後白河法皇(天皇)について簡単にわかりやすく徹底紹介するよ!【性格・系図や清盛、義経との関係など】

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後白河天皇

今回は、平安末期という激動の時代にありながら、30年もの間治天の君(上皇)として君臨した後白河(ごしらかわ)法皇について語ってみようと思います。


平安末期は武士・貴族・天皇・上皇の勢力が複雑に入り乱れた時代。後白河法皇の人物像を追うのは簡単ではありませんが、わかりやすく紹介していきたいと思います。

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後白河法皇(天皇)の青年期

後白河法皇は鳥羽上皇の子として1127年生まれます。名前は雅仁(まさひと)親王と言いました。当時は白河法皇が権勢を振るっていた時代・・・でしたが、すぐに白河法皇は崩御し、鳥羽上皇の時代が到来します。

鳥羽上皇が活躍していた頃の天皇は崇徳天皇鳥羽上皇の第一皇子です。一方、第4皇子だった後白河法皇(天皇)は皇位とは無縁な気楽な立場。遊んでばかりの日々を過ごしていて、今様(いまよう)という歌にのめり込んでいきます。後白河法皇(天皇)の今様へのハマり方は常軌を逸脱していたようで、貴族たちの評価は地に落ちてしまいます。

しかし、後白河法皇は本人が意図せぬままジワリジワリと政治の世界へと引き込まれてしまいます。

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後白河法皇(天皇)と保元・平治の乱

関連する人物の系図

ここから先、人間関係がドロドロで複雑になっていきます。上の系図を参考にしながら読んでみてください!

いきなりですが、鳥羽上皇は息子である崇徳天皇のことを嫌っていました。理由はハッキリとわかっていませんが、崇徳の母である藤原璋子(ふじわらのたまこ)は白河上皇に寵愛されており、「実は崇徳天皇は白河上皇に寝取られて生まれた子で、憎むべき存在である」と考えていたからだという説があります。

いずれにせよ、鳥羽上皇は2人目の妻である藤原得子(ふじわらのとくこ)を愛するようになって藤原璋子の息子らは見放されることになります。家庭環境カオスすぐる・・・。

この辺の話は謎が多いのですが、少なくとも鳥羽上皇は崇徳天皇を嫌っていたし、崇徳天皇の母の藤原璋子は白河法皇の遊女でした。「崇徳天皇、実は鳥羽上皇の息子じゃない」って話も全くの荒唐無稽な話ではなかったんです。

鳥羽上皇
鳥羽上皇

このままだと崇徳天皇はいずれ息子の重仁親王に譲位するし、そうなると天皇の直系が、我が子ではないかもしれない崇徳天皇の血統に移り変わってしまう・・・

これを鳥羽上皇は治天の君としても心情的にも断じて許すことはできません。そこで鳥羽上皇は一計を案じました。自分の子であることが確実な躰仁(なりひと)親王を崇徳天皇の養子にして、崇徳天皇を躰仁親王へ譲位するよう誘導したのです。

院政は、上皇が天皇の父という立場から権勢を振るうシステムだったので、養子であれなんであれ院政による政治の実権を欲するのであれば息子が即位しないと話になりません。

崇徳天皇も院政を目指していたので、自分の息子に天皇になってもらう必要があります。崇徳から見て弟だった躰仁親王ではダメです。しかし、弟の躰仁親王を養子について息子にしてしまえば、躰仁親王が天皇になっても上皇になった崇徳は院政を行えるわけです。

つまり、崇徳天皇と躰仁親王の関係は、兄と弟であると同時に父と息子の関係でもあったわけです。複雑すぎる・・・。崇徳天皇にとっても悪い話ではなかったので、鳥羽上皇の案に乗ることにしました。

こうして躰仁親王は近衛(このえ)天皇として即位。しかし、これは鳥羽上皇の罠でした。鳥羽上皇は近衛天皇が即した途端、

鳥羽上皇
鳥羽上皇

躰仁親王を崇徳天皇の養子にする?そんなこと言ったっけ?ww

躰仁親王は今も昔も俺の息子だぞ。弟が即位したんじゃ、崇徳天皇はもう院政もできないな。譲位しちゃったからもう天皇でもないし、余生は一生静かにどこかで暮らしてろよww(ザマァwwwwww)

崇徳天皇を騙し、失意のどん底に陥れました。こうして、少しの間だけ、崇徳天皇は歴史の表舞台から消え去ってしまいます。

ところが、鳥羽上皇の強い願いにより即位した近衛天皇は1155年、わずか17歳という若さで崩御してしまいます。すると恒例の皇位継承問題が再び浮上するわけで、そこで候補に挙がったのが後白河法皇(天皇)の息子の守仁親王でした。

なぜ守仁親王が選ばれるのかというと、晩年の鳥羽上皇が愛した藤原得子の養子となっていたからです。守仁親王は鳥羽上皇から見れば孫に当たります。しかし、先ほどの躰仁親王(近衛天皇)と同じ理論で、養子にしてしまえば、鳥羽上皇は天皇の父として院政を続けることができるわけです。

ちなみに、なぜ後白河法皇(天皇)がスルーされているのかというと、前述のとおり評判がすこぶる悪かったのと白河法皇の遊び女だった藤原璋子から生まれた子だったからです。

ただ、「父が存命中なのにいきなり孫だけ即位するっていうのもなんか変じゃね?」っていう議論もあって、最終的には後白河天皇が即位する形となります。守仁親王が幼かったので後白河天皇は、守仁が成長するまでのつなぎ役として即位したわけです。

関係人物の系図(再掲)


所詮つなぎ役としての即位です。誰も悪評ばかりの後白河天皇には期待をしていないし、後白河天皇本人もそれを自覚していたので政務を真面目に行うつもりはありませんでした。

ところが、1人だけ後白河天皇の権力を盤石にしてやろうと躍起になっている人物がいました。それが信西(しんぜい)という人物。信西は非常に博識で政治に精通し、嫁さんが後白河天皇の乳母でした。信西は後白河天皇を通じて自らの望む政治を行いたいと考えおり、後白河天皇の即位はまさに夢を実現する千載一遇の大チャンスでした。

こうして、朝廷内の権力争いは複雑化し、大きく3つのグループに分かれました。

朝廷内の3つの勢力
  • 後白河天皇をつなぎ役で終わらせたくない信西
  • 早く守仁親王を即位させたい裏の権力者、藤原得子
  • リベンジで重仁親王即位を狙う崇徳上皇

そして、これらの勢力の争いが武力闘争になってしまったのが1156年に起こった保元の乱です。保元の乱皇位継承問題に武士が初めて深く関与した歴史的にも画期的な乱で、大きく崇徳上皇派と後白河天皇派に分かれて争いが起こりました。

保元の乱は後白河天皇側の勝利で終わります。後白河天皇側と言っても後白河天皇は置物みたいな感じで、裏で実権を握っていたのは信西

保元の乱の後、信西と藤原得子の間で話し合いが行われ、後白河天皇は予定通り守仁親王に譲位し、守仁親王は二条天皇として即位します。

が、次は「後白河上皇は院政をするのか?二条天皇が親政をするのか?」で朝廷内は大きく対立しました。こうして保元の乱の3年後の1159年、再び平安京で乱が起こります。これが平治の乱です。

平治の乱で信西は亡くなり、乱は二条天皇派の勝利に終わります。信西に全てを頼っていた後白河上皇は力を失い、勝利した二条天皇派もその後の内ゲバで有力者がいなくなり、両者はこう着状態に陥ります。平安時代末期のカオス感は異常。

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 後白河法皇(天皇)と平清盛

そして人材不足に悩む後白河上皇と二条天皇に急接近したのが、人も金も武力も持っている平家の棟梁、平清盛(たいらのきよもり)でした。

平清盛は、困っている後白河上皇・二条天皇を助け、その見返りに一族らへの官位を引っ張り出そうとします。この作戦は成功し、平家一門の朝廷内の地位は飛躍的に高まりました。

こうして平家との結びつきを持つようになった後白河上皇は、平滋子(たいらのしげこ)という1人の女性に一目惚れ。1161年には滋子との間に子どもまで産まれてしまいます。(これが後の高倉天皇

ただ、平清盛は後白河上皇の人柄を個人的に好いてはおらず、あくまで政治は二条天皇中心に行われるべき・・・と考えていたので、平滋子と後白河上皇との間に子が産まれたことは心情的にとても複雑なものでした。

後白河上皇は、平滋子との間に産まれた子が生まれるとすぐに皇太子にしようと計画をしますが、この計画は実行前に露呈し、二条天皇や二条天皇を支持していた平清盛はこれに激怒。

後白河上皇は自らに近い貴族たちを要職から外され、近臣を失った後白河上皇は政治の影響力を失うことになります。

政治能力を失った後白河上皇は仏教にのめり込むようになり、1164年今でも有名な千体の千手観音像が圧巻の三十三間堂(蓮華王院)が建てられます。

平清盛は、後白河上皇を良く思っていませんが、露骨にディスることもしませんでした。平清盛の処世術が「無駄な敵は作らない」だったからです。

平清盛は非常に気配りができる人物だったようで、とにかくいろんな人に良い顔をして敵を作りません。なるべく中立のポジションを取りつつ、政治が不安定化すると自分にとっても最も利する人物に接近し、生き残るという戦略を取っていたんです。

実は三十三間堂を建立したのも平清盛です。政界から追放したとはいえ、後白河上皇の望みを叶えることで関係を良好な状態で保とうとしたのです。

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後白河法皇(天皇)と二条天皇

二条天皇は1165年、20歳ちょっとの若さで崩御してしまいます。

二条天皇には順仁親王という子がいましたが、二条天皇崩御時点で生後一年も経っていない乳飲み子。しかし、順仁親王が天皇即位しなければ、天皇家の直系は後白河の息子である後の高倉天皇へとシフトしてしまいます。

二条天皇と後白河上皇は親子でありながらも平治の乱で対立しており、仲が良くありませんでした。親子と言っても二条天皇は藤原得子に育てられたので、おそらく後白河上皇を父とは思っていなかったことでしょう。

二条天皇は高倉天皇へと皇位がシフトしてしまうのを何としても阻止しようとします。そこで、二条天皇が崩御間際に強引に即位させたのが息子の六条天皇でした。

ここでまたまた系図を載せておきます。

二条天皇は非常に優秀な人物であり、若いながらも信念をもって天皇親政を実現しました。しかし、乳飲み子の六条天皇では国政など担えるわけがありません。摂関藤原氏が摂政として補佐すれば良い・・・という話もありますが、当時はその摂関家も力を失っていました。

すると、国政を担えるのは後白河上皇しかいない。賛否両論ありながらも、こうして後白河上皇は再び政治の表舞台に登場することになります。

父は誰かわからないし、兄の崇徳には恨まれ、周りからは「無能!」と言われ、息子の二条天皇からも嫌われるという絶望の家庭環境と政治情勢の中で生き抜いてきたの後白河法皇(天皇)は本当に凄いです。この時点で波乱万丈すぎだし、メンタル強すぎじゃないですかね・・・。

さて、二条天皇派だった平清盛の動向はどうなっていたのでしょうか。平清盛は人・金・武力を持つ朝廷における超重要人物。平清盛の動向は多くの有力貴族が注視しています。

上述したように「敵を作らず、刻一刻と変化してゆく政治情勢の中で一族の繁栄に最も利する者に付く」というのが平清盛の処世術。平清盛は後白河上皇が院政を本格的に復活させるや否や、次は後白河上皇側に協力する姿勢を示すようになります。この移り身の速さが平清盛の大きな強みの1つです。

後白河上皇は昔に失敗した高倉天皇の即位に向けて動き始めます。二条天皇はもういない、平清盛は協力者、そして六条天皇は乳飲子で意思がない。もはや邪魔する者はおらず、1168年、六条天皇を譲位させ高倉天皇を即位させました。

こうして後白河法皇は本格的に院政を再開し、一方の平清盛は平滋子のツテなどを利用して娘の平徳子(たいらのとくこ)を高倉天皇の正妻とします。1172年の話。

徳子と高倉天皇の間に男の子が生まれて将来天皇にでもなれば平清盛は天皇の外祖父!絶大な権力を手に入れられるという計画です。

ただ、徳子から男の子が生まれて天皇即位に成功した時点で、平清盛にとって後白河上皇はもはや用無しの存在になります。というかもはや邪魔者でしかありません。

この頃から後白河法皇と平清盛の関係は少しずつ悪化の一途を辿りますが、それでも後白河法皇が平徳子の入内を許したのは、平滋子による強い説得によるものと考えられています。

平滋子は、美貌と知略を兼ね備えたまさに才色兼備の女性で、後白河法皇と平清盛という2大権力者の間の絶妙な調整役として影で政治を支えていました。これは平滋子にしかできない大事な仕事です。

しかし1176年、平滋子が亡くなったことで今まで抑えられていた両者の対立は、1177年に起こった鹿ケ谷の陰謀事件という事件によって表面化。

さらに、後白河法皇と平清盛の間の最後の仲介役だった清盛の息子の平重盛が1179年に亡くなったことで両者の対立は決定的なものとなり、平清盛は後白河法皇を幽閉状態に追い込み、政治の実権を全て掌握することになります。

平重盛は本当に優秀なやつなんですが、その優秀さがアダとなり悲しい最期を迎えてしまいます・・・。

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後白河法皇(天皇)と源平合戦

1168年に高倉天皇が即位した際、実は後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)という人物も天皇候補でした。しかし、我が子を即位させたい平滋子の妨害により、以仁王は失脚。以仁王は皇位の望みと財政基盤を奪われ平家を恨みながら月日を過ごします。

その以仁王が平清盛の度を過ぎた振る舞いブチギレ。1180年、平清盛に対して反乱を起こします。

以仁王は高倉天皇即位の頃から平家を嫌っていましたが、

  • 1179年に後白河法皇を幽閉したこと
  • 1180年に皇位の最終決定権を持つ後白河法皇を無視して高倉上皇と平徳子の間に生まれた安徳天皇を即位させたこと

などをきっかけに遂に行動を起こしたのです。

この以仁王の挙兵は失敗に終わり以仁王は命を落としますが、全国各地の源氏たちが以仁王に呼応して立ち上がり、有名な源平合戦が始まります。

立ち上がった源氏たちはみんな平安京を目指しました。平家に幽閉された後白河法皇を味方につけ、平家を追放すると共に官位に預かろうと考えたのです。

一方、幽閉されている後白河法皇は何もできず、源氏たちが救いに来てくれるのを待ちます。

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後白河法皇(天皇)と木曽義仲

平家軍を破り、幽閉された後白河法皇を救ったのは木曽義仲(きそよしなか)という人物でした。木曽義仲は源義仲とも言って源平合戦で立ち上がった源氏の1人。

後白河法皇にとっては救世主となった木曽義仲。その後、後白河法皇と連携しながら政治にも深く介入することになりますが、この2人の連携がそれはもう全く上手くいかない!

後白河法皇が安徳天皇は清盛が勝手に即位させた天皇だからあいつはノーカウントな。正式な形で後鳥羽天皇を即位させたろw」と話を進めようとすると、木曽義仲「いやいやw次の天皇は、今回の戦乱で立ち上がった以仁王の息子である北陸宮だからw」と皇位継承というシビアな問題に新参者がズカズカと物申すものだから、木曽義仲は後白河法皇や朝廷貴族らから総スカンを喰らいます。

後白河法皇は木曽義仲には見切りをつけ、遅れて平安京に向かってきた源頼朝が派遣した源義経らを頼ろうとします。

しかし、頼朝と木曽義仲は同じ源氏でも仲が悪く、後白河法皇が頼朝と接近してしまうと、木曽義仲の立場は失墜。しかも木曽義仲、は後白河法皇に色々と暴言吐きまくってるし、頼朝には消えて欲しいと思われてるから、最悪殺される場合すらある。

追い詰められた木曽義仲は、後白河法皇を強制幽閉させることを決意。後白河法皇の住む法住寺を襲い、後白河法皇は再び幽閉されてしまいます。

幽閉した後白河法皇を利用して自分勝手な政治を行う木曽義仲ですが、政治家ではない木曽義仲は幽閉した後白河法皇を有効活用する術を知らず、その後源頼朝の派遣した源義経らに命を奪われてしまいます。これが宇治川の戦いです。

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後白河法皇(天皇)と源頼朝

再び自由の身となった後白河法皇は源頼朝と協力しながら平家を追い詰めていきます。

ただ、ここで注意しておきたいのは、後白河法皇はおそらく平家の滅亡は望んでいなかったという点。後白河法皇が望んでいたのは、木曽義仲に平安京から追い出された平家が持ち出していった三種の神器の奪還でした。これがないと後鳥羽天皇が正式に天皇即位できませんからね。

後白河法皇は、「武士が権力を手に入れると平清盛のようになる」というのをしっかり学習していたので源氏と平氏どっちに勝って欲しくありませんでした。

後白河法皇にとって望ましいのは、同程度の力を持つ武家が複数あって、治天の君の権威をチラつかせながら武家同士を争わせること。武家の間の調整役として治天の君が君臨する構図を望んでいました。

だから、平家が滅亡されるとマズイとすら思ったかもしれません。源頼朝の一人勝ちになれば、昔の平清盛のように自分に牙を向いてくるだろう・・・そう思ったはずです。

しかし、1185年、平家は壇ノ浦の戦いでによって滅亡してしまいます。

すると、予想通り敵がいなくなった源頼朝は後白河法皇に圧力を掛けてきます。しかし、後白河法皇も指を咥えてじっとしているわけではありません。頼朝・義経兄弟の仲に軋轢が生じているのを利用し、源義経を味方に引き入れ、頼朝の対抗馬にしたのです。このような人心掌握術に関しては複雑な人間関係を経験済みである後白河法皇の十八番でした。

ところが、源義経の力だけでは頼朝に対抗することはできず、源義経は奥州藤原氏と共に頼朝によって1190年に滅ぼされてしまいます。

1190年の奥州合戦の後、源頼朝と後白河法皇の2人のみの会談が実現します。今でいう2国間の首脳会談みたいなもんです。

会談は数回に渡りましたが、どんな会話がなされたかはわかっていません。おそらくは今後の国の統治のあり方について話し合いがなされたのかなと。具体的には1185年に頼朝が認めさせた守護・地頭の存在を改めて再確認したんじゃないかと思います。

いずれにせよ、後白河法皇は源頼朝の条件を飲み、幕府と朝廷という二重権力構造を容認することになります。

こうして、時代は鎌倉時代へと突入。その後1192年、後白河法皇は崩御し、激動の生涯を終えることになります。

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後白河法皇(天皇)の人物像

以上、後白河法皇の生涯をハイライトで紹介してみたんですが、本当に波乱万丈で複雑な生涯です。まず家族関係がヤバい。父に嫌われ、兄にも嫌われ、息子にも嫌われ、それだけじゃなく貴族らからも無能扱い。

そんな後白河法皇がおそらく最も心を許したのは平滋子だったんじゃないかと思いますが、滋子も若くして無くなってしまい、後白河法皇は心の支えを失ってしまいます。滋子がもうちょっと長生きしていれば、歴史は大きく変わったかもしれません。

後白河法皇は、何度も近臣を失ったり自ら幽閉された環境もあってか、どうも人をコマのように扱う一面があったようです。そのため冷酷な人物のようにも見えますが、これは武家が台頭し相対的に立場が弱くなった後白河法皇の立場に立てば、止むを得ないとも考えることができます。

なんせ治天の君が持つ最大の武器は人事権ですからね。特定の派閥が力をつけないよう、巧みに人を動かした・・・とポジティブな評価もできるかもしれません。実際に後白河法皇の人間関係を見抜く能力は非常に優れていたという評価もあります。

総評すると、後白河法皇は常人離れした人心掌握スキル、そして人間関係察知スキルがあって、平清盛を筆頭とする権力者とも対等に渡り合うことができました。皮肉にもおそらくこのようなスキルは、後白河法皇の孤立した家庭環境や目まぐるしく変化する政治情勢にその要因があったのだろうと思います。

実務能力やその性格には難があったようですが、清盛や頼朝との政治交渉の経過などを追うと後白河法皇は頭の切れる人物であり決して無能ではありません。

自分の立場や相手の考えを的確に判断できる後白河法皇でなければ、武士が台頭し、天皇・上皇の権力が相対的に低下しつつあった時代の過渡期に、30年もの長い間、治天の君として君臨することはできなかったでしょう。この時代にこの天皇あり。後白河法皇はまさに平安末期の動乱の世に相応しい人物だったのではないでしょうか。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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