平清盛による日宋貿易とは?わかりやすく紹介【大輪田泊と福原京】

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今回は、日宋貿易と平清盛のお話をしようと思います。

 

平清盛は武士でありながら朝廷内で高い地位を誇り、平家の繁栄を築き上げることに成功しますが、平家繁栄の背後にあったのが日宋貿易によって得た豊富な財力の存在でした。

 

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平清盛と日宋貿易

勘違いしやすいのですが、日宋貿易=平清盛が始めた!というイコール関係は間違っています。

 

日本は894年の遣唐使廃止によって、外国との外交関係を遮断してしまいます。しかしこれはあくまで国と国との公式的な外交のお話。物流や経済という観点からは私的な商人たちは引き続き日本を往来し、朝廷もこれを認めていました。(というか朝廷自身もこの貿易によって欲しい物を手に入れていた!)

 

 

この日宋貿易に注目し、「あれ?もしかして貿易による仕入れを独占できたら大儲けできるんじゃね!?」と考え出したのが平清盛・・・ではなく!その父の平忠盛(ただもり)という人物でした。

平忠盛の商才

平忠盛は武士でありながら商いにも非常に長けた男だったようで、日宋貿易で一発当てることに成功します。

 

鳥羽上皇の院政時代、鳥羽上皇の信任厚い平忠盛は肥前国(今の長崎・佐賀らへん)にある院領(上皇の所領)の管理者に抜擢されます。平忠盛はこの時、実に巧み・・・というかインチキな方法で宋との貿易権限を独占してしまいます。

 

その手法とはこんな感じでした。(あくまでイメージね!)

 

太宰府「宋からの輸入品は太宰府で管理する。他の人は勝手に日宋貿易をするな。そして、輸入品が欲しいのならちゃんと太宰府を通すように。」

 

平忠盛「相変わらず太宰府はお堅いなぁ。でもさ、実は鳥羽上皇からこんなものを預かっているんだよね〜。」

 

平忠盛「あっ!」(わざと院宣を床に落とす)

 

太宰府「い、院宣!?鳥羽上皇様からのご命令か!?」

 

平忠盛「そのとおり。一応読み上げよう。『平忠盛へ。日宋貿易の権限は忠盛に委ねるよ。頑張ってね!』」

 

平忠盛「というわけだから、今日から日宋貿易には私を通すように。そして太宰府は私に協力するように。」

 

太宰府「上皇様のご命令ならば、致し方ないか・・・」

 

平忠盛(作戦成功!院宣なんて嘘に決まってるじゃん。あれは俺がテキトーに偽装した院宣さ。)

 

当時は院政の時代。太宰府に関する最高決定権者は本来天皇だったのですが、上皇が天皇を後見する立場から独自の権力を手に入れていたため、たとえ天皇の命令でも上皇がその気になれば簡単にその命令を翻すことができました。ちなみに、この二重権力構造が平安時代末期の日本を混沌の世へと導いてゆきます。

 

平忠盛は天皇命令ですら翻せる院政を巧みに利用し、日宋貿易での利益を貪ることに成功します。その後、嘘がバレてちょっとした事件になります。院宣の偽装は上皇の命令を改ざんするということなので、大罪になる可能性もありました。しかし、忠盛のおかげで色々と良い思いをしていた鳥羽上皇はこれを不問とし、ウヤムヤのまま院宣偽装の咎を誤魔化します。ここまで全てが平忠盛の計画通りだったのだろうと思います。

 

平清盛はこんな父の背中を見て育ちました。日宋貿易の有益性を理解していた平清盛は、平家が朝廷内で強大な権勢を誇るようになると、いよいよ平家主導で日宋貿易を推し進めるようになるのです。

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日宋貿易と大輪田泊

当初、平清盛は太宰府で日宋貿易を行なっていましたが、次第により平安京に近い瀬戸内海で日宋貿易を行うことを考えるようになります。それに、瀬戸内海は平忠盛の時代から平家が海賊退治を行なっていた海。平家は瀬戸内海を知り尽くしています。

 

そんな平清盛が、注目したのが大輪田泊(おおわだのとまり)という古い港です。大輪田泊は、奈良時代に行基という偉大な僧侶が作り上げた港と言われています。なぜ僧侶が港を?と疑問に思うかもしれませんが、行基は僧として全国各地を渡り歩き、各地で民のために公共事業を数多く行なっていました。その一環として整備されたのが大輪田泊ではないか・・・というのです。

 

行基については以下の記事で紹介しています。参考までに。

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平清盛は大輪田泊の再開発を実施し、瀬戸内海での日宋貿易の主要拠点とすることにします。太宰府と比べ平安京との距離が圧倒的に近くなったことで、朝廷は日宋貿易の輸入品をより一層身近な物にすることができました。貴族や天皇・上皇らはその珍しき品々に喜び、平清盛は商いによってより一層財を蓄えることに成功します。

 

日宋貿易は平家一門の繁栄のためにもはや必要不可欠な存在になっていました。

福原京遷都

平清盛は1180年、遂に大輪田泊近くの福原への遷都を決行します。平清盛は興福寺などの強大な寺院勢力を嫌い、それらの勢力から地理的に離れるために遷都を決行したと言われています。この遷都には、平安京に住む多くの人々から批判が殺到しましたが、平清盛はその強権により遷都を断行しました。

 

平清盛はこの遷都を良い機会に都と大輪田泊を隣接させ、日宋貿易をさらに強力に推し進めることで平家一門、ひいては国自体を豊かなものにしようという壮大な計画を頭に描いていました。平清盛も父同様、武士でありながら商いの才には長けていたようです。

 

しかし1180年と言えば、以仁王が打倒平家のために挙兵した源平合戦が始まった年です。平家は富士川の戦いという源氏との戦いにより敗北。この敗北により平安京を源氏に占拠される可能性が浮上したため、平清盛は福原京への遷都を断念せざるを得なくなります。こうして、平清盛の思い描いた壮大な計画は崩れ去り、翌1181年に他界してしまいます。

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日宋貿易と宋銭

当時、日宋貿易が日本経済にとって非常に重要であると考えていた人物は朝廷には存在しなかったようで、それこそ平清盛ぐらいしかいませんでした。

平清盛の予想通り、日宋貿易は日本に重要な影響を与えます。それは日宋貿易によって多くもたらされた宋銭という宋の貨幣の存在です。完璧ではありませんが、宋銭が大量輸入されたことで日本に少しずつですが貨幣経済が芽生え始めます。平清盛の発想はやはり偉大であり、時代を一歩も二歩も先に進んだ先進的な発想でした。

 

貨幣の歴史

さて、ここで宋銭が日本に導入されるまでの貨幣の歴史について簡単に紹介してみます。

 

奈良時代の708年、日本初の流通貨幣である和同開珎(わどうかいちん)が造られます。和同開珎は銅で造られた銅銭でした。当時の日本は唐に習った国造りを目指しており、和同開珎の普及もその一環でした。朝廷は和同開珎を流通させようと試みますが、朝廷が経済原理に疎かったり、鋳造技術が未熟だったりで結果的に失敗に終わります。通貨の供給量が増えすぎたことによるインフレの制御や蔓延する偽銭に朝廷が対応しきれなかったのです。900年代後半を最後に鋳造は終了し、その後長い間、日本で貨幣が造られることはなくなってしまいます。

 

ちなみに、日本最古の貨幣は富本銭(ふほんせん)と言われてますが富本銭は流通通貨ではなく、儀式などに使われた限定的な通貨だったのでは?という説もあり、その真偽が定かではありません。この記事では和同開珎が流通通貨としては日本初の通貨だった・・・と考えます。

 

こうして貨幣経済の普及を諦めた朝廷でしたが、平清盛が推し進める日宋貿易で宋の貨幣が大量に流入。平清盛自身も、貨幣の圧倒的な利便性を理解していたこともあり、再び日本国内で貨幣が流通し始めます。宋銭が普及すれば、日本国内での商いが円滑になることはもちろん、宋との貿易もより一層簡素化することができますからね。

 

 

しかし、この平清盛の試みは失敗に終わります。税を米や絹などの物で納めさせていた朝廷が平清盛が深く関与する宋銭を用いることに強い不安を抱えていたからです。平清盛死後、朝廷では次第に宋銭は利用されなくなってしまいます。

鎌倉時代の貨幣流通

しかし、貨幣の利便性を実感した多くの人々は私的な商いなどで宋銭を積極的に利用するようになり、朝廷の意図に反して宋銭はドンドン流通してゆきます。

 

貨幣が流通すると、朝廷が納めさせていた絹などの物価に大きな影響を与えるようになり、貨幣の存在は無視できなくなります。すると朝廷も次第に貨幣の存在を認めざるを得なくなり、鎌倉時代になると遂に宋銭の利用が公式に認められるようになるのです。

 

平清盛の先進的発想にようやく時代が追いついてきたのが鎌倉時代だったのです。「大量に銭を造る技術が日本にないのなら、外国の通貨を利用すれば良いではないか!」という平清盛の発想は実に大胆な発想でしたが、平清盛死後、清盛の考えは現実のものになろうとしていました。

 

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日宋貿易のまとめ

平清盛は父の平忠盛から日宋貿易の重要性を学び、大輪田泊に港を建設し、日宋貿易をより一層発展させることに成功。その後、福原京への遷都を計画し、日宋貿易を中心とした壮大な国家計画を練り上げますが、源氏の反乱によりこの計画は失敗。そして平清盛はそのまま他界してしまいます。

 

しかし、日宋貿易によってもたらされた大量の宋銭は、昔に一度朝廷が諦めてしまった貨幣の普及を実現する重要なきっかけとなりました。宋銭の流通は物々交換が主流だった時代より商いをより効率的にし、日本経済に大きな影響を与えたのです。

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もぐたろう

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