小栗忠順と勝海舟は何が違う?対立・共通点・近代化への道を比較

小栗忠順と勝海舟の違いを比較するアイキャッチ(夕暮れの港に停泊する洋式軍艦と帆走蒸気船)
この記事の目次 17項目はじめに
  1. 小栗忠順と勝海舟の違いは?結論から整理
  2. 出自と出世の違い:なぜ二人は「ライバル」と呼ばれるのか
    1. 持てる旗本と、持たざる旗本:出自の違い
    2. 「ライバル」という見方はどこから来たのか
  3. 同じ1860年の渡米で、二人は何が違ったのか
  4. 帰国後に作ろうとしたもの:制度・設備か、人材か
  5. 徳川慶喜との距離:登用のされ方と退けられ方
  6. 鳥羽・伏見のあと、抗戦と恭順に分かれた理由
  7. 最期と評価の逆転:同じ幕臣がなぜ正反対に語られたのか
    1. 二人の評価はどう変わっていったのか
  8. 二人に共通していたもの
  9. 二人の仲は?史料からわかること・わからないこと
  10. 小栗忠順と勝海舟をもっと知りたい人へ
  11. よくある質問(FAQ)
  12. まとめ:小栗忠順と勝海舟の違いを整理
    1. ひと目でわかる比較
    2. 二人の並行年表
もぐたろう
もぐたろう

今回は、小栗忠順おぐりただまさと勝海舟かつかいしゅうの違いを、出自・渡米・帰国後の仕事・将軍との距離・1868年の判断という5つの視点で、わかりやすく丁寧に比べていくよ!二人の仲については、史料でわかることと、わからないことを分けて見ていくね。

この記事を読んでわかること
  • 出自と出世の違い(家柄で道が開けた小栗、学問で道を開いた勝)
  • 1860年の渡米の違い(同じ年でも、乗った船と立場が別だった)
  • 帰国後の仕事と将軍との距離(設備と仕組みの小栗、人材の勝)
  • 1868年に道が分かれた理由(小栗は抗戦、勝は恭順きょうじゅんを主張した)
  • 二人の共通点と、史料でわかる仲(ドラマの設定と史実の線引き)

「幕府を最後まで守ろうとした小栗、幕府を畳んだ勝」。二人はそんなふうに対にして語られ、ライバルと呼ばれてきました。

ですが実は、二人は同じ1860年に太平洋を渡り、同じ将軍・徳川慶喜とくがわよしのぶのもとで働いた、同じ幕臣ばくしん(将軍に直接仕える家臣)です。

違いは最後の「戦うか、従うか」だけではありません。もっと手前の、渡米したときの立場や、帰国後の仕事の方向から始まっていたのです。

この記事では、2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の予習としても読めるように、二人の違いを比較の軸ごとに整理しました。ドラマの設定と史実は、分けて書いていきます。

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小栗忠順と勝海舟の違いは?結論から整理

結論から言うと、二人の違いは、幕府が終わりに近づいたとき何を残そうとしたかにあります。

小栗は、造船の設備や軍隊、財政の仕組みといった「国の土台」を幕府の手で残そうとしました。勝が残そうとしたのは、海軍を担う人材と、戦火にあわない江戸の町です。

なお、「幕府を改良する小栗」「解体も辞さない勝」という対比は、ドラマの発表でも使われている整理です。そこでこの記事では、記録で確かめやすい行動の違いにしぼって比べていきます。

3行でわかる小栗忠順と勝海舟の違い
  • 出自と立場:小栗は名門の家に生まれて若くから要職へ。勝は小さな家に生まれ、学問と意見書で見いだされた
  • 渡米と帰国後の仕事:1860年、小栗は使節の一員としてアメリカの軍艦で、勝は別の船・咸臨丸かんりんまるで渡米。帰国後、小栗は設備と仕組みづくりに、勝は人材の育成に力を注いだ
  • 1868年の判断:新政府軍に対して小栗は抗戦を、勝は戦わずに交渉する道を主張し、その後の評価も大きく分かれた
あゆみ
あゆみ

大河ドラマの予習で気になったんですけど、二人はよくライバルって言われますよね。結局、どこがいちばん違うんですか?

もぐたろう
もぐたろう

ざっくりたとえるなら、小栗は「組織の仕組みそのものを作り替えるエンジニア」、勝は「組織の外とも話をつけて人を動かす調整役」ってイメージだよ。もちろんこれはたとえ話で、人物像を決めつけるものじゃないんだ。なぜそう言えるのかを、次の章から順番に見ていくね!

ここからは5つの軸で「小栗は〜、勝は〜」と並べて比べ、そのあと二人の最期と評価の分かれ方、共通点、二人の仲を見ていきます。生涯そのものは、小栗忠順の記事と勝海舟の記事でくわしく解説しました。

なお、小栗は官職名から「小栗上野介こうずけのすけ」とも呼ばれる人物です。

お知らせ:この記事の「最期と評価の逆転」の章と、まとめの表・年表では、小栗忠順の最期に触れています。ドラマの結末にかかわる内容を知りたくない方は、その部分を読み飛ばしても、二人の違いの大筋はつかめます。

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出自と出世の違い:なぜ二人は「ライバル」と呼ばれるのか

持てる旗本と、持たざる旗本:出自の違い

小栗と勝は、どちらも旗本はたもとの家に生まれました。旗本とは、将軍に直接仕える家臣のうち、将軍に会う資格を持つ家のことです。

幕臣・小栗忠順の肖像写真
小栗忠順の肖像写真。名門の旗本・小栗家に生まれました。/著作者:撮影者不明/出典:Wikimedia Commons/ライセンス:Public Domain

ただし、家の大きさがまるで違います。小栗家は禄高ろくだか(家に与えられる給与)が2500石こくとされる名門でした。1石は、大人1人が1年に食べる米の量が目安とされる単位です。

一方の勝家は41石ほどとされ、決まった役職のない、暮らしの苦しい家です。年齢は、1823年生まれの勝が、1827年生まれの小栗より4歳年上でした。

ゆうき
ゆうき

旗本って、御家人ごけにんと何が違うの?どっちも将軍の家臣なんだよね?

もぐたろう
もぐたろう

旗本は将軍に直接会える家臣、御家人は会えない家臣、ってイメージだよ。今の会社でたとえるなら、社長と直接話せる立場かどうか、くらいの差だね。

出世の入り口も対照的です。小栗は家柄を足がかりに若くして出仕し、1859年には目付めつけ(幕臣の仕事ぶりを監督する役。今でいう監査役)に就きました。

翌年のアメリカ行きの使節に選ばれたのは、大老たいろう(幕府の最高職)の井伊直弼いいなおすけが才能を見込んだためと伝えられています。

勝には、頼れる家柄がありません。そこで蘭学らんがく(オランダ語で学ぶ西洋の学問)を身につけ、1853年、海の守りについての意見書を幕府に出しました。老中ろうじゅう(幕府の政治をまとめる役)の阿部正弘あべまさひろが、広く意見を求めたときのことです。

これが目にとまり、長崎海軍伝習所ながさきかいぐんでんしゅうじょで学ぶ道が開けます。阿部が進めた安政の改革の、身分にとらわれない人材登用に乗ったかたちでした。

小栗は「家の看板」で扉が開き、勝は「学問と意見書」で扉をこじ開けた。これが二人の出発点の違いです。

「ライバル」という見方はどこから来たのか

二人は同じ時期に幕府で働き、1868年には正反対の主張をしました。その後の歩みも評価も大きく分かれたため、のちの時代に対にして語られるようになります。

ただ、二人が互いをどう思っていたかは、史料から言い切れない部分が多く残っています。そこで次の章からは、記録で確かめやすい「行動の違い」を順に比べていきましょう。

ドラマ情報(2026年10月確認):NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』は2027年1月10日に放送開始予定で、小栗忠順を松坂桃李まつざかとおり、勝海舟を大沢おおさわたかおが演じ、脚本は安達奈緒子あだちなおこが担当すると発表されています。

発表されたあらすじは、幕府を「改良」しようとする小栗と、「解体」することになっても力のある個人を生かそうとする勝、という対比が軸です。

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同じ1860年の渡米で、二人は何が違ったのか

1860年、幕府は日米修好通商条約の批准ひじゅん書を交換するため、アメリカへ使節を送りました。批准書とは、「この条約を正式に認めます」と国どうしで取り交わす文書のことです。

1860年にワシントンで撮影された遣米使節団の集合写真
1860年、ワシントンの海軍施設で撮影された遣米使節団。前列右から2人目が小栗忠順とされます。/著作者:Mathew Brady/出典:Wikimedia Commons/ライセンス:Public Domain

この使節は万延元年遣米使節まんえんがんねんけんべいしせつと呼ばれます。小栗も勝もこの年に太平洋を渡りましたが、乗った船も立場も別々でした。

小栗忠順:使節の目付として、アメリカの軍艦ポーハタン号で渡米

ポーハタン号はアメリカ海軍の軍艦で、使節の本隊を運びました。小栗の役目は目付、つまり使節団の監督役です。

一行はワシントンで批准書の交換に臨みます。小栗はフィラデルフィアの造幣局で日米の金貨・銀貨を分析する実験に立ち会い、通貨の交換比率をめぐる交渉にあたったとされています。

当時の日本では、金と銀の交換比率が海外とずれていたために金貨が国外へ流れ出ていました。幕府はこの年、万延貨幣改鋳まんえんかへいかいちゅう(小判に含まれる金を減らす作り直し)で対応しています。

勝海舟:随伴艦・咸臨丸の実質的な艦長役として渡米

咸臨丸は、幕府がオランダに注文して造らせた軍艦です。名目は使節の護衛でしたが、本隊とは別に海を渡った随伴艦で、航海の実習もかねていました。行き先もサンフランシスコまでです。日本の軍艦が太平洋を横断したのは、これが初めてとされています。

艦でいちばん上の立場にいたのは軍艦奉行ぐんかんぶぎょう(幕府海軍の責任者)の木村喜毅きむらよしたけで、勝の肩書きは教授方頭取きょうじゅかたとうどりです。乗組員を指揮する実質的な艦長役だったと言えます。

ゆうき
ゆうき

同じ年にアメリカへ行ったのに、同じ船じゃなかったの?てっきり二人とも咸臨丸に乗ってたと思ってた…。

もぐたろう
もぐたろう

そこが勘違いしやすいところなんだ。使節の本隊が乗ったのはアメリカの軍艦ポーハタン号で、咸臨丸はそれとは別に海を渡った船。小栗は「条約を仕上げる交渉団」、勝は「日本の軍艦を動かす側」として、それぞれ別の仕事でアメリカを見たんだよ。

咸臨丸は「日本人だけの力」で太平洋を渡ったの?

咸臨丸の航海は、「日本人が自分たちの力で太平洋を渡った」と語られることがあります。同じ船に乗っていた福沢諭吉ふくざわゆきちも、回想録『福翁自伝』でそう誇らしげに振り返りました。

ただ、船にはアメリカ海軍のブルック大尉らも同乗していました。冬の太平洋は荒れ、日本側の多くが船酔いで動けなくなったと伝わります。ブルックの日記には、嵐のなかで船を操ったのは自分たちだったという趣旨の記述が残り、勝も船室にこもりがちだったとされています。

一方で日本側にも、小野友五郎おのともごろうのように、太陽や星を測って船の位置を割り出し、ブルックに腕を認められた技術者がいました。どちらか一方の力ではなく、両方の力で渡りきった航海だったと見るのが実態に近そうです。

同じ渡米でも、小栗は「交渉する側」として海軍の工場や造幣局を見て回りました。勝は「船を動かす側」としてサンフランシスコに滞在し、家柄より能力で人が選ばれる社会に強い印象を受けたとされます。

この役目の違いが、二人が持ち帰ったものの違いになりました。

二人が海の向こうにいたあいだに、日本では大老の井伊直弼が桜田門外の変さくらだもんがいのへんで暗殺されています。次の章では、不安定になった幕府に戻った二人が、何を作ろうとしたのかを比べます。

帰国後に作ろうとしたもの:制度・設備か、人材か

小栗忠順:設備と、それを回す仕組みを整える

帰国した小栗は、外国奉行や勘定奉行かんじょうぶぎょうなどの要職を次々に務めました。勘定奉行は幕府の財政を預かる役で、今でいう財務大臣に近い立場です。小栗はこの役に何度も就きました。

その小栗が力を注いだのが、横須賀製鉄所よこすかせいてつじょです。名前は製鉄所ですが、実際は軍艦を造り、修理するための総合工場でした。

横須賀の造船施設を訪れた明治天皇の一行を写した写真(西暦1872年1月撮影)
横須賀の造船施設を訪れた明治天皇の一行(西暦1872年1月1日撮影)。小栗が着工させた施設は、明治政府に引き継がれました。/著作者:Raimund von Stillfried/出典:Wikimedia Commons/ライセンス:Public Domain

小栗はフランス公使ロッシュの協力を得て技師ヴェルニーを招き、1865年に工事を始めさせます。施設は幕府が倒れたあと明治政府に引き継がれ、日本の造船を支えていきました。

フランス式の陸軍づくりや商社の構想など、小栗の仕事は「設備」と「それを回す仕組み」に向かったといえます。

小栗忠順
小栗忠順

軍艦を外国から買っても、壊れたらそれまでだ。自分たちで造り、直し続けられる場所と仕組みがなければ、国の守りは長続きしないだろう。

勝海舟:海軍を担う人材を育てる

勝が向かったのは、海軍を担う「人」でした。1864年には軍艦奉行に昇進し、同じ年、神戸海軍操練所こうべかいぐんそうれんじょを開きます。操練所とは、軍艦の動かし方を教える学校のことです。

勝はあわせて自分の塾も開き、藩や身分をこえて若者を受け入れました。坂本龍馬さかもとりょうまもその一人です。

ところが同じ1864年の禁門の変きんもんのへんのあと、塾生に幕府と敵対する側の者がいたことなどが問題になり、勝は役を解かれます。操練所も翌1865年に閉鎖されました。

勝海舟
勝海舟

幕府だ、藩だと分かれている場合じゃない。海の向こうと渡りあうには、日本全体で船を動かせる人を育てるのが先だ。

あゆみ
あゆみ

どっちも日本の近代化に役立ちそうですけど、なんで小栗は工場で、勝は学校だったんですか?

もぐたろう
もぐたろう

就いていた役職の違いが大きいんだ。小栗は幕府のお財布を預かる勘定奉行だったから、お金と設備を動かせた。勝は海軍の現場の責任者だったから、まず船を動かせる人を増やそうとしたんだよ。たとえるなら、工場から作るか、働く人から育てるか。どっちが上って話じゃなくて、手をつける順番が違ったんだね。

設備と仕組みの小栗、人材の勝。この違いは、渡米で見たものと、帰国後に任された役職の両方から生まれました。次の章では、二人が仕えた将軍との距離を比べます。

徳川慶喜との距離:登用のされ方と退けられ方

二人が要職に就いていた時期の将軍は、14代の徳川家茂とくがわいえもちと、15代の徳川慶喜です。最後の将軍となった慶喜との関係は、登用のされ方も退けられ方も対照的でした。

日付の表記:この記事では年を西暦で書いています。月日が当時の暦(旧暦)のときは、「旧暦」と明記します。

小栗忠順と慶喜:改革の実務を任され、最後に役を解かれた

1866年末(旧暦)に将軍となった慶喜は、フランスの助言を受けながら幕府の立て直しを進めました。軍隊をフランス式に改め、外国から資金を借りる計画を立て、商社づくりにも動きます。

その実務を担った中心人物の一人が、勘定奉行の小栗でした。

しかし1868年1月(旧暦)、旧幕府軍は京都の南の鳥羽とば・伏見ふしみで新政府軍に敗れました。江戸へ戻った慶喜に、小栗は戦いを続けるよう強く訴えます。

慶喜はこれを退け、小栗は勘定奉行などの役を罷免ひめんされました。罷免とは、役職をやめさせることです。

小栗は江戸を離れ、領地のあった上野国こうずけのくに(今の群馬県)の権田村ごんだむらへ移ります。

勝海舟と慶喜:遠ざけられたのち、最後の局面で大役を任された

勝と慶喜は、考えが合わないことが少なくなかったとされます。1864年に軍艦奉行を解かれた勝は、1866年にふたたび同じ役に戻され、長州藩ちょうしゅうはんとの停戦交渉を任されました。

勝は長州側との交渉をまとめますが、その後の進め方をめぐって慶喜と対立します。勝は江戸へ戻り、しばらく政治の表舞台から遠ざかりました。

その勝が大役を任されたのは1868年、慶喜が新政府に従う方針を固めていく時期です。勝は陸軍総裁、続いて軍事取扱という役に就き、徳川家の軍事と新政府との交渉を引き受けました。

もぐたろう
もぐたろう

たとえるなら、同じ社長のもとで、小栗は「社内の立て直しを任されていたのに、方針転換で外された人」、勝は「一度は遠ざけられたのに、最後の交渉役を任された人」なんだ(もちろん、たとえ話だよ)。慶喜がどの方針を選んだかで、二人の立場がそっくり入れ替わったんだね。

小栗は「改革を進める慶喜」に、勝は「戦わないと決めた慶喜」に必要とされました。二人の浮き沈みを分けたのは、能力の差というより、慶喜がその時どちらの道を選んだかだったといえます。

鳥羽・伏見のあと、抗戦と恭順に分かれた理由

1867年、慶喜は大政奉還たいせいほうかんで政権を朝廷に返しました。それでも新政府との対立は収まらず、1868年1月(旧暦)、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗れます。

江戸では、幕府の人々の意見が、戦い続けるか、新政府に従うかで割れました。

小栗忠順:抗戦論(戦って立て直す)

小栗は、まだ勝てる手があると主張しました。新政府軍を箱根はこねの東へ引き入れて陸軍で迎え撃ち、同時に艦隊を駿河するが湾へ回して後続を断つ、という作戦だったと語り伝えられています。

当時の幕府には、フランス式の訓練を受けた陸軍と、軍艦をそろえた艦隊が残っていました。

小栗忠順
小栗忠順

戦力はまだ残っている。ここで戦わずに明け渡せば、これまで積み上げてきた備えも、徳川の政権も、すべて失うことになる。

勝海舟:恭順論(戦わずに交渉する)

勝が選んだのは恭順、つまり新政府に逆らわず、従う姿勢を示す道でした。勝がおそれたのは、内戦が長引いて外国に口を出すすきを与えることと、人口の多い江戸が戦場になることです。

勝は新政府軍の西郷隆盛さいごうたかもりと会談し、1868年4月(旧暦)の江戸城無血開城(戦わずに城を明け渡すこと)にこぎつけます。

ただし戦いそのものは終わらず、戊辰戦争ぼしんせんそうは東北、さらに箱館はこだて(今の北海道)へと広がっていきました。

なお、恭順は「何もせずに降参する」という意味ではありません。勝は交渉が決裂した場合に備え、江戸の町を焼いてでも抵抗する準備をしていたと伝わります(勝自身ののちの回想にもとづく話です)。

勝海舟
勝海舟

徳川の家は残したい。だが、江戸を戦場にして外国につけこまれては意味がない。話し合いで収められるなら、それがいちばんだ。

江戸城の石垣の前に立つ勝海舟を描いた川村清雄の油絵
川村清雄「江戸城明渡の帰途」(「勝海舟江戸開城図」とも。1885年頃・江戸東京博物館蔵)。城を明け渡した勝の背後に、けわしい表情の兵士が描かれています。/著作者:川村清雄(撮影:Daderot)/出典:Wikimedia Commons/ライセンス:CC0 1.0
あゆみ
あゆみ

結局、どっちが正しかったんですか?

もぐたろう
もぐたろう

正しい・間違いで決めるのは難しい、というのが正直なところなんだ。江戸が戦火をまぬがれたのは、勝たちの交渉の成果として評価されているよ。一方で、小栗の作戦が実行されていたらどうなったかは、今も見方が分かれている。二人は「守ろうとしたもの」が違ったんだね。

小栗が守ろうとしたのは、徳川の政権と、そのために整えてきた備えでした。勝が守ろうとしたのは、江戸の町と、内戦で国が割れないことです。

次の章では、この判断のあと二人がたどった道と、評価の分かれ方を見ていきます。

最期と評価の逆転:同じ幕臣がなぜ正反対に語られたのか

お知らせ:この章では、小栗忠順の最期に触れています。ドラマの結末にかかわる内容を知りたくない方は、次の章「二人に共通していたもの」へ進んでください。

1868年の判断のあと、二人の歩みははっきり分かれました。

小栗忠順:権田村で捕らえられ、処刑された

権田村に移った小栗は、1868年の閏うるう4月(旧暦)、新政府軍の一隊である東山道軍とうさんどうぐんに捕らえられました。反乱をくわだてている、という疑いをかけられたとされています。

※閏4月:旧暦で、暦と季節のずれを直すため、4月のあとにもう一度置かれた月のことです。

取り調べらしい取り調べはなかったと伝わります。小栗は旧暦の閏4月6日、烏川からすがわのほとりで斬首(首をはねる刑)に処されました。

その後の小栗は、朝廷にそむいた逆賊ぎゃくぞくとして扱われ、その仕事は長く語られにくかったとされます。

勝海舟:新政府にも仕え、1899年まで生きた

勝は明治政府に招かれ、海軍卿かいぐんきょう(海軍をまとめる役。のちの海軍大臣にあたります)や、天皇の相談役にあたる枢密顧問官すうみつこもんかんを務めました。貴族の位にあたる伯爵はくしゃくも受けています。

旧幕臣の暮らしを助け、徳川慶喜の名誉回復にも力を尽くしたとされます。亡くなったのは1899年、1868年の小栗の死から31年後のことでした。

二人の評価はどう変わっていったのか

江戸を戦火から救った勝は高く評価されましたが、批判もありました。福沢諭吉が1891年に書き、1901年に公表した『瘠我慢やせがまんの説』です。

福沢が問題にしたのは、幕臣だった勝と榎本武揚えのもとたけあきが、新政府に仕えて高い地位を得たことでした。

写しを送られた勝は、「行蔵こうぞうは我に存す、毀誉きよは他人の主張」と返したと伝わります。行動の責任は自分にあり、ほめるかけなすかは他人の自由だ、という意味です。

小栗のほうは、残した設備が評価を変えていきました。横須賀の施設は明治の海軍を支え、1912年には、日本海海戦を指揮した東郷平八郎とうごうへいはちろうが小栗の遺族を招いて礼を述べたと伝わります。

作家の司馬遼太郎しばりょうたろうは『明治という国家』(1989年)で、小栗を、明治国家の土台を用意した人物の一人として高く評価しています。

もぐたろう
もぐたろう

勝は新しい時代を長く生きて、自分の言葉をたくさん残した。小栗は何も語れないまま世を去って、あとには工場が残った。評価って、「誰が語り、何が残ったか」でも変わるんだね。

勝は「生きて語った言葉」で、小栗は「あとに残した設備」で評価されてきました。小栗の評価が大きく改められたのは、残した設備の価値があとから見直されたからだといえます。次の章では、逆に二人の共通点を確かめていきましょう。

二人に共通していたもの

ここまで違いを並べてきましたが、二人には共通点も少なくありません。大きく3つあります。

1つ目は、どちらも将軍に仕える幕臣として、同じ1860年に海の向こうを見たことです。小栗はワシントンやフィラデルフィアを、勝はサンフランシスコを、自分の目で確かめました。

2つ目は、西洋の技術を取り入れなければ日本は立ちゆかない、という危機感です。小栗は造船の設備を、勝は海軍の人材を整えようとしました。向かった先は違っても、出発点は同じだったといえます。

3つ目は、どちらも徳川家を見捨てなかったことです。小栗は戦ってでも徳川の政権を保とうとし、勝は交渉によって徳川の家を残そうとしました。

ゆうき
ゆうき

ここまで正反対に見えたのに、目指してたものは近かったんだ…。じゃあ、なんで最後にあんなに分かれちゃったの?

もぐたろう
もぐたろう

「いちばん先に守るもの」が違ったからなんだ。小栗は、整えてきた軍と設備があれば立て直せると考えた。勝は、内戦が長引けば外国につけこまれると考えた。たとえるなら、嵐にあった船で、小栗は「船を直して乗り切る」、勝は「まず乗っている人を降ろす」を選んだ感じだね(もちろん、たとえ話だよ)。

二人を分けたのは「目的」ではなく、「手段」と「何を先に守るか」でした。では、その二人は互いをどう見ていたのでしょうか。次の章で、記録からわかる範囲を確かめます。

二人の仲は?史料からわかること・わからないこと

二人が互いをどう思っていたかを、一次史料から言い切るのは難しいのが現状です。一次史料とは、その時代の当事者が残した手紙や日記などの記録を指します。

確かにいえるのは、1868年に二人が正反対の方針を唱えたこと。そしてもう一つ、勝が晩年に小栗について語っていることです。

勝は談話集『氷川清話ひかわせいわ』のなかで、小栗を「幕末の一人物」と呼びました。世界の情勢に通じた忠義の徳川武士だと認めたうえで、度量が狭かったのは惜しい、と語っています。

ただし、『氷川清話』のもとになった談話は1890年代のもので、1868年の対立から20年以上がたっていました。小栗の側の言い分は並ばない、勝だけの回想です。

しかも『氷川清話』は、新聞や雑誌にのった談話を編者がまとめ直した本で、編者の手が入っていると指摘されています。言葉づかいまで勝本人のものとは限りません。

「二人は不仲だった」という話は、どこまで確かなのか

二人の不仲を伝える話は、出どころで3つに分けられます。①当時の記録:1868年に方針が対立したことは確かです。ただ、互いへの感情を書いた当時の手紙や日記は、この記事の調査では確認できていません。

②のちの回想や伝記:勝の晩年の談話のほか、1928年に出た蜷川新にながわあらたの著書に、勝を取り除きたいと語る人物に対し、小栗は賛成とも反対とも言わなかった、という話が載っています。ただ、この本は小栗の名誉回復を訴える立場で書かれており、そのまま事実とは言い切れません。

③ドラマの紹介や制作側の言葉:「対立しながらも一目置き合っていた」といった言い回しは、ドラマの発表で二人の関係を紹介する言葉として使われているものです。史実の裏づけとは分けて受け取りましょう。

わかるのは「方針の対立」と「勝がのちに小栗を語ったこと」まで。当時の二人が互いをどう思っていたかは、わからないままです。

あゆみ
あゆみ

記録からは言い切れないんですね。でもドラマだと、二人がバチバチにやり合う場面がありそうです。それって作り話になるんですか?

もぐたろう
もぐたろう

まず、ドラマでどう描かれるかは放送前だからまだわからないんだ。そのうえで言うと、政治の方針でぶつかったのは史実だから、対立の場面がぜんぶ作り話になるわけじゃないよ。ただ「個人的に嫌い合っていた」とまでは記録から言えない。意見が合わないことと、嫌い合うことは別だからね。

記録が伝えているのは「方針の違い」であって、「感情の対立」ではありません。

小栗忠順と勝海舟をもっと知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

二人の違いをもっと深く知りたい人向けに、本を2冊だけ選んだよ!1冊は二人の対立を描いた小説、もう1冊は勝海舟の談話集。どちらも「史料そのもの」ではないから、この記事とあわせて読むのがおすすめだね。

①二人の対立を物語で追いたいなら|幕府側から描く長編小説

2018年に刊行された長編小説です。小栗上野介と勝海舟の対立を軸に、薩長さっちょう側ではなく幕府側の視点から幕末を描いています。出版社の紹介では、二人は封建制を改める必要があるという考えは共有しつつ、政権構想の重心の置きどころが異なった、と説明されています。

ただし小説なので、二人のやりとりや心の動きは作者の構想を含みます。この記事で確かめた「記録からわかること」とは分けて読むと、物語としても史実の整理としても楽しめます。

✓ こんな人におすすめ

二人の対立を、人物の動きのある物語として味わいたい人。幕府側から見た幕末を読んでみたい人。

△ こんな人には向かない

史実だけを確かめたい人。小説のため、会話や心情の描写は創作を含みます。


②勝の語り口に触れたいなら|晩年の談話集

勝海舟が晩年に語った談話をまとめた談話集です。講談社学術文庫版は江藤淳えとうじゅんと松浦玲まつうられいの編集で、従来の流布本を見直し、未収録の談話も加えて再編集した版とされています。人物評や時局への批評を、勝の語り口で読めます。

ただし、この記事でも触れたとおり、談話は聞き書きを編者がまとめたものです。言葉づかいまで勝本人のものとは限らない点に気をつけて読みましょう。

氷川清話(講談社学術文庫)

勝 海舟(編:江藤 淳・松浦 玲) 著|講談社

✓ こんな人におすすめ

勝本人の語りを通して、人物評や時局への見方に触れたい人。二人の違いを、勝の側から確かめたい人。

△ こんな人には向かない

小栗について詳しく知りたい人。談話は勝の視点で語られたもので、小栗だけを扱う本ではありません。

小栗の評伝や小説も含めて、目的別に7冊をまとめた記事もあります。読みたい方向から選ぶなら、小栗忠順と逆賊の幕臣のおすすめ本も参考にしてください。

よくある質問(FAQ)

1868年に方針が対立したことは確かですが、個人的に仲が悪かったと言い切れる当時の記録は確認できていません。勝は晩年、小栗の能力を認めつつ短所も挙げる談話を残しました。ただし後年の回想なので、そのまま当時の関係とみることはできません。

幕府が終わりに近づいたとき、何を残そうとしたかが違います。小栗は造船の設備や軍隊、財政の仕組みを幕府の手で残そうとしました。勝が残そうとしたのは、海軍を担う人材と、戦火にあわない江戸の町です。

乗っていません。小栗は使節の目付として、アメリカの軍艦ポーハタン号で渡米しました。咸臨丸は使節の本隊とは別に太平洋を渡った随伴艦で、こちらに乗っていたのが勝海舟です。

勝海舟が年上です。勝は1823年、小栗は1827年の生まれで、勝が4歳年上にあたります。

勝は明治以降も政府の役職に就き、談話などで自分の言葉を多く残しました。一方の小栗は新政府に敵対した人物として扱われ、功績が語られにくい時期が続いたとされます。のちに横須賀の施設の価値が見直され、小栗の評価も改められていきました。

放送前のため、どう描かれるかはまだわかりません。発表によると、小栗忠順を松坂桃李、勝海舟を大沢たかおが演じます(2026年10月確認)。この記事で紹介した内容は史実の整理で、ドラマの描写とは分けてお読みください。

まとめ:小栗忠順と勝海舟の違いを整理

小栗忠順と勝海舟の違いは、幕府の終わりに「何を残そうとしたか」にありました。出自、渡米の立場、帰国後の仕事、将軍との距離、1868年の判断。この5つの視点で比べると、小栗は設備と仕組みに、勝は人材と交渉に軸足を置いていたことが見えてきます。

ただし、目指した先は遠く離れていたわけではありません。二人の仲についても、記録から言い切れることは多くないのが実際のところです。

ひと目でわかる比較

お知らせ:この表と次の年表では、小栗忠順の最期に触れています。避けたい方は、年表のあとの吹き出しまで読み飛ばしてください。

比較項目小栗忠順勝海舟
出自・禄高名門の旗本(2500石とされる)小さな旗本の家(41石ほどとされる)
出世の入り口家柄を足がかりに出仕し、1859年に目付蘭学と1853年の意見書で見いだされる
1860年の渡米使節の目付として、アメリカの軍艦ポーハタン号で随伴艦・咸臨丸の実質的な艦長役として
帰国後の仕事設備と仕組み(1865年に横須賀製鉄所を着工)人材(1864年に神戸海軍操練所を開く)
慶喜との関係改革の実務を任され、1868年1月(旧暦)に罷免遠ざけられたのち、1868年に軍事と交渉を任される
1868年の主張抗戦論(戦って立て直す)恭順論(戦わずに交渉する)
その後1868年閏4月(旧暦)に処刑される明治政府でも役職に就き、1899年に死去
のちの評価「逆賊」とされたのち、近代化の土台を用意した人物として再評価江戸城無血開城の立役者。新政府に仕えたことへの批判も

二人の並行年表

小栗忠順と勝海舟の並行年表
  • 1823年
    勝海舟、生まれる
  • 1827年
    小栗忠順、生まれる
  • 1859年
    小栗、目付に就く
  • 1860年
    小栗はポーハタン号、勝は咸臨丸で渡米
  • 1864年
    勝、軍艦奉行に昇進し神戸海軍操練所を開く(同じ年に役を解かれる)
  • 1865年
    小栗、横須賀製鉄所の工事を始めさせる。神戸海軍操練所は閉鎖
  • 1866年
    勝、軍艦奉行に戻り長州藩との停戦交渉にあたる。年末(旧暦)に慶喜が将軍となる
  • 1868年1月(旧暦)
    鳥羽・伏見の戦い。小栗は罷免され、勝は陸軍総裁に就く
  • 1868年4月(旧暦)
    江戸城無血開城
  • 1868年閏4月(旧暦)
    小栗忠順、権田村で捕らえられ処刑される
  • 1899年
    勝海舟、死去
もぐたろう
もぐたろう

以上、小栗忠順と勝海舟の違いのまとめでした!二人それぞれの生涯は、下の記事でじっくり解説しているよ。ドラマを見る前に、あわせて読んでみてください!

参考文献

コトバンク「小栗忠順」「勝海舟」「咸臨丸」「万延元年遣米使節」「横須賀製鉄所」「小野友五郎」「慶応の改革」「旗本」「目付」「勘定奉行」「軍艦奉行」「石」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典・百科事典マイペディア・山川 日本史小辞典 改訂新版・デジタル大辞泉ほか)(2026年10月確認)
Wikipedia日本語版「小栗忠順」「勝海舟」「万延元年遣米使節」「咸臨丸」「ジョン・ブルック」「小野友五郎」「神戸海軍操練所」「横須賀造船所」「長州征討」「江戸開城」「瘠我慢の説」「氷川清話」「川村清雄」「旗本」(2026年10月確認)
国立国会図書館「近代日本人の肖像」小栗忠順(2026年10月確認)
国立国会図書館デジタルコレクション 勝安芳述『海舟先生氷川清話』(1902年)/蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(1928年)(2026年10月確認)
青空文庫 福沢諭吉『福翁自伝』『瘠我慢の説』(2026年10月確認)
高崎市「広報高崎」小栗上野介忠順特集(2026年10月確認)
群馬県立図書館「小栗上野介忠順 関連資料リスト」(2026年10月確認)
ステラnet(NHK財団)大河ドラマ『逆賊の幕臣』出演者発表記事(2026年10月確認)
サライ.jp(小学館)・HugKum(小学館)の小栗忠順関連記事(2026年10月確認)
Amazon.co.jpほか書店サイトの書誌・内容紹介(2026年10月確認)
Wikimedia Commons 各画像のファイルページ(2026年10月確認)

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