今回は、平安時代の超有名人物、平清盛(たいらのきよもり)について紹介しようと思います。
平清盛が生きた時代は、権力が既得権益層の貴族からその貴族に虐げらていた武士へと移り変わる日本の大転換期に当たります。
そんな激動の時代の中、貴族を超えた最高権力者として君臨した平清盛。その生涯は、まさに平家物語が説く「盛者必衰の理(ことわり)」そのものでした。(この記事を読んでもらえれば、それがわかると思います!)
父の忠盛(ただもり)、祖父の正盛(まさもり)
歴史上では平清盛ばかりが有名ですが、その父や祖父は実に優秀な人物でした。清盛がこの時代に活躍できたのは父や祖父の功績があってこそです。なので、ここで父と祖父について触れておこうと思います。
平家繁栄の土台を作った平正盛
平清盛の祖父の平正盛(たいらのまさもり)は、白河上皇に重宝され、後に平家が躍進する土台を作った人物です。時代は1100年前後。
平正盛が白河上皇に重用された理由は、大きく2つあると言われています。
僧兵からの強訴などに対応するため、当時の権力者たちは自分に忠実な武士を欲していました。それまでは源氏が主役でしたが、源氏の力を恐れた朝廷は次第に平家を重用するようになります。
平正盛が土地を寄進した背景は、「白河上皇の心情を察してそれを利用した」とか「所領争いを勝ち抜くために白河上皇の後ろ盾を得ようとした」などの理由が考えられますが、いずれにせよ平正盛はなかなかの策士だったようです。
平家を繁栄させた平忠盛
平正盛が作り上げた白河上皇との結びつきを更に強め、平家の地位を大きく高めたのが平忠盛(たいらのただもり)でした。
平忠盛は、白河上皇だけでなく後の鳥羽上皇からも寵愛を受けるようになります。さらに、平忠盛が本格的に始めた日宋貿易は、後に平家に多大な富をもたらします。
平忠盛は、その貿易で得た財力とその軍事力を利用して天皇や上皇を支え、武士としては破格の出世を成し遂げます。
平正盛が土台を築き、平忠盛によって得られた富と地位、軍事力を受け継いだのが平清盛でした。その平清盛が目指したのは、忠盛が作り上げた平氏の権勢を一層強固なものとし、これまでの貴族中心の政治を武士中心の政治へと変えることでした。
保元の乱と平治の乱
1156年、崇徳上皇と後白河天皇の間で権力争いが起こり戦いが起こります。保元(ほうげん)の乱です。
保元の乱は後白河天皇の勝利に終わります。すると、その近臣だった信西(しんぜい)は平清盛の財力と軍事力を利用するため、清盛を露骨に重用するようになります。
一方、平家と双璧をなしていた源氏は低い官位に据え置かれたまま。こうして、平家は武家として日本の頂点に立ちつつありました。
さらに1159年、権勢を振るう信西に不満を持つ勢力と同じく不満を持つ源義朝が組み、反乱を起こします。平治(へいじ)の乱です。
平治の乱により、源氏の棟梁である源義朝は戦死。その息子であった源頼朝も伊豆に流され、源氏の没落は決定的なものとなります。
そしてこの時に、源氏が没落して一番喜んだのが平清盛です。強訴や所領争いで貴族らが武力を欲したとしても、平清盛に頼らざるを得ません。要するに、武士としての仕事を独占することに成功したのです。平治の乱でおそらく一番得したのも平清盛です。
武家の仕事が寡占状態になったことで平清盛の存在感は否が応でも強まり、政界でのその影響力はもはや無視できないレベルにまで達しました。この頃から、平家の繁栄は著しくなり、いわゆる盛者必衰の「盛者」の時代が始まります。
二条天皇と後白河上皇
【後白河天皇】
平治の乱が鎮圧された当時の権力者は2人いました。二条天皇と後白河上皇です。
なぜ権力者が2人いるのかと言うと、当時は院政の時代だったからです。朝廷には天皇と上皇が存在し、基本は上皇が政治を主導しつつも両者は曖昧な状態のまま政治運営が行われていました。院政については以下記事で詳しく紹介しています!
両者の権限が曖昧なので天皇と上皇が対立することも多く、二条天皇と後白河上皇も親子だったにもかかわらず、政治的には敵対関係にありました。
平清盛は、この両者の軋轢を利用します。二条天皇も後白河上皇も政治の主導権を握るため、平清盛の財と武力を欲しています。なので、天皇も上皇も平清盛を自分側に繋ぎとめようと官位などの恩賞をチラつかせます。
平清盛は両者に良い顔をしながら、二人の恩賞を吊り上げ、平家の朝廷での地位を飛躍的に高めました。
そんな平清盛、二条天皇、後白河上皇の三者の駆け引きの中で建てられたのが千手観音像で有名な三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)です。ここでは詳しい話は触れませんが、以下の記事で紹介しています。
平清盛は両者に良い顔をしながらも、最後は二条天皇による政治を望んでいました。清盛は両者から恩賞を搾り取れるだけ搾り取ると、後白河上皇への態度を突如として強め、院政停止の状態まで追い込んでしまいました。この辺の柔軟な政治術は平清盛の得意技でした。
平清盛、太政大臣へ
後白河上皇とは一定の距離を保っていた平清盛ですが、事態は大きく動きます。
きっかけは、平清盛の正妻の妹(義理の妹)だった平滋子(たいらのしげこ)という人物。後白河上皇は平滋子の美貌に惚れ込み、平滋子を正妻とし男子まで授かってしまいました。
こうなってしまうと、後白河上皇を無下にできなくなります。滋子の件に加えて二条天皇の逝去もあって、平清盛は後白河上皇に再び接近します。二条天皇の次に即位した六条天皇は乳飲子であり、実質的に後白河上皇が当時の最高権力者になっていました。
再び後白河上皇と良好な関係を築いた平清盛は1167年、武士として史上初の太政大臣にまで昇格します。(ここで関係を修復できるのが清盛の強み!)
太政大臣は貴族階級の最高名誉職。その地位に武家の平清盛が選ばれたというのは、当時の武士の力を示す象徴的な出来事でした。(逆に貴族政治の衰退も暗示しています。)
平清盛が太政大臣になるまでの経過は、以下の記事で紹介しています。
高倉天皇の即位
さらにその翌年の1168年、後白河上皇と平滋子の間に生まれた憲仁親王が高倉天皇として即位。わずか8歳での即位で、実権は後白河上皇と舅の平清盛が握りました。
1172年には、清盛の娘である平徳子を高倉天皇の正妻へ。
1178年には、平清盛念願の男子が出生。この男子が天皇即位すれば、平清盛は外祖父の地位を得ることができて、絶大な力を得られます。(この男子は後の安徳天皇です。)
高倉天皇の登場によって朝廷内で強い力を持っていた平清盛は、1170年頃からトントン拍子で最高権力の座へ近づきつつありました。平時忠の有名な「平家にあらずんば人にあらず」という名言が生まれたのもこの頃です。
この頃はまさに平家の絶頂期で、盛者必衰の「盛者」のピークに達した頃でした。(つまり、ここから先は下降線をたどるということです。)
日宋貿易と厳島神社
【平重盛】
1168年、平清盛は病に倒れます。回復後は出家し、住処を福原に移しました。平安京のことは、嫡男の平重盛(たいらのしげもり)に託します。
福原に移った平清盛は、日宋貿易の本格化と厳島神社の整備に取り掛かります。平清盛は当時、50歳でしたがまだまだ若い!
平清盛は長年の間、福原近くの大輪田泊(おおわだのとまり)という港の開発を進めていました。宋との貿易を太宰府ではなく都に近い瀬戸内海で行いたいという野望があったからです。
福原に移った平清盛はその野望を実現し、遂に宋船を大輪田泊に迎え入れます。この頃に強力に推し進めた平清盛の日宋貿易は、貨幣の流通という日本の経済にとてつもなく大きな影響を与えることになります。
さらに、日宋貿易の本格化と同時に平清盛が進めていたのが、厳島(いつくしま)神社の改修です。水中に鳥居のある一見すると摩訶不思議な厳島神社ですが、今のようなデザインを考えたのは平清盛でした。
平清盛は青年期に父の忠盛と共に瀬戸内海の海賊退治の任務に勤しんでいた経験を持っていたり、大輪田泊に貿易港を作ったりと、瀬戸内海とは切っても切れない関係を持っています。
そこで平清盛は瀬戸内海の厳島神社を自らの氏寺と定め、豊富な財力を活かして厳島神社を今のような立派な神社に改修したわけです。
(出典:wikipedia「厳島神社」 Author:Jakub Hałun)
平清盛の晩年
晩年になると、流石にその勢いにも衰えが見えてきます。その大きなきっかけになったのが、1176年の後白河法皇の正妻だった平滋子の死です。
上皇の権力を守りたい後白河法皇と権力を我が物にしたい平清盛は、立場上、対立関係にありました。それでも両者の間で大きな争いが見られなかったのは平滋子が2人を上手くコントロールしてくれたおかげでした。平滋子は美貌の持ち主であると共に、非常に頭の切れる女性で両者の力関係をしっかりと理解し政治を支えた縁の下の力持ちだったのです。
平滋子の死によって、後白河法皇と平清盛は互いに遠慮する必要もなくなり、両者の秘められた闘志がいよいよ剥き出しになります。
こうして起こったのが鹿ケ谷(ししがだに)の陰謀という事件です。
平清盛はでっち上げの事件を作って、後白河法皇の近臣を失脚させ、手足を失った後白河法皇は朝廷での影響力を失いました。鹿ケ谷の陰謀事件によって、平滋子によって長い間抑えられていた平清盛と後白河法皇の対立が遂に表面化してしまったのです。
さらに1179年、後白河法皇と平清盛の間に所領を巡る争いが勃発。清盛は、後白河法皇を脅し、幽閉してしまいました。この事件のことは、治承三年の政変と言われています。
平重盛の記事ですが、この辺の話は以下の記事がくわしいです。
鹿ケ谷の陰謀と治承三年の政変を通じてラスボスだった後白河法皇を倒した平清盛は、1180年に孫を安徳天皇として即位させました。天皇即位の決定権は、本来、上皇が持っていましたが後白河上皇(法皇)は幽閉中であり、平清盛が強権で安徳天皇の即位を決めます。(貴族たちからは大ブーイングを浴びた!)
が、鹿ケ谷の陰謀と治承三年の政変、そして安徳天皇の強行即位など、平清盛の独裁政治っぷりに各地の人々は次第に不満を持つようになります。
源平合戦始まる!
1180年、平清盛の横暴な政治に対して遂に反乱が起きてしまいます。安徳天皇の即位に不満を持った後白河法皇の息子の以仁王(もちひとおう)という人物が挙兵したのです。
以仁王は、日本各地の源氏に打倒平氏を呼びかけ、各地の源氏たちがこれに呼応します。以仁王の呼びかけに応じた人物の中には、源頼朝や源義仲(木曽義仲)と言った歴史に名を残した人物もいました。
以仁王の挙兵はすぐに鎮圧されましたが、これを機に平清盛は福原への遷都を決行します。長い歴史を持つ平安京を離れることに多くの者が反発し、平清盛に従順だった高倉上皇までもが反対の意見を述べるほどでした。
以仁王の挙兵自体は失敗したものの、それに呼応した源頼朝らが続いて挙兵。平家側は石橋山の戦いで勝利を収めるものの、1180年10月の富士川の戦いで戦わずして源頼朝に敗走。
不利な情勢と、平安京付近の不穏な動きを恐れた平清盛は福原京遷都を断念。1180年11月に再び都が平安京に戻りました。
結局、福原京遷都は人々の平家に対する不満を高めただけ。さらに1181年1月には戦の途中に東大寺や興福寺を全焼させてしまう大事件まで起こし、平家の人望は地に落ちてしまいます。
そんな平家の存亡がかかった重要な局面の中、1181年3月に平清盛は亡くなってしまいます。これは東大寺や興福寺を焼いた仏罰だと当時は噂されていたそうです。
平家物語によれば、平清盛は最後の遺言で「俺の葬儀はいらん。それよりも源頼朝の首を俺の墓の前に持ってこい!!」と打倒源頼朝を息子たちに誓わせて亡くなったと言われています。
しかし、この清盛の遺言は叶わず、平家は壇ノ浦の戦いで敗北することになります。
平清盛の人物像
平清盛は非常に気の利く男で、気配りもできる義理堅い人物だったと言われています。
天皇・上皇・摂関藤原氏・武家による複雑な政争の中、平清盛は常に最も自分に有利な立場を理解し、巧みに様々な人たちと人間関係を構築できたのも、その平清盛の性格のおかげです。平清盛は武士ですが、どちらかというと政治家向きの人物だったのだと思います。
このような気配り上手な平清盛ですが、1179年に後白河法皇を幽閉した頃から敵がいなくなったのもあって、次第に独裁的な振る舞いが多くなります。こうした平清盛の慢心が多くの人に不満を抱かせ、源平合戦のきっかけとなってしまったのです。
平清盛といえば晩年の傲慢な様子ばかりがピックアップされ、悪いイメージもありますが、本質的には清盛は気遣いのできる義理に厚い男だったのでした。
異なる2つの政治理念
最後にちょっと平清盛と源頼朝の政治理念の話を。
平清盛と源頼朝はいずれも武士による世を作ろうと考えていました。ですが、この2人の政治理念は大きく異なります。
平清盛は、既存の貴族政治の枠組みの中で既得権益層を排除。そして、平家でその地位を独占することで武士の世を築き上げようとしました。政治の仕組みはそのままに中身を全て武士にしてしまおうと考えたわけです。
しかし、これは長続くするはずがありません。朝廷における地位や所有する国を全部平家が独占してしまっては、人々の不満が高まるのは当然。しかもそれが、前任者を強権によって追い出して得た地位ならなおさらです。
一方の源頼朝の政治理念は、源氏の棟梁という権威ある立場を利用し、「自分のために役立ってくれたら所領を与える又は守ってやるよ」という新しい政治を考えていました。(教科書的に言う御恩と奉公)
源頼朝を頂点として、源頼朝によって各武将たちに土地を分け与えるわけです。こうすれば、武将たちのモチベーションも上がるし、頑張れば報われるわけですから、不平不満も生まれないわけです。
ただ、源頼朝の政治理念は源頼朝が頂点に君臨する必要があり、天皇を頂点とする朝廷の既存の枠組みには馴染まないものでした。そして、この政治理念を実現するには、源頼朝が頂点に立てるような朝廷以外の別な組織が必要でした。こうして開かれたのが鎌倉幕府です。
同じ武士の世・・・と考えながらも平家の繁栄のみを目指した平清盛と、源氏を頂点として各武将に所領管理を任せれる新組織を作り上げた源頼朝とでは、源頼朝の方が一枚上手だったと言えそうです。
同じ信念を持っていながら、その政治理念が大きく異なるというのは非常に興味深く、こうやって考察してみるととても面白いですね。
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