安政の改革の内容・目的を簡単にわかりやすく解説するよ【多くの有名人を生んだ阿部正弘のお話】

今回は、老中の阿部正弘が行った安政の改革(あんせいのかいかく)について解説していきます。

江戸時代には江戸時代の三大改革と呼ばれる改革があります。「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」の3つです。しかし、それとは別に、江戸時代にはもう1つ重大な改革が行われました。それが今回紹介する安政の改革です。

江戸時代の三大改革は、主に「民衆が経済的に苦しんでいる」とか「江戸幕府に金がない・・・」とか国内の問題を解決するために行われた改革でした。しかし、安政の改革はこれらとは全く別物の改革です。

安政の改革がどんな改革だったかというと、

欧米諸国が強すぎて全く歯が立たないから、日本をもっと強くしなきゃ・・・

という目的で行われた改革でした。江戸の三大改革とは大きく趣旨が異なります。

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なぜ安政の改革が行われたか

安政の改革が始まったのは1854年、この年はペリーと日米和親条約を結んで日本が開国をした年でもありました。

アメリカと国交を開くと、それに続いてイギリス・ロシアとも新たに国交を結ぶこととなり、江戸幕府はこれから頻繁にやってくるであろう外国人とどう向き合うか対応に迫られることになります。

欧米諸国は、虎視眈々と東アジアの国々を植民地にするチャンスを伺っており、弱みや隙を見せれば、一挙にして国が乗っ取られてしまうかもしれない。(実際に1840年に、アヘン戦争で破れた清は悲惨な目にあっていた・・・)

そこで、欧米諸国に舐められないために実施されたのが安政の改革でした。

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安政の改革の重点は「人材育成」

安政の改革の中心人物「阿部正弘」

安政の改革の中心人物だったのは、老中だった阿部正弘(あべまさひろ)という人物。

阿部正弘は様々な問題に着手しますが、歴史に大きな影響を与えたのは「人材育成」です。

阿部正弘「欧米諸国とこれから対等に渡り合うには、国難に立ち向かう意欲と外国に対する知識や好奇心を持つ者を育てなければならぬ」

こう考えた阿部正弘は、これまでの幕府では考えられないような様々な人たちを採用し始めました。例えば、江戸時代には所属している藩によって人々はランク付けされ、上から「親藩」「譜代大名」「外様大名」となっていて、一番下の外様大名らはどんなに優秀な人物でも簡単に幕府の要職に就くことはできませんでした。

しかし、阿部正弘はこのような藩による差別や、身分による差別を無視してとにかく優秀そうな人たちを集めました。この頃になると幕府の重鎮達の考え方が固すぎて、幕府の中から優秀な人材を確保するのが困難になっていたのです・・・。

この時集められた人たちの中には、後に有名となる人物が多くいて、その中には勝海舟(かつかいしゅう)の姿もありました。幕府がペリーと交渉していた時、打開策を見出せない幕府は「身分とか関係ないから良い意見あったら誰でも教えてくれ」と広く人々に意見を求めたところ、勝海舟の意見が素晴らしかったのに阿部正弘が着目し、勝海舟に声をかけたのです。

この他にも、五稜郭の戦いで散っていった榎本武揚(えのもとたけあき)とか明治時代に活躍する五代友厚(ごだいともあつ)とか多くの優秀な人たちが集まります。阿部正弘がいなければこのような芽は摘まれていたかもしれず、実は阿部正弘は幕末における影の超重要人物だったりします。

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阿部正弘「日本の海軍を強くする」

人材登用と合わせて進められたのが、海軍の強化です。

阿部正弘は長崎に長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)という海軍学校を作りました。オランダ人の協力により、多くの人たちが西洋式の海軍について学びました。この学校の中には、先ほど紹介した勝海舟や榎本武揚の姿もありました。

さらに、諸藩に対して大船建造の禁(おおぶねけんぞうのきん)を発令しました。

それまでは、「藩が巨大な船を造ったら、幕府にとって危険だから巨大船の造船は禁止な。」としていましたが、「そもそもアメリカとかイギリスがやってきたら、『幕府にとって危険』以前に日本が無くなるかもしれない・・・。」という事態となり、各藩で巨大船を造船することを認めたのでした。

海軍学校の知識や大船建造の禁によって、薩摩藩なんかでは西洋式の戦艦が造船されるようになって、少しずつではありますが、日本は進化をしようとしていました。

これと同時並行で、陸軍を育てるための講武所(こうぶしょ)。欧米諸国について学ぶ蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を創設します。蕃書調所の方は後の東京大学の前身になります。(豆知識)

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阿部正弘「江戸幕府の金少なすぎワロタww」

一方、安政の改革は幕府の財政難によってその多くが頓挫しました。

例えば、江戸を守るために東京湾に外国船を撃ち落とす砲台を設置しようとしましたが、結局、お金が足りず工事は中止。砲台は中途半端で役立たずなものとなってしまいます。ちなみに、この時に砲台を建造していた場所は今の東京お台場となります。「お台場」の由来は「大砲を置く台場」から来ています。

この他にも、「東京湾に土塁を築こう!」と計画を立てますが、これは明らかな予算不足により実行すらされないまま終わってしまいました。

そのため、安政の改革と言いつつもその内容は実に中途半端なものに終わってしまいます・・・。これが江戸の三大改革に安政の改革が入らない理由でしょう。

しかし、江戸幕府の財政難で中途半端となった安政の改革とは対照的に、諸藩では様々な改革が推し進められます。特に地理的に外国との関係に敏感だった薩摩・長州などでは、大砲の製造や、その砲身を製造するための反射炉(はんしゃろ。鉄の精錬装置)の開発がドンドン進められました。

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安政の改革まとめ

こうやって見てみると、防衛に即効性のある「砲台の設置」「土塁の設置」といったハード面は財政難によって頓挫する一方、効果が現れるのに時間が必要な「人材育成」というソフト面では大成功したのが安政の改革の特徴でした

もう1つ安政の改革の波及効果として、幅広い人材を登用した結果、外様の諸藩たちが幕府に意見できるようになりました。国難に立ち向かうには、国が一丸となることが最重要であり、その最初の第一歩を阿部正弘が後押しした形です。

しかし、これは「新参者のくせに生意気だ」と旧来の幕府の重鎮たちから強い反発を受けることになり、阿部正弘が政界から引退すると、阿部正弘に見出された人たちは弾圧を受けることとなり、国が一丸となるには明治維新までの長い時間を要することになります。

阿部正弘に重用された人物は「欧米諸国について精通し、国難に立ち向かう意欲がある者」だったので必然的に「外国ぶっ倒す」のイケイケ派が集まったのに対し、幕府の重鎮は穏便派で「むやみに戦争はしない」の精神だったので、外国に対する向き合い方でも両派は大きく対立してすることになります。(この対立は明治維新まで続く)

明治維新によって日本は「国家一丸」を達成することとなりますが、実はその最初の第一歩を進み始めたのが阿部正弘による安政の改革だったのでした

確かに安政の改革は地味かもしれませんが、影から幕末の日本を支え、明治維新の強い原動力になったことを忘れてはいけないように思います。



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