後白河法皇(天皇)とは!簡単にわかりやすく徹底紹介!【性格・系図や清盛、義経との関係など】

今回は、平安末期という激動の時代にありながら、30年もの間治天の君(上皇)として君臨した後白河(ごしらかわ)法皇について語ってみようと思います。
平安末期は武士・貴族・天皇・上皇の勢力が複雑に入り乱れた時代。後白河法皇の人物像を追うのは簡単ではありませんが、挑戦してみたいと思います。

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後白河法皇(天皇)の青年期

後白河法皇は鳥羽上皇の子として1127年生まれます。名前は雅仁(まさひと)親王と言いました。当時は白河法皇が権勢を振るっていた時代・・・でしたが、すぐに白河法皇は崩御し、鳥羽上皇の時代が到来します。

白河天皇(上皇・法皇)を簡単にわかりやすく紹介!【院政はなぜ始まったか?】
後三条天皇が1073年に亡くなった後、1072年に即位した後三条天皇の息子の白河天皇が活躍することになります。 白河天皇は、後に上皇として院政という日本独自の政治機構を造り上げた人物であり、日本史上でも有名な人物の1人です。前回の記事で紹介した後三条天皇は、延久の荘園整理令の実施などにより摂関政治により権力を掌握していた藤原氏の...

 

鳥羽天皇とは?崇徳天皇との関係や系図は?わかりやすく紹介!
今回は、鳥羽天皇について紹介します。鳥羽天皇は平安時代末期、白河法皇に引き続き院政を行った天皇として有名な天皇です。 鳥羽天皇の系図 鳥羽天皇は、堀河天皇が29歳で若くして亡くなったため1107年に即位した天皇です。当時は白河法皇が院政を行い政治の実権を握っていたため、生前の堀河天皇に政治の実権はもはやありませんでした。(...

 

 

鳥羽上皇が活躍していた頃の天皇は崇徳天皇。鳥羽天皇の第一皇子です。一方、第4皇子だった後白河法皇(天皇)は皇位とは無縁な気楽な立場。遊んでばかりの日々を過ごしていて、今様(いまよう)という歌にのめり込んでいきます。後白河法皇(天皇)の今様へのハマり方は常軌を逸脱していたようで、貴族たちの評価は地に落ちてしまいます。

 

 

政治と無縁な立場にいた後白河法皇(天皇)からすれば、周囲の評価なんてどーでもよくて、ただただやりたいことをやっていただけなんでしょうけどね。しかし、後白河法皇は本人が意図せぬままジワリジワリと政治の世界へと引き込まれてしまいます。

後白河法皇(天皇)と保元・平治の乱

ここから先、人間関係がドロドロで複雑になっていきます。上の系図を参考にしながら読んでみてください!

 

 

いきなりですけど、鳥羽上皇は崇徳天皇を嫌っていました。何故かと言うと、崇徳天皇を自分の子ではなく自分を邪険に扱ってきた亡き白河法皇の息子だと考えていたから。詳細は以下の鳥羽上皇の記事に譲るとして、鳥羽天皇にとって白川上皇はとても大きなコンプレックスだったはず。

鳥羽天皇とは?崇徳天皇との関係や系図は?わかりやすく紹介!
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崇徳天皇が本当に鳥羽上皇の息子なのかどうか・・・実際のところは謎なんですけど、少なくとも鳥羽上皇は崇徳天皇を嫌っていたし、崇徳天皇の母の藤原璋子は白河法皇の遊女でした。すごく俗な言い方をしてしまうと、白河法皇は自分のお古の女性を鳥羽上皇に嫁がせたわけ。そんな経緯もあるので、「崇徳天皇、実は鳥羽上皇の息子じゃない説」って全くの荒唐無稽な噂ってわけでもないんですよね。

 

 

しかし、このままだと崇徳天皇はいずれ息子の重仁親王に譲位してしまう。そして、天皇の直系は我が子ではないかもしれない崇徳天皇の血統に移り変わってしまう。

 

 

これを鳥羽上皇は治天の君としても心情的にも断じて許すことはできません。そこで鳥羽上皇は一計を案じました。自分の子であることが確実な躰仁(なりひと)親王を崇徳天皇の養子にして、躰仁親王へ譲位するよう誘導したのです。

 

 

院政は、上皇が天皇の父という立場から権勢を振るうシステムだったので、養子であれなんであれ院政による政治の実権を欲するのであれば息子が即位しないと話になりません。なので鳥羽が即位を望む躰仁親王は、崇徳天皇の弟であり、院政を望む崇徳天皇にとって躰仁親王即位などありえない話です。しかし、躰仁親王を崇徳天皇の養子にすることで両者の思惑が一致し、躰仁親王の即位が実現しました。崇徳天皇と躰仁親王は兄と弟であると同時に父と息子の関係にもあったわけなんですが、複雑です・・・。

 

 

こうして躰仁親王は近衛(このえ)天皇として即位。しかし、これは鳥羽上皇の罠でした。鳥羽上皇は近衛天皇が即した途端、「躰仁親王はね、俺の息子として即位したの。養子?そんな話あったっけ?wwww崇徳と躰仁親王は異母兄弟でしょ?父ではない崇徳は院政は行えないし一生静かに暮らしてろ。近衛天皇は俺の息子だ。ザマァwww」と崇徳天皇を騙し、崇徳天皇を失意のどん底に陥れました。

 

怨霊で有名な崇徳天皇ってどんな人?その生涯とは?わかりやすく紹介!
今回は、怨霊となったことで有名な崇徳(すとく)天皇について紹介したいと思います。日本には歴代何百人という天皇がいますが、崇徳天皇はそんな天皇たちの中でもトップクラスに不幸な天皇でした。そんな崇徳天皇の生涯について見てみたいと思います。 崇徳天皇の複雑な生い立ち 崇徳天皇の不幸は、その生い立ちから既に始まっていました。崇徳天皇は鳥羽天皇と藤...

 

ところが、鳥羽上皇の強い願いにより即位した近衛天皇は1155年、わずか17歳という若さで崩御してしまいます。すると恒例の皇位継承問題が再び浮上するわけですが、そこで白羽の矢が立ったのが後白河法皇(天皇)の息子の守仁親王でした。

 

 

なぜ守仁親王が選ばれるのかというと、晩年の鳥羽上皇が愛した藤原得子の養子となっていたから。ちなみに、なぜ後白河法皇(天皇)がスルーされているのかというと、前述のとおり評判がすこぶる悪かったのと白河法皇の遊び女だった藤原璋子から生まれた子だったから。

 

 

ただ、「父が存命中なのにいきなり孫だけ即位するっていうのもなんか変じゃね?」っていう議論もあって、最終的には後白河天皇が即位する形となります。守仁親王が幼かったので後白河天皇は、守仁が成長するまでのつなぎ役として即位したわけです。

 

 

ここでもう一度系図を再掲しておきます。

いきなり変化球が飛んできた感じで即位した後白河天皇。所詮つなぎ役としての即位であり、誰も悪評ばかりの後白河天皇には期待をしていないし、後白河天皇本人もそんな評判を知っていたので政務を真面目に行うつもりはありませんでした。

 

 

ところが、1人だけ後白河天皇の権力を盤石にしてやろうと躍起になっている人物がいました。それが信西(しんぜい)という人物。信西は非常に博識で政治に精通し、嫁さんが後白河天皇の乳母でした。信西h後白河天皇を通じて自らの望む政治を行いたいと考えおり、後白河天皇の即位はまさに夢を実現する千載一遇の大チャンスでした。

信西ってどんな人?平清盛との関係は?わかりやすく紹介【保元の乱と平治の乱】
今回は、保元の乱・平治の乱で活躍した人物の1人である信西(しんぜい)という人物について紹介してみたいと思います。 信西は当時、藤原頼長と並ぶの秀才と言われ、非常に知略に長けた人物でした。 信西は、保元の乱・平治の乱の2つの乱を知る上で欠かすことのできない存在です。いわば保元・平治の乱のキーパーソンとも言えま...

 

  1. 後白河天皇をつなぎ役だけで終わらせたくない信西
  2. とっとと守仁親王を即位させたい裏の権力者、藤原得子
  3. 後白河天皇即位のドタバタ劇の隙をみて、重仁親王即位を企む崇徳上皇

 

これ以外にも、様々な思惑が複雑に絡み合い大きな政争に発展したのが有名な保元の乱。保元の乱は皇位継承問題に武士が初めて深く関与した歴史的にも画期的な乱で、大きく崇徳上皇派と後白河天皇派に分かれて争いが起こりました。

 

 

詳細はこの記事では書ききれないので以下の記事をどぞ。

簡単にわかりやすく!誰でもわかる保元の乱【勝者は?経過は?】
今回は、人間関係が複雑でよくわからないことで有名な保元(ほうげん)の乱について紹介したいと思います。 この記事だけでは全てを説明しきれないので関連する記事のリンクをたくさん貼りました! 保元の乱はなぜ起こったか? 保元の乱は、皇位継承争いと摂関家の家督争いがミックスした少し複雑な乱です。 崇徳上皇VS後白河天皇 ...

 

保元の乱は後白河天皇側の勝利で終わります。後白河天皇側と言っても後白河天皇は置物みたいな感じで、裏で実権を握っていたのは信西。

 

 

保元の乱の後、信西と藤原得子の間で話し合いが行われ、後白河天皇は予定通り守仁親王に譲位し、守仁親王は二条天皇として即位します。

 

 

が、次は「後白河上皇は院政をするのか?二条天皇が親政をするのか?」で朝廷内は大きく対立しました。こうして保元の乱の3年後、再び平安京で乱が起こります。これが平治の乱

 

保元の乱と同じく、平治の乱についても詳細は以下の記事をどぞ。

簡単にわかりやすく!誰でもわかる平治の乱【勝者は?源義朝はどうなった?】
平治の乱は、対立関係が超複雑であることで有名な1159年に起こった内乱です。この3年前に起こった保元の乱にも複雑な対立関係がありましたが、平治の乱はそれ以上に複雑です。 今回は、そんな平治(へいじ)の乱について、できる限りわかりやすくかつ詳しく紹介してみようと思います。ちなみに、以下の保元の乱の話を知っておくと理解がスムーズになるかもし...

 

平治の乱で信西は亡くなり、乱は二条天皇派の勝利に終わります。信西に全てを頼っていた後白河上皇は力を失い、勝利した二条天皇派もその後の内ゲバで有力者がいなくなり、両者はこう着状態に陥ります。平安時代末期のカオス感はハンパないです。

 後白河法皇(天皇)と平清盛

そして人材不足に悩む後白河上皇と二条天皇に急接近したのが、人も金も武力も持っている平家の棟梁、平清盛(たいらのきよもり)でした。

 

 

平清盛は、困っている後白河上皇・二条天皇を助け、その見返りに一族らへの官位を引っ張り出そうとします。この作戦は成功し、平家一門の朝廷内の地位は飛躍的に高まりました。

 

 

こうして平家との結びつきを持つようになった後白河上皇は、平滋子(たいらのしげこ)という1人の女性に一目惚れ。1161年には滋子との間に子どもまで産まれてしまいます。(これが後の高倉天皇

 

 

ただ、平清盛は後白河上皇の人柄を個人的に好いてはおらず、あくまで政治は二条天皇中心に行われるべき・・・と考えていたので、平滋子と後白河上皇との間に子が産まれたことは心情的にとても複雑なものでした。

 

 

後白河上皇は、平滋子との間に産まれた子が生まれるとすぐに皇太子にしようと計画をしますが、この計画は実行前に露呈し、二条天皇や二条天皇を支持していた平清盛はこれに激怒。

 

 

後白河上皇は自らに近い貴族たちを要職から外され、近臣を失った後白河上皇は政治の影響力を失うことになります。

 

 

政治能力を失った後白河上皇は仏教にのめり込むようになり、1164年今でも有名な千体の千手観音像が圧巻の三十三間堂(蓮華王院)が建てられます。

 

 

平清盛は、後白河上皇を良く思っていませんが、露骨にディスることもしませんでした。平清盛の処世術は、とにかく敵を作らないの一言に尽きます。

 

 

平清盛は非常に気配りができる人物だったようで、とにかくいろんな人に良い顔をして敵を作りまセン。そして、政治が不安定化すると、自分にとっても最も利する人物に接近し、生き残るという戦略を取っていました。(権力を掌握するようになった晩年は傲慢な振る舞いが増えますが・・・)

 

 

というわけで、後白河上皇のために豪華絢爛な三十三間堂を建立したのも実は平清盛でした。後白河上皇の望みを叶えることで関係を良好な状態で保とうとしたのです。

平清盛ってどんな人?その生涯・性格をわかりやすく紹介するよ【平家物語の言う盛者必衰の理を知る】
今回は、平安時代の超有名人物、平清盛(たいらのきよもり)について紹介しようと思います。 平清盛が生きた時代は、権力が既得権益層の貴族からその貴族に虐げらていた武士へと移り変わるまさに日本の大転換期。 そんな激動の時代の中、貴族を超えた最高権力者として君臨した平清盛。その生涯はどんな生涯だったのでしょうか。平...

後白河法皇(天皇)と二条天皇

二条天皇は1165年、20歳ちょっとの若さで崩御してしまいます。

 

 

二条天皇には順仁親王という子がいましたが、二条天皇崩御時点で生後一年も経っていない乳飲み子。しかし、順仁親王が天皇即位しなければ、天皇家の直系は後白河の息子である後の高倉天皇へとシフトしてしまいます。

 

 

二条天皇と後白河上皇は親子でありながらも平治の乱で対立しており、仲が良くありませんでした。親子と言っても二条天皇は藤原得子に育てられたので、おそらく後白河上皇を父とは思っていなかったことでしょう。

 

 

二条天皇は高倉天皇へと皇位がシフトしてしまうのを何としても阻止しようとします。そこで、二条天皇が崩御間際に強引に即位させたのが息子の六条天皇でした。

 

 

ここでまたまた系図を載せておきます。

二条天皇は非常に優秀な人物であり、若いながらも信念をもって天皇親政を実現しましたが乳飲み子の六条天皇ではどうにもなりません。摂関藤原氏が摂政として補佐すれば良い・・・という話もありますが、摂関家は後三条天皇の治世以降、落ち目でそんな力は残されていません。

善政・有能?後三条天皇を簡単にわかりやすく紹介!【院政と摂関政治の衰退】
前回は荘園整理令の話をしました。 今回は有名な「延久の荘園整理令」を発令した後三条天皇という人物について紹介したいと思います。後三条天皇は、有能とか善政とか言うキーワードで語られることの多い比較的イメージの良い?天皇です。 疎まれる後三条天皇 後三条天皇が天皇即位する前の話です。実は、後三条天皇は時の権力者であった摂関藤原氏の藤原頼...

 

すると、国政を担えるのは後白河上皇しかいない。賛否両論ありながらも、こうして後白河上皇は再び政治の表舞台に登場することになります。

 

 

いやー、後白河法皇(天皇)の事情って本当に複雑です。父は誰かわからないし、兄の崇徳には恨まれ、周りからは「無能!」と言われ、息子の二条天皇からも嫌われるという絶望の家庭環境と政治情勢の中で生き抜いてきたのが後白河法皇(天皇)。ほんと、これだけで波乱万丈すぎてお腹いっぱいだし、後白河法皇メンタル強すぎ。

 

 

さて、二条天皇派だった平清盛の動向はどうなっていたのでしょうか。平清盛は人・金・武力を持つ朝廷における超重要人物。平清盛の動向は多くの有力貴族が注視しています。

 

 

上述したように「敵を作らず、刻一刻と変化してゆく政治情勢の中で一族の繁栄に最も利する者に付く」というのが平清盛の処世術。平清盛は後白河上皇が院政を本格的に復活させるや否や、次は後白河上皇側に協力する姿勢を示すようになります。この移り身の速さが平清盛の大きな強みの1つです。

 

 

後白河上皇は昔に失敗した高倉天皇の即位に向けて動き始めます。二条天皇はもういない、平清盛は協力者、そして六条天皇は乳飲子で意思がない。もはや邪魔する者はおらず、1168年、六条天皇を譲位させ高倉天皇を即位させました。

誰でもわかる高倉天皇とは?わかりやすく紹介!【平清盛との関係や系図など】
今回は、激動の平安時代末期に活躍した高倉天皇という天皇について紹介しようと思います。 高倉天皇の在位期間は、ちょうど栄華の頂点に達した平清盛が活躍していた時期と被っていることもあり、どうも影が薄いです。今回は、そんな高倉天皇に焦点を当ててみます。 高倉天皇の即位 高倉天皇は、後白河上皇と平滋子との間に生まれた...

 

こうして後白河法皇は本格的に院政を再開し、一方の平清盛は平滋子のツテなどを利用して娘の平徳子を高倉天皇の正妻とします。1172年の話。

 

 

徳子と高倉天皇の間に男の子が生まれて将来天皇にでもなれば平清盛は天皇の外祖父!絶大な権力を手に入れられるという計画です。

 

 

ただ、徳子から男の子が生まれて天皇即位に成功した時点で、平清盛にとって後白河上皇はもはや用無しの存在になります。というかもはや邪魔者でしかありません。

 

 

1172年の徳子の入内は、後白河法皇と平清盛の利害関係の終わりの始まりを意味していました。この頃から後白河法皇と平清盛の関係は少しずつ悪化の一途を辿りますが、それでも後白河法皇が平徳子の入内を許したのは、平滋子による強い説得によるものと考えられています。

 

 

平滋子は、美貌と知略を兼ね備えたまさに才色兼備の女性で、後白河法皇と平清盛という2大権力者の間の絶妙な調整役として影で政治を支えていました。これは平滋子にしかできない大事な仕事です。

 

 

しかし1176年、平滋子が亡くなったことで今まで抑えられていた両者の対立は、1177年に起こった鹿ケ谷の陰謀事件という事件によって表面化。

鹿ケ谷の陰謀とは?わかりやすく紹介【後白河上皇VS平清盛】
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さらに、後白河法皇と平清盛の間の最後の仲介役だった清盛の息子の平重盛が1179年に亡くなったことで両者の対立は決定的なものとなり、平清盛は後白河法皇を幽閉状態に追い込み、政治の実権を全て平家で掌握することになります。(これを治承三年の政変と呼んだりもする)

 

 

平重盛は本当に優秀なやつなんですが、その優秀さがアダとなり悲しい最期を迎えてしまいます・・・。

平重盛はどんな人?わかりやすく紹介!【平家物語の名言や系図などを交えて】
今回は、平清盛の嫡男で平家棟梁でもあった平重盛(しげもり)について紹介します。 平重盛は文武両道の優秀な人物であり、かなりの人格者でもありました。武士・貴族両方から信頼される存在で、まさに平清盛の後継者に相応しいエリートな人間でしたが、その生涯、特に晩年はかなり悲惨な生涯でした・・・。 晩年の平重盛は、自ら「早く死んでしま...

 

後白河法皇(天皇)と源平合戦

1168年に高倉天皇が即位した際、実は後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)という人物も天皇候補でした。しかし、我が子を即位させたい平滋子の妨害により、以仁王は失脚。以仁王は皇位の望みと財政基盤を奪われ平家を恨みながら月日を過ごします。

 

 

その以仁王が平清盛の度を過ぎた振る舞いブチギレ。1180年、平清盛に対して反乱を起こします。

以仁王とは?以仁王の挙兵をわかりやすく紹介!【平清盛との関係など】
今回は、源平合戦のきっかけとなった以仁王(もちひとおう)という人物について紹介します。 1180年、以仁王は各地の源氏に呼びかけ、平氏に対して挙兵をしました。以仁王の挙兵自体はすぐに鎮圧されてしまいますが、その後源氏たちが立ち上がり次々と挙兵。以仁王の挙兵は源平合戦の始まりとなる歴史上とても重要な事件となります。 以仁王ってど...

 

以仁王は高倉天皇即位の頃から平家を嫌っていましたが、

  1. 1179年に後白河法皇を幽閉したこと
  2. 1180年に皇位の最終決定権を持つ後白河法皇を無視して高倉上皇と平徳子の間に生まれた安徳天皇を即位させたこと

 

などをきっかけに遂に行動を起こしたのです。

安徳天皇の悲劇の生涯を簡単にわかりやすく紹介!【平清盛との関係など】
今回は、日本の歴代天皇の中でもトップクラスに悲劇的な最期を迎えた安徳天皇(あんとくてんのう)について紹介しようと思います。 安徳天皇はわずか8才で祖母とともに入水して崩御。生まれてから死ぬまでの間、権力に翻弄され続けた生涯を送ります。とは言っても、幼少の安徳天皇にはそんな自覚すらなかったと思いますが。 安徳天皇、生まれる 安...

 

この以仁王の挙兵は失敗に終わり以仁王は命を落としますが、全国各地の源氏たちが以仁王に呼応して立ち上がり、有名な源平合戦が始まります。

 

 

立ち上がった源氏たちは皆平安京を目指します。平家に幽閉された後白河法皇を味方につけ、平家を追放すると共に官位に預かろうと考えたのです。

 

 

そして幽閉されている後白河法皇は何もできず、源氏たちが救いに来てくれるのを待ちます。

後白河法皇(天皇)と木曽義仲

平家軍を破り、幽閉された後白河法皇を救ったのは木曽義仲(きそよしなか)という人物でした。木曽義仲は源義仲とも言って源平合戦で立ち上がった源氏の1人。

木曽義仲ってどんな人?わかりやすく紹介【性格や巴御前との関係など】
今回は、源平合戦の主役の1人であり、短命ながらも激動の生涯を送った木曽義仲(きそよしなか)という人物について紹介したいと思います。 木曽義仲の生い立ち 木曽義仲は、乳飲み子の頃から波乱万丈な人生を送ることになります。木曽義仲が2歳の時、父を殺され、木曽義仲自身も命を狙われることになったのです。しかしながら、いろんな人の助けがあって信濃国へと逃れる...

 

後白河法皇にとっては救世主となった木曽義仲。その後、後白河法皇と連携しながら政治にも深く介入することになりますが、この2人の連携がそれはもう全く上手くいかない!

 

 

後白河法皇が「安徳天皇は清盛が勝手に即位させた天皇だからあいつはノーカウントな。正式な形で後鳥羽天皇を即位させたろw」と話を進めようとすると、木曽義仲は「いやいやw次の天皇は、今回の戦乱で立ち上がった以仁王の息子である北陸宮だからw」と皇位継承というシビアな問題に新参者がズカズカと物申すものだから、木曽義仲は後白河法皇や朝廷貴族らから総スカンを喰らいます。

 

 

後白河法皇は木曽義仲には見切りをつけ、遅れて平安京に向かってきた源頼朝が派遣した義経らを頼ろうとします。

 

 

しかし、頼朝と木曽義仲は同じ源氏でも仲が悪く、後白河法皇が頼朝と接近してしまうと、木曽義仲の立場は失墜。しかも後白河法皇に色々と暴言吐きまくってるし、頼朝は木曽義仲には消えて欲しいと思ってるから、最悪殺される場合すらある。

 

 

追い詰められた木曽義仲は、後白河法皇を強制幽閉させることを決意。後白河法皇の住む法住寺を襲い、後白河法皇は再び幽閉されてしまいます。後白河法皇の生涯は本当に激動すぎて、何がどうなってるのかサッパリ・・・。

法住寺合戦とは?わかりやすく紹介するよ。【木曽義仲VS後白河法皇】
今回は、源平合戦における戦の一つ、法住寺合戦について紹介しようと思います。 法住寺合戦は、木曽義仲が後白河法皇の御所だった法住寺に攻め込んだ戦い。日本で初めて武士の矛先が上皇に直接向いた前代未聞の大事件であり、木曽義仲のその行動に平安京内では激震が走りました。 法住寺合戦当時の時代背景は? 法住寺合戦は1183年11月に起こ...

 

幽閉した後白河法皇を利用して自分勝手な政治を行う木曽義仲ですが、政治家ではない木曽義仲は幽閉した後白河法皇を有効活用する術を知らず、その後源頼朝の派遣した義経らに命を奪われてしまいます。これが宇治川の戦い。

宇治川の戦いって?わかりやすく紹介・解説するよ【宇治川の先陣争いなど!】
今回は、源平合戦の戦の1つである宇治川の戦いについて紹介します。 木曽義仲VS源頼朝VS平家の三つ巴の関係図は、宇治川の戦いによる木曽義仲の死により源頼朝VS平家の一騎打ちの構図へと変化し、宇治川の戦い後、源平合戦はクライマックスへと向かってゆきます。 宇治川の戦い当時の時代背景とは? 宇治川の戦いとは、木曽義仲と源頼朝が派遣した源...

 

後白河法皇(天皇)と源頼朝

再び自由の身となった後白河法皇は源頼朝と協力しながら平家を追い詰めていきます。

 

ただ、ここで注意しておきたいのは、後白河法皇はおそらく平家の滅亡は望んでいなかったという点。後白河法皇が望んでいたのは、木曽義仲に平安京から追い出された平家が持ち出していった三種の神器の奪還でした。これがないと後鳥羽天皇が正式に天皇即位できませんからね。

 

 

後白河法皇は、ライバルが消えて一強となった武家が時に天皇や治天の君をも超越するような力を手にすることを平清盛を通じて学んでいます。後白河法皇にとって望ましいのは、同程度の力を持つ武家が複数あって、治天の君の権威をチラつかせながら武家同士を争わせること。武家の間の調整役として治天の君が君臨する構図を望んでいました。だから、平家が滅亡されるとマズイとすら思ったかもしれません。源頼朝の一人勝ちになれば、昔の平清盛のように自分に牙を向いてくるだろう・・・そう思ったはずです。

 

 

ですが1185年、平家は壇ノ浦の戦いで滅亡。

壇ノ浦の戦いを簡単にわかりやすく紹介!【安徳天皇の入水と源義経の活躍など】
今回は、源平合戦の最後の戦い、壇ノ浦(だんのうら)の戦いについて紹介します。 壇ノ浦戦い当時の戦況 まずは、壇ノ浦の戦い当時の戦況について紹介しておきましょう。 1184年2月、福原付近を本拠地とする平家軍に三種の神器の奪還を名目とした源氏軍が襲い掛かります。 福原は北西を険しい山、南は海に囲まれた天然の要塞で...

 

すると、予想通り敵がいなくなった源頼朝は後白河法皇に圧力を掛けてきます。しかし、後白河法皇も指を咥えてじっとしているわけではありません。頼朝・義経兄弟の仲に軋轢が生じているのを利用し、義経を味方に引き入れ、頼朝の対抗馬にしたのです。このような人心掌握術に関しては複雑な人間関係を経験済みである後白河法皇の十八番でした。

源義経ってどんな人?その生涯・性格とかをわかりやすく紹介するよ【源平合戦の栄光、そして悲哀の最期】
今回は源平合戦のヒーロー、あの有名な源義経(みなもとのよしつね)についてわかりやすく、丁寧に紹介してみました。 この記事を読んでいただければ、源義経のことがザックリとわかるはず!源義経入門のきっかけにしていただければ嬉しいです。 源義経の父、源義朝 源義経の話に入る前に、その父である源義朝(みなもとのよしとも)について少しだけ話をし...

 

ところが、義経の力だけでは頼朝に対抗することはできず、源義経は奥州藤原氏と共に頼朝によって1190年に滅ぼされてしまいます。

奥州合戦(討伐)を簡単にわかりやすく紹介!【奥州藤原氏が滅亡した理由】
今回は、1189年に起こった奥州藤原氏と源頼朝が戦った奥州合戦(奥州討伐)について紹介します。事前に以下の記事を読んでいただけると、良いかもしれません。 奥州合戦はなぜ起こったのか? 奥州合戦は、鎌倉の背後の脅威を取り除きたい源頼朝が「奥州藤原氏が朝敵の義経を匿っていたことは重罪だ!」と決めつけ、源頼朝の独断で起こした戦いです。 ...

 

1190年の奥州合戦の後、源頼朝と後白河法皇の2人のみの会談が実現します。今でいう2国間の首脳会談みたいなもんです。会談は数回に渡りましたが、どんな会話がなされたかはわかっていません。おそらくは今後の国の統治のあり方について話し合いがなされたのかなと。具体的には1185年に頼朝が認めさせた守護・地頭の存在を改めて再確認したんじゃないかと思います。

 

 

いずれにせよ、後白河法皇は源頼朝の条件を飲み、幕府と朝廷という二重権力構造を容認することになります。

鎌倉幕府の守護・地頭を簡単にわかりやすく解説する!
今回は、鎌倉幕府に源頼朝によって配置された「守護」「地頭」という役職について紹介してみます。 教科書的に言えば、 地頭:各国の年貢徴収や土地管理の責任者。 守護:国の治安維持を行う軍事責任者 という感じでしょう。これだけだと無味乾燥で面白くありませんので、ここではもう少し掘り下げて守護地頭について解説してみ...

 

こうして、時代は鎌倉時代へと突入。その後1192年、後白河法皇は崩御し、激動の生涯を終えることになります。

後白河法皇(天皇)の人物像

以上、後白河法皇の生涯をハイライトで紹介してみたんですが、本当に波乱万丈で複雑な生涯です。まず家族関係がヤバい。父に嫌われ、兄にも嫌われ、息子にも嫌われ、おまけに貴族らからも無能扱い。後白河法皇は今様や仏教に常軌を逸したハマり方をしたり、少し変わった人物だったらしいですが、常人ならメンタル崩壊してますほんとに。

 

 

後白河法皇がおそらく最も心を許したのは平滋子だったんじゃないかと思いますが、滋子も若くして無くなってしまい、後白河法皇は心の支えを失ってしまいます。滋子がもうちょっと長生きしていれば、歴史は大きく変わったかもしれません。

 

 

後白河法皇は、何度も近臣を失ったり自ら幽閉された環境もあってか、どうも人をコマのように扱う一面があったようです。そのため冷酷な人物のようにも見えますが、これは武家が台頭し相対的に立場が弱くなった後白河法皇の立場に立てば、止むを得ないとも考えることができます。

 

 

なんせ治天の君が持つ最大の武器は人事権ですからね。特定の派閥が力をつけないよう、巧みに人を動かした・・・とポジティブな評価もできるかもしれません。実際に後白河法皇の人間関係を見抜く能力は非常に優れていたという評価もあります。

 

 

総評すると、後白河法皇は常人離れした人心掌握スキル、そして人間関係察知スキルがあって、平清盛を筆頭とする権力者とも対等に渡り合うことができました。皮肉にもおそらくこのようなスキルは、後白河法皇の孤立した家庭環境や目まぐるしく変化する政治情勢にその要因があったのだろうと思います。

 

 

実務能力やその性格には難があったようですが、清盛や頼朝との政治交渉の経過などを追うと後白河法皇は頭の切れる人物であり決して無能ではありません。

 

 

自分の立場や相手の考えを的確に判断できる後白河法皇でなければ、武士が台頭し、天皇・上皇の権力が相対的に低下しつつあった時代の過渡期に、30年もの長い間、治天の君として君臨することはできなかったでしょう。この時代にこの天皇あり。後白河法皇はまさに平安末期の動乱の世に相応しい人物だったのではないでしょうか。

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