藤原冬嗣を簡単にわかりやすく紹介!【空海・最澄や桓武天皇との関係は?】

今回は、平安時代初期に多方面で活躍した藤原冬嗣(ふゆつぐ)という人物について紹介します。

 

藤原冬嗣は、優秀な人物で桓武天皇の信任も厚く、後の藤原氏の繁栄に大きな貢献をした人物です。活躍した期間は800年前後。

 

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栄華を勝ち取った藤原北家の藤原冬嗣

当時の藤原一族は大きく4つの勢力に分かれ、それぞれ協力したり対立したりと微妙な関係にありました。

 

4つの勢力は、北家、南家、式家、京家と呼ばれ、奈良時代に活躍した藤原不比等という人物の4人の息子から派生しました。

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この4つの勢力のうち、平安時代以降も栄華を極めることになったのは藤原冬嗣の属する北家だけ。藤原冬嗣は、桓武天皇からの信任も厚く仕事もとても優秀な人格者だったので次々と出世してゆきました。藤原冬嗣は、北家の繁栄の立役者と言っても良いかもしれません。

 

平安時代中期に台頭する有名な藤原道長など後の有名な藤原氏の多くが北家出身なのは、藤原冬嗣がこの時代に北家の優位性を決定的に高めたおかげと言えます。

初代蔵人頭に抜擢!頼れる男、藤原冬嗣

810年、薬子の変(平城太上天皇の変)という事件が起こります。平城上皇が、「都を平城京に戻す!」とわがままを言って、嵯峨天皇と対立し、武力闘争にまで発展してしまった事件です。詳しい内容は、以下の記事を参考にどうぞ。

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嵯峨天皇は平城上皇に対抗するため、普通の官僚制度の外に自分の手足のよう動いてくれる信頼できる者だけを集めた蔵人という部署を創設しました。いわゆる秘書兼護衛みたいな感じですね。

 

そしてこの蔵人のトップである蔵人頭(くろうどのとう)の初代に就任したのが藤原冬嗣でした。桓武天皇から絶大な信頼を得ていたことがわかります。

官僚としても有能だった藤原冬嗣

藤原冬嗣は、官僚としても非常に有能な人物だったようで、官僚としても大きな仕事を成し遂げています。

 

1つは弘仁格式という法典を整備。奈良時代に整備された法を平安時代に対応させるために行われた大事業です。藤原冬嗣はプロジェクトチームの一員として法整備に大きな貢献をしました。

 

さらに、日本後紀と呼ばれる政府公式歴史書の編纂にも携わっていました。どちらも政府中枢の超重要任務。藤原冬嗣が有能な官僚だったことが伺えます。

一族の団結に努めた藤原冬嗣

藤原北家の説明のところで、藤原氏の勢力は大きく4つあると説明しましたが、藤原冬嗣は自らの属する北家を中心に、残りの3勢力も含めた藤原氏をなんとかまとめ上げようと努めていました。薬子の変などの天皇家のイザコザを見て、藤原氏の団結を望んだのかもしれません。

 

その試みとして行われたのが施薬院(せやくいん)・勧学院(かんがくいん)と呼ばれる藤原氏専用の学校の設立、そして藤原氏の氏寺である興福寺でのお堂の建立でした。

 

藤原冬嗣は寛容な人物でもあったとも言われており、人をまとめるリーダー的存在には適任だったのかもしれません。

空海・最澄と藤原冬嗣

藤原冬嗣が官僚として活躍していた時代、仏教界では密教という最新の仏教思想が大陸から伝来し、日本仏教に大きな変革をもたらした時代でもありました。

 

そんな日本仏教の大変革に大きな貢献をしたのが有名な空海と最澄でした。当時の日本仏教は腐敗しており、桓武天皇は仏教の刷新を望んでいました。空海の持ち込んだ真言宗と、最澄が持ち込んだ天台宗は、どちらも密教という最先端の思想を持つ宗派であり、桓武天皇はこれらに大いに期待を持っていました。

 

仏教の腐敗についてはここでは省略しますが、奈良時代後期の道鏡事件なんかは日本の仏教が腐敗していたことを示す良い例だと思います。

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当時の仏教は国策でした。真言宗・天台宗という新仏教の台頭に旧仏教勢力は反発し、新仏教の普及は難航しましたが、桓武天皇と藤原冬嗣はなんとか新仏教を普及させることに成功しました。

 

当時の仏教対立は、最澄と徳一という人物の論争が有名です。

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桓武天皇と藤原冬嗣は、特に空海の持ち込んだ真言宗を重要視するようになります。これは天台宗と比べ真言宗の方が密教としては体系的に整理されていて、朝廷としても受け入れやすかったことや、真言宗の方が旧仏教勢力と調整に時間を要しなかったことにあります。

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天台宗も最終的には朝廷に受け入れられることとなりますが、受け入れられたのは最澄が亡くなった直後のことでした。

 

このように藤原冬嗣と真言宗は密接な関係にあり、大阪には藤原冬嗣の発願によって建立された藤次寺(とうじじ)という真言宗のお寺が現在も残っています。

まとめ、藤原冬嗣は超人

以上、藤原冬嗣について簡単にまとめてみました。藤原冬嗣はあらゆる分野で大活躍したまさにパーフェクトと言っても良い人物。和歌も詠んだようでいくつかの和歌が和歌集に収められています。

 

それに人格もかなり優れていたようで、柔軟な発想を持ち寛容であり、人々からも好かれていた存在だったようだ・・・なんて言われています。貧しい人に施しをするなど民政面でも活躍したようです。

 

まさに超人です。非の打ち所がない。実際に歴史を語る際には、藤原冬嗣が悪く言われるケースって少ないんじゃないかな?と思います。

 

藤原冬嗣は桓武天皇を支えた超重要人物なんですが、冬嗣自身が単独で行った歴史に残るような事件や事業がないため、どちらかというとマイナー人物になってしまっているような気がします。しかし、藤原冬嗣のようなトップを支える有能官僚がいなければ当時の政治は成り立ちませんでした。そんな縁の下の力持ちだった藤原冬嗣、忘れないであげてください!

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