平清盛ってどんな人?その生涯・性格をわかりやすく紹介するよ【平家物語の盛者必衰の理を感じよう!】

今回は、平安時代の超有名人物、平清盛(たいらのきよもり)について紹介しようと思います。

 

 

平清盛が生きた時代は、権力が既得権益層の貴族からその貴族に虐げらていた武士へと移り変わる日本の大転換期に当たります。

 

 

そんな激動の時代の中、貴族を超えた最高権力者として君臨した平清盛。その生涯は、まさに平家物語が説く「盛者必衰の理(ことわり)」そのものでした。(この記事を読んでもらえれば、それがわかると思います!)

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父の忠盛(ただもり)、祖父の正盛(まさもり)

歴史上では平清盛ばかりが有名ですが、その父や祖父は実に優秀な人物でした。清盛がこの時代に活躍できたのは父や祖父の功績があってこそです。なので、ここで父と祖父について触れておこうと思います。

平家繁栄の土台を作った平正盛

平清盛の祖父の平正盛(たいらのまさもり)は、白河上皇に重宝され、後に平家が躍進する土台を作った人物です。時代は1100年前後。

白河天皇(上皇・法皇)を簡単にわかりやすく紹介!【院政はなぜ始まったか?】
後三条天皇が1073年に亡くなった後、1072年に即位した後三条天皇の息子の白河天皇が活躍することになります。 白河天皇は、後に上皇として院政という日本独自の政治機構を造り上げた人物であり、日本史上でも有名な人物の1人です。前回の記事で紹介した後三条天皇は、延久の荘園整理令の実施などにより摂関政治により権力を掌握していた藤原氏の...

 

平正盛が白河上皇に重用された理由は、大きく2つあると言われています。

 

寵愛する愛娘が亡くなり白河上皇が絶望している所に、平正盛がその愛娘のための建てられた六条院に土地を寄進したこと

 

後三年の役で力を付けすぎた源義家に変わる忠実な武士を白河上皇が欲していたこと

 

後三年の役を簡単にわかりやすく紹介!【理由や経過など!】
前九年の役が終わったのが1062年。約20年後の1080年ごろ、東北地方は再び動乱の渦の中へと巻き込まれていきます。この時の一連の戦いのことを「後三年の役」と言います。 後三年の役は、その前に起こった前九年の役と密接に関わっています(同じ東北地方で起こった事件ですからね!)。後三年の役についてちゃんと知りたい方は、まずは以下の前九年の役...

 

僧兵からの強訴などに対応するため、当時の権力者たちは自分に忠実な武士を欲していました。それまでは源氏が主役でしたが、源氏の力を恐れた朝廷は次第に平家を重用するようになります。

僧兵の強訴について簡単にわかりやすく紹介【白河法皇を悩ませた山法師とは】
院政という新スタイルの政治を始め、天皇の父の立場から強大な権力を手中に収めた白河法皇ですが、次のような有名な名言を残しています。 「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」 つまり、強大な権力を持ってしても鴨川の氾濫、双六の目(運)、山法師(延暦寺の僧侶)は手に負えない・・・と白河法皇は嘆いているのです。絶...

 

平正盛が土地を寄進した背景は、「白河上皇の心情を察してそれを利用した」とか「所領争いを勝ち抜くために白河上皇の後ろ盾を得ようとした」などの理由が考えられますが、いずれにせよ平正盛はなかなかの策士だったようです。

平家を繁栄させた平忠盛

平正盛が作り上げた白河上皇との結びつきを更に強め、平家の地位を大きく高めたのが平忠盛(たいらのただもり)でした。

 

 

平忠盛は、白河上皇だけでなく後の鳥羽上皇からも寵愛を受けるようになります。さらに、平忠盛が本格的に始めた日宋貿易は、後に平家に多大な富をもたらします。

平清盛による日宋貿易とは?わかりやすく紹介【大輪田泊と福原京】
今回は、日宋貿易と平清盛のお話をしようと思います。 平清盛は武士でありながら朝廷内で高い地位を誇り、平家の繁栄を築き上げることに成功しますが、平家繁栄の背後にあったのが日宋貿易によって得た豊富な財力の存在でした。 平清盛と日宋貿易 勘違いしやすいのですが、日宋貿易=平清盛が始めた!というイコール関係は間違っています。 ...

 

平忠盛は、その貿易で得た財力とその軍事力を利用して天皇や上皇を支え、武士としては破格の出世を成し遂げます。

 

 

平正盛が土台を築き、平忠盛によって得られた富と地位、軍事力を受け継いだのが平清盛でした。その平清盛が目指したのは、忠盛が作り上げた平氏の権勢を一層強固なものとし、これまでの貴族中心の政治を武士中心の政治へと変えることでした。

保元の乱と平治の乱

1156年、崇徳上皇と後白河天皇の間で権力争いが起こり戦いが起こります。保元(ほうげん)の乱です。

簡単にわかりやすく!誰でもわかる保元の乱【勝者は?経過は?】
今回は、人間関係が複雑でよくわからないことで有名な保元(ほうげん)の乱について紹介したいと思います。 この記事だけでは全てを説明しきれないので関連する記事のリンクをたくさん貼りました! 保元の乱はなぜ起こったか? 保元の乱は、皇位継承争いと摂関家の家督争いがミックスした少し複雑な乱です。 崇徳上皇VS後白河天皇 ...

 

保元の乱は後白河天皇の勝利に終わります。すると、その近臣だった信西(しんぜい)は平清盛の財力と軍事力を利用するため、清盛を露骨に重用するようになります。

 

 

一方、平家と双璧をなしていた源氏は低い官位に据え置かれたまま。こうして、平家は武家として日本の頂点に立ちつつありました。

信西ってどんな人?平清盛との関係は?わかりやすく紹介【保元の乱と平治の乱】
今回は、保元の乱・平治の乱で活躍した人物の1人である信西(しんぜい)という人物について紹介してみたいと思います。 信西は当時、藤原頼長と並ぶの秀才と言われ、非常に知略に長けた人物でした。 信西は、保元の乱・平治の乱の2つの乱を知る上で欠かすことのできない存在です。いわば保元・平治の乱のキーパーソンとも言えま...

 

さらに1159年、権勢を振るう信西に不満を持つ勢力と同じく不満を持つ源義朝が組み、反乱を起こします。平治(へいじ)の乱です。

簡単にわかりやすく!誰でもわかる平治の乱【勝者は?源義朝はどうなった?】
平治の乱は、対立関係が超複雑であることで有名な1159年に起こった内乱です。この3年前に起こった保元の乱にも複雑な対立関係がありましたが、平治の乱はそれ以上に複雑です。 今回は、そんな平治(へいじ)の乱について、できる限りわかりやすくかつ詳しく紹介してみようと思います。ちなみに、以下の保元の乱の話を知っておくと理解がスムーズになるかもし...

 

平治の乱により、源氏の棟梁である源義朝は戦死。その息子であった源頼朝も伊豆に流され、源氏の没落は決定的なものとなります。

 

 

そしてこの時に、源氏が没落して一番喜んだのが平清盛です。強訴や所領争いで貴族らが武力を欲したとしても、平清盛に頼らざるを得ません。要するに、武士としての仕事を独占することに成功したのです。平治の乱でおそらく一番得したのも平清盛です。

 

 

武家の仕事が寡占状態になったことで平清盛の存在感は否が応でも強まり、政界でのその影響力はもはや無視できないレベルにまで達しました。この頃から、平家の繁栄は著しくなり、いわゆる盛者必衰の「盛者」の時代が始まります。

二条天皇と後白河上皇

【後白河天皇】

平治の乱が鎮圧された当時の権力者は2人いました。二条天皇と後白河上皇です。

 

 

なぜ権力者が2人いるのかと言うと、当時は院政の時代だったからです。朝廷には天皇と上皇が存在し、基本は上皇が政治を主導しつつも両者は曖昧な状態のまま政治運営が行われていました。院政については以下記事で詳しく紹介しています!

院政とは具体的に何か?簡単にわかりやすく【院近臣、成功、院宣、院庁下文など】
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両者の権限が曖昧なので天皇と上皇が対立することも多く、二条天皇と後白河上皇も親子だったにもかかわらず、政治的には敵対関係にありました。

 

 

平清盛は、この両者の軋轢を利用します。二条天皇も後白河上皇も政治の主導権を握るため、平清盛の財と武力を欲しています。なので、天皇も上皇も平清盛を自分側に繋ぎとめようと官位などの恩賞をチラつかせます。

 

 

平清盛は両者に良い顔をしながら、二人の恩賞を吊り上げ、平家の朝廷での地位を飛躍的に高めました。

 

 

そんな平清盛、二条天皇、後白河上皇の三者の駆け引きの中で建てられたのが千手観音像で有名な三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)です。ここでは詳しい話は触れませんが、以下の記事で紹介しています。

三十三間堂(蓮華王院)の見所と歴史をわかりやすく1/2
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平清盛は両者に良い顔をしながらも、最後は二条天皇による政治を望んでいました。清盛は両者から恩賞を搾り取れるだけ搾り取ると、後白河上皇への態度を突如として強め、院政停止の状態まで追い込んでしまいました。この辺の柔軟な政治術は平清盛の得意技でした。

 平清盛、太政大臣へ

後白河上皇とは一定の距離を保っていた平清盛ですが、事態は大きく動きます。

 

 

きっかけは、平清盛の正妻の妹(義理の妹)だった平滋子(たいらのしげこ)という人物。後白河上皇は平滋子の美貌に惚れ込み、平滋子を正妻とし男子まで授かってしまいました。

 

 

こうなってしまうと、後白河上皇を無下にできなくなります。滋子の件に加えて二条天皇の逝去もあって、平清盛は後白河上皇に再び接近します。二条天皇の次に即位した六条天皇は乳飲子であり、実質的に後白河上皇が当時の最高権力者になっていました。

 

 

再び後白河上皇と良好な関係を築いた平清盛は1167年、武士として史上初の太政大臣にまで昇格します。(ここで関係を修復できるのが清盛の強み!)

 

 

太政大臣は貴族階級の最高名誉職。その地位に武家の平清盛が選ばれたというのは、当時の武士の力を示す象徴的な出来事でした。(逆に貴族政治の衰退も暗示しています。)

 

 

平清盛が太政大臣になるまでの経過は、以下の記事で紹介しています。

平清盛はなぜ太上大臣になった?その経過は?わかりやすく紹介
今回は、あの有名な平清盛が1167年に太政大臣にまで昇進するまでの流れを紹介したいと思います。 当時の朝廷は上皇・天皇・平清盛という三者の思惑が渦巻く、とても複雑な人間関係が続いていました。そんな複雑な朝廷の中で、平清盛がどのようにして朝廷最高官位である「太政大臣」になったのかを見てみたいと思います。 太政大臣になる前の平清盛 平清...

高倉天皇の即位

さらにその翌年の1168年、後白河上皇と平滋子の間に生まれた憲仁親王が高倉天皇として即位。わずか8歳での即位で、実権は後白河上皇と舅の平清盛が握りました。

 

 

1172年には、清盛の娘である平徳子を高倉天皇の正妻へ。

 

 

1178年には、平清盛念願の男子が出生。この男子が天皇即位すれば、平清盛は外祖父の地位を得ることができて、絶大な力を得られます。(この男子は後の安徳天皇です。)

 

 

高倉天皇の登場によって朝廷内で強い力を持っていた平清盛は、1170年頃からトントン拍子で最高権力の座へ近づきつつありました。平時忠の有名な「平家にあらずんば人にあらず」という名言が生まれたのもこの頃です。

 

 

この頃はまさに平家の絶頂期で、盛者必衰の「盛者」のピークに達した頃でした。(つまり、ここから先は下降線をたどるということです。)

日宋貿易と厳島神社

【平重盛】

1168年、平清盛は病に倒れます。回復後は出家し、住処を福原に移しました。平安京のことは、嫡男の平重盛(たいらのしげもり)に託します。

平重盛はどんな人?わかりやすく紹介!【平家物語の名言や系図などを交えて】
今回は、平清盛の嫡男で平家棟梁でもあった平重盛(しげもり)について紹介します。 平重盛は文武両道の優秀な人物であり、かなりの人格者でもありました。武士・貴族両方から信頼される存在で、まさに平清盛の後継者に相応しいエリートな人間でしたが、その生涯、特に晩年はかなり悲惨な生涯でした・・・。 晩年の平重盛は、自ら「早く死んでしま...

 

福原に移った平清盛は、日宋貿易の本格化と厳島神社の整備に取り掛かります。平清盛は当時、50歳でしたがまだまだ若い!

 

 

平清盛は長年の間、福原近くの大輪田泊(おおわだのとまり)という港の開発を進めていました。宋との貿易を太宰府ではなく都に近い瀬戸内海で行いたいという野望があったからです。

 

 

福原に移った平清盛はその野望を実現し、遂に宋船を大輪田泊に迎え入れます。この頃に強力に推し進めた平清盛の日宋貿易は、貨幣の流通という日本の経済にとてつもなく大きな影響を与えることになります。

平清盛による日宋貿易とは?わかりやすく紹介【大輪田泊と福原京】
今回は、日宋貿易と平清盛のお話をしようと思います。 平清盛は武士でありながら朝廷内で高い地位を誇り、平家の繁栄を築き上げることに成功しますが、平家繁栄の背後にあったのが日宋貿易によって得た豊富な財力の存在でした。 平清盛と日宋貿易 勘違いしやすいのですが、日宋貿易=平清盛が始めた!というイコール関係は間違っています。 ...

 

 

さらに、日宋貿易の本格化と同時に平清盛が進めていたのが、厳島(いつくしま)神社の改修です。水中に鳥居のある一見すると摩訶不思議な厳島神社ですが、今のようなデザインを考えたのは平清盛でした。

 

 

平清盛は青年期に父の忠盛と共に瀬戸内海の海賊退治の任務に勤しんでいた経験を持っていたり、大輪田泊に貿易港を作ったりと、瀬戸内海とは切っても切れない関係を持っています。

 

 

そこで平清盛は瀬戸内海の厳島神社を自らの氏寺と定め、豊富な財力を活かして厳島神社を今のような立派な神社に改修したわけです。

(出典:wikipedia「厳島神社」 Author:Jakub Hałun

平清盛の晩年

晩年になると、流石にその勢いにも衰えが見えてきます。その大きなきっかけになったのが、1176年の後白河法皇の正妻だった平滋子の死です。

 

 

上皇の権力を守りたい後白河法皇と権力を我が物にしたい平清盛は、立場上、対立関係にありました。それでも両者の間で大きな争いが見られなかったのは平滋子が2人を上手くコントロールしてくれたおかげでした。平滋子は美貌の持ち主であると共に、非常に頭の切れる女性で両者の力関係をしっかりと理解し政治を支えた縁の下の力持ちだったのです。

 

 

平滋子の死によって、後白河法皇と平清盛は互いに遠慮する必要もなくなり、両者の秘められた闘志がいよいよ剥き出しになります。

 

 

こうして起こったのが鹿ケ谷(ししがだに)の陰謀という事件です。

鹿ケ谷の陰謀とは?わかりやすく紹介【後白河上皇VS平清盛】
今回は、後白河上皇と平清盛の政争の1つとして有名な1177年に起こった鹿ケ谷の陰謀という事件について紹介します。 鹿ケ谷の陰謀は、後白河上皇ら平清盛反対派の人たちが、「打倒!平家」を企んでいるのを平清盛が事前に察知し、武力により反対派を排除した事件です。なんとも複雑怪奇な出来事なのですが、なるべくわかりやすように紹介してみます。 ...

 

平清盛はでっち上げの事件を作って、後白河法皇の近臣を失脚させ、手足を失った後白河法皇は朝廷での影響力を失いました。鹿ケ谷の陰謀事件によって、平滋子によって長い間抑えられていた平清盛と後白河法皇の対立が遂に表面化してしまったのです。

 

 

さらに1179年、後白河法皇と平清盛の間に所領を巡る争いが勃発。清盛は、後白河法皇を脅し、幽閉してしまいました。この事件のことは、治承三年の政変と言われています。

 

平重盛の記事ですが、この辺の話は以下の記事がくわしいです。

平重盛はどんな人?わかりやすく紹介!【平家物語の名言や系図などを交えて】
今回は、平清盛の嫡男で平家棟梁でもあった平重盛(しげもり)について紹介します。 平重盛は文武両道の優秀な人物であり、かなりの人格者でもありました。武士・貴族両方から信頼される存在で、まさに平清盛の後継者に相応しいエリートな人間でしたが、その生涯、特に晩年はかなり悲惨な生涯でした・・・。 晩年の平重盛は、自ら「早く死んでしま...

 

鹿ケ谷の陰謀と治承三年の政変を通じてラスボスだった後白河法皇を倒した平清盛は、1180年に孫を安徳天皇として即位させました。天皇即位の決定権は、本来、上皇が持っていましたが後白河上皇(法皇)は幽閉中であり、平清盛が強権で安徳天皇の即位を決めます。(貴族たちからは大ブーイングを浴びた!)

 

 

が、鹿ケ谷の陰謀と治承三年の政変、そして安徳天皇の強行即位など、平清盛の独裁政治っぷりに各地の人々は次第に不満を持つようになります。

源平合戦始まる!

1180年、平清盛の横暴な政治に対して遂に反乱が起きてしまいます。安徳天皇の即位に不満を持った後白河法皇の息子の以仁王(もちひとおう)という人物が挙兵したのです。

以仁王とは?以仁王の挙兵をわかりやすく紹介!【平清盛との関係など】
今回は、源平合戦のきっかけとなった以仁王(もちひとおう)という人物について紹介します。 1180年、以仁王は各地の源氏に呼びかけ、平氏に対して挙兵をしました。以仁王の挙兵自体はすぐに鎮圧されてしまいますが、その後源氏たちが立ち上がり次々と挙兵。以仁王の挙兵は源平合戦の始まりとなる歴史上とても重要な事件となります。 以仁王ってど...

 

以仁王は、日本各地の源氏に打倒平氏を呼びかけ、各地の源氏たちがこれに呼応します。以仁王の呼びかけに応じた人物の中には、源頼朝や源義仲(木曽義仲)と言った歴史に名を残した人物もいました。

木曽義仲ってどんな人?わかりやすく紹介【性格や巴御前との関係など】
今回は、源平合戦の主役の1人であり、短命ながらも激動の生涯を送った木曽義仲(きそよしなか)という人物について紹介したいと思います。 木曽義仲の生い立ち 木曽義仲は、乳飲み子の頃から波乱万丈な人生を送ることになります。木曽義仲が2歳の時、父を殺され、木曽義仲自身も命を狙われることになったのです。しかしながら、いろんな人の助けがあって信濃国へと逃れる...

 

 

以仁王の挙兵はすぐに鎮圧されましたが、これを機に平清盛は福原への遷都を決行します。長い歴史を持つ平安京を離れることに多くの者が反発し、平清盛に従順だった高倉上皇までもが反対の意見を述べるほどでした。

 

 

以仁王の挙兵自体は失敗したものの、それに呼応した源頼朝らが続いて挙兵。平家側は石橋山の戦いで勝利を収めるものの、1180年10月の富士川の戦いで戦わずして源頼朝に敗走。

石橋山の戦いをわかりやすく紹介!【源頼朝と梶原景時の出会い】
今回は、源平合戦の間に起こった石橋山の戦いという戦について紹介したいと思います。 石橋山の戦いは、「源氏よ!平氏を倒すために立ち上がれ!」という以仁王の令旨を受け源頼朝が蜂起した後、平氏と源頼朝が衝突した最初の戦となります。 以仁王については以下の記事を参考にどうぞ。 流罪人の源頼朝、立ち上がる 平治の乱で父の...

 

富士川の戦いをわかりやすく紹介!【水鳥の羽音、頼朝と義経の感動の再会】
今回は、源平合戦の戦の1つである富士川の戦いについて紹介します。 石橋山の戦いで大敗北を喫した源頼朝は奇跡的に生き残り、海を渡り、安房国(房総半島の先っちょ)へ避難することになります。これが1180年8月29日の話。  富士川の戦い当時の状況 安房国に逃げ込んだ源頼朝は9月の間に、源頼朝を慕う上総国の上総広常(かずさ...

 

不利な情勢と、平安京付近の不穏な動きを恐れた平清盛は福原京遷都を断念。1180年11月に再び都が平安京に戻りました。

 

 

結局、福原京遷都は人々の平家に対する不満を高めただけ。さらに1181年1月には戦の途中に東大寺や興福寺を全焼させてしまう大事件まで起こし、平家の人望は地に落ちてしまいます。

平重衡の南都焼き討ちを簡単にわかりやすく紹介!
今回は、源平合戦に起こった戦いの一つである南都焼き討ちについて紹介しようと思います。 南都焼き討ちは、平家に歯向かう奈良の寺院勢力(主に東大寺・興福寺)と平家軍による戦であり、戦火が拡大し興福寺・東大寺の建築物や仏像を焼きつくしてしまった事件です。 日本の文化財保護という観点から見れば、これほど愚かな戦いはありません。南都...

 

そんな平家の存亡がかかった重要な局面の中、1181年3月に平清盛は亡くなってしまいます。これは東大寺や興福寺を焼いた仏罰だと当時は噂されていたそうです。

 

 

平家物語によれば、平清盛は最後の遺言で「俺の葬儀はいらん。それよりも源頼朝の首を俺の墓の前に持ってこい!!」と打倒源頼朝を息子たちに誓わせて亡くなったと言われています。

 

しかし、この清盛の遺言は叶わず、平家は壇ノ浦の戦いで敗北することになります。

壇ノ浦の戦いを簡単にわかりやすく紹介!【安徳天皇の入水と源義経の活躍など】
今回は、源平合戦の最後の戦い、壇ノ浦(だんのうら)の戦いについて紹介します。 壇ノ浦戦い当時の戦況 まずは、壇ノ浦の戦い当時の戦況について紹介しておきましょう。 1184年2月、福原付近を本拠地とする平家軍に三種の神器の奪還を名目とした源氏軍が襲い掛かります。 福原は北西を険しい山、南は海に囲まれた天然の要塞で...

平清盛の人物像

平清盛は非常に気の利く男で、気配りもできる義理堅い人物だったと言われています。

 

天皇・上皇・摂関藤原氏・武家による複雑な政争の中、平清盛は常に最も自分に有利な立場を理解し、巧みに様々な人たちと人間関係を構築できたのも、その平清盛の性格のおかげです。平清盛は武士ですが、どちらかというと政治家向きの人物だったのだと思います

 

 

このような気配り上手な平清盛ですが、1179年に後白河法皇を幽閉した頃から敵がいなくなったのもあって、次第に独裁的な振る舞いが多くなります。こうした平清盛の慢心が多くの人に不満を抱かせ、源平合戦のきっかけとなってしまったのです。

 

おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
これは平家物語の有名な一文ですが、まさに平清盛のことを言っています。

 

平清盛といえば晩年の傲慢な様子ばかりがピックアップされ、悪いイメージもありますが、本質的には清盛は気遣いのできる義理に厚い男だったのでした。

異なる2つの政治理念

最後にちょっと平清盛と源頼朝の政治理念の話を。

 

平清盛と源頼朝はいずれも武士による世を作ろうと考えていました。ですが、この2人の政治理念は大きく異なります。

 

平清盛は、既存の貴族政治の枠組みの中で既得権益層を排除。そして、平家でその地位を独占することで武士の世を築き上げようとしました。政治の仕組みはそのままに中身を全て武士にしてしまおうと考えたわけです。

 

 

しかし、これは長続くするはずがありません。朝廷における地位や所有する国を全部平家が独占してしまっては、人々の不満が高まるのは当然。しかもそれが、前任者を強権によって追い出して得た地位ならなおさらです。

 

 

一方の源頼朝の政治理念は、源氏の棟梁という権威ある立場を利用し、「自分のために役立ってくれたら所領を与える又は守ってやるよ」という新しい政治を考えていました。(教科書的に言う御恩と奉公)

 

源頼朝を頂点として、源頼朝によって各武将たちに土地を分け与えるわけです。こうすれば、武将たちのモチベーションも上がるし、頑張れば報われるわけですから、不平不満も生まれないわけです。

 

 

ただ、源頼朝の政治理念は源頼朝が頂点に君臨する必要があり、天皇を頂点とする朝廷の既存の枠組みには馴染まないものでした。そして、この政治理念を実現するには、源頼朝が頂点に立てるような朝廷以外の別な組織が必要でした。こうして開かれたのが鎌倉幕府です。

 

 

同じ武士の世・・・と考えながらも平家の繁栄のみを目指した平清盛と、源氏を頂点として各武将に所領管理を任せれる新組織を作り上げた源頼朝とでは、源頼朝の方が一枚上手だったと言えそうです。

 

 

同じ信念を持っていながら、その政治理念が大きく異なるというのは非常に興味深く、こうやって考察してみるととても面白いですね。

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