高倉天皇とは?平清盛・後白河院に翻弄された悲運の天皇【死因・家系図・子供・後高倉上皇まで解説】

高倉天皇とは|死因・妻・子供・後高倉上皇をわかりやすく解説
この記事の目次 14項目はじめに
  1. 高倉天皇とは?
  2. 高倉天皇の即位の背景
  3. 高倉天皇の治世と平清盛・後白河院の対立
  4. 高倉天皇の妻たち(平徳子・小督局)
    1. 中宮・平徳子(建礼門院)
    2. 小督局との悲恋
  5. 高倉天皇の子供たち(安徳天皇・後鳥羽天皇・守貞親王)
  6. 高倉上皇の時代と福原遷都
  7. 高倉上皇の最期と死因
  8. 後高倉上皇とは?守貞親王のその後
  9. 高倉天皇の人物像と才能
  10. 高倉天皇ゆかりのおすすめ本
  11. よくある質問(FAQ)
  12. まとめ

もぐたろう
もぐたろう

今回は高倉天皇たかくらてんのうについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!平清盛と後白河院という2大権力者に翻弄されながらも、21歳という若さで世を去った悲運の第80代天皇なんだ。生涯・妻・子供・死因、それに「後高倉上皇」のことまで全部まとめてみるね!

この記事を読んでわかること
  • 高倉天皇とは(第80代天皇・生没年・平清盛との義父と娘婿の関係)
  • 高倉天皇の即位と治世(後白河院・平清盛に翻弄された悲運の立場)
  • 高倉天皇の妻と子供(平徳子・小督局・安徳天皇・後鳥羽天皇)
  • 高倉上皇の死因(崩御の日時・状況・享年21歳)
  • 後高倉上皇とは(守貞親王の生涯・天皇未即位で上皇号を得た経緯)

「高倉天皇といえば、平清盛にあやつられた傀儡かいらいの天皇でしょ?」——そんなイメージを持っている方も多いかもしれません。たしかに高倉天皇は、平家全盛の時代に天皇の座にあり、清盛の娘を妻に迎えた「平家のための天皇」のように語られがちです。

しかし実は、高倉天皇は単なる傀儡ではありませんでした。平清盛と後白河院という2大権力者の板挟みになりながらも、清盛が強行した福原遷都という暴挙には真っ向から反対し、民の苦しみを思う政治理念を示したのです。21年というあまりに短い生涯のなかに、悲運の帝の意外な素顔がありました。その実像を、この記事ではじっくり掘り起こしていきます。

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高倉天皇とは?

3行でわかる高倉天皇
  • 第80代天皇。1161年(応保元年)生まれ、1168年に8歳で即位した平安時代末期の天皇
  • 平清盛の娘・平徳子を中宮に迎え、平家全盛期を象徴する存在として権力闘争に翻弄された
  • 1181年(治承5年)、21歳の若さで崩御した悲運の天皇。陵墓は京都・後清閑寺陵

高倉天皇(第80代天皇)肖像画
高倉天皇像(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

高倉天皇たかくらてんのうは、1161年(応保元年)に生まれ、1181年(治承5年)に亡くなった第80代天皇です。在位期間は1168年から1180年まで。父は後白河天皇ごしらかわてんのう(のちの後白河法皇)、母は平滋子たいらのしげこ(建春門院けんしゅんもんいん)です。

この母・平滋子が、物語のカギを握っています。滋子は平清盛の妻・平時子たいらのときこの妹にあたり、つまり高倉天皇は生まれながらにして平家と血のつながりを持つ皇子でした。だからこそ清盛は高倉天皇を強力に後押しし、自分の娘・徳子を嫁がせて、生まれてくる孫を次の天皇に——という壮大な計画を描いたのです。高倉天皇の生涯は、この「平家の繁栄プラン」のまっただ中で進んでいくことになります。

もぐたろう
もぐたろう

カンタンに言うと、高倉天皇は「平家のサラブレッド」みたいな存在だったんだよ。お父さんは天皇、お母さんは清盛の親戚、おまけにお嫁さんは清盛の娘。平家にとっては、これ以上ないくらい都合のいい天皇だったってわけ!

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高倉天皇の即位の背景

高倉天皇が天皇になったのは、1168年(仁安3年)、わずか8歳(数え年)のときでした。なぜこんなに幼くして即位できたのでしょうか。背景には、後白河上皇ごしらかわじょうこうによる院政と、平清盛の政治的な思惑という2つの力が働いていました。

当時は、二条天皇・六条天皇と、皇位がめまぐるしく入れ替わる不安定な時代でした。父・後白河上皇は院政(上皇が天皇に代わって政治を動かす仕組み)を続けたい一方、平清盛は自分と縁の深い皇子を天皇にして外戚がいせき(天皇の母方の親戚)としての地位を固めたいと考えていました。両者の利害が一致した結果、後白河上皇と平滋子の子である憲仁親王のりひとしんのう、すなわち後の高倉天皇に白羽の矢が立ったのです。こうして高倉天皇は、6歳の六条天皇から譲位を受ける形で即位しました。

ゆうき
ゆうき

8歳で天皇って早すぎない?自分で政治なんてできないよね?

もぐたろう
もぐたろう

そのとおり!だから実際の政治は、おじいちゃん役の後白河院と、後ろ盾の清盛が動かしていたんだ。幼い天皇は「みんなが認める正統なトップ」として必要で、政治の中身は大人たちが握る——平安時代後期はこういう形が多かったんだよ。

📌 即位の背景メモ:高倉天皇の即位は、院政を維持したい後白河上皇と、外戚の地位を狙う平清盛の利害が一致して実現した。この「協調関係」が崩れたとき、平家と院(後白河)の対立が一気に表面化していく。

高倉天皇
高倉天皇

まだ8歳の私に、帝みかどの務めなど分かろうはずもない…。父上と清盛公のお力なくしては、何ひとつ決められぬのだ。

即位後しばらくは、後白河院による院政と清盛の支えによって、朝廷は比較的安定していました。両者が手を取り合っているあいだは、高倉天皇は穏やかな治世を送れたのです。しかし、平家の勢力があまりに大きくなりすぎると、後白河院との蜜月蜜月みつげつはやがて終わりを迎えます。高倉天皇は、その対立の「ど真ん中」に立たされていくことになりました。

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高倉天皇の治世と平清盛・後白河院の対立

高倉天皇の治世が進むにつれ、平清盛の権勢はとどまるところを知らなくなりました。1171年(承安元年)には清盛の娘・平徳子たいらのとくこが入内し、翌1172年に中宮ちゅうぐうとなります。これで清盛は天皇の外戚となり、平家は政界の頂点へと駆け上がっていきました。一方、後白河法皇はこうした平家の独走を快く思わず、両者の溝はじわじわと深まっていきます。

平清盛の肖像画
平清盛。高倉天皇の義父であり、最大の後ろ盾にして最大の重圧でもあった

平清盛
平清盛

娘・徳子が産んだ皇子が次の帝となれば、平家の天下は盤石よ。後白河院とて、わしの力なくしては何もできまい。

そして1179年(治承3年)、ついに決定的な事件が起こります。清盛は軍勢を率いて京都を制圧し、後白河法皇ごしらかわほうおうを鳥羽殿とばどのに幽閉して院政を停止させてしまったのです。これを治承三年の政変じしょうさんねんのせいへんといいます。清盛のクーデターによって、平家による事実上の独裁体制が完成しました。

後白河法皇
後白河法皇

清盛め、わしを閉じ込めるとは…好き勝手にしおって。だが、この後白河、いつか必ず政の実権を取り戻してみせるぞ。

このとき、もっとも苦しい立場に立たされたのが高倉天皇でした。一方は実の父である後白河法皇、もう一方は妻の父であり最大の後ろ盾である平清盛。どちらか一方の味方をすれば、もう一方を敵に回してしまいます。天皇でありながら、自分の意思で政治を動かすことができない——高倉天皇は、まさに権力の板挟みの中で身を引き裂かれていたのです。

高倉天皇
高倉天皇

父上(後白河院)と清盛公の間で…私はいったいどちらにつけばよいのだ。帝でありながら、身の置き場すらないとは。

高倉天皇の妻たち(平徳子・小督局)

中宮・平徳子(建礼門院)

高倉天皇の正妻(中宮ちゅうぐう)となったのが、平清盛の娘・平徳子たいらのとくこです。1171年に入内し、翌1172年に中宮となりました。政略結婚としての側面が強い結婚でしたが、二人は1178年(治承2年)に言仁親王ときひとしんのう(のちの安徳天皇)をもうけます。清盛にとっては待ちに待った「天皇の外祖父」への切符でした。

しかし徳子の運命は、平家の滅亡とともに暗転します。1185年(文治元年)の壇ノ浦の戦いで平家が滅びると、徳子はわが子・安徳天皇とともに海に身を投げました。ところが彼女だけは助け上げられ、生き残ってしまいます。その後、徳子は出家して建礼門院けんれいもんいんと称し、京都・大原の寂光院じゃっこういんで、一門と幼帝の菩提菩提ぼだいを弔いながら静かに余生を送ったと伝えられています。

壇ノ浦の戦い合戦絵
壇ノ浦の戦い(1185年)。平家滅亡のとき、平徳子もわが子・安徳天皇とともに海に身を投じた

小督局との悲恋

高倉天皇には、政略結婚の中宮・徳子とは別に、心から愛した女性がいたと伝えられています。それが小督局こごうのつぼねです。小督は宮中きっての美貌と琴の名手として知られ、高倉天皇は彼女を深く寵愛寵愛ちょうあいしました。

ところが、これが清盛の逆鱗逆鱗げきりんに触れます。自分の娘・徳子をさしおいて天皇が他の女性を寵愛するなど、清盛にとっては許しがたいことでした。清盛の怒りを恐れた小督は宮中を去り、最終的には出家させられてしまいます。引き裂かれた二人の悲恋は『平家物語』の「小督」の段に美しくも哀しく描かれ、後世に語り継がれることになりました。

あゆみ
あゆみ

小督局との恋って、実際にどんなお話なの?ちょっと切ない感じがするけど…。

もぐたろう
もぐたろう

『平家物語』には、宮中を去った小督を、天皇の命令で家来が月夜の嵯峨野まで探しに行く名場面があるんだ。琴の音色を頼りに彼女を見つけ出す——すごくロマンチックなんだけど、結局は清盛の力に引き裂かれてしまう。権力の前では、天皇の恋すら自由にならなかったんだね。

月夜の嵯峨野で琴の音が響いた

宮中を去った小督局を忘れられなかった高倉天皇は、家来の源仲国みなもとのなかくにに命じて彼女を探させました。仲国は月の明るい秋の夜、嵯峨野の竹林を馬で駆け巡ります。するとどこからか、かすかな琴の音が聞こえてきました。

流れてきたのは「想夫恋そうふれん」——「愛しい人を恋い慕う」という意味を持つ古い曲でした。仲国はその音色を頼りに小督を見つけ出します。小督は涙で顔を濡らしながら、独り月明かりの中で弾き続けていたのです。

清盛の怒りを恐れて身を隠していた小督でしたが、結局は宮中へ呼び戻され、最終的には出家を強いられます。天皇の恋すら、権力の前では自由にならなかった——『平家物語』「小督」の章に描かれるこの場面は、平安末期の哀愁と美しさを今に伝える名場面として知られています。

高倉天皇の子供たち(安徳天皇・後鳥羽天皇・守貞親王)

高倉天皇には複数の皇子がいましたが、中でも歴史上とりわけ重要なのが安徳天皇・後鳥羽天皇・守貞親王の3人です。この3人は、それぞれまったく異なる運命をたどることになりました。まずは主な子女を一覧で整理してみましょう。

名前読み母生没年その後
言仁親王(安徳天皇)ときひとしんのう平徳子1178〜1185第81代天皇・壇ノ浦で入水・数え8歳で崩御
守貞親王もりさだしんのう藤原殖子(七条院)1179〜1223のちに後高倉上皇として院政を担う
惟明親王これあきらしんのう平範子(少将内侍)1179〜1221皇位には就かず
尊成親王(後鳥羽天皇)たかひらしんのう藤原殖子1180〜1239第82代天皇・のちに承久の乱を起こす
表は横にスクロールできます
二位尼と安徳天皇・壇ノ浦入水
壇ノ浦の戦いで入水する安徳天皇と二位尼(平時子)。高倉天皇の長男・安徳天皇はわずか8歳でその生涯を閉じた(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

長男の安徳天皇は、わずか3歳(数え)で即位しながら、平家とともに滅び、8歳で壇ノ浦に沈みました。一方、弟の後鳥羽天皇は、安徳天皇が平家に連れ去られたあとに即位し、長じてのちには鎌倉幕府に戦いを挑む承久の乱を起こします。同じ高倉天皇の子でありながら、兄は平家とともに、弟は朝廷の権威回復をかけて——対照的な道を歩んだのです。そして守貞親王は、のちに「後高倉上皇」というきわめて異例の立場に立つことになります(詳しくは後の章で解説します)。

ゆうき
ゆうき

安徳天皇と後鳥羽天皇って兄弟だったの?どっちが先に天皇になったの?

もぐたろう
もぐたろう

うん、二人は異母兄弟(母ちがいの兄弟)なんだ。先に即位したのは兄の安徳天皇。でも源氏に追われた平家が安徳天皇を連れて西へ逃げちゃったから、京都に残された弟が後鳥羽天皇として即位したんだよ。だから一時、天皇が「東西に2人いる」みたいな状態になったんだ。ちなみに安徳天皇は、皇位のしるしである三種の神器を抱えて壇ノ浦に沈んだと伝えられているよ。

高倉上皇の時代と福原遷都

1180年(治承4年)2月、高倉天皇は、わずか3歳(数え)の安徳天皇に皇位をゆずって高倉上皇たかくらじょうこうとなりました。清盛にとっては、孫が天皇となり、ついに「天皇の外祖父がいそふ」という念願の地位を手に入れた瞬間でした。しかし、上皇となった高倉が政治の実権を握れたわけではありません。実権はあくまで清盛の手の中にありました。

平家の絶頂期を象徴した高倉上皇の厳島参詣

譲位からわずか1か月後の1180年3月、高倉上皇は平家が篤く信仰する厳島神社(現在の広島県廿日市市)へ参詣しました。

百艘を超える船が美しく飾り立てられ、公卿・殿上人が一堂に勢ぞろいした行列は、まさに平家全盛期の絢爛たる光景でした。『平家物語』は「目も覚めるばかりの豪華さ」とその様子を描いています。

しかし——この壮麗な参詣から3か月後、都は福原への遷都で混乱に陥り、わずか10か月後には高倉上皇は21歳で世を去ります。あれほど華やかだった厳島参詣が、平家の黄金時代の「最後の輝き」となったのです。

そして同じ1180年、平家の独走を象徴する大事件が起こります。清盛が、都を京都(平安京)から摂津国の福原ふくはら(現在の神戸市あたり)へ移す福原遷都ふくはらせんとを強行したのです。福原は平家が拠点としていた港町で、日宋貿易の要でもありました。清盛は、敵対勢力の多い京都を離れ、平家にとって都合のよい新天地を都にしようと考えたのです。

平清盛
平清盛

京の都は敵が多すぎる。海に開けた福原こそ、新たな平家の都にふさわしい。都を移すのだ、誰にも文句は言わせぬ!

ところが、この強引な遷都に、思わぬ人物が異を唱えました。ほかでもない高倉上皇です。突然の遷都によって、多くの民や貴族が住み慣れた京を追われ、混乱と困窮にあえいでいました。高倉上皇は、清盛の義理の息子という立場でありながら、その民の苦しみを思い、福原遷都に反対したと伝えられています。これこそ、「単なる傀儡ではなかった」高倉天皇の意外な一面なのです。

高倉天皇
高倉天皇

清盛公、お待ちください。にわかの遷都で苦しむのは罪なき民です。帝たる者、まず百姓百姓ひゃくしょうの暮らしを思わねばなりませぬ。

結局、福原遷都は各方面の強い反発もあって長く続かず、わずか半年ほどで同じ1180年11月には平安京への還都かんと(都を元に戻すこと)が決まりました。しかし、この遷都と還都の慌ただしい往復は、もともと病弱だった高倉上皇の体を確実にむしばんでいきます。心労と病が重なり、高倉上皇の命は静かに、しかし確実に削られていったのです。

高倉上皇の最期と死因

還都からわずか2か月あまりのち、1181年1月30日(治承5年1月14日)、高倉上皇たかくらじょうこうは京で息を引き取りました。享年21。あまりにも若い死でした。長く患っていたと伝えられますが、具体的な病名は史料にはっきりとは残されていません。福原遷都をめぐる心労や、慣れない土地への移動の負担が、もともと病弱だった体に追い打ちをかけたとも言われています。

あゆみ
あゆみ

21歳で亡くなるなんて、本当に若いのね…。死因ははっきりわかっていないの?

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだ。当時の医学では病名を正確に記録できなかったし、もともと体が弱かったとも言われている。父と義父の対立に心をすり減らし、最後は遷都の混乱に巻き込まれて…。あゆみさんが言うとおり、本当に気の毒な生涯だったと思うよ。

📌 高倉上皇 崩御の詳細:治承5年(1181年)1月14日(西暦1月30日)に崩御。享年21歳。陵墓は後清閑寺陵のちのせいかんじのみささぎ(京都市東山区今熊野)。死因は長患いとされるが、具体的な病名は史料に明記されていない。

高倉天皇
高倉天皇

父上と清盛公の争いの中で、私にできることは何もなかった…。せめて我が子・安徳の世が、穏やかであってくれればよいのだが…。

しかし、高倉上皇の願いもむなしく、その死の直後から時代は激しく動き出します。すでに前年の1180年には各地で反平家の兵が挙がり、源頼朝・源義仲みなもとのよしなからが立ち上がっていました。高倉上皇の死の翌月には、後ろ盾だった平清盛も熱病で世を去ります。こうして歴史は、平家と源氏が雌雄を決する治承・寿永の乱(源平合戦)へとなだれ込み、やがて1185年の平家滅亡へと突き進んでいくのです。高倉上皇は、まさに一つの時代の終わりを見届けるようにして、短い生涯を閉じたのでした。

後高倉上皇とは?守貞親王のその後

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後高倉上皇とは?3行でわかる
  • 高倉天皇の皇子・守貞親王(1179〜1223年)に贈られた尊号(後高倉院)
  • 天皇に一度も即位しないまま、息子(後堀河天皇)の即位によって「上皇」となった異例の人物
  • 承久の乱(1221年)後の朝廷再建のため1221〜1223年に院政を担い、公武の融和に尽力した

高倉天皇の皇子のひとりに、守貞親王もりさだしんのう(1179〜1223年)という人物がいます。彼は源平合戦のさなか、平家が幼い安徳天皇とともに都落ちした際、いったんは平家に連れられて西国へと下りました。しかし安徳天皇とは違い、壇ノ浦の悲劇を生きのびて京へ戻ることができたのです。

その後の守貞親王は、皇位とは無縁のまま出家し、静かに30年あまりを過ごします。ところが1221年(承久3年)、運命が大きく動きました。朝廷と鎌倉幕府の対立がついに爆発し、後鳥羽上皇が幕府打倒の兵を挙げた承久の乱が起こったのです。乱に敗れた後鳥羽上皇の系統は皇位から排除され、代わりに守貞親王の子・茂仁王ゆたひとおうが後堀河天皇ごほりかわてんのうとして即位することになりました。

自分の子が天皇になったことで、守貞親王は天皇に一度も即位しないまま「太上天皇だじょうてんのう(上皇)」の尊号を受け、幼い後堀河天皇に代わって院政いんせいを行うという、きわめて異例の立場に立ちます。これがのちに「後高倉上皇ごたかくらじょうこう(後高倉院)」と呼ばれる人物の正体です。承久の乱で荒れた朝廷と幕府の関係をなだめ、公武の融和に努めましたが、その院政はわずか2年ほど。1223年(貞応2年)に世を去りました。

あゆみ
あゆみ

天皇になってないのに「上皇」って変じゃない?どういうこと?

もぐたろう
もぐたろう

たしかに変だよね!ふつう「上皇」は天皇を引退した人のこと。でも後高倉上皇は天皇になってないんだ。理由はシンプルで、息子が天皇になったから。当時は天皇の父親(=治天の君)が「上皇」として政治を仕切る院政の時代だったから、「じゃあお父さんを上皇あつかいにして政治をやってもらおう」となったんだよ。今でいうと、社長になった息子のために、会長の肩書きだけ先にお父さんに渡すようなイメージに近いかな!

高倉天皇の人物像と才能

権力者たちに翻弄され続けた高倉天皇ですが、その人柄は同時代の人々から高く評価されていました。『平家物語』には、高倉天皇の心優しいエピソードがいくつも描かれています。たとえば、紅葉を愛した天皇が、庭の紅葉を誤って焚き火に使ってしまった役人をとがめるどころか、かえってその風流を面白がったという逸話。あるいは、寒さに震える者を思いやって心を配ったという話。いずれも、高倉天皇の温厚で慈悲深い人柄を伝えるものです。

また、高倉天皇は笛(横笛おうてき)や琵琶びわといった楽器の名手としても知られていました。幼い頃から音楽や詩歌に親しみ、その文化的な素養の深さは当時から評判だったといいます。政治の表舞台では清盛と後白河院に挟まれ、思うように力を発揮できなかった高倉天皇。しかし一人の人間としては、優しさと豊かな教養をあわせ持つ、魅力ある人物だったのです。

🎵 笛・琵琶の名手:高倉天皇は管弦(音楽)に深い造詣を持ち、とくに笛や琵琶の名手として知られました。政治では不遇でしたが、芸術を愛する文化人としての一面が、後世まで語り継がれています。

高倉天皇
高倉天皇

政(まつりごと)では何も思うようにならぬが…せめて笛を吹いている間だけは、心が安らぐ。月の夜に奏でる調べこそ、私のまことの居場所なのかもしれぬ。

📖 『平家物語』が伝えた高倉天皇:高倉天皇の温厚で慈悲深い人物像は、軍記物語の名作『平家物語』に描かれたことで後世まで広く知られるようになりました。私たちが今「優しい悲運の天皇」というイメージを持てるのも、物語の力によるところが大きいのです。

「平清盛に操られた傀儡」という一面的な評価だけでは、高倉天皇の実像はとらえきれません。福原遷都に反対した政治姿勢、笛や琵琶に親しんだ文化的素養、そして人々をいたわる優しさ——それらすべてを含めて、はじめて高倉天皇という一人の天皇の姿が立ちあらわれてくるのです。

高倉天皇ゆかりのおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

高倉天皇や平家についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!平家物語は原文だとハードルが高いけど、読みやすい版がたくさん出ているから安心してね。

①はじめて平家物語を読む中高生なら|原文・現代語訳・解説が一冊にぎゅっと

平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典

角川書店・谷口広樹(編) 著|角川書店


②「物語」と「史実」の違いを知りたい人なら|平家のリアルな姿がわかる

③平氏の通史を体系的に学びたい大人なら|公家から武家へ、平氏900年の全貌

平氏―公家の盛衰、武家の興亡

倉本一宏 著|中央公論新社

よくある質問(FAQ)

第80代天皇です。1161年に生まれ、1168年に8歳で即位しました。平清盛が全盛期を迎えた平安時代末期に在位し、平家を象徴する天皇でしたが、1181年に21歳の若さで崩御しました。

中宮は平清盛の娘・平徳子(のちの建礼門院)です。二人の間には安徳天皇が生まれました。このほか、ひそかに愛した小督局との悲恋が『平家物語』に描かれていることでも知られています。

1181年1月30日(治承5年1月14日)に崩御しました。享年21歳。長く病を患っていたとされますが、具体的な病名は史料に明記されていません。福原遷都をめぐる心労や、慣れない土地への移動の負担が、もともと病弱だった体に追い打ちをかけたとも言われています。

代表的な子に、安徳天皇(第81代)・後鳥羽天皇(第82代)・守貞親王(後高倉上皇)がいます。安徳天皇は中宮・平徳子の子で壇ノ浦に沈み、後鳥羽天皇はのちに承久の乱を起こしました。守貞親王は天皇に即位しないまま上皇号を得た異例の人物です。

高倉天皇の皇子・守貞親王のことです。承久の乱(1221年)の後、息子の後堀河天皇が即位したことで、天皇に一度も即位しないまま「上皇」の尊号を受けました。後堀河天皇に代わって院政を行った、きわめて異例の人物です。

義理の父と娘婿の関係です。清盛の娘・平徳子が高倉天皇の中宮となり、二人の子・安徳天皇が即位したことで、清盛は天皇の外祖父となりました。清盛は高倉天皇を後ろ盾に権力を拡大しましたが、高倉天皇自身は福原遷都に反対するなど、清盛の専横にすべて従ったわけではありませんでした。

後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)です。京都市東山区今熊野にあり、清水寺の南東、清閑寺の境内付近に位置しています。

まとめ

ここまで、高倉天皇の生涯・家族・死因、そして後高倉上皇のことまでを見てきました。最後に、この記事の要点を整理しておきましょう。

高倉天皇のポイントまとめ
  • 第80代天皇(1168〜1180年在位)。8歳で即位・21歳で崩御した悲運の天皇
  • 平清盛・後白河院の板挟みに苦しみながらも、福原遷都には真っ向から反対した
  • 中宮・平徳子(建礼門院)との間に安徳天皇をもうけた
  • 後高倉上皇(守貞親王)は天皇未即位で上皇号を得た異例の人物
  • 笛・琵琶の名手でもあった文化的才能を持つ側面も忘れてはいけない

高倉天皇の生涯年表
  • 1161年
    誕生(応保元年)
  • 1168年
    即位(仁安3年・8歳)
  • 1172年
    平徳子を中宮に迎える(承安2年)
  • 1178年
    第一皇子・言仁親王(安徳天皇)誕生
  • 1179年
    治承3年の政変(後白河法皇が幽閉される)
  • 1180年2月
    安徳天皇に譲位・高倉上皇となる
  • 1180年6月
    平清盛が福原遷都を強行(高倉上皇は反対)
  • 1180年11月
    平安京に還都
  • 1181年1月30日
    崩御(治承5年1月14日・享年21歳)

もぐたろう
もぐたろう

以上、高倉天皇のまとめでした!「平清盛の傀儡」と言われがちだけど、実は福原遷都に反対するなど、民を思う一面や笛・琵琶を愛する文化人の顔も持った天皇だったんだね。彼を取り巻く平清盛・安徳天皇・源平合戦のことも、下の記事であわせて読んでみてください!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「高倉天皇」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「後高倉院」(2026年6月確認)
コトバンク「高倉天皇」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
『平家物語』(各種現代語訳)

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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