今回は、遣唐使として唐で学び、低い身分でありながらも朝廷の中枢で大活躍した吉備真備(きびのまきび)という人物について紹介します。
天才、吉備真備
吉備真備は旧姓、下道真備(しもつみちのまきび)と言い、決して身分の高い生まれではありません。695年生まれでした。当時の朝廷はたとえ低い官位であっても、官位を得るには家柄が重要になってくる時代でしたから、吉備真備が出世できる見込みなど皆無に等しい状態でした。
ところが、吉備真備は天才的に頭の良い青年でした。そんな天才吉備真備ですが、717年に唐への留学生として抜擢されます。わずか20代前半での唐への留学ということになります。
帰国するのは734年。17年もの間、唐へ滞在していたことになります。吉備真備は留学生として多くを学び、書物や楽器など多くの品々を日本へ持ち込みました。
当時の日本は、唐を参考にしながら律令に基づく国家樹立を目指しており、吉備真備のように唐の事情に精通し、しかも頭脳明晰な人物とくれば、周囲からは非常に重宝されました。
そんなわけで吉備真備は聖武天皇に寵愛されるようになり、貴族でないにも関わらず、当時としては尋常でないほどのスピードで出世してゆきます。吉備真備のこの昇進は、聖武天皇が唐の知識を持った人材を喉から手が出るほど欲していた証拠と言えます。
さらに737年、天然痘が流行し多くの官僚が亡くなったことも吉備真備の出世を後押ししました。朝廷では人材が不足していたのです。(ちなみに天然痘は734年に吉備真備らが帰国した遣唐使船によってもたらされたと言われているので、吉備真備の心境は複雑だったことでしょう・・・)
橘諸兄政権と吉備真備
738年、平城京では右大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権運営の中核を担うようになります。橘諸兄政権は、藤原氏などの代表的な貴族ではなく吉備真備を中心とした唐の事情に精通した人物を重用しました。
この時重用されたことで有名なのが、吉備真備と僧だった玄昉(げんぼう)です。この2人は身分だけ考えれば通常ではありえないほどの出世を成し遂げました。これもひとえに唐の事情に明るかったおかげというわけです。
「じゃあ、吉備真備は具体的に何をしたの?」と言われると、実は歴史的に「吉備真備はこれをした!」と言えるものはありません。でもこれは当然で、当時の朝廷トップは橘諸兄であり吉備真備はそれを支える役目を担っていたからです。
しかし、有名な政策で言えば、743年に制定された墾田永年私財法なんかは吉備真備が唐で得た土地制度の知識が生かされているかもしれません。
吉備真備への反発、藤原広嗣の乱
一方、何処の馬の骨かもわからぬ吉備真備や玄昉を重用する橘諸兄政権に不満を持つ者も少なくありませんでした。
特に、橘諸兄が台頭する以前に朝廷を支配していた藤原氏にその傾向がありました。その素行の悪さから太宰府へ左遷させられていた藤原広嗣(ひろつぐ)という人物は、書面で聖武天皇に訴えます。「吉備真備や玄昉など、出自のわからん輩などを重用するから世が乱れるのです。」と。
当時、飢饉や地震など朝廷は自然災害に見舞われていたので、藤原広嗣はそれらを吉備真備や玄昉のせいにしようとしていたのです。
聖武天皇はこれを謀反と捉え、藤原広嗣の討伐を決定します。こうして起こったのが藤原広嗣の乱です。詳しくは以下の記事をどうぞ。
これは私の推測ですが、出世したとは言え、その身分の低さから吉備真備の肩身は意外と狭かったのではないか・・・と思います。藤原広嗣の乱は吉備真備への不満が表面化した一例に過ぎず、朝廷内では陰湿な嫌がらせなんかがあったんじゃないかな?と私なんかは想像してしまいます。
鑑真と吉備真備
752年、吉備真備は2回目となる遣唐使の一員に抜擢されます。今回は、遣唐使一団の副使として唐へ向かいました。
1回目の遣唐使の時は留学が目的でしたが、この時の目的はもちろん留学ではありません。752年の遣唐使の主要な目的は、
・唐で行われる儀礼への参加という外交政策
・あの有名な鑑真(がんじん)を来日させること
の2つでした。吉備真備を含む使節団はこの任務をしっかりと果たします。特に鑑真の来日は、日本に大きな影響を与えると共に長年の努力が実った感動の来日でした。鑑真については、以下の記事で紹介していますので、気になる方はどうぞ。
この時の遣唐使は754年に帰国しましたが、帰りの船は嵐に遭遇し多くの人が命を落とした中での命がけの帰国でした。吉備真備は命がけの遣唐使の任務を成功させましたが、一方の朝廷では藤原仲麻呂という藤原氏勢力が権力を振るうようになっていて、吉備真備の立場は微妙なものになっていました。
藤原仲麻呂と吉備真備
749年、孝謙天皇が即位すると吉備真備の順風満帆な政治人生にも陰りがでてきます。孝謙天皇の母である藤原光明子と親密な関係にある藤原仲麻呂(なかまろ)が権力を専横するようになったのです。
当然、藤原氏から見れば吉備真備など邪魔な存在です。吉備真備は藤原仲麻呂によって左遷させられてしまいます。遣唐使の任務を終えた吉備真備は朝廷には戻らず、太宰府へと赴きます。
しかし、藤原仲麻呂は吉備真備を露骨に邪視することはしませんでした。吉備真備が有能すぎたからです。時の権力者が誰であれ、唐への渡航経験を持ち、その事情に精通した人物はもはや朝廷に欠かせない人材になっていたのです。
実際に、太宰府へ赴いた吉備真備は太宰府の防衛力の強化に努め、太宰府内でも昇進を果たしています。
兵法にも精通する吉備真備
吉備真備の本業は学者でした。しかしながら、兵法にも詳しかった吉備真備は戦乱においても大活躍します。
760年、天皇の母(国母)である藤原光明子が亡くなると光明子の後ろ盾により権力を独占してきた藤原仲麻呂の勢いにも陰りが見えます。長い間、藤原仲麻呂によって抑圧されてきた孝謙上皇が、藤原仲麻呂に疎まれてきた人物を重用し、藤原仲麻呂に対抗しようとしたからです。
こうした孝謙上皇の意図により、吉備真備は再び中央政権へ復帰することになります。764年の話であり、吉備真備は既に70歳になろうとしていました。
同じ年、孝謙上皇に抑圧された藤原仲麻呂が反乱を起こします。藤原仲麻呂の乱と呼ばれる事件です。
この時、意外にも吉備真備は孝謙上皇の参謀として大活躍します。吉備真備の巧みな戦略により藤原仲麻呂は手も足もでないまま孝謙上皇軍に敗れ、その命を落とすことになります。吉備真備は唐で兵法を学んでいた経験もあり、軍事でも大活躍することになります。
吉備真備は藤原仲麻呂の行軍ルートを事前に先読みし、仲麻呂が本格的に軍を集める前に仲麻呂を叩きました。具体的な藤原仲麻呂の乱の経過は以下の記事に詳しいので参考として載せておきます。
道鏡と吉備真備
藤原仲麻呂の乱の鎮圧に貢献した吉備真備は、その後もさらに出世してゆきます。藤原仲麻呂の乱により仲麻呂に担ぎ出されていた淳仁天皇も天皇を廃止させられ、孝謙上皇が再び天皇として重祚(ちょうそ。一度天皇になった者が再び天皇になること)しました。重祚後の名を称徳天皇と言います。
称徳天皇は、プライベートな関係から道鏡(どうきょう)という僧を重用するようになります。道鏡は、女帝称徳天皇の心の弱みに付け入り権力を牛耳ったと言われあまり評判のよくない人物です。しかしながら、吉備真備は道鏡政権下でも着実に出世をし766年に右大臣にまで昇ります。
学者という身分でありながら右大臣にまで昇進した人物は日本に2人しかいません。この記事で紹介している吉備真備と学問の神様で有名な菅原道真のみ。吉備真備は唐への留学経験とその頭脳明晰な頭をフル活用し、身分のハンデをはねのけて権謀術数が渦巻く朝廷の中を長い間生き抜き、右大臣にまで出世したわけですね。
吉備真備のまとめ
以上、吉備真備の経歴についてハイライトで紹介してみました。
奈良時代の朝廷は藤原氏と皇族の熾烈な権力争いに明け暮れ、とにかく権謀術数が絶えませんでした。ところが、吉備真備は低い身分で出世した立場にありながらそのような権謀術数に巻き込まれることが驚くほど少ないです。
確かに藤原仲麻呂によって疎まれていた時期もありますが、太宰府において大事な任をこなし、太宰府において出世している吉備真備を見ていると、藤原仲麻呂とて吉備真備を無下にすることはできなかったということになります。
吉備真備は、藤原仲麻呂を除いては、聖武天皇・橘諸兄・孝謙天皇(称徳天皇)・道鏡と多くの権力者と良好な関係を保ち続けました。当時の情勢を考えるとこれって結構すごいことなんじゃないかと思います。
これを実現可能にしたのは、繰り返しですが吉備真備の唐への留学経験とその頭脳のおかげでした。吉備真備が権謀術数に巻き込まれなかったのは、当時の日本が唐に対する見聞や知識に飢えていた証拠である・・・と言うこともできると思います。
ちなみに、吉備真備は770年に職を辞す旨を天皇に言い渡しますが、これを拒まれます。当時吉備真備は75歳、高齢にも関わらず天皇からの信用があったことが伺えます。それでも吉備真備は頑なに辞職を要求し、771年に職を辞し、776年に無くなります。吉備真備80歳の時であり、当時としてはかなりの長寿を全うしました。
こんな感じで、学者でありながら唐に精通し、政治政策を支え、外交を行い、軍事参謀を担うなど多岐にわたる活躍をし、権謀術数渦巻く朝廷で珍しくも多くの権力者に信頼され続けた天才こそが吉備真備の人物像である、というのが私個人的な印象です。
コメント
吉備真備は聖徳太子と同じ、古代日本のスーパースターだと思います。100年に一人の才能。