奥州藤原氏とは?わかりやすく紹介【清衡・基衡・秀衡・泰衡の奥州藤原氏4代を知ろう】

今回は平安時代末期、東北地方で絶大な権力を誇った奥州藤原氏について紹介しようと思います!

 

平泉の中尊寺へ観光へ行かれる方はなどはぜひ参考にしてみてください。

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奥州藤原氏の歴史

まずは、奥州藤原氏の歴史を簡単に。

 

そもそも、奥州(東北地方)は当初は蝦夷が支配する土地でした。それが1000年代に起こった九年の役・後三年の役という東北地方の戦乱によって、藤原清衡という人物がその支配圏を手中に収めることになったのです。

前九年の役を簡単にわかりやすく紹介!【理由や経過など!】
2記事に渡り、前九年の役と後三年の役について解説しようと思います。この記事では前九年の役について解説します。 前九年の役・後三年の役とは、簡単に言えば東北地方で起きた戦いです。なぜ、前九年の役・後三年の役が教科書に載るほど有名なのか?(歴史的意義は何か?)というと、概ね次の2つの理由にあろうと思います。 ・戦いを通じて、源

 

後三年の役を簡単にわかりやすく紹介!【理由や経過など!】
前九年の役が終わったのが1062年。約20年後の1080年ごろ、東北地方は再び動乱の渦の中へと巻き込まれていきます。この時の一連の戦いのことを「後三年の役」と言います。 後三年の役は、その前に起こった前九年の役と密接に関わっています(同じ東北地方で起こった事件ですからね!)。後三年の役についてちゃんと知りたい方は、まずは以下の前九年の役

 

詳しい経過は上の記事で解説してますので、この記事では概要だけおさらいします。

前九年の役と藤原清衡

1051年、東北地方で蝦夷が国司に対して反乱を起こしました。

 

蝦夷反乱軍の代表は安倍氏という一族。一方の朝廷から派遣された蝦夷鎮圧軍は源頼義(源頼朝のご先祖様!)でした。

 

当時、奥州藤原氏の初代の藤原清衡はまだ子ども。その父の藤原経清が活躍する時代でした。父の経清は、当初は朝廷側だったんですが、敵対する安倍氏と血縁関係にあったことから立場が微妙になり、途中から安倍氏側に寝返ります。

 

源頼義は、この安倍氏に歯が立ちませんでした。安倍氏は相当の強者だったのです。そのせいもあり、前九年の役は休戦期間も含め約10年の長期戦となりました。そこで源頼義が最終手段として利用したのが、清原氏という別の蝦夷一族でした。

 

源頼義は清原氏に賄賂を送り続け、味方となるよう説得。こうして清原氏の参戦が決まります。清原氏が源頼義側に付いたことで戦況は一変。安倍氏は一気に不利な状況に追い込まれ、1062年、遂に安倍氏は滅ぶことになります。

 

この時、安倍氏側で戦っていた藤原経清は源頼義によって処刑されてしまいます。身の拠り所を失った藤原清衡は、清原氏の養子となり清原清衡と名乗ることになります。紆余曲折あって、安倍氏の旧領地は全て清原氏が支配することとなりますが、清原氏は領土支配を強固なものとするため安倍氏との血縁関係を望んでいました。その結果の1つが、藤原清衡を養子にすることだったんです。

後三年の役と藤原清衡

1083年、清原氏が支配するようになった東北地方で再び戦乱が起こります。きっかけは、藤原氏一族内部の土地をめぐる争いでした。

 

超訳して戦乱のきっかけを説明すると、清原氏の嫡男だった清原真衡が「清原氏の嫡男の俺が領土の支配権を受け継ぐんだから、非嫡流の家衡とか、そもそも養子で血の繋がってない清衡が調子に乗んなよ!!」って感じで怒ったのがきっかけでした。

 

この清原氏の内部分裂にうまく付け入ったのが八幡太郎義家の呼び名で有名な源義家でした。源義家はこの清原氏の内紛を利用してあわよくば東北地方を支配してしまおうと企んだのです。この時、源義家は清原清衡に加担していました。

 

結果的に後三年の役は源義家の勝利に終わり、清原氏は義家と味方だった清原清衡を除き全て滅んでしまいます。

 

こうして東北地方は源義家のもの・・・となるところでしたが、そうはなりませんでした。源義家は戦乱中の納税義務を果たすことができず、朝廷から役職を奪われてしまったんです。こうして権力の空白地帯となった東北地方を、棚ぼた的展開で支配するようになったのが清原氏の唯一の生き残りだった清原清衡でした。

 

当時、既に清原氏は滅んでおり、もはや清原氏の養子の立場も不要になりました。こうして、清原清衡は再び藤原姓を名乗るようになり、藤原清衡として奥州藤原氏の初代として東北地方に君臨することになったのです。

地勢的に恵まれた東北地方

藤原清衡が支配するようになった東北地方は、地勢的に最高の環境に恵まれ、あっという間に強大な力を持つようになりました。

 

地勢的に優れている点は大きく3点。

  1. 砂金の産地だった
  2. 北に住む蝦夷たちとの珍物の貿易を独占していた(清衡を通さなければ朝廷は蝦夷からの珍物を手に入れることができなかった)
  3. 良馬の産地だった
  4. 平安京から物理的に離れており、中央の勢力が及びにくい

 

このような最高の条件で急成長を遂げた都市が、現在、世界遺産となっている奥州平泉でした。

 

藤原清衡は仏教への信仰も厚く、その経済力を外に見せつけるため建立されたのが有名な中尊寺です。特に金箔に覆われた中尊寺の金色堂は圧巻です。

奥州藤原氏の政治・外交術

奥州藤原氏は、圧倒的な経済力と武力を持ちつつも露骨に朝廷に反抗することはしませんでした。奥州藤原氏は、一貫して朝廷と良好な関係を維持し続けようと努めたのです。奥州藤原氏は積極的に領土拡大を目指すことはせず、無駄な戦をしない方針をとったということです。

 

奥州藤原氏は、東北で採れる砂金や馬、蝦夷の産物を朝廷に貢ぐことでうまく朝廷と政治交渉を図りました。朝廷側も反乱の意思のない奥州藤原氏を強く抑圧するつもりもなかったようで、奥州藤原氏の東北支配を黙認するようになります。

 

源平合戦が起こった当時も、奥州藤原氏はこの方針を貫き通したため、日本各地で混沌とした内乱が行われていたにもかかわらず奥州藤原氏だけは戦に巻き込まれずその勢力を温存したまま過ごすことになります。源平合戦当時、源頼朝も背後に君臨し、強大な力をもつ奥州藤原氏を恐れていたとも言われています。(源平合戦時、源頼朝が鎌倉から動かなかった一因とも言われています。)

藤原秀衡と源義経

しかし奥州藤原氏のこの外交術は源義経によって破綻。奥州藤原氏は、源頼朝の策略によって1190年に滅ぶことになります。

 

源義経は、父の源義朝が平治の乱で敗北したことで、鞍馬寺というお寺で隠居生活を続けることになります。

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そんな源義経ですが1174年、鞍馬寺で出家して僧になることを拒み、親戚を頼って奥州藤原氏の下へ向かいます。当時の奥州藤原氏の代表は三代目の藤原秀衡という人物。

 

この藤原秀衡はとても頭の切れる人物で、おそらく4代続いた奥州藤原氏の中で一番有名な人物です。

 

藤原秀衡は心良く、源義経を向かい入れることに決めます。源義経は、清和天皇の血を引く清和源氏。藤原秀衡はそんな貴種である義経を奥州支配に利用しようと考えました。

 

1180年、以仁王の挙兵に応じ、源義経の兄である頼朝も挙兵。富士川にて朝廷軍と戦になりますが、義経は兄を助けんと奥州から頼朝の下へと出兵することを藤原秀衡に願い出ます。

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当時、藤原秀衡には次の2つの懸念がありました。

  1. 義経の貴種性を奥州で利用できなくなること
  2. 頼朝と義経は状況によっては対立する関係にあり、義経の身を案じたこと(この懸念は後に現実のものになります)

 

が、義経の強い想いに負け、頼朝の元に馳せ参じることを認めることにしたのです。

 

追放される源義経

藤原秀衡の懸念は現実のものになりました。1185年、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させるとすぐに、源頼朝と源義経の関係は険悪なものとなります。(ここでは細かい経緯は省略します)

 

頼朝は義経が源氏の本拠地である鎌倉に入ることを拒み、実質的に義経を鎌倉から追放します。困りに困った源義経は、昔にお世話になった藤原秀衡に自分を匿ってもらうようお願いします。1187年の話です。

 

藤原秀衡はこの願いを受け入れるか迷います。頼朝と敵対する義経を受け入れるということは、鎌倉にいる頼朝との全面戦争の可能性を示唆しているからです。義経を受け入れるということは、一貫して平和主義を貫いてきた今までの奥州藤原氏の方針を大きく変えることを意味するのです。

 

 

・・・が、藤原秀衡は義経を受け入れることを英断しました。源平合戦に勝利した頼朝の勢いは凄まじく、日に日に奥州藤原氏に対する頼朝の圧力が強まっていました。もはや、頼朝との対立は避けられない・・・と藤原秀衡は考えたのです。

 

奥州藤原氏にとって、この1187年は非常に重要な年でした。ところが、こんな大事な時に超優秀で切れ者だった藤原秀衡が亡くなってしまいます。息子の藤原泰衡が次期代表となりますが、この泰衡が実にダメダメだったんです。

藤原泰衡の愚行

源頼朝は、奥州藤原氏の財力や武力もそうですが、何よりも藤原秀衡の頭脳を恐れていました。ところが、その秀衡はもういません。

 

頼朝は藤原泰衡に外交戦術を仕掛けます。(頼朝は外交戦術がプロ並みに上手い!)

 

頼朝「俺と奥州藤原氏ってさ仲悪いけど、泰衡が義経の首を差し出してくれたら俺、奥州藤原氏に手出しなんかしないよ?だから義経の首はねてくれてもいいんだよ?」

 

こんなことを泰衡に持ちかけます。もちろんこれは嘘。頼朝の策略です。ところが、泰衡は頼朝が攻めてくるかもしれないという恐怖と圧力に負け、頼朝に屈服してしまいます。

 

こうして泰衡は1189年、遂に義経を自害に追い込んでしまいました。父の秀衡は頼朝と徹底抗戦するという強い意思表示のために義経を匿ったのに、息子の泰衡は信念を貫き通すことができずに義経を殺してしまったのです。

 

これは奥州藤原氏にとって目も当てられないほどの愚行でした。1190年、頼朝は過去に義経を匿っていたことを理由に奥州藤原氏に戦争を仕掛けます。俗に言う奥州合戦と言うやつです。泰衡はまんまと騙されたのです。

 

この奥州合戦により藤原泰衡は敗北。こうして4代続いた奥州藤原氏は滅んだのでした。

奥州藤原氏の独自性

奥州藤原氏の政治・外交術の部分でも書いた通り、朝廷は奥州藤原氏の東北支配を実質黙認しており、奥州は半ば奥州藤原氏による独立国家の様相を呈していました。

 

なので、同じ平安時代でも平安京を中心とした文化とは異なった独自の文化が奥州にはあったと言われています。そしてそんな独自の文化が今でも垣間見ることのできる場所が、世界遺産となった奥州平泉なんですね。

奥州藤原4代、清衡・基衡・秀衡・泰衡

以上、4代続いた奥州藤原氏についてザッと説明してみました。最後に簡単にまとめます。

藤原清衡

奥州藤原氏の初代。前九年の役・後三年の役という激動の時代を生き残り、運も味方して奥州一帯の支配権を手に入れました。

藤原基衡

奥州藤原氏の2代目。この記事では登場しませんでしたが、初代の清衡が築き上げた奥州支配の維持に勤めました。清衡の後継者争いで揉めたり、国司とトラブったりとトラブルの多い人物でした。しかし、奥州の統治を立派に成し遂げ、次代の秀衡に奥州を託します。

藤原秀衡

奥州藤原氏の3代目。源平合戦という激動期に奥州藤原氏を支配した人物で頭の切れる人物。頼朝も一目置いていた存在で、秀衡の存在それ自体が頼朝の抑止力になっていました。

 

源義経を利用してより一層の力を得ようと考えますが、結果的に源義経を匿ったことを頼朝に利用され、奥州藤原氏滅亡のきっかけを作ってしまいました。(まぁ、息子の泰衡が悪いんですけどね!笑)

藤原泰衡

奥州藤原氏の4代目。頼朝の嘘や圧力に屈し、義経を自害に追い込んだ人物。1190年に頼朝に攻められ奥州藤原氏は滅亡してしまいます。

 

泰衡は、愚かな理由で義経を自害に追い込み、奥州藤原氏を滅亡させた張本人。基本的にあまりいい話題で語られることは少ないです。特に民衆に超人気だった義経を自害に追い込んだことが、泰衡の評判を悪くしている大きな理由だと思います。

 

この記事でも泰衡のことは批判的に書いてます。しかし、頼朝が大きな力を持つようになっていた当時の情勢を考えると、仮に泰衡が父の秀衡のように義経を匿い、頼朝と徹底抗戦したとしても奥州藤原氏の滅亡は免れなかったのでは?なんて思ったりもします。

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