

今回は幕末の大事件・生麦事件をわかりやすく解説するよ!犯人は誰?被害者は誰?なぜ起きて、どんな影響があったの?を全部まとめていくね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
「薩摩藩士がイギリス人を斬りつけた野蛮な事件」——そんなイメージを持っていませんか?
実は、被害者のイギリス人たちは事前に「今日は外出しない方がいい」と忠告を受けていたのに、それを聞かずに大名行列に近づいて起きた事件だったのです。
当時の武家社会では、行列の前を横切るのは「無礼」とされる重罪。一方的に薩摩藩だけが悪い、とは言い切れない事件——それが生麦事件です。この記事では、犯人・被害者・原因・その後の薩英戦争まで、教科書の流れに沿って丁寧に解説します。
生麦事件とは?
- 1862年(文久2年)、神奈川・生麦村で島津久光の行列がイギリス人商人と衝突した事件
- 薩摩藩士・奈良原喜左衛門らがリチャードソンを斬殺、ほか2名に重傷を負わせた
- 事件がきっかけで翌1863年に薩英戦争が勃発、幕末外交の転換点となった
生麦事件は、1862年9月14日(文久2年8月21日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)で起こった事件です。
薩摩藩の事実上の最高権力者・島津久光の行列が江戸からの帰路を進んでいたとき、馬に乗ったイギリス人4人が前方から行列に近づきました。藩士たちは「下馬せよ」と警告しますが、外国人には言葉が通じません。
馬が行列を乱しそうになった瞬間、藩士たちが抜刀。リチャードソンら3名が斬撃を受け、リチャードソンは即死、他の2名も重傷を負いました。
📍 なぜ「生麦」?:「生麦」は現在の横浜市鶴見区にある地名。一説には麦を蒸さずに「生(なま)」のまま将軍に献上したことが由来とも、湿地で麦が生える場所だったからとも言われています。事件当時は東海道の神奈川宿に近く、人や物資が往来する街道沿いの村でした。

事件当日の経緯
■ 薩摩藩の行列とは?
事件の現場にいた行列は、薩摩藩の島津久光が江戸からの帰路に率いていたものでした。総勢約400人ともいわれる大規模な大名行列です。
当時の日本では、大名行列の前を横切る行為は「下馬」というルールに違反する重大な無礼とされていました。馬や駕籠から降りて道の脇でひざまずく、これが武家社会の常識です。

下馬違反は今でいうと「皇室のパレードに馬で突っ込む」みたいな感じかな。当時は無礼者は「切り捨て御免」といって、その場で斬っても罪に問われない慣習があったんだよ。
■ イギリス人と薩摩藩の衝突
1862年9月14日の午後、江戸から横浜方面へ馬で向かっていたイギリス人4人が、生麦村の街道で島津久光の行列と鉢合わせします。
4人のリーダー格だったリチャードソンは、英語で「自分たちは無害だ」と説明しようとし、行列の脇をすり抜けようとしました。しかし日本語が通じず、薩摩藩士から見れば「行列を妨害する無礼な異人」にしか映りません。
緊張が頂点に達したそのとき、馬が行列の中央に近づいてしまいます。藩士・奈良原喜左衛門が抜刀し、リチャードソンに斬りつけました。続いて他の藩士も加わり、リチャードソンは深手を負って落馬、近くで絶命します。
📌 被害者4人の内訳:チャールズ・レノックス・リチャードソン(死亡)、ウィリアム・マーシャル(重傷)、ウッドソープ・クラーク(重傷)、マーガレット・ボラデール夫人(無事だが帽子のリボンが斬られたとも)。マーシャルとクラークは横浜居留地に逃げ帰り治療を受けました。

犯人と被害者は誰か
■ 犯人は誰?——奈良原喜左衛門ら薩摩藩士
事件の主犯とされるのは、薩摩藩士の奈良原喜左衛門です。リチャードソンに最初に斬りつけたのがこの人物だとされています。
続いて、海江田信義(有村俊斎)ら複数の藩士が加わり、止めを刺したと伝えられています。いずれも久光の身辺警護を担う精鋭でした。

犯人の奈良原喜左衛門って、その後どうなったの?罰せられたの?

これが面白いところで、薩摩藩は最後まで犯人の引き渡しを拒否したんだ。「藩士は藩の法で裁く」という立場を貫いてね。結局、奈良原は処罰されないまま明治維新後も生き、なんと第2代沖縄県知事にまで上り詰めたんだ。リチャードソンを斬った手で琉球統治を行なった——これが後々まで批判される一因になったよ。
■ 被害者は誰?——リチャードソンとその仲間
事件で命を落としたチャールズ・レノックス・リチャードソンは、1834年生まれのイギリス人商人です。上海で長年ビジネスを行い、引退して帰国する途中に日本へ立ち寄ったところでした。
当日は、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャルと、その従姉妹のボラデール夫人(マーガレット・ボラデール)、そして香港から来日していたウッドソープ・クラークと一緒に、川崎大師(平間寺)へ小旅行に出かけていました。ボラデール夫人は女性だったため斬撃を免れたとされます。


リチャードソンって、なぜ警告を無視してしまったのかしら?

リチャードソンは上海で長く商売をしていて「アジア人なんて怖くない」って感覚があったみたい。実際、上海では中国人を見下す態度で知られていたんだ。「自分は外国人だから守られている」という自信が、結果的に命を落とす原因になったんだよね。
なぜ事件が起きたのか——背景と原因
■ 治外法権という不平等条約
生麦事件の背景には、1858年に幕府が結んだ安政の五カ国条約があります。
この条約は、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの5カ国と結ばれた通商条約。問題は、その内容が日本にとって極めて不利な「不平等条約」だったことです。
特に重要なのが「治外法権(領事裁判権)」と呼ばれる規定。外国人が日本で罪を犯しても、日本の法律では裁けず、本国の領事館が裁くという仕組みです。

今でいうと「外国人が日本で交通事故を起こしても日本の法律では裁けない」みたいな状態だよ。当時の日本人にとって、これがどれだけ屈辱的だったかは想像できるよね。
■ 攘夷運動の高まりと島津久光の上京
不平等条約への反発から、当時の日本では攘夷運動(外国人を追い払おうとする運動)が燃え盛っていました。
そんな中、薩摩藩の事実上の指導者・島津久光は1862年5月に約1,000人の藩兵を率いて京都へ上京。朝廷の権威を借りて幕政改革を進めようとしました。これを文久の改革といいます。
その帰路、江戸を発って薩摩へ戻る途中、生麦村で事件が起きたのです。久光の行列はまさに「攘夷」のムードを背負った大行進。そこへ外国人が馬で近づいた——衝突は時間の問題でした。


余の行列を、馬上のまま横切ろうとは何事か……。我ら薩摩の面目を踏みにじる無礼者は、武家の作法に照らして処断せねばならぬ。
事件の詳細——1862年9月14日に何が起きたか
ここでは事件当日のタイムラインを、もう少し詳しく追っていきましょう。
午前——リチャードソンらイギリス人4人は横浜居留地を出発し、馬で川崎大師へ向かいました。当時、横浜の外国人居留地では「大名行列に出会ったら脇によって通行を待つ」という慣習があり、当日も周囲から「今日は薩摩の大行列が通る。出かけない方がいい」と忠告を受けていたと伝えられます。
午後——東海道を江戸方面へ向かって戻る途中、生麦村に差しかかったとき、対向してくる島津久光の大行列と遭遇します。4人は馬から降りず、行列の脇を通り抜けようとしました。
衝突の瞬間——藩士たちが手振りで「下馬せよ」と警告したものの、4人は意図を理解せずに行列の中央近くまで進んでしまいます。馬が暴れて久光の駕籠に近づきかけた瞬間、奈良原喜左衛門が抜刀し、リチャードソンに斬りつけました。
事件後——重傷のリチャードソンは数百メートル先まで馬で逃げたものの、力尽きて落馬。追ってきた藩士がとどめを刺し絶命させたとされます。マーシャルとクラークは深手を負いながらも横浜居留地まで戻り、夫人ボラデールは無事に帰還しました。
📌 「警告を受けていた」が議論を呼ぶ:リチャードソンたちは出発前に「今日は薩摩の行列が通るから外出しない方がいい」と忠告を受けていたとされます。この点が「どちらが悪いのか」を考えるうえでの大きな焦点になっています。
📍 現地に残る「生麦事件碑」:リチャードソンが絶命したとされる場所の近く(横浜市鶴見区生麦)には、今も生麦事件碑が立っています。JR鶴見線・国道15号沿いに説明板も設置されており、幕末好きの歴史ファンが今も訪れる史跡です。事件の現場が現代の住宅街の中にある、というギャップも歴史の醍醐味です。

4人とも斬られたの?それともリチャードソンだけ?

死亡したのはリチャードソンだけだよ。マーシャルとクラークは斬りつけられて重傷だけど命は助かった。ボラデール夫人は女性ということもあって斬撃を受けず、馬で横浜まで逃げて助けを求めたんだ。これがイギリス側を激怒させる引き金にもなったんだよね。
生麦事件への国際反応——外交問題へ発展
■ イギリスの怒りと最後通牒
横浜居留地に逃げ帰ったボラデール夫人の知らせを受け、横浜のイギリス人社会は騒然となりました。中には「自分たちで報復隊を組織せよ」と叫ぶ者もいたといいます。
事件の報告はイギリス本国にも送られ、ロンドンの議会・新聞でも大きく報じられました。「文明国の人間が野蛮人に殺された」というトーンで、対日強硬論が一気に高まります。
翌1863年、イギリスは代理公使エドワード・ニールを通じて、幕府に最後通牒を突きつけます。要求は2つでした。


幕府には謝罪と賠償金10万ポンド。薩摩藩には犯人の処刑と被害者遺族への2万5,000ポンド。期限は20日間だ。応じない場合は艦隊の出動も辞さない。
10万ポンドは当時の日本円にして約30万両以上、幕府の年間収入の何分の一にもあたる巨額です。「20日以内」という期限つきの最後通牒は、事実上の脅迫でした。
■ 幕府の苦境——薩摩との板挟み
イギリスの要求を突きつけられた幕府は、深刻なジレンマに陥ります。賠償金を払えば「外国に屈した弱腰幕府」と国内の攘夷派から批判される。払わなければ戦争——どちらの選択肢も茨の道です。
結局、幕府は1863年6月、イギリスに10万ポンドの賠償金を支払いました。一方、薩摩藩には犯人の引き渡しと賠償金の支払いを求めましたが、薩摩側はこれを拒絶。「藩士は藩の法で裁く」「賠償金は薩摩には関係ない」との立場を貫きます。

幕府はお金を払ったのに、薩摩は払わない?それで済むものなのかしら?

済まないんだよね。だからイギリスは「幕府との話は終わったが薩摩との話は終わってない」と判断して、艦隊を直接鹿児島に派遣することになるんだ。これが翌1863年8月の薩英戦争だよ。生麦事件は、ここから一気に国際武力衝突へ発展していくんだ。
幕府がイギリスの圧力に屈する一方、薩摩は強硬姿勢を崩さない——この対立構造が、その後の幕末政治を大きく動かしていきます。次の章では、生麦事件がもたらした薩英戦争とその後の影響について見ていきましょう。
薩英戦争——生麦事件がもたらした結末
幕府との交渉が一段落しても、イギリスは「薩摩との借りは別」として独自の報復を準備していました。1863年7月、ニールはイギリス艦隊7隻を率いて鹿児島湾に乗り込みます。これが薩英戦争の幕開けです。
■ 鹿児島湾での砲撃戦
イギリス艦隊は鹿児島湾に侵入後、まず薩摩藩の汽船3隻を拿捕しました。これに薩摩が激怒。1863年8月15日(文久3年7月2日)正午、薩摩藩の砲台が一斉に火を噴き、薩英戦争が始まります。
戦闘は2日間にわたって続きました。イギリス艦隊の最新装備による砲撃で、鹿児島市街地は大火災に見舞われ、約500戸が焼失します。被害は甚大でした。
ところが——薩摩も負けてはいませんでした。台風による海上の悪天候も味方し、薩摩の砲撃が英艦に直撃。旗艦ユーライアラス号の艦長ジョスリングと副長ウィルモットが戦死、艦隊全体で死傷者63名という想定外の損害を出します。

①英艦隊の侵入:1863年7月、英艦7隻が鹿児島湾へ/②薩摩の砲撃応戦:薩摩藩砲台が一斉射撃/③想定外の損害:英側も艦長戦死・死傷63名


世界最強と言われた英国海軍を相手に、薩摩は互角以上に戦ったんだ。イギリス側でも「日本の海岸防御は予想以上に強い」と本国に報告されたほどだよ。これが後の歴史を大きく動かすきっかけになるんだ。
■ 皮肉な講和——賠償金は払うが犯人は処罰せず
双方とも消耗した結果、1863年10月にイギリスと薩摩の間で講和交渉が始まりました。場所は江戸の英国公使館。仲介は幕府でした。
交渉の結果、薩摩はイギリスに賠償金2万5,000ポンドを支払うことに同意。ところが、この賠償金は——なんと幕府からの借金で支払われ、しかも返済されないまま終わりました。さらに事件の犯人は「逃亡中で行方不明」とされ、結局誰一人として処罰されませんでした。

結局、犯人は誰も罰されなかったの?イギリスはそれで納得したのかしら?

そうなんだ、これがかなり皮肉な結末だよ。むしろイギリスは戦闘を通じて薩摩の実力を知り、「敵に回すより味方につけた方がいい」と方針を切り替えたんだ。ここから両者は急接近していくんだよ。
生麦事件の影響と意義
たった1日の衝突事件が、なぜ日本史の教科書に必ず載るほどの重要事件とされるのでしょうか。それは、生麦事件が幕末日本の進路を大きく変えるきっかけになったからです。
■ 薩摩藩の方針大転換——「攘夷」から「開国」へ
薩英戦争を経て、薩摩藩は西洋列強の軍事力を肌で知ることになりました。砲台が破壊され、城下町が焼かれ、最新鋭の艦砲射撃を浴びる——「もう攘夷では国は守れない」と痛感したのです。
戦後、薩摩はイギリスから武器を購入し、留学生を派遣して西洋技術を学び始めます。あれほど「攘夷だ」と叫んでいた薩摩が、わずか数年でイギリスとの強力な協力関係を築いていったのです。
■ 薩長同盟・明治維新への道
西洋技術を取り入れて軍備を近代化した薩摩は、1866年に長州藩と薩長同盟を結びます。倒幕の最大勢力が誕生した瞬間でした。
そして1867年の大政奉還、1868年の明治維新へと続く流れの源流に、生麦事件がありました。薩摩からは西郷隆盛や大久保利通ら明治政府の中心人物が輩出され、その礎を築きました。1人のイギリス人商人の死が、結果的に幕府を倒し近代日本を生み出す引き金になったのです。

「生麦事件→薩英戦争→薩摩の方針転換→薩長同盟→明治維新」——この流れがテストでも頻出だよ!1つの事件が約6年で日本を別の国に変えてしまった、と覚えておこう。
■ 幕府の権威失墜
もう1つ重要なのが、幕府の権威が大きく揺らいだことです。イギリスに10万ポンドという巨額を支払いながら、自国の薩摩藩の犯人を捕まえられない——この姿は「もう幕府は国を仕切れない」と世間に印象づけました。
朝廷の権威を借りようとする雄藩、国際社会から圧力をかけられる幕府。生麦事件は、幕府体制の限界をはっきり示した事件でもあったのです。
もし生麦事件が起きていなかったら——薩摩は西洋の軍事力を直接体験せず、攘夷論にとどまっていた可能性が高いと言われます。薩長同盟も、明治維新も、別の形になっていたかもしれません。1つの偶発的な衝突が、歴史を大きく動かしたのです。
どっちが悪いの?——生麦事件を多角的に考える

生麦事件って、結局のところ薩摩藩だけが悪いの?それともイギリス人にも非があるの?

これはね、本当に難しい問題なんだ。当時の常識や法律が日本とイギリスで全然違っていたから、どちらの立場からでも「自分が正しい」と言える状況だったんだよ。両方の言い分を整理してみよう!
■ 薩摩藩側の言い分
薩摩藩の言い分:①武家行列の前を横切るのは当時の日本では重大な無礼/②「下馬せよ」と警告したのに無視された/③藩主に危険が及びかけたため武家の作法どおりに処断した
当時の日本では、大名行列の前を横切ったり乗物に乗ったまま通過したりするのは「下馬札」が示すように厳しく禁じられた行為でした。武士の社会では、無礼を働いた者を斬る「無礼討ち」が法的にも認められていたのです。
■ イギリス側の言い分
イギリス側の言い分:①治外法権により外国人は日本の法律で裁かれない/②4人は遊覧中で攻撃の意図はなかった/③女性まで含む民間人を斬殺するのは文明国のすることではない
イギリス側からすれば、4人は商人と女性の遊覧グループ。武器も持たず観光中でした。さらに不平等条約上、外国人には日本の法律が適用されないという建前があったため、現地の武家慣習で処断するのは「条約違反」と見えたのです。
■ 「一方的に悪い」とは言えない
結局のところ、生麦事件は「異なる文化と法制度がぶつかった結果」起きた悲劇でした。薩摩藩は「自国の慣習に従っただけ」、イギリス人は「自分たちの常識で行動しただけ」——どちらも自分の世界の中では正しかったのです。
もちろん、リチャードソンたちが事前に「今日は外出しない方がいい」という警告を無視して出かけたという点では、イギリス側にも軽率さがあったことは否めません。
📌 現代とのつながり:今でも国際的なトラブルは「相手の文化を理解しないこと」から起きます。生麦事件は、異文化交流の入り口に立った日本が払った最初の代償でもあり、現代のグローバル社会でも考えるべき教訓を含んだ事件です。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「生麦事件(1862)→薩英戦争(1863)→薩長同盟(1866)→大政奉還(1867)」と1年ずつずれた年号セットで覚えよう。穴埋め問題では「藩主の父の行列を横切った〇〇事件」が頻出。「文久2年」と「1862年」の両方で出題されることもあるので注意!
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 発生年月日 | 1862年(文久2年)9月14日(旧暦8月21日) |
| 発生場所 | 武蔵国橘樹郡生麦村(現・横浜市鶴見区生麦) |
| 事件の発端 | 島津久光の行列をイギリス人4人が横切ろうとした |
| 犯人 | 奈良原喜左衛門・海江田信義ら薩摩藩士 |
| 被害者 | リチャードソン(死亡)、マーシャル・クラーク(重傷)、ボラデール夫人(無事) |
| 結果 | 幕府が10万ポンド・薩摩が2万5,000ポンドの賠償金支払い。犯人は不処罰。翌1863年に薩英戦争へ発展 |

結局、テストで一番大事なのはどこ?

「1862年・生麦事件→1863年・薩英戦争→薩摩の開国路線転換→薩長同盟」の因果の流れだよ!「幕府が賠償金を払った」「薩摩は犯人引き渡しを拒否した」の対比も論述で頻出。年号と人名(島津久光・奈良原喜左衛門・リチャードソン)はセットで暗記しよう!
生麦事件の理解を深めるおすすめ本

生麦事件や薩英戦争の背景をもっと深く知りたい人には、この本がおすすめだよ!幕末の全体の流れがつかめるから、生麦事件の「なぜ?」がよりよくわかるようになるはずだよ!
よくある質問(FAQ)
1862年(文久2年)9月14日、神奈川県の生麦村(現在の横浜市鶴見区)で薩摩藩士とイギリス人が衝突した事件です。島津久光の行列を馬で横切ろうとしたイギリス人商人リチャードソンが斬殺され、翌年の薩英戦争へと発展しました。
薩摩藩士の奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)が主犯とされ、海江田信義(かいえだのぶよし/別名・有村俊斎)も関与したと伝えられます。薩摩藩はイギリスや幕府からの犯人引き渡し要求を拒否し、結局誰も処罰されないまま終わりました。
薩摩藩主の父・島津久光の大行列の前を、馬に乗ったイギリス人4人が横切ろうとしたためです。武家行列の前を横切るのは当時の日本では重大な無礼でしたが、イギリス人は文化を知らず警告も理解できませんでした。背景には不平等条約の治外法権問題と攘夷運動の高まりもありました。
イギリス代理公使エドワード・ニールは幕府に賠償金10万ポンドと謝罪を、薩摩藩に犯人処刑と賠償金2万5,000ポンドを要求する最後通牒を突きつけました。幕府は要求に応じて支払いましたが、薩摩は拒否。これが翌1863年の薩英戦争につながります。
薩英戦争は生麦事件の報復として起きた戦争です。薩摩藩が犯人引き渡しと賠償金支払いを拒否したため、1863年7月にイギリス艦隊7隻が鹿児島湾に侵入し砲撃戦となりました。薩摩は西洋の軍事力を実感し、攘夷論から開国・近代化路線へと方針を転換します。
「1862年・生麦事件→1863年・薩英戦争」と1年違いでセット暗記するのがコツです。「人は無謀(1862)に生麦で斬られた」と覚える方法もあります。さらに「1862生麦→1863薩英戦争→1866薩長同盟→1867大政奉還」の流れを連続で押さえると幕末の論述問題に強くなります。
まとめ
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1862年8月21日(9月14日)生麦事件発生——薩摩藩士がリチャードソンを斬殺
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1862年10月島津久光が犯人捜索を命じるも不明扱いで終結
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1863年2月ニール代理公使が幕府に最後通牒——賠償金10万ポンドを要求
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1863年6月幕府がイギリスに賠償金10万ポンドを支払う
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1863年7月英艦隊7隻が鹿児島湾へ侵入——薩摩藩の汽船3隻を拿捕
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1863年8月15日薩英戦争勃発——鹿児島市街地が大火災・英艦長も戦死
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1863年10月薩英講和交渉——薩摩が賠償金2万5,000ポンド支払いに同意
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1864年賠償金支払い完了——犯人不処罰のまま事件は終結。薩摩は英国に急接近

以上、生麦事件のまとめでした!薩英戦争の詳しい経緯や、その後の薩長同盟・明治維新への流れは下の記事もあわせて読んでみてね!
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📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「生麦事件」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「薩英戦争」(2026年5月確認)
コトバンク「生麦事件」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
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