。孝明天皇に関しては自ら「反対!」と意思表明していたにも関わらず、井伊直弼はそれを無視しました。・・・というよりも、アメリカの脅しに屈して、条約を結ばざるを得ませんでした。
これに孝明天皇がブチギレ。そして、幕府の中の条約締結反対派の人々も井伊直弼に猛抗議します。
井伊直弼もこれに対抗するため、日米修好通商条約に猛抗議してきた以下の人物たちに隠居・謹慎の処分を与えます。
「邪魔者はしばらく、政治の世界に首をつっこむな!」ってわけです。これが安政の大獄の始まりとなります。
しかし、問題はこれだけに収まりません。条約締結の賛成派と反対派は、将軍継嗣問題問題でも激しく対立しており、賛成派は別名「南紀派」、反対派は別名「一橋派」と呼ばれていました。
ちなみに、井伊直弼は南紀派のボスで、上に載せた隠居・謹慎の処分を食らった3人は一橋派の人たちでした。このようにして、条約をめぐる問題に将軍継嗣問題も加わって、事態はだんだん複雑化していきます。
孝明天皇と一橋派
井伊直弼の条約締結に激怒した一橋派は、同じくブチギレていた孝明天皇にあの手この手を使って接近することにします。
そして、孝明天皇に次の3点について、幕府に対して勅定(ちょくじょう。天皇から命令を下すこと)することを要求します。
一橋派は、この要求を飲んでもらうため、朝廷に対して様々な裏工作を行い、遂に幕府に対して天皇から命令が下されることになります。
当然、井伊直弼はこれを良く思いません。
天皇を利用するとは卑怯な・・・。
しかも、一橋派の攻勢はこれだけでは終わりません。
一橋派は朝廷内でさらに裏工作を重ね、井伊直弼と親しい関係にあった関白の九条尚忠(くじょうひさただ)を辞職にまで追い込みます。朝廷内を天皇も含め、一橋派に染めてしまおうと考えたのでした。
天皇から幕府への勅定、そして井伊直弼寄りだった九条尚忠の辞職。1858年9月、遂に井伊直弼は怒りの頂点に達します。
調子に乗るのもここまでだ。こっから先、一橋派はぺんぺん草も生えないほどに根絶やしにしてやるから覚悟しとけ。(ブチギレ)
こうして、安政の大獄はいよいよ本格化します。
安政の大獄で亡くなった人たち
安政の大獄では100名以上の人たちが処罰を受け、命を落とす者もいましたが、その中で特に有名な人物が橋本左内(はしもとさない)と吉田松陰(よしだしょういん)です。
この2人について本当に簡単ですが、紹介しておきます。
橋本左内
橋本左内は一橋派の人物であり、先ほどお話しした朝廷での工作活動で暗躍していました。出身は越前藩で、藩主は安政の大獄初期に処分を受けた松平慶永。
橋本左内は、「ロシアを組んでイギリスなどに対抗すべきだ」と開国したばかりの日本にあって、非常に革新的かつ合理的な考え(ロシアとイギリスは仲が悪かった)を持つとても優秀な若者でした。(当時26才)
橋本左内は松平慶永の支持を受け、朝廷に裏工作をしますが、これを咎められ流罪を宣告されました。しかし、橋本左内は反論します。
私は藩主の松平慶永殿の指示に従っただけだ
当時は「藩士は命をかけても藩主を守るものだ」という思想があったので、藩主に罪を押し付けようとする橋本左内の意見は評判がすこぶる悪く、これを聞いた井伊直弼は、橋本左内の刑を重くして死罪とします。
橋本左内としては、本当に言われた通りに動いただけで、まさかこれで自分が死ぬとは思っていなかったので、突然の死の宣告に最後は泣きながら死んでいったと言われています。先例にとらわれない思想や行動力が逆にアダとなってしまった形です。
吉田松陰
吉田松陰は長州藩の出身で、松下村塾(しょうかそんじゅく)というプライベートな学校を開いていました。吉田松陰は、非常に開明的な考え方の持ち主で、松下村塾からは幕末や明治維新で活躍する数多くの有名人を輩出することになります。
そんな吉田松陰が安政の大獄で捕まったのは、吉田松陰が梅田雲浜(うめだうんぴん)という一橋派の中でも特に過激派な人物と関わりを持っていたのではないか?と疑われたからです。直接何かをしたわけではありません。
梅田雲浜は尋問に対して口を一切割らないのに対して、吉田松陰は直接一橋派に関与していないにも関わらず、あろうことか真実を全て話してしまいます。
しかし、これは吉田松陰の作戦。吉田松陰はこんなことを考えていました。
どうせ俺は直接関与していないんだし、罪といっても軽いものだろう。それなら、いっそこのタイミングで真実を告白して、私の熱い想いを幕府に伝えよう!!
ところが・・・、この話を聞いた幕府の判断は「死罪」。こうして、吉田松陰は嵐のような生涯に膜を閉じることになります。なんというか、最後の作戦も、作戦というよりも「命を賭けた大博打」のようにも感じてしまいます(汗。
参考 吉田松陰.com
安政の大獄の後
1858年末になると、弾圧の魔の手は公家たちにも迫ります。朝廷からも弾圧の対象者が現れたことで、さすがの孝明天皇も譲歩せざるを得ません。
最初に出した勅定は撤回し、
今は無理でも、いずれ外国を倒してくれることに期待をしている。条約が結ばれた事情も理解した。まぁ、仕方なかろう・・・
と、井伊直弼に歩み寄る姿勢を見せ始めます。こうして、井伊直弼に反対する者は幕府からも朝廷からも一掃され、孝明天皇も意見を変えたことで安政の大獄の目的は達成されました。
ようやく井伊直弼は、自分の思う通りの政治をできるようになりましたが、その井伊直弼も1860年に桜田門外の変により命を落とすことになります。
安政の大獄を実施した井伊直弼に報復だ
安政の大獄は1858年〜1859年にかけて実施され、これによって一橋派は虫の息状態となりました。
・・・しかし、話はこれだけでは終わりません。
安政の大獄を受けて、一橋派の中でも尊王攘夷(そんのうじょうい。天皇の下、外国を倒すべしという考え)派の志士たちが、井伊直弼の暗殺を計画します。
1860年、井伊直弼が江戸城に入るために桜田門という門に入ろうとしているところを尊王攘夷派の志士たちが斬りかかりました。計画成功です。井伊直弼は亡くなり、これを機に南紀派の勢力は一気に衰えることとなりました。これが桜田門外の変です。
井伊直弼は安政の大獄を通じて一橋派を一掃しようと試みましたが、激しい弾圧は逆効果でした。かえって一橋派の行動が過激化し、自らも桜田門外の変によって命を落とすこととなります。
また、安政の大獄が終わった頃から、当時としては過激派の尊王攘夷という考えが生まれ、「天皇の名の下に海外を倒すべきであるが、幕府がそれを邪魔をする。ならばそんな幕府は無くなってしまえ」と倒幕運動に繋がってしまうので、結果的に安政の大獄は悪手となってしまったと言えるかもしれません。(これは歴史の結果を知っているから言える話であって、井伊直弼を否定するわけではありません)
コメント