安政の改革とは?1854年・阿部正弘が行った国防改革をわかりやすく

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安政の改革

もぐたろう
もぐたろう

今回は安政の改革について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!誰が・いつ・何をした改革なのか、幕末との繋がりまでまとめて解説するね。

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 安政の改革とは何か(いつ・誰が・何を目的にした改革か)
  • 阿部正弘の人物像と改革の経緯(なぜ老中首座が改革を主導したのか)
  • 安政の改革の具体的な内容3本柱(人材登用・海軍強化・財政政策)
  • 安政の改革が幕末に与えた影響(井伊直弼の台頭・安政の大獄との繋がり)
  • テストで問われるポイント(年号・人名・他の改革との違い)

実は、安政の改革は「教科書でほとんど取り上げられない地味な改革」と思われがちです。享保・寛政・天保の三大改革に入らないことから、「失敗した中途半端な改革」というイメージもあります。

でも実は——安政の改革あんせいのかいかくこそ、明治維新を陰で支えた最重要伏線だったのです。勝海舟・榎本武揚・五代友厚——近代日本を動かした人材をいち早く発掘・登用したのが、この改革だったのです。

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安政の改革とは?

3行でわかる安政の改革
  • 📅 いつ:1854年(安政元年)〜1857年(安政4年)ごろ
  • 👤 誰が:老中首座・阿部正弘あべまさひろが主導
  • 🎯 目的:欧米列強の脅威に備え、国防強化と有能な人材の育成を図る

安政の改革とは、1854年(安政元年)から老中首座・阿部正弘あべまさひろが主導した、幕府の国防・近代化改革のことです。前年の1853年にペリーが黒船を率いて浦賀に来航し、日本中が騒然とするなか、「このままでは外国に飲み込まれる」という危機感から始まった改革でした。

享保の改革徳川吉宗)・寛政の改革松平定信)・天保の改革(水野忠邦)の「三大改革」は、主に幕府内部の財政立て直しや綱紀粛正を目的としていました。一方、安政の改革は外圧への対応(開国・国防・近代化)を主眼としていたため、三大改革とは性格が根本的に異なります。

「三大改革に含まれない=中途半端な失敗改革」ではありません。むしろ、後の明治政府を担う人材を発掘・育成した点で、明治維新の土台づくりという歴史的役割を果たした改革だったのです。

あゆみ
あゆみ

三大改革に入らないのに、なんで「安政の改革」ってわざわざ名前がついてるんですか?

もぐたろう
もぐたろう

三大改革(享保・寛政・天保)って、どれも「幕府の財政がヤバい!節約しなきゃ!」っていう内向きの改革なんだよね。でも安政の改革は「外国が攻めてくる前に軍を強くして、有能な人材を育てよう!」っていう外向きの改革。目的がぜんぜん違うから別枠扱いされてるんだ。

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なぜ安政の改革が行われたのか?

安政の改革が始まった直接のきっかけは、1853年(嘉永6年)のペリー来航です。

ペリー来航の浮世絵
ペリー来航を描いた浮世絵(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

アメリカ海軍提督・マシュー・ペリーMatthew Perryが黒船4隻を率いて浦賀(神奈川県)に来航し、日本に開国を迫りました。江戸幕府はその圧倒的な軍事力に衝撃を受け、翌1854年には日米和親条約にちべいわしんじょうやくを締結。250年以上続いた鎖国さこく体制は事実上崩壊しました。

当時の幕府内部は、「このまま開国すべきか、それとも外国船を打ち払うべきか」という開国派と攘夷派の対立で揺れていました。しかしペリーの艦隊の軍事力を目の当たりにしては、正面から抵抗することは不可能でした。

そこで老中首座・阿部正弘が着目したのは、「外国の圧力に対抗できる日本をつくり直す」という発想です。外国語で交渉できる人材、西洋式の軍事技術を習得できる人材、海軍を動かせる人材——まったく新しいタイプの人材が日本には必要でした。

また、ペリー来航以前から幕府の財政は逼迫していました。倹約を繰り返してきた三大改革でさえ根本的な解決にならず、さらに軍備強化のための出費が重なれば「お金が全然足りない」という状況でした。安政の改革はこうした複合的な危機のなかで、苦肉の策として始まった改革でもあったのです。

📌 年号の覚え方:安政の改革は「安政元年=1854年」スタート。日米和親条約と同じ年!「ペリーが来て(1853年)、次の年に改革(1854年)」と流れで覚えよう。

ゆうき
ゆうき

ペリーが来たのが1853年で、安政の改革が1854年ってことは、ほぼ同時に動いたんだ。テストでは年号を覚えたほうがいいの?

もぐたろう
もぐたろう

テストでは「ペリー来航→日米和親条約→安政の改革」という流れで問われることが多いよ!特に「1854年・安政元年・阿部正弘」の3点セットは絶対に覚えてね。天保の改革(1841年・水野忠邦)と混同しやすいから、人名と年号のセットで区別しよう!

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阿部正弘とはどんな人?

安政の改革を語るとき、どうしても外せないのが主導者・阿部正弘あべまさひろ(1819〜1857年)です。「安政の改革 誰が?」という検索で最も問われる人物ですが、実は幕末のキーパーソンとして非常に重要な存在でした。

阿部正弘の肖像画
阿部正弘の肖像画(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

阿部正弘は、備後国びんごのくに(現在の広島県)の福山藩ふくやまはん主でした。25歳という異例の若さで老中ろうじゅう(今でいう幕府の大臣のようなポジション)に就任し、1845年(弘化2年)には老中首座ろうじゅうしゅざ(首相格)に上り詰めた俊英です。

ペリー来航の際、阿部正弘がとった行動は当時としては革命的でした。それまでの幕府は「お上が決める・下は従う」という体制でしたが、阿部はペリーへの対応について諸大名や朝廷にまで意見を求めたのです。「幕府だけで決める時代は終わった」という意識の転換でした。

この「諸大名への意見聴取」は、同時に幕府の権威低下という副作用ももたらしました。これまで「将軍の家臣」として政治に口を出せなかった各藩の藩主たちが発言力を持ち始め、やがて幕末の雄藩連合(薩長土肥)が力をつけていく素地を作ったのです。

阿部正弘
阿部正弘

外国に負けないためには、身分より実力だ。幕府の古い慣習を壊さなければ、日本が終わる——。

阿部正弘の最大の特徴は、「身分より能力」という開明的な発想にありました。江戸時代は士農工商の身分制度が根強く残り、家柄や石高によって出世が決まる社会でした。しかし阿部は「今の日本を救えるのは、身分ではなく実力のある人間だ」と考え、出身藩や身分を問わず有能な人材を広く登用しようとしたのです。

こうした考えは思いつきではありませんでした。阿部は自分の領地・福山藩でも、安政年間に藩校はんこう誠之館せいしかん」を整備し、儒学だけでなく西洋の砲術や蘭学まで教えさせています。「人を育てる場所をつくる」という発想を、阿部は地元でも幕府でも一貫して実践していたのです。また、敵対しがちな各派閥のあいだに立って粘り強く調整する温厚な人柄でも知られ、「敵をつくらない政治家」として広く信頼を集めました。

そして阿部正弘は、改革の途中である1857年(安政4年)、わずか満37歳(数え年39歳)で急逝します。改革を道半ばで失い、後任として強権的な井伊直弼が台頭していくことになります。もし阿部が長生きしていたら、幕末の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

📌 テストに出る!「安政の改革 誰が?」→「老中首座・阿部正弘」。「老中」「老中首座」の違いも確認しておこう(老中首座=老中の筆頭、今でいう首相格)。

安政の改革の内容①——人材登用

安政の改革の中でも、後世に最も大きな影響を与えたのが「身分を超えた人材登用」です。「今の幕府のメンバーでは外国に対抗できない」と判断した阿部正弘は、家柄や石高にとらわれず、実力のある人材を広く募ったのです。

安政の改革で頭角を現した主な人物勝海舟榎本武揚 / 五代友厚 / 川路聖謨かわじとしあきら ほか

たとえば勝海舟かつかいしゅう(1823〜1899年)は、貧しい旗本の家の出身でした。しかし蘭学(オランダ語の学問)を独学で習得し、ペリー来航への対策として幕府に意見書を提出。これが阿部正弘の目に留まり、長崎での海軍修業に抜擢されました。後の勝は「江戸無血開城」を実現した幕末最大の外交家となります。

勝海舟の肖像写真
安政の改革で抜擢された勝海舟(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)
エピソード:勝海舟、辞書を2回書き写す

貧しかった勝海舟には、蘭和辞典『ヅーフ・ハルマ』(全58巻)を買うお金がありませんでした。そこで持ち主から借り受け、1年がかりで辞書まるごとを2部も手で書き写したと伝えられています。1部は自分の勉強用に手元に残し、もう1部を売って生活費と学費にあてた、というのです。安政の改革で抜擢される背景には、こうした執念ともいえる独学の積み重ねがありました。

榎本武揚えのもとたけあき(1836〜1908年)も同様です。幕臣の子として生まれ、長崎海軍伝習所で航海術・砲術を修め、オランダ留学まで果たしました。戊辰戦争では箱館(函館)で最後まで抵抗した人物として知られますが、明治になると政府高官として活躍し、近代日本の外交・開発に貢献します。

榎本武揚の肖像写真
長崎海軍伝習所で学んだ榎本武揚(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

また、薩摩藩(鹿児島)の島津斉彬しまづなりあきらや越前藩(福井)の松平慶永まつだいらよしなが(松平春嶽)など、開明的な藩主たちも阿部が意見を求めた「幕政改革の協力者」として台頭します。こうした雄藩の藩主たちの発言力が高まったことが、後の倒幕運動の土台にもなりました。

あゆみ
あゆみ

勝海舟って坂本龍馬の師匠ですよね。そんな大物が、安政の改革で見出されたんですか!

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ!勝海舟は安政の改革で長崎に送られて本格的な海軍修業を受けたことで、「幕臣最高の頭脳」として評価されるようになったんだ。坂本龍馬が勝の門下に入ったのが1862〜1863年ごろだから、安政の改革(1854年〜)から約10年後。安政の改革がなければ、勝も龍馬も歴史に名前を残していなかったかもしれないよ!

安政の改革の内容②——海軍強化・講武所・蕃書調所

安政の改革の2本目の柱は、軍事・教育機関の整備です。「人材を登用する」だけでなく、「その人材を育てる場所」を新しくつくったのが、安政の改革の大きな特徴のひとつです。

安政の改革で新設された主な機関:長崎海軍伝習所(1855年)/ 講武所(1856年)/ 蕃書調所(1856年)

■ 長崎海軍伝習所(1855年)

長崎海軍伝習所ながさきかいぐんでんしゅうじょは、1855年(安政2年)に長崎に設立された幕府の海軍学校です。オランダの教官を招き、蒸気船の操縦・砲術・航海術などを実地で学ばせました。

勝海舟・榎本武揚もここで修業しています。長崎は当時の数少ない「対外貿易窓口」であり、西洋の最新情報が集まる拠点でした。ここで本格的な海軍教育を行ったことは、幕末の幕府軍の近代化において大きな意味を持ちました。

その成果が一気に花開いたのが、わずか5年後の出来事です。1860年(万延元年)、伝習所で使われていた練習艦咸臨丸かんりんまるが、勝海舟らを乗せてサンフランシスコへ出航。日本人の手で初めて太平洋を横断するという快挙を成し遂げました。たった数年の海軍教育が、太平洋を渡れる人材を生み出した——。安政の改革で蒔かれた種が、いかに早く実を結んだかがわかるエピソードです。

ペリー横浜上陸の様子
ペリー横浜上陸の様子(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

■ 講武所(1856年)

講武所こうぶしょは、1856年(安政3年)に江戸築地に正式開場した武術訓練機関です。「講武こうぶ」とは「武芸を講じる(教え鍛える)こと」。西洋砲術・剣術・槍術などを統合的に教え、幕臣・旗本の軍事力向上を目指しました。

江戸時代の武士は実戦とは縁が遠く、太平の世のなかで武力が形式化していました。ペリーの黒船を見て「自分たちの刀や弓では戦えない」と痛感した阿部が、急ピッチで設立した機関です。

■ 蕃書調所(1856年)

蕃書調所ばんしょしらべしょは、1856年(安政3年)に設立された洋学研究機関です。「蕃書(ばんしょ)」とは「外国の書物」のこと。つまり蕃書調所は、西洋の書物を翻訳・研究する機関でした。

ゆうき
ゆうき

「蕃書調所」って名前が難しい…。テストで書けるか不安。どんなところなの?

もぐたろう
もぐたろう

蕃書調所っていうのは、今でいう「外国語大学+国際研究所」みたいなイメージだよ!西洋の本(英語・オランダ語・ドイツ語など)を翻訳したり、外国の法律・技術・医学を研究したりする場所。名前は覚えにくいけど「外国の本を読む・調べる場所」と意味を知れば書けるようになるよ!

蕃書調所は後に「洋書調所」「開成所」と改称を重ね、明治維新後は「開成学校」となり、現在の東京大学の前身のひとつとなります。つまり安政の改革で設立された研究機関が、日本の近代大学教育の源流となっているのです。

■ 参勤交代の緩和

安政の改革では、参勤交代さんきんこうたいの緩和も行われました。参勤交代とは、各藩の大名が1年おきに江戸と自分の藩を往復する制度です。幕府が大名を江戸に縛り付けることで反乱を防ぐ仕組みですが、往復の費用が各藩の財政を圧迫していました。

安政の改革では、藩が海防(沿岸警備)などに経費を回せるよう、参勤交代の期間を短縮・緩和する措置が取られました。ただし、これが後に各藩の経済的自立を促す一因となり、倒幕運動の力を後押しする副作用もあったといわれています。

安政の改革の内容③——財政問題と頓挫した政策

人材登用・海軍強化と、安政の改革は革新的な施策を次々と打ち出しましたが、最大の壁が立ちはだかっていました。それが慢性的な財政難です。

問題:お金が足りない! 軍備強化・教育機関設立には莫大な費用がかかったが、幕府の財政はすでに限界に達していた

当時の幕府財政は、享保・寛政・天保の三大改革でも根本的な解決に至らないまま悪化を続けていました。そこへペリー来航という緊急事態が重なり、「海防費用を捻出しながら、今ある借金も返して、さらに新しい施設も建てる」という、ほぼ不可能な難題を抱えることになりました。

阿部正弘が取り組んだ財政面の施策として代表的なものに、印旛沼いんばぬまの干拓事業があります。現在の千葉県に広がる印旛沼を干拓して農地を増やし、年貢収入を増やそうという計画でした。しかし工事は難航し、資金不足と技術的な限界から計画は中断。完成には至りませんでした。

また、沿岸警備を強化するための台場(砲台の設置場所)の建設も、費用の問題から当初計画の規模を大幅に縮小せざるを得ませんでした。東京湾に現在もその名が残る「お台場」は、この時代に整備が始まった海防施設のひとつです。

もぐたろう
もぐたろう

「お台場」って東京の観光地として有名だけど、もともとは幕末に黒船が来たときに備えて作られた砲台なんだよ!安政の改革で整備が始まった場所が、今もその名を残してるって面白いよね。

財政難は、安政の改革がなぜ「三大改革と並ぶ大改革」と評価されにくいかを説明する一因でもあります。打ち出した施策は革新的でしたが、財源の裏付けが十分でなく、多くの計画が実現途上で止まってしまいました。それでも阿部正弘が「今やらなければ日本が終わる」と信じて改革を推し進めた姿勢は、後の幕末政治家たちに大きな影響を与えました。

安政の改革の影響と結末

安政の改革は、1857年(安政4年)に主導者・阿部正弘がわずか39歳で急逝したことで、事実上の幕引きを迎えます。在任中から体調が優れなかった阿部は、改革の完成を見ることなくこの世を去りました。

阿部の後を継ぐかたちで権力を握ったのが、彦根藩主・井伊直弼いいなおすけです。1858年(安政5年)に大老たいろう(幕府最高職)に就任した井伊は、阿部の「開明的・協議重視」とは正反対の、強権的・独断的な手法で政治を動かしていきます。

井伊直弼は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくを締結し、これに反対した大名・志士たちを弾圧する安政の大獄あんせいのたいごく(1858〜1859年)を引き起こします。吉田松陰・橋本左内ら幕末の志士多数が処刑・追放され、幕府は一時的に強権体制を取り戻しましたが、かえって反感を高め、1860年(万延元年)の桜田門外の変(井伊直弼暗殺)で幕末の混乱はいよいよ加速していきます。

あゆみ
あゆみ

阿部正弘が39歳で亡くなったってすごく早い…。もし長生きしてたら、幕末の歴史は変わっていたんでしょうか?

もぐたろう
もぐたろう

これは歴史の大きな「もしも」だよね。阿部正弘は開明的で、広く意見を聞きながら政治を進めた人物だった。実際、勝海舟も後年、阿部の政治について「内患を未萌に防ぐ」点で優れていたと高く評価している。もし阿部が長生きしていれば、井伊直弼のような強硬な弾圧路線とは違う形で、幕府は難局に向き合えたかもしれないね。

歴史のif:阿部正弘が長生きしていたら?

阿部正弘が1857年に急逝しなければ、その後の幕末政治はかなり異なっていた可能性があります。阿部は開明的な協議路線で諸大名の意見を尊重しており、井伊直弼が強行した「勅許なき通商条約締結」や「安政の大獄」は起きなかったかもしれません。志士たちが弾圧されず吉田松陰が生き続けていたとすれば、倒幕のタイミングや明治維新の形も大きく変わっていたでしょう。安政の改革の「もしも」を想像すると、近代日本史の見方がより深くなります。

一方で、安政の改革が残した「プラスの遺産」は確実に後世に引き継がれました。勝海舟・榎本武揚・川路聖謨ら、阿部が抜擢した人材は幕末から明治にかけて活躍し、近代日本の建設を支えます。長崎海軍伝習所での訓練がなければ、江戸無血開城を実現した勝海舟も存在しなかったかもしれません。

また、蕃書調所が後身の開成学校・東京大学へと発展したように、安政の改革で設けられた教育・研究機関は、明治時代の近代化を制度面から支える「知的インフラ」となりました。「地味な改革」という評価に反して、安政の改革は日本の近代化に向けた最初の制度的準備を行った改革だったのです。

三大改革との比較:安政の改革はどこが違う?

享保の改革(徳川吉宗・1716年〜):幕府財政の立て直し・倹約・上米の制など「内向き」の財政改革。
寛政の改革(松平定信・1787年〜):風俗取り締まり・旗本救済・棄捐令など「内向き」の綱紀粛正改革。
天保の改革(水野忠邦・1841年〜):株仲間解散・人返し令など「内向き」の統制強化改革。
安政の改革(阿部正弘・1854年〜):ペリー来航を受けた国防強化・人材登用・洋学奨励など「外向き」の近代化改革。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 1854年(安政元年):安政の改革が始まった年号。日米和親条約と同年なのでセットで覚える
  • 阿部正弘(老中首座):安政の改革の主導者。「安政の改革 誰が?」で最頻出の人名
  • 長崎海軍伝習所・講武所・蕃書調所:新設された3機関の名称と目的(海軍・武術・洋学)をセットで覚える
  • 身分を超えた人材登用:勝海舟・榎本武揚・五代友厚らの登用。「安政の改革の特色」を問われたときの回答キーワード
  • 三大改革に含まれない:享保・寛政・天保が三大改革。安政の改革は別扱い。理由は「外圧対応(外向き)の改革だから」

📌 比較問題でよく出るポイント:天保の改革(水野忠邦・1841年・株仲間解散)と安政の改革(阿部正弘・1854年・長崎海軍伝習所)は混同しやすい要注意コンビ。「誰が・いつ・何をした」の3点セットで区別しよう。論述では「安政の改革は三大改革と異なり、外圧(ペリー来航)を背景にした国防・近代化改革であった」という方向で答えると高評価が取れる。

改革名主導者時期主な内容目的
享保の改革徳川吉宗1716年〜上米の制・目安箱・新田開発財政再建(内向き)
寛政の改革松平定信1787年〜棄捐令・囲米・旧里帰農令綱紀粛正(内向き)
天保の改革水野忠邦1841年〜株仲間解散・人返し令統制強化(内向き)
安政の改革阿部正弘1854年〜長崎海軍伝習所・講武所・蕃書調所・人材登用国防・近代化(外向き)

ゆうき
ゆうき

テストで一番出るのはどこ?阿部正弘の名前を書けるようにしておけばOK?

もぐたろう
もぐたろう

一番よく出るのは「阿部正弘+1854年(安政元年)+長崎海軍伝習所」の3点セット!次に「蕃書調所・講武所の設立」と「身分を超えた人材登用」。天保の改革の水野忠邦と絶対混同しないように注意してね。比較表を何度も見返しておくと確実だよ!

安政の改革の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

安政の改革や幕末の流れをもっと深く知りたい人に、学術的にもしっかりしたおすすめ本を紹介するよ!

①幕末全体を体系的に学びたい人なら|東大教授による決定版入門書

よくある質問

1854年(安政元年)から老中首座・阿部正弘が主導した幕府の改革です。ペリー来航(1853年)を機に、国防強化・人材登用・海軍・洋学機関の整備を柱とした「外圧対応型」の近代化改革で、享保・寛政・天保の三大改革とは性格が異なります。

1854年(安政元年)から1857年(安政4年)ごろまでです。ペリーが来航した翌年(1854年)に日米和親条約が締結され、同年から阿部正弘が改革を本格始動させました。1857年に阿部が39歳で急逝したことで、改革は事実上終焉を迎えます。

老中首座・阿部正弘(あべまさひろ、1819〜1857年)です。備後国(現在の広島県)の福山藩主で、25歳の若さで老中に就任した開明的な政治家です。ペリー来航後に諸大名の意見を広く聴取し、身分を超えた人材登用を推進しました。

享保・寛政・天保の三大改革は、いずれも幕府内部の財政再建・綱紀粛正を主目的とした「内向きの改革」です。一方、安政の改革はペリー来航という外圧への対応として、国防・近代化・人材育成を目的とした「外向きの改革」であり、性格が根本的に異なるため別扱いとされます。

三大改革(享保・寛政・天保)は財政難・社会不安という「内部問題」への対応が主眼です。安政の改革はペリー来航という「外圧」への対応が主眼で、軍事力強化・洋学奨励・人材登用という近代化路線をとりました。目的・方法・背景がすべて異なる改革です。

主な理由は二つです。①主導者・阿部正弘が1857年に39歳で急逝したこと、②財政難により多くの計画が実現できなかったことです。阿部の急逝後は井伊直弼が台頭し、開明路線から強権路線へ転換。安政の大獄(1858年)で幕政の方向性は大きく変わりました。

まとめ

安政の改革のポイントまとめ
  • 1854年(安政元年)〜、老中首座・阿部正弘が主導したペリー来航後の国防改革
  • 3本柱:①身分を超えた人材登用、②長崎海軍伝習所・講武所・蕃書調所の設立、③参勤交代の緩和
  • 財政難で全政策は実現できず、1857年の阿部正弘急逝(39歳)で事実上終焉
  • 登用した人材(勝海舟・榎本武揚など)が明治維新の礎となった
  • その後、井伊直弼が大老に就任し安政の大獄(1858年〜)へとつながる

もぐたろう
もぐたろう

以上、安政の改革のまとめでした!「地味な改革」に見えて、実は明治維新の種を蒔いた超重要な改革なんだよ。幕末に興味が出てきた人は、井伊直弼・安政の大獄・勝海舟の記事もあわせて読んでみてね!

安政の改革 年表
  • 1819年(文政2年)
    阿部正弘、江戸に生まれる(備後福山藩主家の五男)
  • 1843年(天保14年)
    阿部正弘、老中に就任(25歳)
  • 1853年(嘉永6年)
    ペリー来航(浦賀)・幕府に衝撃
  • 1854年(安政元年)
    日米和親条約締結・安政の改革開始
  • 1855年(安政2年)
    長崎海軍伝習所を開設
  • 1856年(安政3年)
    講武所・蕃書調所を開設(洋学研究機関・後の東大前身)
  • 1857年(安政4年)
    阿部正弘急逝(39歳)・改革事実上終焉
  • 1858年(安政5年)
    井伊直弼が大老就任・安政の大獄始まる

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「安政の改革」「阿部正弘」「長崎海軍伝習所」「蕃書調所」「講武所」「榎本武揚」「勝海舟」「井伊直弼」(2026年6月確認)
コトバンク「安政の改革」「阿部正弘」「安政の大獄」「講武所」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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