今回は、幕末に起きた将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)について解説します。
将軍継嗣問題はもっと簡単な言い方をすると
誰を次の将軍にする?
という問題です。起こったのは1855年頃。十三代目の徳川家定(とくがわいえさだ)の次の将軍をめぐって、幕府内で争いが起きたのです。
この記事では将軍継嗣問題について次の2点を中心に解説していきます。
なぜ将軍継承問題は起こったの?
争いの結果、幕府はどうなったの?
問題だらけの徳川家定
まずは、将軍継嗣問題の原因となった徳川家定についてのお話から。
徳川家定は父の死を受けて、1853年に十三代将軍となります。ところがこの家定、問題児すぎて全く将軍として機能しませんでした。
人と会うのが嫌いで引きこもりがち。しかも病弱で変な行動ばっかりするので、将軍とは名ばかりのお飾り状態となり、幕府は老中を中心になんとか運営されていました。
しかし、1854年にそんな悠長こともやっていられない事態が起こります。それは日米和親条約の締結です。加えて、ロシアやイギリスとも和親条約を結んだことで、今後の日本は常に強国の脅威に晒され続けることになります。
そこで幕府の重鎮たちはこんなことを思います。
「家定は病弱でいつ亡くなるかわからない。次期将軍のことを先にしっかりと決めておかねば・・・。」
普通なら、次期将軍は徳川家定の息子がなるはずでした。ところが、家定は問題児だったのもあり、子供がいませんでした。そこで、徳川家の中から次期将軍にふさわしい人物を探し出すことになるのですが、ここで幕府内で考え方が大きく2つに分かれました。
1つは、徳川家定との血縁の近さを重視するグループ
もう1つは、「欧米諸国と対等に渡り合うには、血縁じゃなくて優秀な人物を選んだ方が良くない」と考える実力重視のグループ
そして、血縁重視派が選んだのが紀州藩主だった徳川慶福(とくがわよしとみ)。実力重視派が選んだのが一橋徳川家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)でした。
さらに、紀州藩主の徳川慶福派のことを南紀派(なんきは)、一橋徳川家の徳川慶喜派のことを一橋派と呼びました。まとめるとこんな感じです。
血縁重視 | 徳川慶福 | 南紀派 |
実力重視 | 徳川慶喜 | 一橋派 |
外国をめぐる問題【過激派VS穏便派】
将軍継嗣問題の複雑なところは、南紀派VS一橋派の問題が「諸外国とどう向き合うか」という非常に重要な問題と繋がってしまった点です。
当時、諸外国への対応についても過激派と穏便派の大きく2つの派閥が構成されつつありました。
穏便派は「開国は積極的にしたくないけど、外国と戦争もしたくないから、とりあえず外国の言うことを聞いて穏便に事を済まそう。」と考える人々
過激派は「外国はぶっ倒す」(攘夷派)と考える人々。
を中心に構成されました。(実際は過激派と穏便派の中にもいろんな考え方の人がいて、実情はもっと複雑です。)
そして、幕府の要職の多くを占める譜代大名には穏便派が多く、要職になることの難しい外様大名の多くは過激派に所属しました。幕府の要職に就いている人たちは、変化を嫌い物事を穏便に終わらそうとする保守的な人がほとんどでした。(権力を持っている者が保守に走るのは今も昔も変わりませんね)
さらに、保守的な穏便派は旧来どおりに血縁を重視する南紀派を支持し、過激派の人々は血縁にとらわれない実力重視の一橋派を支持するようになります。
南紀派の中心人物は井伊直弼(いいなおすけ)。一橋派の中心人物は、徳川斉昭(とくがわなりあき)、島津斉彬(しまづなりあきら)、松平慶永(まつだいらよしなが)。
整理するとこんな感じ。
将軍問題 | 外交問題 | 所属大名 | 中心人物 |
徳川慶福 (南紀派) | 穏便派 | 譜代大名多め | 井伊直弼 |
徳川慶喜 (一橋派) | 過激派 | 外様大名多め | 徳川斉昭 島津斉彬 松平慶永 |
ここで登場する徳川斉昭は徳川慶喜のお父さんです。
幕府の重鎮がたくさんいる南紀派が有利
1858年、徳川家定は病状が悪化し後継者争いはいよいよ佳境を迎えます。
そして、南紀派VS一橋派の争いは、南紀派有利に進んでいきます。なぜかというと南紀派には幕府の重鎮が多いから。幕府の決定は基本、南紀派の意見が通りやすいのです。
同年(1858年)4月、井伊直弼が大老に選ばれます。大老は老中を超える最高役職であり、臨時的に置かれた役職でした。ちょうどこの頃、将軍継嗣問題とは別にハリスと日米修好通商条約の交渉が行われており、これが頓挫しているところでした。
そこで将軍継嗣問題の解消も含めて、「重要な事態だ!」ということで南紀派の人たちが井伊直弼を大老にしたのです。
こうなってしまえば、将軍継嗣問題はほとんど解決したようなものです。最高職に就いた井伊直弼は、強引に徳川慶福を次期将軍にする準備を進め、同じ1858年に家定が亡くなると、徳川慶福が徳川家茂と名前を変えて十四代目の将軍となりました。
一方、不利な立場の一橋派は朝廷に近づいて、天皇に「優秀な人材を将軍にした方がお国のためになりますよ」と交渉しますが、これも失敗に終わってしまいました。
井伊直弼の時代、一橋派は粛清へ(安政の大獄へ)
将軍継嗣問題と同時並行で、井伊直弼はハリスと日米修好通商条約の交渉も進めていました。
日米修好通商条約を認めてしまうと、取引のため外人が日本に長期滞在することになります。孝明天皇は「神聖な日本に、汚らわしい異国の者が定住するなどあってはならぬ」とこれを非常に嫌っていました。江戸時代の天皇は基本的にただのお飾り状態ですが、外交問題が起こると国のトップという立場から、再び天皇が歴史の表舞台に登場することになります。
なので、井伊直弼は朝廷と連絡を取りながらハリスと交渉を進めていたのですが、ハリスが「これ以上、交渉を遅らせるようなら武力行使する」と攻め寄ると、これに折れた井伊直弼は朝廷の意見を無視して条約を締結してしまいます。
これに孝明天皇はブチギレ。孝明天皇は過激派(一橋派)と考え方が似ていたことから、将軍継嗣問題に負けた一橋派も朝廷に接近。攘夷や徳川家茂の将軍位撤廃を求めて井伊直弼率いる南紀派に対抗しようとします。
これに対して井伊直弼は1858年~1859年にかけて、一橋派の人々を激しく弾圧しました。これは100名以上の者が弾圧を受けた大弾圧で、有名な人物では吉田松陰(よしだしょういん)や橋本左内(はしもとさない)という人物がこの時に命を落としています。これを安政の大獄と言います。
さらに、この仕返しとして1860年、一橋派の一部の者が桜田門という門の前で井伊直弼を暗殺する事件が起こります。(これを桜田門外の変と言います。)
流れをまとめておくと・・・
- 1858年将軍継嗣問題・日米修好通商条約
- 1858~1859年安政の大獄
- 1860年桜田門外の変
と、時代は進んでいきます。将軍継嗣問題は、安政の大獄や桜田門外の変へと繋がる「一橋派」VS「南紀派」の対立を生み出したきっかけとなり、この事件を機に幕府内の混迷はますます加速していくことになります。
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