今回は、平安時代から鎌倉時代へと時代が変わるきっかけとなった治承・寿永の乱(源平合戦)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
治承・寿永の乱(源平合戦)ってどんな戦い?
治承・寿永の乱は平安時代末期に起こった戦乱。1180年〜1185年の6年間続いた有名な大戦乱です。
平清盛率いる平家一門が朝廷を支配して独裁者の如く振る舞ったことに、人々が不満を爆発させ挙兵したことで起こりました。
平家一門への不満は、日本各地で一斉に爆発することとなり、治承・寿永の乱は日本全土を巻き込んだ歴史に残る大戦乱となります。
挙兵した主な勢力に源氏が多かったため、治承・寿永の乱は別名「源平合戦」と呼ばれることもあります。
初めて治承・寿永の乱について読む人でも、わかりやすく丁寧に紹介していくので、安心して読み進めてくださいね!
平清盛の栄華【平家一門による独裁政治の始まり】
話は、治承・寿永の乱が起こる3年前の1177年までさかのぼります。
朝廷では、高倉天皇(在位1168年〜1180年)をめぐって後白河法皇と平清盛が激しく争っていました。
俺は、高倉天皇の父として院政を行なって権力を振るいたい。
しかし、金と力を持つ平清盛が邪魔をしてくる・・・。
娘の平徳子が高倉天皇に嫁いでいるから、徳子が男の子を産んで、その子が天皇になれば、摂関政治で権力を牛耳っていた藤原氏のように私も外祖父(母方の祖父)として権力を振るえるようになるぞ!
しかし、院政で権力を握りたい後白河法皇は、私が権力を手に入れることには絶対反対するだろう。
計画のためには、まず後白河法皇の権力を奪う必要があるな。
1177年、平清盛は後白河法皇の側近たちを一方的に危険分子と判断し、その命を奪ってしまいます。(鹿ヶ谷の陰謀)
後白河法皇の側近たちが、鹿ヶ谷で密かに平家を討つ謀略を練っている!
こいつらは危険だから、これを機に消してしまおう。
側近が消えてしまえば、手足をもがれた後白河法皇は何もできまい。
さらに1178年には、平徳子と高倉天皇の間に平清盛の悲願だった男の子が産まれます。この子を天皇即位させて天皇の外祖父として権力を握れば、平清盛の目的は達成・・・!というわけです。
こうして最高権力者になれることがほぼ確定した平清盛は、1179年、後白河法皇を幽閉し、政治に口出しができない状態に追い込みました。
孫が生まれたことで、最後のピースが揃った。
私が権力者になることが確定した以上、もはや後白河法皇に気を遣う必要はない。
1180年3月、平清盛は孫を安徳天皇として即位させ、日本の実質的な最高権力者として君臨することになります。
当時は、天皇即位に上皇の意見が反映されるのが普通でした。
つまり、普通なら誰を天皇にするのか後白河法皇の意見が強い影響力を持つわけです。
※法皇:出家した上皇のこと。
しかし、後白河法皇が幽閉されてしまったことで、安徳天皇の即位は、平清盛が上皇のごとく振る舞って決められた異例の天皇即位となりました。
朝廷内には、平清盛の独裁ぶりに反対する者も多くいましたが、武力・金、そして天皇をも手中に収めた平清盛に逆らえる者は誰もいませんでした・・・。
治承・寿永の乱の始まり
多くの者が平清盛に逆らえずに怯える中、平清盛に堂々と反旗を翻した者がいます。それが以仁王という人物です。
以仁王は、後白河法皇の皇子。血統的に天皇になれる可能性が十分にありましたが、平清盛が安徳天皇を即位させたことで、その可能性の芽を完全に摘まれることなりました。
下の系図を見ると、高倉→安徳と天皇即位が続いたことで、以仁王の血統が天皇候補から完全に外れていることがわかると思います。
1180年4月、自らの力で皇位をもぎ取ることを決意した以仁王が、平清盛に対して挙兵します。
後白河法皇を幽閉し、好き勝手している平清盛を許すことはできない。
私は、法皇の皇子だ。昔、天武天皇が壬申の乱で大友皇子を討ち取って皇位を手に入れたように、私も力によって平清盛を討ち取ってやる!!
以仁王は源頼政という人物と協力して、全国各地に協力を呼びかける命令文(令旨)を送ります。
平清盛に不満を持っている者はたくさんいるだろうから、皇族の私が呼びかければ、賛同して挙兵する者も結構いるはず!
特に、平氏と並ぶ武家の名門源氏には、平清盛に不満を持つ者が多くいる。各地の源氏たちに呼びかけて、全国規模の大反乱を起こすのだ!
ところが、以仁王の挙兵計画は事前に平清盛にバレてしまいます。1180年5月、平清盛が以仁王を討つため兵を送り込むと、約10日ほどの交戦の結果、以仁王は討ち取られてしまいました・・・。
以仁王は、各地の源氏に挙兵を呼びかけていたそうだな。
私は、平治の乱で東国の支配者となった源義朝を処刑している。
これに恨みを持つ者も多いだろう。反乱の芽を摘むため、反乱を起こしそうな源氏たちも先手を打って消しておくか・・・!
こうして、平清盛は各地の源氏を攻撃し始めました。するとこれに応戦するため、源氏たちも平清盛に対して続々と挙兵することになりました。
治承・寿永の乱と源頼朝
平清盛に対して、挙兵した源氏の中で特に有名なのが、次の2人です。
源頼朝
源義仲(別称:木曾義仲)
まず最初に挙兵したのが源頼朝でした。
息子の源頼朝はなんとか処刑を免れて伊豆に流刑となり、平家の監視の下、約20年に及ぶ幽閉生活を続けていました。
平清盛が反乱分子を消そうとするのなら、私を真っ先に消すはずだ。
何もせずとも消されるのなら、亡き以仁王の令旨に従って挙兵してやろうではないか・・・!
1180年8月、源頼朝は、北条時政を筆頭とする協力者を得て挙兵。平家の息のかかった伊豆の役人を討ち取った後、伊豆から北上して、協力者の三浦一族と合流すべく三浦半島を目指します。
しかし、合流前に平家の鎮圧部隊が源頼朝を攻撃。石橋山という場所で戦いが起こりました。(石橋山の戦い)
三浦氏の援軍を得られず少兵だった源頼朝はこれに惨敗。わずかな側近のみで山中に身を潜め、かろうじて命を繋ぐことができました。
※初戦の石橋山の戦いは、治承・寿永の乱の数ある戦いの中でも、源頼朝が最大の危機に直面した戦いだったりします。
なんとか生き残った源頼朝は、東京湾を渡って安房国(千葉県の先っちょの方)へ逃げ込み、再起を図ります。
その後源頼朝は、関東一帯で平家を倒すため同士を集めると、頼朝の軍勢はあっという間に大軍に膨れ上がりました。
源頼朝の父であり、平治の乱で平家に命を奪われた源義朝は、南関東の支配者でした。
平家の圧政に苦しんでいた武士たちは、その息子を総大将として団結し、平家を打ち倒そうと一斉に立ち上がったのです。
一方の平家軍は、京から関東へ追討軍を送り込みます。
そして1180年10月、源頼朝と平家の追討軍が富士川(今の静岡県富士市)にて衝突。再び争いが起こりました。(富士川の戦い)
関東で軍勢を整えた源頼朝は、富士川の戦いに快勝。平家軍を蹴散らし、石橋山の戦いでのリベンジを果たします。
富士川の戦いの後、源頼朝は本拠地としていた鎌倉に戻って、上京の準備を整えます。具体的に何をしたのかというと、京へ向かってる時に、その道中や関東で裏切り者がでないよう、源頼朝がリーダーとなって関東一帯の武士達をしっかりとまとめることにしたのです。急がば回れ・・・というやつです。
南都焼き討ち・平清盛の死
平清盛は、1180年6月に福原京(今の神戸市)への遷都を断行していました。
平清盛が遷都を決断した理由は、はっきりとわかっていません。
考えられるのは、
・平清盛が行っていた日宋貿易の拠点港である大輪田泊があって、貿易に有利な場所だから
・京都は、興福寺や延暦寺など強すぎる寺院があって邪魔だったから
などの理由があります。
この遷都は、世間から大ブーイングを浴びることになります。
遷都したら、その負担は私たち農民にのしかかる。そんなことをされたら、私たちの生活はますます苦しくなる・・・。
遷都をしてしまったら、京に近い興福寺や延暦寺などの有力寺院が力を失ってしまう。
仏教界の威信にかけても、遷都を許すわけにはいかない・・・!
遷都なぞしたら、私たちが京で長年築き上げてきた地位がパーになってしまう!そんなこと許せるはずがない!
さらには、高倉上皇や平家一門の中からも遷都に反対する声が挙がり、1180年11月、平清盛は福原京を諦め、再び平安京への還都を決めました。
福原は、日宋貿易で国を繁栄させるには絶好の場所だ。
しかし、10月には富士川の戦いで我が軍は敗走し、多くの民が遷都に不満を爆発させている。
このままでは、平家政権が崩壊してしまうかもしれん。やむを得ないが、平安京への還都を決定する!
こうして、都が平安京に戻されることになりましたが、状況が元に戻ることはありませんでした。
平清盛のグダグダな遷都・富士川の戦いの敗北を見て、興福寺や延暦寺などの有力寺院が源氏に味方して平家一門と戦う姿勢を示すようになったのです。
これに平清盛はブチギレます。特に興福寺を筆頭とする南都(奈良)の寺院は、以仁王に味方して平家に刃向かった過去があります。
寺院勢力は、私が仏や神に攻撃をしないとでも考えているのだろうか。
私に逆らう奴は何人たりとも許さん。南都に兵を送り込み、武力を持って寺院勢力を屈服させてやる!
1180年12月、平清盛は、息子の平重衡を総大将として南都攻めを決行。
この南都攻めは、一応、平家軍の勝利に終わりますが、その代償は、その後の戦況を大きく変えてしまうほど大きなものでした。
というのも、戦火が寺院にまで拡大し、興福寺や東大寺といった有名な寺院の建物が次々と焼け落ちる大惨事となってしまったのです。(南都焼き討ち)
南都焼き討ちによって、平清盛は仏教を信仰する多くの人々を一斉に敵に回すことになります。
世間では平清盛は仏敵と呼ばれるようになり、さらに1181年2月、平清盛は病に倒れその生涯に幕を閉じてしまいました。
南都焼き討ち後すぐの平清盛の死を人々は仏罰と呼び、「平清盛が南都を焼いたことで、私たちも仏様による御加護を得られなくなるのではないか・・・?」と多くの人が恐れ慄きました。
※1181年1月には高倉上皇も崩御しています。(崩御:天皇が亡くなること)
源義仲の大活躍
平清盛が亡くなった後、平家一門と源氏の争いはこう着状態が続きます。
こう着状態になった原因は、平清盛という偉大な指導者が亡くなったことだけではありません。1181年に、京で大規模な飢饉が起こったのです。(養和の大飢饉)
京の道端には飢えで亡くなった屍が満ち溢れ、戦どころではなくなってしまいました。
この隙に乗じて、躍進していたのが源義仲です。
源義仲は、1180年9月に信濃国(今の長野県)で挙兵。その後は、北陸を拠点に一大勢力を築いていました。
1183年、平清盛の跡を継いで平家の棟梁となった平宗盛は、京の食料を確保するため、北陸にいる源義仲の討伐を決定します。
1183年5月、平家軍と源義仲軍が、倶利伽羅峠(富山県と石川県の県境あたり)で衝突。(倶利伽羅峠の戦い)
源義仲は多勢に無勢で不利な立場でしたが、計略を練り、見事に平家軍を打ち破ります。敗れた平家軍に源義仲を止める力は残っておらず、源義仲はこれを機に上京を決意。
行軍中も快勝を続けた源義仲は、1183年7月、ついに平安京に到着します。一方、対抗する術を失った平家一門は、京を捨て幼い安徳天皇を連れて西国へ逃走してしまいました。(平家の都落ち)
源義仲は、平家の悪政から民を解放したヒーローとして京に迎え入れられます。
源義仲の栄華と滅亡
平家のリーダー平宗盛は、都落ちの際、後白河法皇も西国に連れて行く予定でした。ところが、都落ちの動きを事前に察知した後白河法皇は、平家に見つからぬよう身を隠し、京に残ることに成功します。
京から平家が消えれば、私は再び朝廷の支配者として君臨することができるぞ!
平家と一緒に西国に強制連行されてたまるか・・・!!!
京に残った後白河法皇は、さっそく新しい天皇を即位させるため動き始めます。
天皇の指名は、院政を敷く上皇が決めるのが慣わしである。
つまり、平家が勝手に即位させた安徳天皇は無効ということ。
だから私は、安徳天皇とは別に、私の意思で新しい天皇を即位させようと思う。
これに意見を述べたのが源義仲です。
実は源義仲、北陸にいる際、以仁王の息子だった北陸宮という人物を保護していました。もともと源義仲が上京したのは、義仲がこんなことを考えていたからです↓
俺は上京した後、天皇になろうとしていた以仁王の意思を受け継ぎ、その息子の北陸宮を天皇即位させる。
そして、俺は北陸宮に仕える武士として、平家に代わって力を手に入れるのだ・・・!
しかし、当時の天皇即位は上皇の意思によって決められ、これに意見を述べることはタブーとされていました。(だから、平清盛が勝手に決めた安徳天皇を正式な天皇と認めない人も多かった)
それなのに、ズカズカと意見を述べる源義仲に対して、後白河法皇は強い不快感を持つようになります。
結局、後白河法皇は、自分の息子である後鳥羽天皇を即位させました。
さらに、これと同時並行で源義仲が率いていた軍勢が京で狼藉を働くようになり、義仲は民衆からも嫌われる存在となっていきました。
養和の大飢饉で京が食糧難に陥っていたことを思い出してください。
そんな状況で京に入れば、当然、源義仲の軍勢も食料不足になります。そこで兵たちは、力づくで人々から食料などを奪い始めたのです。
源義仲を見限った後白河法皇は、水面下で関東の源頼朝と交渉を進め、1183年10月、源頼朝に頼る方針を固めます。
後白河法皇は、源頼朝に東国の支配権を認める代わりに、年貢(食料)を京に運ぶよう源頼朝に命じたのです。(寿永二年十月宣旨)
さらに後白河法皇は、源義仲に対して「西国へ平家追討に迎え!逆らったら謀反とみなすからな!」と命令を下します。オブラートに包んだ言い方ですが、要するに「源頼朝が京に来たら、源義仲は邪魔だから京から消えろ」と後白河法皇は言っているのです。
当然、源義仲はブチギレます。
逆らったら京を平家から解放した俺を謀反扱いにするだと?
どうせ、俺がいない間に京を源頼朝に託すつもりだろ。法皇の魂胆が丸見えなんだよ。
法皇が、そのような仕打ちをするというのなら、俺も強引な手段を使うしかあるまい・・・。
1183年11月、源義仲は後白河法皇の住む法住寺を攻撃。(法住寺合戦)
後白河法皇を武力によって幽閉し、強引に朝廷の支配権を掌握してしまいます。
一方で、寿永二年十月宣旨を受けて、源頼朝は弟の源範頼・源義経を京に派遣します。
そして1184年1月、宇治川(京都府宇治市)にて京に入ろうとする源範頼・義経軍と源義仲軍が衝突。(宇治川の戦い)
源義仲は、側近の今井兼平とともに壮絶な死を遂げました。
宇治川の戦いの最期のシーンは激アツなので、気になる方は以下の記事も合わせて読んでみてくださいね!
治承・寿永の乱終盤戦【一ノ谷の戦い・屋島の戦い】
西に逃げた平家一門は、当初は九州まで逃げていましたが、源義仲が後白河法皇と揉めている隙に力を回復。
宇治川の戦いがあった1184年1月には、旧福原京を本拠地に定め、平安京の奪還を狙うようになります。
平安京と旧福原京は、今で言うと京都市と神戸市の距離です。新幹線ならわずか30分で行けてしまいます。
平安京の目と鼻の先まで平家軍が迫ってくると、京に入っていた源範頼・義経は、これを討つことために出兵。
1184年2月、福原京を守備する平家軍と、これを攻略しようとする源範頼・義経軍が衝突します。
源範頼・義経は兵力的に劣勢であり、平家軍の堅い守備に苦戦しますが、源義経が崖の上から奇襲を仕掛けると、平家軍は総崩れ。(一ノ谷の戦い)
崖から奇襲なんて読めるわけないだろ(汗。だって、下手したら奇襲した側が転倒して死ぬかもしれないんだぜ・・・。
敵襲なんて想定してないから守備がスカスカだよ(絶望)
一ノ谷の戦いは、源範頼・義経軍が劣勢を覆して大勝利。
平家一門は、旧福原京を捨て、讃岐国(今の香川県)の屋島(今の高松市)という場所に逃亡します。
源範頼・義経はこれを追撃しようとしますが、上手くいきません。なぜなら、源範頼・義経軍は水軍を持っていなかったからです。
※屋島に行くには、船に乗って瀬戸内海を渡る必要があります(しかも、屋島は海に面している!)
一方の平家軍は強力な水軍を持っていたため、源範頼・義経軍は対抗する術を持っていません。
両者こう着状態が続いて一年が経過した1185年2月、源義経が動きます。
大嵐だけど、屋島の背後から讃岐国に上陸して、陸上から屋島を攻撃するわ。
まさか嵐の日に海を渡り、しかも遠回りをして背後から攻めてくるなんて誰も思わないだろうしな!
一ノ谷の戦いに続く源義経の命がけの奇襲はまたもや大成功。(屋島の戦い)
予想外の攻撃に平家軍は大崩れとなり、再び敗北を喫しました。
一ノ谷の戦い・屋島の戦いの二度に渡る敗北で、平家軍は回復した力を完全に失います。
治承・寿永の乱、最終決戦!【壇ノ浦の戦い】
屋島から逃亡した平家軍は、壇ノ浦(今の山口県下関市)に追い込まれて万策尽きると、1185年3月、平家の命運をかけた最終決戦に臨みます。(壇ノ浦の戦い)
最終決戦の地は下関海峡。平家軍が得意とする水上戦です。
平家軍は、複雑な海流の流れる下関海峡の地の利を生かして源範頼・義経軍に対抗しようとしました。
ところが、またもや源義経が千人力の大活躍をします。不慣れな海上戦を物ともせず、次々と平家軍の有力武将を撃破。
勝敗が誰の目からも明らかになると、最期を悟った平家一門は次々と海に身を投じます。
平時子(平清盛の妻)は、孫で8歳になる安徳天皇を抱え、「波の下にも都がございます」と安徳天皇を慰めながら、海底深く沈んでいきました・・・。(この場面は、平家物語の名シーンの1つです)
こうして、以仁王の挙兵から始まった約5年にわたる動乱は平家一門の敗北によって幕を閉じることになります。
後白河法皇が後鳥羽天皇のために欲していた三種の神器も、壇ノ浦の戦いで海に沈んでしまいました。
戦いの後、捜索が行われましたが海に沈んだ神器が3つ揃うことはなく、後鳥羽天皇は自らの不安定な皇位に生涯コンプレックスを持っていたと言われています。
治承・寿永の乱の後【奥州合戦】
治承・寿永の乱が終わると、源頼朝は後白河法皇と交渉し、関東に武士による新政権(鎌倉幕府)を設置することを認めさせます。
源頼朝は挙兵当初から、「政治の仕組みを根本的に変えなければ、また第2・第3の平清盛が生まれて、同じような争いが続くだろう」と考えていました。
そこで源頼朝は、朝廷とは一定の距離を置き、新しく設置した鎌倉幕府の運営に専念し始めます。
ところが、弟の源義経が後白河法皇とベッタリな関係となってしまい、源頼朝はこれに強い不快感を示すようになります。
戦いで大活躍して英雄扱いの義経が、朝廷と主従関係を持っていたら、鎌倉幕府のメンツが立たないだろうが・・・。
義経を放っておくと、鎌倉幕府の求心力が失われることを恐れた頼朝は、弟を鎌倉から追放。
こうして、源義経VS源頼朝の兄弟争いが勃発。追われる身となった源義経が、奥州の猛者、藤原秀衡に匿われると、源頼朝は奥州に攻め込み、義経を亡き者としてしまいました。(奥州合戦)
治承・寿永の乱当時、平家一門・源頼朝に匹敵する勢力に、奥州藤原氏がいました。
奥州藤原氏は治承・寿永の乱を静観していたため、この記事ではあまり登場しません。しかし、源頼朝が鎌倉に残り、軍事行動を弟たちに託した背景には、「鎌倉を不在にすると奥州藤原氏がその隙を狙って奇襲してくるのでは?」という不安があったとも言われています。
治承・寿永の乱まとめ【地図and年表付】
最後に、地図と年表で治承・寿永の乱をまとめておきます!
- 1177年
平清盛、後白河法皇の側近を消す
- 1178年言仁親王(後の安徳天皇)生まれる
- 1179年治承三年の政変
平清盛、後白河法皇を幽閉する
- 1180年3月安徳天皇、即位
- 1180年5月以仁王、挙兵
本格的な挙兵前に計画が漏洩。以仁王は討ち取られ、命を落とす。
- 1180年6月平清盛、福原京へ遷都
- 1180年8月源頼朝、挙兵(石橋山の戦い)
源頼朝は初戦を敗北。辛うじて安房国に逃れる
- 1180年9月源義仲、信濃国で挙兵
- 1180年10月
パワーアップした源頼朝が、平家軍を打ち破る
- 1180年11月平清盛、平安京に還都
福原京が大不評だったため京を平安京に戻すが、延暦寺や興福寺は平清盛を見限って、敵意を示すようになる。
- 1180年12月
平清盛、逆らう寺院を攻撃するも、戦火が寺院に燃え移り、大惨事となる。
- 1181年2月平清盛、病により命を落とす
- 1182年養和の大飢饉によって戦況はこう着状態へ・・・
- 1183年5月
源義仲が、食料を求めて進軍してきた平家軍を蹴散らす。
- 1183年7月源義仲、入京。平家は都落ちし、西国へ逃亡
- 1183年10月
京に入った源義仲は、朝廷での行動・発言が過激だったため後白河法皇に嫌われ信用を失う。その代わりに後白河法皇は、源頼朝に接近する。
- 1183年11月
源義仲は、自分を無下にして源頼朝を頼った後白河法皇にブチギレ。後白河法皇の家を襲撃して幽閉する。
- 1184年1月
- 1184年2月
源範頼・義経軍、後白河法皇の命を受けて旧福原京にいた平家軍を蹴散らす。
- 1185年2月
源範頼・義経軍、屋島に逃げた平家軍を追撃。平家軍は敗北し、壇ノ浦へ逃げる
- 1185年3月
逃げ場を失った平家軍による最終決戦。
平家軍の敗北に終わり、安徳天皇が入水。三種の神器も海に沈む。
治承・寿永の乱(源平合戦)についてもっと知りたい方は、平家物語を読むことを強く強くお勧めします。
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