今回は、1854年にアメリカと日本との間で結ばれた日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)の解説です。日米和親条約はアメリカからやってきたペリーによって結ばれました。
この記事では、日米和親条約の内容をメインに、条約について解説してみたいと思います。日米和親条約が結ばれた理由や経過の詳しいお話は、以下の記事で解説していますので、合わせて読んでみてください。
日米和親条約が結ばれるまでの経過
まずは日米和親条約が結ばれた経過をサラッとおさらい。
当時、アメリカではオホーツク海でクジラ漁が流行っていて、その際の食料・燃料の補給や、遭難した際の避難場所として日本は非常に魅力的な場所でした。また、東アジアに向かう際の休憩拠点としても、便利な場所でした。
しかし、日本はオランダなどの限られた国とした国交を持っておらず、アメリカの船が自由に泊まれる港はありませんでした。そこで、日本に対して開国を求めたわけです。
最初に、日本に開国を要求してきたが1846年。この時はビッドルという人物が日本と交渉しましたが交渉失敗。
そして1853年、リベンジでやってきたのがペリーでした。ペリーは日本について研究を行い、ビッドルの失敗経験も踏まえた結果、「日本を開国させるには超威圧的に上から目線で強引に交渉を進める必要がある」と判断して、4隻の戦艦を率いて日本に揺さぶりをかけます。そして1854年、遂に日米和親条約が結ばれたのです。
アメリカが日本に求めたもの
アメリカが日本に対して要求したのは、主に以下の3点についてでした。
1 アメリカの遭難船があったら助けること
2 日本でのアメリカ船への食料や燃料(石炭)などを補給を認めること
3 アメリカとの貿易を認めること
これに加えて、アメリカと日本の友好関係を求めました。友好関係とは「アメリカと日本は友達なんだぜ」っていうのを公にすることです。
日米和親条約の内容
そして、それに対する日米和親条約の内容は下の表みたいな感じ。
内容 | アメリカの要求 | 日米和親条約 |
遭難船助ける | ◎ | ◎ |
食料・燃料補給する | ◎ | ◎ |
貿易する | ◎ | × |
でした。注目すべきはバツ印のところ。ペリーは脅したり威嚇しながら迫ってきますが、日本は貿易の条件だけはなんとか拒否することができました。
さらに日米和親条約の内容を詳しく見ていくと次のような感じでした。
1 日本は、アメリカ船が求めてきたら食料や燃料を補給する。
2 日本はアメリカの遭難船を見つけたら助ける。
3 上記1・2の際に、アメリカの船が寄港できるのは函館と下田に限る。下田には条件付きで領事(りょうじ。アメリカの公人)が在駐することを認める。
4 アメリカにのみ最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)を認める。
この4つのうち、最恵国待遇についてだけ補足しておきます。
最恵国待遇とは、簡単に言うと、
アメリカ「他の国が俺(アメリカ)よりいい条件で日本と条約を結んだら、その部分だけ自動的に俺にも適用されるからww。ちなみに逆はないから勘違いすんなよ。」
と言う仕組みのこと。
こうすることで、欧米諸国が平等に日本から搾取をすることができるので、国同士の争いを減らすことができました。日本にとっては、ちょっと油断して1つの国に良い条件を認めてしまったら、他の多くの国が「俺たちもよろしくww」と押しかけてくるような鬼畜な制度でした。
ちなみに、この時に問題になったのは最恵国待遇自体というよりも「アメリカにのみ」最恵国待遇が認められるという点でした。日本とアメリカがお互いに最恵国待遇を認めれば、平等な内容だったのですが、アメリカにしか認めない時点でこの条約は明らかに不平等です。
ロシア・イギリス・オランダ「俺らもよろしくww」
1354年3月にアメリカと日米和親条約を結ぶと、他の国々も同じような条約を要求してきました。
まず最初に要求を求めてきたのはロシアです。実は1353年から日本と交渉を続けており、1354年12月に日露和親条約が結ばれます。
さらにロシアと戦争中(クリミア戦争)だったイギリスも、ロシアが日本に接近していることを知ると「ロシアにだけ日本を良いように利用させてたまるか!」と日本に開国を迫り、1354年10月に日英和親条約が結ばれます。
1856年には、ヨーロッパで唯一日本と国交を持っていたオランダも「今まで日本と仲良くしていたけど、それじゃあ物足りないから、ちゃんと条約を結んで公式に仲良くしたいな・・・」と迫ってきて、日蘭和親条約を結びました。
この時に、少し特別だったのがロシアとの条約。ロシア・イギリス・オランダの中でもロシアは日本にとって少し特別な相手でした。というのも、この三国の中でロシアだけが日本と国境問題を抱えていたんです。なので、日露和親条約には国境に関する話が盛り込まれています。(日本とロシアの国境問題は、今でもいわゆる「北方領土問題」として日本の大きな課題となっています。)
何れにせよ、日米和親条約をきっかけに、日本は突如として開国の道を歩むことになります。ここから先、日本は外国人とどう向かうべきか国を揺るがすほどの議論が起きて、世は幕末、そして明治維新へと進んでいきます。
【悲報】日本人、英語が全くできなかった
最後にオマケ話。
この記事の冒頭の写真は、英語で書かれた日米和親条約ですが、実はこの時、日本人は英語が全くできませんでした。まともに読むことも書くこともできません。アメリカと交流がないわけなので当然です。
しかし、日本は昔からオランダと交流があったので、オランダ語を読める人物はいる。というわけでペリーとの交渉は
日本語 ー オランダ語 ー 英語
という風に第三国のオランダ語を介するという、非常にストレスが溜まる方法で行われました。しかも、お互いに言葉が読めなかったせいで最悪な事態まで起きています。日本は、日米和親条約の英文の解釈を実は一部誤ってしまったんです。
先ほど、日米和親条約の内容を確認しましたが、そのうち・・・
3 上記1・2の際に、アメリカの船が寄港できるのは函館と下田に限る。下田には条件付きで領事(りょうじ。アメリカの公人)が在駐することを認める。
の「条件付き」の条件の部分で日本とアメリカで解釈の違いが生じてしまい、これが後々問題になったりしています。
そんな日本にも、一人だけアメリカ帰りで英語を知っている男がいました。それがジョン万次郎という人物です。ペリーとの交渉の際にも、ジョン万次郎が通訳として選ばれそうになりましたが、「アメリカ帰りの男だからペリーのスパイかもしれない」と拒否されています。もしジョン万次郎が通訳をしてくれたら、日米和親条約の中身は少しは変わっていたかも・・・?
日米修好通商条約へ続く
さてさて、話はまた日米和親条約へ戻ります。
ペリーの巧みな外交術によって日本に開国をさせた日米和親条約でしたが、実はアメリカにとってこの条約は完全な内容ではありません。
そうです。「日本はアメリカとの貿易を認めること」という当初のアメリカの要求がまだ実現していないんです。
日米和親条約が結ばれてから4年後の1856年、次はアメリカからハリスという人物がやってきてアメリカとの貿易を要求します。そして、2年後の1858年には、日本にとって不平等な内容だった日米修好通商条約を結び、遂に貿易をも認めてしまうことになるのです。
こうしたアメリカの強引が外交によって、他の欧米諸国も日本に理不尽な要求を次々とし始め、日本国内でも政治が不安定化したりして、日本は幕末〜明治維新という混沌とした時代を迎えることになります。
コメント
めちゃくちゃ分かりやすいです。
それとできれば幕末にカテゴリー分けして頂けると他の記事も探しやすくて助かります。