安徳天皇の悲劇の生涯を簡単にわかりやすく紹介!【平清盛との関係など】

この記事は約10分で読めます。

 

今回は、日本の歴代天皇の中でもトップクラスに悲劇的な最期を迎えた安徳天皇(あんとくてんのう)について紹介しようと思います。

 

安徳天皇はわずか8才で祖母とともに入水して崩御。生まれてから死ぬまでの間、権力に翻弄され続けた生涯を送ります。とは言っても、幼少の安徳天皇にはそんな自覚すらなかったと思いますが・・・。

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平清盛の希望の光

安徳天皇は1178年、高倉天皇と平徳子の間に生まれた子。

 

平徳子は時の権力者、平清盛の娘ですから安徳天皇は清盛にとって孫に当たります。

 

平安時代、天皇の外祖父(母方の祖父)は天皇の政策決定に強い影響力を持つようになり、強大な力を持っていました。

 

これは、当時は婿入り婚が主流で、子どもは母の家で育てられるので、自然と母方の祖父と子供の結びつきが強くなることに理由があります。

 

なので、生まれてきた安徳天皇を即位させれば、平清盛は絶大なる権力を手にすることができるわけです。

 

当然、孫としても安徳天皇は可愛かったでしょう。実際、上の写真も可愛らしいです。

 

ですが、平清盛にとって安徳天皇は可愛い孫以上に、自らを最高権力者に押し上げてくれる政治の道具でもありました。

 

安徳天皇の誕生は、平清盛をさぞかし狂喜乱舞させたはずです。

 

安徳天皇にネガティブなイメージがつきまとうのは、その悲痛な最期だけではなくて、安徳天皇の生涯に常に権力の座を虎視眈々と狙う平清盛の影がちらついているとかにも理由があるのかもしれません。

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安徳天皇の即位

1180年、高倉天皇が譲位し、安徳天皇が即位します。

 

わずか1歳の即位です。当然、安徳天皇の意思があるわけもなく、平清盛が周囲の意見を抑え強引に即位させたものでした。

 

幼少の天皇が即位すること自体は、当時としては珍しいことではありません。

 

天皇の外祖父が摂政(せっしょう。未成年のような統治能力のない天皇を補佐する役職)となって政治の実権を握る事例もあります。なので、幼少の安徳天皇が即位することもそこまで変な話じゃないのですが、そのやり方がなんとも酷かった。

 

安徳天皇を即位させた平清盛は朝廷から大ブーイングを受け、多くの人を敵に回してしまうことになります。

 

ここら辺の話は面白いので、もうちょっと掘り下げて紹介します。

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貴族たち「武士ごときが勝手に天皇を決めんな!!」

安徳天皇即位で平清盛が大ブーイングを受けたのは以下の理由によります。

 

「天皇の決定権は、本来、天皇家の家督(この時は後白河法皇)にあるのに平清盛が強権で天皇を決定してしまったから」

 

朝廷では、次期天皇を決める話になると有力者たちはコネやら金やらで上皇との結びつきを強め、上皇を通じて自分の意見を反映させようとしました。

 

 

ところが平清盛は安徳天皇即位に際して、この朝廷のしきたりをぶち壊し、上皇ガン無視で安徳天皇の即位を決めてしまいました。

 

 

有職故実を重んじていた貴族たちはもちろん憤慨。さらに、平清盛の越権行為は上皇を軽視するもので「平清盛は皇位簒奪を企んでいるのでは?」なんて考えた人も多かったんじゃないかと思います。

 

 

みんな不満を持っていても、武力と財と官位を持った平清盛の前では不満を押し殺すしかなかったのです。

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無力になった後白河法皇

平清盛がやりたい放題やっている間、天皇決定権を持つ後白河法皇は何をしていたのでしょうか?

 

実は、平清盛の逆鱗に触れ、1179年から幽閉されていました。つまり、安徳天皇即位当時、後白河法皇は無力だったんです。

武家として最高の地位に登りつめようとしていた平清盛にとって後白河法皇は、邪魔な存在。

 

両者の関係は前から微妙な感じでしたが、1177年、鹿ケ谷の陰謀事件により、両者の関係は完全に瓦解。

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1179年に清盛の嫡男である平重盛が亡くなると、遺領を巡り再び両者は対立。亡き息子、重盛を愚弄するような後白河法皇の振る舞いに清盛は激怒。武力で後白河法皇を威嚇し、後白河法皇を幽閉してしまいます。

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まさに、平清盛の独壇場です。

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同じく無力な高倉上皇

安徳天皇の父は高倉上皇。安徳天皇即位当時、まだ10代後半の青年でした。

 

 

後白河法皇と平清盛という当時最強の二代権力者に挟まれた高倉上皇は、その生涯において政治の実権を持つことはなく、不遇の一生を終えます。

 

 

本来なら安徳天皇の父として政治を主導してしかるべき存在でしたが、それも叶いません。安徳天皇は平清盛の思うがまま。自分の子の処遇についてすら決定権を奪われた高倉上皇の心の内は、さぞ複雑であったろうと思います。

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源平合戦

安徳天皇即位や福原京への遷都など、民意を逆撫でするような政策を次々と打ち出す平清盛でしたが、遂に人々の不満が爆発。

 

1180年、以仁王が挙兵し源平合戦が始まります。

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戦乱の真っ只中の1181年、時の権力者だった平清盛は病により死亡。

 

平清盛を失った平家軍にもはや昔みたいなオラオラ感はなく、1183年、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に大敗。

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木曽義仲の平安京入りを許し、平家軍は平安京から逃亡。安徳天皇と天皇即位に欠かせない三種の神器を持ち出し四国の屋島を本拠地とします。

三種の神器とは?

三種の神器は、天皇即位の儀に必ず必要な剣・玉・鏡のことを言います。

 

先ほど「天皇の決定権は天皇家の家督である後白河法皇にある」という説明をしました。なので、平清盛が強硬的に決定した安徳天皇のことを正統な天皇だと思う人は朝廷の中にはほとんどいませんでした。

 

その平家が平安京から消え去ったとなれば、後白河法皇が「安徳天皇って俺が決めてないし、天皇って名乗ってるけどあれ嘘な。だから、ちゃんとした天皇を俺がもう一回即位させまーすww」なんてこともできてしまうわけ。というか実際にそうなりました。

 

 

すると、安徳天皇はただの幼児となり、安徳天皇を擁立できなくなった平家軍は朝敵となってしまいます。安徳天皇の存在は、平家軍が官軍としての大義名分を得るための精神的支柱と言えるでしょう。

 

平家側は安徳天皇を守りぬき、後白河法皇に好き勝手させないために、三種の神器を持ち出し、後白河法皇の天皇即位の儀を封じようとしました。三種の神器を持って都落ちしたのは、安徳天皇の正当性を守るためだったんですね。

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2人の天皇〜安徳天皇と後鳥羽天皇〜

ところが、後白河法皇は「平清盛が即位させた安徳天皇なんか天皇じゃねーから!!」と安徳天皇の在位を断じて認めません。

 

 

まぁ、そりゃ幽閉されている間に勝手に天皇を即位させられたら怒りますよね・・・。ちなみに、後白河法皇は平家が都落ちした後、幽閉状態から解放され、再び政治の表舞台に立っていました。

 

 

1183年、そんな後白河法皇は三種の神器の無い状態で半ば強引に後鳥羽天皇を即位させます。

 

 

ここでひとつ疑問が生まれます。「安徳天皇がいるのに後鳥羽天皇も天皇になったら日本に天皇が2人いることになるんじゃね?」と。

 

 

実は後鳥羽天皇が即位した1183年から安徳天皇が壇ノ浦の戦いで崩御する1185年までの間、日本には天皇が二人同時に存在しました。

 

天皇って、国の皇帝です。エンペラーです。それが2人いるというのは、国家として異常事態。安徳天皇と後鳥羽天皇なら存在は、源平合戦の頃よ日本がいかにカオスであったかを物語っています。

 

天皇決定権を持たない平清盛によって即位した安徳天皇。

 

三種の神器を欠いたまま即位した後鳥羽天皇。

 

そんな不完全な天皇が2人同時に存在した当時の日本。繰り返しですが、政治情勢の混迷ぶりが天皇のあり方を見るだけでもよーくわかります。

 

 

ちなみに、後鳥羽天皇は三種の神器を欠いたまま即位したことに生涯コンプレックスを持ち、「自分は正当な天皇ではないんじゃないか?」と悩み続けることになります。

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安徳天皇の悲しき最期

都落ちをして、屋島に拠点を移した平家一門でしたが、1185年2月、源義経の奇襲により屋島は陥落。同年、平家軍は最後の砦、壇ノ浦で最終決戦に臨みますがこれも叶わず敗北。

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壇ノ浦の戦いは水上戦で、平家の滅亡を悟った人々の中には、「もはやこれまで・・・」と自ら入水する者も後を絶ちません。

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源平合戦を描いた「平家物語」では、ここで安徳天皇の最期の様子を描きます。

 

 

安徳天皇が乗っている船に、「平家敗北!」の報告が届きます。当時安徳天皇の側にいたのは、平時子(たいらのときこ)。平時子は平清盛の正妻なので、安徳天皇からみるとおばあちゃんに当たります。

 

 

「源氏に捕まるぐらいならば・・・」と時子は入水して自ら命を断つことを決意。そして、安徳天皇の今後の将来を憂い、安徳天皇もろとも海に沈むことを心に決めます。

 

 

安徳天皇がここで生き残れたとしても、幼き安徳天皇には苦難の道のりが待っています。

 

 

後鳥羽天皇が正式な天皇と認められれば、皇位を失った安徳天皇はもはやただの子供。そのまま殺されてしまうかもしれません。仮にすぐに殺されなかったとしても、政争に負け怨霊となった崇徳天皇のように生涯幽閉生活を強いられ、凄惨な死が待っているかもしれません。

 

 

「孫と一緒に入水なんてひどい!」と思うかもしれませんが、おそらく・・・というか100%ヤケクソなんかじゃありません。

 

 

「一生辛い人生を送り続けるぐらいなら、今ここで安らかに死ねたほうが孫の安徳天皇のため・・・」という苦渋を決断なのです。

 

 

船内で覚悟を決めた時子は、安徳天皇を抱え船上に上がります。

 

安徳天皇「おばあちゃん、どこへ行くつもりなの?」

 

これに涙ながらに時子が答えます。

 

平時子「君(安徳天皇)は前世の良き行いにより、帝となられましたが、悪縁によりその命運は尽きてしまいました。東の伊勢神宮に別れを告げ、西の極楽浄土に御念仏くださいませ。あの波の下には、極楽浄土と呼ばれる素晴らしい都がございます。そこへ君を連れてゆくのですよ」

 

 

安徳天皇も、流石に状況を察し涙ながらにこれに応じます。時子が安徳天皇を腕から下ろすと、安徳天皇は手を合わせ東に向かって礼を、西に向かって念仏を唱えます。

 

 

それを終えると、時子は再び安徳天皇を腕に抱え、「波の下にも都がございますよ」と安徳天皇を慰めながら共に入水します。

 

 

こうして、安徳天皇はわずか6歳という若さで崩御します。安徳天皇の母である平徳子は入水に失敗し、その後も生き続けましたがその詳細は不明。そして、平家物語は、平徳子と後白河法皇の対談シーンで物語の幕を閉じます。

 

 

日本の数多くの天皇の中で、安徳天皇の崩御は歴代最年少であり、今現在もこの記録は破られていません。そして、その悲痛な最期も歴代天皇の中でも群を抜いています。

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まとめ

 

日本の歴史を眺めてみると、天皇が物凄い死に方をしている時代というのはほとんどの場合、国が乱れている時代が多いような気がしています。

 

とは言っても、凄い死に方をした天皇自体少ないんですけど、ザッと挙げると

 

  • 臣下に闇討ちされた崇峻天皇
  • 皇位継承のルールが曖昧でカオス化していた奈良時代末期の淳仁天皇
  • 幽閉先で魔物のような姿で亡くなった崇徳天皇

※淳仁天皇は病死説と殺害説があります。

 

 

そして今回紹介した、物心ついたばかりの年齢で海に沈んだ安徳天皇。

 

 

安徳天皇の死に様は、まさにその当時の国政の乱れを象徴しているかのようです。

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コメント

  1. このたん より:

    時子は、建礼門院ではないですよ。
    建礼門院は時子の娘です。

  2. 山の仔羊 より:

    大変わかりやすくとても勉強になります。
    ここの系統図で近衛天皇の母親は藤原得子ではないでしょうか
    ご確認いただければと思いコメントさせていただきました。

    • もぐたろう mogutaro より:

      ご指摘ありがとうございます。別の記事で系図を差し替えたのですが、この記事での差し替えが抜けておりました。
      修正しました。ありがとうございます。

  3. りさ より:

    とてもわかりやすくまとめられてますね。
    ただ、安徳天皇を抱いて入水したのは平徳子(建礼門院)ではなく、祖母の平時子(二位尼)です。ちなみに平徳子(建礼門院)は安徳天皇の実母で平時子(二位尼)の娘です。