平清盛ってどんな人?その生涯・性格をわかりやすく紹介するよ【平家物語の言う盛者必衰の理を知る】

今回は、平安時代の超有名人物、平清盛(たいらのきよもり)について紹介しようと思います。

 

 

平清盛が生きた時代は、権力が既得権益層の貴族からその貴族に虐げらていた武士へと移り変わるまさに日本の大転換期。

 

 

そんな激動の時代の中、貴族を超えた最高権力者として君臨した平清盛。その生涯はどんな生涯だったのでしょうか。平清盛の生涯はまさに、平家物語が説く「盛者必衰の理(ことわり)」そのものだと言えます。

 

では、本題へ。

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平清盛の父(平忠盛)と祖父(平正盛)

まずは平清盛の父や祖父の話を簡単に。歴史上では平清盛ばかりが有名ですが、平清盛のご先祖たちも実に優秀な人物たちでした。

平清盛の祖父、平正盛

平清盛の祖父の平正盛(たいらのまさもり)は、白河上皇に重宝され、後に平家が躍進する土台を作った人物。時代は1100年前後。

白河天皇(上皇・法皇)を簡単にわかりやすく紹介!【院政はなぜ始まったか?】
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平正盛が白河上皇に重用された理由は、大きく2つあると言われています。

 

寵愛する愛娘が亡くなり白河上皇が絶望している所に、平正盛がその愛娘のための建てられた六条院に土地を寄進したこと

 

後三年の役で力を付けすぎた源義家に変わる忠実な武士を白河上皇が欲していたこと

 

後三年の役を簡単にわかりやすく紹介!【理由や経過など!】
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僧兵からの強訴などに対応するため、当時の権力者たちは自分に忠実な武士を欲していました。それまでは源氏が主役でしたが、源氏の力を恐れた朝廷は次第に源氏の登用を減らし、平家を重用するに至ったのです。

僧兵の強訴について簡単にわかりやすく紹介【白河法皇を悩ませた山法師とは】
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平正盛が土地を寄進したのは、「白河上皇の心情を察してそれを利用した」とか「所領争いを勝ち抜くために白河上皇の後ろ盾を得ようとした」などの理由があると言われています。いずれにせよ、平正盛はなかなかの策士だったようです

平清盛の父、平忠盛

平正盛が作り上げた白河上皇との結びつきを更に強め、平家の地位を大きく高めたのが平忠盛(たいらのただもり)でした。

 

 

平忠盛は、白河上皇だけでなく後の鳥羽上皇からも寵愛を受けるようになります。さらに、平忠盛が本格的に始めた日宋貿易は、後に平家に多大な富をもたらすことになります。

平清盛による日宋貿易とは?わかりやすく紹介【大輪田泊と福原京】
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平忠盛は、その財力や軍事力を利用して天皇や上皇を支え、武士としては破格の出世を遂げました。

 

 

平正盛が土台を築き、平忠盛によって得られた富と地位、軍事力を受け継いだのが平清盛でした。平清盛の築き上げた平家の栄華は清盛によってのみ成し遂げられたのではなく、先祖代々受け継がれた努力の賜物とも言えます。

 

 

そして平清盛が目指したのは、忠盛が作り上げた平氏の権勢を一層強固なものとし、武士を政治の中心とした武士の世を創設することでした。

平清盛と保元の乱・平治の乱

1156年、崇徳上皇と後白河天皇の間で権力争いが起こり、平安京で乱が起こります。保元の乱です。

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保元の乱に後白河天皇が勝利すると、その近臣だった信西は政治の刷新に平清盛の財と武力を利用したいがために、平清盛を露骨に重用するようになります。一方、平家と双璧をなしていた源氏は、低い官位に据え置かれたまま。こうして、平家は武家としても日本の頂点に立ちつつありました。

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さらに1159年、権勢を振るう信西に不満を持つ勢力と源氏の棟梁の源義朝が組み、反乱を起こします。平治の乱です。

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平治の乱により、源氏の棟梁である源義朝は戦死。その息子であった源頼朝も伊豆に流され、源氏の凋落は決定的なものとなります。

 

そして、同業のライバルである源氏の凋落で、おそらく一番喜んだのが平清盛です。強訴や所領争いで貴族らが武力を欲したとしても、もはやその武力を平氏に頼らざるを得ません。平清盛は、武家としての仕事を独占できるようになったのです。

 

武家の仕事が寡占状態になったことで平清盛の存在感は否が応でも強まり、平清盛での政界での影響力はもはや無視できないレベルにまで達しました。そして、平清盛の前にラスボスのように立ちはだかったのが治天の君である後白河上皇でした。

平清盛と後白河上皇

【後白河天皇】

平治の乱が鎮圧された当時の権力者は2人いました。二条天皇と後白河上皇です。

 

なぜ権力者が2人いるのか?それは、少し前の白河法皇によって、院政が敷かれていたからです。当時の日本は、天皇と上皇によるに権力の二重構造により、その政治情勢は複雑化していました。

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このような政治機構なので、天皇と上皇が対立することも多く、二条天皇と後白河上皇も親子だったにもかかわらず、政治的には敵対関係にありました。

 

平清盛は、この両者の軋轢を利用します。二条天皇も後白河上皇も政治の主導権を握るため、平清盛の財と武力を欲しています。天皇も上皇も平清盛を自分側に繋ぎとめようと官位などの恩賞をチラつかせます。

 

平清盛は両者に良い顔をしながら、二人の恩賞を吊り上げ、平家の朝廷での地位を飛躍的に高めました。

 

そんな平清盛、二条天皇、後白河上皇の三者の駆け引きの中で建てられたのが千手観音像で有名な三十三間堂です。

 

平清盛は、後白河上皇の望みを叶えるため、三十三間堂(蓮華王院)を建立したのです。

 

 

しかし、平清盛自身は、二条天皇による政治を望んでいました。後白河上皇の人柄をあまり好いてはいなかったと言われています。最終的に、揉めに揉めて後白河上皇は院政停止状態にまで追い込まれます。

 

 

平清盛としては、恩賞を絞り尽くしてしまったら、後白河上皇とは距離を置いて良いわけです。ものすごく政治家っぽいことをやってます平清盛は。

 平清盛、太政大臣へ

後白河上皇とは一定の距離を保っていた平清盛ですが、事態は大きく動きます。

 

 

きっかけは、平清盛の正妻の妹(義理の妹)だった平滋子(たいらのしげこ)という人物。後白河上皇は平滋子の美貌に惹かれ、なんと平滋子を正妻とし、男子まで授かってしまいました。

 

 

こうなっては、後白河上皇を無下にすることはできません。二条天皇の逝去もあって、平清盛は後白河上皇に再度接近します。(二条天皇の次に即位した六条天皇は乳飲子だったので、実質的に後白河上皇逆最高権力となっていた!)

 

こうして、名実共に最高権力者となった後白河上皇と急接近した平清盛は1167年、武士として史上初の太政大臣にまで昇格します。

 

太政大臣は貴族階級の最高名誉職。その地位に武家の平清盛が選ばれたというのは、当時の武士の力を示す象徴的な出来事でした。(逆に貴族政治の衰退も暗示している。)

 

平清盛が太政大臣になるまでの経過は、以下の記事で紹介しています。

平清盛はなぜ太上大臣になった?その経過は?わかりやすく紹介
今回は、あの有名な平清盛が1167年に太政大臣にまで昇進するまでの流れを紹介したいと思います。 当時の朝廷は上皇・天皇・平清盛という三者の思惑が渦巻く、とても複雑な人間関係が続いていました。そんな複雑な朝廷の中で、平清盛がどのようにして朝廷最高官位である「太政大臣」になったのかを見てみたいと思います。 太政大臣になる前の平清盛 平清...

平清盛と高倉天皇

さらにその翌年の1168年、後白河上皇と平滋子の間に生まれた憲仁親王が高倉天皇として即位。わずか8歳での即位で、実権は後白河上皇と舅の平清盛が握りました。

 

1172年には、清盛の娘である平徳子を高倉天皇の正妻へ。

 

1178年には、平清盛念願の男子が出生。この男子が天皇即位すれば、平清盛は外祖父の地位を得ることができて、絶大な力を得られます。(後の安徳天皇)

 

 

高倉天皇の登場によって朝廷内で強い力を持っていた平清盛は、1170年頃からトントン拍子で最高権力の座へ近づきつつありました。平時忠の有名な「平家にあらずんば人にあらず」という名言が生まれたのもこの頃です。

 

 

この頃はまさに平家の絶頂期で、盛者必衰の理で有名な平家物語もこの時期から始まっています。

平清盛と日宋貿易・厳島神社

【平重盛】

1168年、平清盛は病に倒れます。回復後は出家し、住処を福原に移しました。平安京のことは、嫡男の平重盛(たいらのしげもり)に託します。

平重盛はどんな人?わかりやすく紹介!【平家物語の名言や系図などを交えて】
今回は、平清盛の嫡男で平家棟梁でもあった平重盛(しげもり)について紹介します。 平重盛は文武両道の優秀な人物であり、かなりの人格者でもありました。武士・貴族両方から信頼される存在で、まさに平清盛の後継者に相応しいエリートな人間でしたが、その生涯、特に晩年はかなり悲惨な生涯でした・・・。 晩年の平重盛は、自ら「早く死んでしま...

 

福原に移った平清盛は、日宋貿易の本格化と厳島神社の整備に取り掛かります。平清盛は当時、50歳でしたがまだまだ若い!

 

平清盛は長年の間、福原近くの港、大輪田泊の開発を進めていました。宋との貿易を太宰府ではなく都に近い瀬戸内海で行いたいという平清盛の野望があったからです。

 

福原に移った平清盛はその野望を実現しようと、遂に宋船を大輪田泊に迎え入れます。この頃に強力に推し進めた平清盛の日宋貿易は、貨幣の流通という日本の経済にとてつもなく大きな影響を与えることになりました。

平清盛による日宋貿易とは?わかりやすく紹介【大輪田泊と福原京】
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日宋貿易の本格化と同時に平清盛が進めていたのが、厳島神社の改修です。水中に鳥居のある一見すると摩訶不思議な厳島神社ですが、今のようなデザインを考えたのは平清盛でした。

 

平清盛は青年期に父の忠盛と共に瀬戸内海の海賊退治の任務に勤しんでいた経験を持っていたり、大輪田泊に貿易港を作ったりと、瀬戸内海とは切っても切れない関係を持っています。

 

 

そこで平清盛は瀬戸内海の厳島神社を自らの氏寺と定め、豊富な財力を活かして厳島神社を今のような立派な神社に改修したのです。

平清盛の晩年

晩年の平清盛には、流石にその勢いにも衰えが見られるようになります。

 

 

その大きなきっかけになったのが、1176年の後白河法皇の正妻だった平滋子の死です。

 

 

上皇の権力を守りたい後白河法皇と権力を我が物にしたい平清盛は、立場上、対立関係にありました。それでも両者の間で大きな争いが見られなかったのは平滋子が2人を上手くコントロールしてくれたおかげでした。平滋子は美貌の持ち主であると共に、非常に頭の切れる女性で両者の力関係をしっかりと理解し政治を支えた縁の下の力持ちだったのです。

 

 

平滋子の死によって、後白河法皇と平清盛は互いに遠慮する必要もなくなり、両者の秘められた闘志がいよいよ剥き出しになります。

 

 

こうして起こったのが鹿ケ谷の陰謀という事件

鹿ケ谷の陰謀とは?わかりやすく紹介【後白河上皇VS平清盛】
今回は、後白河上皇と平清盛の政争の1つとして有名な1177年に起こった鹿ケ谷の陰謀という事件について紹介します。 鹿ケ谷の陰謀は、後白河上皇ら平清盛反対派の人たちが、「打倒!平家」を企んでいるのを平清盛が事前に察知し、武力により反対派を排除した事件です。なんとも複雑怪奇な出来事なのですが、なるべくわかりやすように紹介してみます。 ...

 

平清盛はでっち上げの事件を作って、後白河法皇の近臣を失脚させ、手足を失った後白河法皇は朝廷での影響力を失いました。鹿ケ谷の陰謀事件によって、平滋子によって長い間抑えられていた平清盛と後白河法皇の対立が遂に表面化するのです。

 

さらに1179年、後白河法皇と平清盛の間に所領を巡る争いが勃発。もはや、小細工は不要・・・と言わんばかりに平清盛は、武士を導入。後白河法皇を脅し、幽閉してしまいました。この事件のことは、治承三年の政変と言われています。

 

平重盛の記事ですが、この辺の話は以下の記事がくわしいです。

平重盛はどんな人?わかりやすく紹介!【平家物語の名言や系図などを交えて】
今回は、平清盛の嫡男で平家棟梁でもあった平重盛(しげもり)について紹介します。 平重盛は文武両道の優秀な人物であり、かなりの人格者でもありました。武士・貴族両方から信頼される存在で、まさに平清盛の後継者に相応しいエリートな人間でしたが、その生涯、特に晩年はかなり悲惨な生涯でした・・・。 晩年の平重盛は、自ら「早く死んでしま...

 

鹿ケ谷の陰謀と治承三年の政変を通じてラスボスだった後白河法皇を倒した平清盛。1180年には高倉天皇の子であった言仁親王を安徳天皇として即位させてしまいます。天皇即位の決定権は、本来、上皇が持っていましたが後白河上皇(法皇)は幽閉中であり、平清盛が安徳天皇の即位を決めます。

 

 

上皇の決定権限を武士の身分の平清盛が代行する。まさに平清盛無双です。

 

 

が、鹿ケ谷の陰謀と治承三年の政変、そして安徳天皇の強行即位など、平清盛の独裁政治っぷりに各地の人々は次第に不満を持つようになります。表面上はまさに敵なしの清盛でしたが、水面下では平清盛に敵対する者が少しずつ増えていったのです。

 

 

そして、この平清盛に敵対する人物で最も有名なのが、平治の乱以降伊豆に流されていた源頼朝でした。

平清盛と源平合戦

1180年、平清盛の横暴な政治に対して遂に反乱が起きます。安徳天皇の即位に不満を持った後白河法皇の息子の以仁王という人物が挙兵したのです。

以仁王とは?以仁王の挙兵をわかりやすく紹介!【平清盛との関係など】
今回は、源平合戦のきっかけとなった以仁王(もちひとおう)という人物について紹介します。 1180年、以仁王は各地の源氏に呼びかけ、平氏に対して挙兵をしました。以仁王の挙兵自体はすぐに鎮圧されてしまいますが、その後源氏たちが立ち上がり次々と挙兵。以仁王の挙兵は源平合戦の始まりとなる歴史上とても重要な事件となります。 以仁王ってど...

 

以仁王は、日本各地の源氏に打倒平氏を呼びかけ、各地の源氏たちがこれに呼応します。以仁王の呼びかけに応じた有名な源氏こそが、源頼朝や源義仲(木曽義仲)でした。

木曽義仲ってどんな人?わかりやすく紹介【性格や巴御前との関係など】
今回は、源平合戦の主役の1人であり、短命ながらも激動の生涯を送った木曽義仲(きそよしなか)という人物について紹介したいと思います。 木曽義仲の生い立ち 木曽義仲は、乳飲み子の頃から波乱万丈な人生を送ることになります。木曽義仲が2歳の時、父を殺され、木曽義仲自身も命を狙われることになったのです。しかしながら、いろんな人の助けがあって信濃国へと逃れる...

 

福原へ遷都

以仁王の挙兵はすぐに鎮圧され、その後平清盛は福原への遷都を決行します。長い歴史を持つ平安京を離れることに多くの者が反発し、平清盛に従順だった高倉上皇までもが反対の意見を述べるほどだったと言います。

 

 

以仁王の挙兵自体は失敗したものの、それに呼応した源頼朝らが続いて挙兵。平家側は石橋山の戦いで勝利を収めるものの、1180年10月、富士川の戦いで戦わずして源頼朝に敗走。

石橋山の戦いをわかりやすく紹介!【源頼朝と梶原景時の出会い】
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富士川の戦いをわかりやすく紹介!【水鳥の羽音、頼朝と義経の感動の再会】
今回は、源平合戦の戦の1つである富士川の戦いについて紹介します。 石橋山の戦いで大敗北を喫した源頼朝は奇跡的に生き残り、海を渡り、安房国(房総半島の先っちょ)へ避難することになります。これが1180年8月29日の話。  富士川の戦い当時の状況 安房国に逃げ込んだ源頼朝は9月の間に、源頼朝を慕う上総国の上総広常(かずさ...

 

情勢が芳しくなく、平安京付近でも反乱が起きかねないことを恐れた平清盛は福原京遷都を断念。1180年11月に再び都が平安京に戻りました。

 

 

結局、福原京遷都は人々の平家に対する不満を高めただけ。さらに1181年1月には戦の途中に東大寺や興福寺を全焼させてしまう大事件まで起こし、平家の人望は地に落ちてしまいます。

平重衡の南都焼き討ちを簡単にわかりやすく紹介!
今回は、源平合戦に起こった戦いの一つである南都焼き討ちについて紹介しようと思います。 南都焼き討ちは、平家に歯向かう奈良の寺院勢力(主に東大寺・興福寺)と平家軍による戦であり、戦火が拡大し興福寺・東大寺の建築物や仏像を焼きつくしてしまった事件です。 日本の文化財保護という観点から見れば、これほど愚かな戦いはありません。南都...

 

そしてそんな平家の存亡がかかった重要な局面の中、1181年3月に平清盛は亡くなってしまいます。これは東大寺や興福寺を焼いた仏罰だと当時は噂されていたそうです。

 

 

平家物語によれば、平清盛は最後の遺言で「俺の葬儀はいらないから、それよりも源頼朝の首を俺の墓の前に持ってこい!!」と打倒源頼朝を息子たちに誓わせて亡くなったと言われています。

平清盛の人物像

平清盛は非常に気の利く男で、気配りもできる義理堅い人物だったと言われています。保元の乱から始まった天皇・上皇・摂関藤原氏・武家による複雑な政争の中、平清盛は常に最も自分に有利な立場を理解し、巧みに様々な人たちと人間関係を構築できたのも、その平清盛の性格のおかげ。

 

 

平清盛は武士ですが、どちらかというと政治家向きの人物だったのだと思います

 

 

このような気配り上手な平清盛ですが、1179年に後白河法皇を幽閉した頃から敵がいなくなったのもあって、次第に独裁的な振る舞いが多くなります。

 

 

こうした平清盛の慢心が多くの人に不満を抱かせ、源平合戦のきっかけとなってしまったのです。

 

おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
この平家物語の有名な一文は、まさに平清盛のことを現しているわけです。

 

 

 

平清盛は根はとても良い人物だったんでしょうけど、亡くなる間際の独裁的な行動によってその評価は地に落ちてしまいました。そんな2面性を持っているせいか平清盛の人物像って、物語やゲームによってかなり違います。悪者にもなるしヒーローにもなる、それが平清盛。

 

 

 

個人的な感想で言えば、平清盛は良い人で優秀な政治家ってイメージです。それでも、安徳天皇の強行即位や福原京遷都の強行は、それまでの平清盛らしい狡猾な根回しや人々への配慮が著しく欠けており、失策と言わざるを得ないですけどね・・・。

平清盛と源頼朝の政治理念

最後にちょっと平清盛と源頼朝の政治理念の話を。

 

平清盛と源頼朝はいずれも武士による世を作ろうと考えていました。ですが、この2人の政治理念は大きく異なります。

 

平清盛は、既存の貴族政治の枠組みの中で既得権益層を排除。そして、平家でその地位を独占することで武士の世を築き上げようとしました。政治の仕組みはそのままに中身を全て武士にしてしまおうと考えたわけです。

 

 

しかし、これは長続くするはずがありません。朝廷における地位や所有する国を全部平家が独占してしまっては、人々の不満が高まるのは当然。しかもそれが、前任者を強権によって追い出して得た地位ならなおさらです。

 

 

一方の源頼朝の政治理念は、源氏の棟梁という権威ある立場を利用し、「自分のために役立ってくれたら所領を与える又は守ってやるよ」という新しい政治を考えていました。(教科書的に言う御恩と奉公)

 

源頼朝を頂点として、源頼朝によって各武将たちに土地を分け与えるわけです。こうすれば、武将たちのモチベーションも上がるし、頑張れば報われるわけですから、不平不満も生まれないわけです。

 

 

ただし、源頼朝の政治理念は源頼朝が頂点に君臨する必要があり、天皇を頂点とする朝廷の既存の枠組みには馴染まないものでした。そして、この政治理念を実現するには、源頼朝が頂点に立てるような朝廷以外の別な組織が必要でした。こうして開かれたのが鎌倉幕府です。

 

 

同じ武士の世・・・と考えながらも平家の繁栄のみを目指した平清盛と、源氏を頂点として各武将に所領管理を任せれる新組織を作り上げた源頼朝とでは、源頼朝の方が一枚上手だったと言えそうです。

 

 

同じ信念を持っていながら、その政治理念が大きく異なるというのは非常に興味深く、こうやって考察してみるととても面白いですね。

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平安時代【源平合戦(治承・寿永の乱)】
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