
今回は、幕末の幕臣・小栗忠順が子どものころに入門した先生、安積艮斎について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で名前を知った人にも、どんな人物だったのかがつかめるようにまとめたよ。
儒学者と聞くと、中国の古い本ばかり読んでいて、海外のことにはうとい人というイメージを持つかもしれません。ところが、安積艮斎は、実はその思い込みをくつがえす人物です。
艮斎は1848年に、西洋の国々の地理や歴史、海の守り(海防)を論じた『洋外紀略』という書物をまとめました。1853年のペリー来航より5年も前のことです。黒船が来たころには幕府の学問所の教授となっていて、外交文書の翻訳などに関わったとされています。
しかも、艮斎が最初に開いた塾は、のちの幕臣・小栗忠順の家である小栗家の屋敷の中にあったとされます。この記事では、艮斎の生涯と学問、小栗との関係で「わかっていること・わかっていないこと」、そして大河ドラマでの役どころまでを順に解説します。
安積艮斎とは?
- 江戸時代後期から幕末の儒学者(1791〜1860年)。陸奥国安積郡郡山(現在の福島県郡山市)の安積国造神社の宮司の家に生まれた
- 江戸の神田駿河台の私塾と、幕府の昌平坂学問所で教え、門人は2,000人を超えるとされる
- 小栗忠順が数え9歳で入門した先生。1848年に『洋外紀略』をまとめ、海防を論じた
ひとことで言うと、安積艮斎は江戸時代後期から幕末にかけて江戸で教えた儒学者です。名前は「あさか・ごんさい」と読みます。

名は重信(信とも)、通称は祐助といい、「艮斎」は号(学者や文人が名乗る呼び名)です。生まれは1791年、亡くなったのは1860年とする資料が多く、この記事もこの年で統一しています。没年を1861年とする資料もある理由は、後の章で説明します。
📝 安積艮斎のプロフィール
・生没年:1791〜1860年
・出身:陸奥国安積郡郡山(現在の福島県郡山市)
・主な仕事:江戸の私塾の先生/二本松藩の藩儒/昌平坂学問所の教授
・主な著作:『艮斎文略』『洋外紀略』など
・主な門人:小栗忠順をはじめ、幕末に活躍した人物が多数

授業ではあまり名前を聞かない人だけど、どうしてそんなに大事な人なの?

ポイントは2つあるよ。1つめは、幕末に活躍した人たちが何人もこの先生の塾で学んでいること。くわしくは門人の章で紹介するね。2つめは、儒学者なのに西洋の国々や海防まで論じていたこと。教科書の主役ではないけれど、幕末の人材を育てた「先生」として見ると、とても面白い人物なんだ!
郡山の神社に生まれ、学問を志して江戸へ
艮斎のふるさとは、いまの福島県郡山市です。生家の神社は、現在も郡山の街なかにあります。

安積国造神社の宮司の家に生まれる
艮斎は1791年、安積国造神社の第55代宮司の三男として生まれました。本来の姓は安藤です。神社は現在も安藤家が宮司を務めています。
若いころの艮斎には、こんな逸話が伝わっています。16歳ごろ、近くの村の名主(村のまとめ役)である今泉家の婿になったものの、妻に嫌われてしまい、それを機に学問で身を立てようと奮い立った、というものです。

この話はあくまで「伝わっている逸話」で、くわしいことはわかっていないよ。ただ、田舎の神社の三男が江戸で大学者になるまでの「きっかけ」として、今も語られているんだ。
江戸へ——佐藤一斎と林述斎に学ぶ
1791年生まれの艮斎は、数え17歳の1807年に江戸へ出ました。途中の千住で僧の日明と出会い、その紹介で儒学者・佐藤一斎の門に入ったとされます。
一斎のもとで力をつけた艮斎は、次に大学頭の林述斎に学びました。述斎は艮斎について「後必ず成るあらん(将来きっと大成するだろう)」と期待したと伝わっています。

大学頭というのは、幕府の学問を取りしきる林家の当主が務めた役職のこと。今でいえば「国の教育を任された大学の学長」くらいのイメージだよ。そんな人に見込まれたんだから、若いころから相当な実力者だったんだね。
儒学は、古代中国の思想家・孔子の教えをもとに、人としての正しい生き方や、国の治め方を考える学問です。江戸時代の武士にとっては、身につけておくべき基礎教養でした。
教科書になったのは『論語』などの漢文で書かれた古典です。そのため、儒学を学ぶことは「漢文の古典を読む学問=漢学」を学ぶこととも重なっていました。儒学にはいくつかの流派があり、その違いは後の章で紹介します。
駿河台の私塾——小栗家の屋敷から始まった学び舎
小栗家の屋敷の中で始まった塾
1814年、数え24歳(1791年生まれ)の艮斎は、江戸の神田駿河台に自分の塾を開きました。最初の塾は、旗本(将軍に直接仕える武士)である小栗家の屋敷の敷地内にあったとされています。のちに小栗忠順が生まれ育つ家です。
やがて塾は手狭になり、近くへ移りました。それでも小栗家の屋敷にあった学び舎は、分校のような形で残されたとも伝えられます。塾はのちに見山楼と呼ばれるようになり、この名は艮斎の別号にもなりました。

江戸の私塾は、今でいう「進学塾」と「大人も集まるサロン」を合わせたような場所なんだ。子どもから若い武士まで、身分や出身の違う人たちが同じ先生のもとで学んでいたんだよ。
『艮斎文略』で評判に
1831年、艮斎は自分の文章を集めた『艮斎文略』を出版します。これで名声が一気に高まり、江戸を代表する学者の一人として知られるようになりました。
二本松藩の藩儒として
1836年には二本松藩に出入りする儒学者(藩儒)となったとされます。さらに1843年、藩の学校である敬学館の教授として二本松へ赴任しました。
二本松にいたのは約1年半で、その後は江戸へ戻ったとされます。在任中には、中国の明の時代の歴史書『明朝紀事本末』80巻の校訂(本文の誤りを正す作業)も行ったと伝わります。

藩儒っていうのは、藩に仕える「お抱えの学者」のことだよ。艮斎のふるさとの郡山は、二本松藩の領地だったんだ。地元の藩から学者として迎えられたわけだね。
小栗忠順は艮斎から何を学んだのか
門人帳に残る「小栗剛太郎」
艮斎の塾には、入門した人の名前を書き留めた門人帳が残っています。その一つ『授業続録』の天保6年10月1日(1835年)の欄に、「駿河台 小栗又一様御嫡子 小栗剛太郎」という記載があります。
剛太郎は小栗忠順の子どものころの名前(幼名)で、又一は小栗家の当主が代々名乗った呼び名です。つまり「駿河台に住む小栗家の跡取り息子が入門した」という記録になります。
この記載は、小栗家の菩提寺である群馬県の東善寺が、門人帳の写真とともにサイトで紹介しています。門人帳は2007年に『安積艮斎門人帳』として刊行されました。

小栗さんは、何歳のときに入門したの?

小栗は1827年生まれで、入門は1835年。当時の数え方(数え年)だと9歳、いまの満年齢でいうと8歳だよ。資料によって「9歳」と「8歳」が混ざっているのは、この数え方の違いなんだ。
わかっていること・わかっていないこと
艮斎は、小栗の「漢学の師」とされています。漢学とは、漢文で書かれた儒学の古典を読み、その内容を学ぶ学問のことです。
🔍 史料でわかること/わからないこと
【わかること】1835年に小栗(剛太郎)が艮斎の塾に入門した記録がある/艮斎は小栗の漢学の師とされる
【わからないこと】どの本を習ったのか/何年ほど塾に通ったのか/艮斎の考えが、のちの小栗の政策にどう影響したのか
東善寺のサイトでは、小栗は艮斎から朱子学を学び、朱子学を土台にした「儒将(学問を身につけた武将)」と言える人物だった、という見方も紹介されています。ただし、これは一つの見方であり、艮斎の教えの中身を具体的に示す史料ではありません。

「先生の教えが、のちの改革を生んだ」と一本の線で結びたくなるよね。でも、史料はそこまでは語っていないんだ。わかっているのは「入門した」という事実まで。そこから先を想像で埋めないことが大事だよ。
小栗の学びは艮斎だけではない
小栗は艮斎のもとで漢学を学んだだけでなく、剣術や砲術なども別の師から学んだとされます。さらに1860年には、日米修好通商条約の批准書(条約を正式に認め合う文書)を交換するため、遣米使節の一員としてアメリカへ渡りました。
のちの小栗の政策は、こうした海外での見聞や、幕府で任された役職など、いくつもの経験の積み重ねから考える必要があります。艮斎の塾での学びは、その出発点の一つと見るのが自然でしょう。
同じ艮斎の門下には、のちに幕臣として小栗とともに働くことになる栗本鋤雲(1822〜1897年)もいました。1822年生まれの鋤雲は、1827年生まれの小栗より5歳年上です。
朱子学を軸に、学派にこだわらない学問
朱子学と陽明学
艮斎の学問は、朱子学を中心にしていました。そのうえで、師の佐藤一斎と同じように陽明学の考え方も積極的に取り入れたとされます。

朱子学と陽明学って、何が違うの?どっちも儒学なんだよね?

どっちも儒学の流派だよ。ザックリ言うと、朱子学は「本を読んで物事の道理をしっかり学ぶ」ことを大事にする考え方で、幕府も重んじていたんだ。陽明学は「知ったら行動に移す」ことを大事にする、実践重視の考え方。1837年に大坂で乱を起こした大塩平八郎も、陽明学の学者として知られているよ。
「門戸の見」を退ける
艮斎は、「自分の学派だけが正しい」という考え方を門戸の見と呼び、学派どうしの争いを生む不毛なものとして退けました。
また、中国の清の時代に盛んになった考証学(古い文献を細かく調べて確かめる学問)にも関心を持っていました。一つの学派の型にはまらない、柔軟な学風だったと評価されています。
「東に艮斎、西に拙堂」
艮斎は文章の名手としても知られ、「東に艮斎あり、西に拙堂あり」と、伊勢の津藩の儒学者・斎藤拙堂と並び称されたと伝わります。
門人の重野安繹が文章の添削をお願いしたとき、艮斎は次のように諭したと伝わっています(安積国造神社の紹介による)。意味は「何よりも、言いたいことが相手にきちんと伝わる文章を書くよう努めなさい」ということです。

「達意の一点を勉むべし」
難しい言葉で飾るより、まず伝わることを大切にする。漢文の大家とされた艮斎が、弟子に求めたのはこの一点でした。
儒学者はなぜ海外を知ったのか——『洋外紀略』と海防論
海外の情報はどこから入ったのか
艮斎がオランダ語などの洋書を自分で読めたことは、確認できていません。それでも西洋の事情にくわしくなれたのは、主に次のような経路があったからだと考えられます。
経路①:漢文で書かれた書物と、蘭学者がまとめた世界地理書
漢文を読みこなす儒学者にとって、漢文で書かれた書物は海外を知る手がかりの一つでした。また、蘭学者の山村才助がまとめた世界地理の書物も、艮斎の知識のもとになったとされます。
経路②:西洋の事情を研究する人々との交流
艮斎は、渡辺崋山や高野長英ら、西洋の事情に関心を持つ学者や幕臣が集まった尚歯会にも出入りしたとされます。その崋山と長英は、1839年の蛮社の獄で処罰されることになりました。
経路③:アヘン戦争の衝撃
1840年から1842年にかけてのアヘン戦争で、隣の大国・清がイギリスに敗れました。この知らせは日本の知識人に大きな危機感を与え、艮斎ものちの著作でこの戦争を取り上げています。

いわゆる鎖国の時代でも、海外の情報がまったく入ってこなかったわけじゃないんだ。本と人のネットワークを通じて、知識人たちは世界の動きをかなりつかんでいたんだよ。
『洋外紀略』の中身
こうして集めた知識をまとめたのが、『洋外紀略』です。1848年に艮斎自身が書いた序文(自序)があり、本文はすべて漢文で書かれています。

郡山市中央図書館が所蔵する写本の解説などによると、内容は大きく上・中・下に分かれています。
上は、山村才助の世界地理書を参考にした世界各国の地理です。中には、「コロンブス伝」や、互市(外国との貿易)についての論などが収められています。下は、海防の策と外交についての意見で、アヘン戦争への批判や、日本の海の守りの大切さが論じられています。
アメリカ独立を導いたワシントンの伝記なども含まれ、西洋の国々の歴史や人物を漢文で紹介した本だったことがわかります。ただし、写本によって冊の分け方は異なります。
写本で広まった本
『洋外紀略』は、印刷して出版された本(刊本)としては確認できていません。所蔵機関の目録で確認できるのは手で書き写した写本で、この本は写本の形で人から人へと読まれていきました。
その読者の一人が、薩摩藩の島津久光です。久光は1854年にこの本を書き写しており、その写本は現在も鹿児島大学の玉里文庫に残っています。
評価は分かれている
『洋外紀略』の評価は、研究者のあいだでも分かれています。歴史学者の大久保利謙は、純粋な西洋の歴史書というより「海防論策」(海防についての政策論)だと位置づけました。
一方、小沢栄一は、イギリスへの警戒や、中国を世界の中心とみる考え方から抜け出そうとした点を評価しました。そのうえで、キリスト教の理解は新井白石の段階から進んでおらず、海防論も保守的だと批判しています。

「ペリー来航の前に西洋を論じたすごい人」と、先見の明だけで語りたくなるよね。でも、当時の知識には限界もあったんだ。当時わかっていたことと、後の時代の評価を分けて読むのが大事だよ。
こうした海外への関心を抱いたまま、艮斎は幕府の学問所の教授として、黒船の時代を迎えることになります。
昌平坂学問所の教授として迎えた黒船の時代
二本松から江戸へ戻った艮斎は、私塾で教えを続けながら、やがて幕府の学校の先生として迎えられます。

幕府の学問所の教授に
1850年、1791年生まれの艮斎は数え60歳で、幕府の昌平坂学問所の教授に任じられました。昌平黌とも呼ばれる、幕府が直接運営する学校です。
1852年には、12代将軍の徳川家慶の前で講義(進講)をしたとも伝えられます。
ペリー来航と外交文書
教授となった艮斎を待っていたのが、1853年のペリー来航でした。このとき艮斎は、アメリカ大統領の国書(国の代表が出す正式な手紙)を日本語に訳す作業に関わったとされています。
同じ1853年には、ロシアの使節プチャーチンが長崎に来航し、国書を差し出しました。艮斎は、これに対して幕府が出す返書の起草(文案づくり)にも関わったとされます。
この年、老中の阿部正弘は、アメリカへの対応について大名から幕臣まで広く意見を求めました。開国か、それとも鎖国を続けるかで意見が割れるなか、艮斎も外交についての意見書を幕府に提出したとされています。

「国書を翻訳した」と聞くと、艮斎が一人で訳したように思えるよね。でも外交文書を扱うのは、通訳や何人もの学者が関わる大がかりな仕事だったんだ。艮斎はそのなかの一人だったとされている、と受け止めておこう。
最期まで教壇に
晩年の艮斎は学問所の中にある官舎に住み、亡くなる7日前まで講義を続けたと、生家の安積国造神社は紹介しています。
艮斎の著書『艮斎間話』には、学び続けることの大切さを説いた次の言葉があると伝わります。意味は「学問を途中で怠けると、それまでの努力が無駄になり、未熟な状態に戻ってしまう」ということです。

「半途にて懈れば前功を失い未熟にかえる」
最期まで教壇に立ち続けた艮斎の生き方と、よく重なる言葉です。
1860年、1791年生まれの艮斎は数えで70歳で亡くなりました。墓所は東京都葛飾区の妙源寺にあります。
📝 没年が1860年と1861年に分かれる理由
艮斎が亡くなったのは、和暦で万延元年11月21日です。この日を西暦に直すと1861年1月1日になります。和暦の年(万延元年=1860年)に合わせて1860年とする辞典が多いため、この記事では1860年で統一しています。
最期まで教え続けた艮斎のもとからは、幕末から明治にかけて活躍する多くの人物が巣立っていきました。
安積艮斎の門人たち——吉田松陰・高杉晋作から岩崎弥太郎まで
艮斎の門人は2,000人を超え、門人帳には約2,280人の名前が記されているとされます。
その顔ぶれを見ると、幕府を支えた人もいれば、幕府を倒す側に回った人もいます。立場のまったく違う人々が、同じ先生のもとで学んでいたのです。
長州藩から:吉田松陰・高杉晋作
長州藩の吉田松陰は、1851年に江戸へ出たころ、艮斎に学びました。その後、西洋の学問にもくわしい佐久間象山に師事しています。
松陰の松下村塾で学んだ高杉晋作も、のちに江戸へ出て艮斎の塾に入ったとされます。高杉はその後奇兵隊をつくり、長州藩が倒幕へ向かう流れの中心人物の一人となります。

幕府側の小栗さんと、倒幕側の松陰が同じ先生に習っていたって本当?

本当だよ!ただ、小栗の入門は1835年、松陰が江戸で艮斎に学んだのは1851年ごろ。時期がかなり離れているから、同じ先生の門人ではあっても、二人が塾で顔を合わせたかどうかは別の話なんだ。
幕臣から:小栗忠順・栗本鋤雲
小栗忠順の章で紹介したとおり、小栗は子どものころに入門した門人です。同じ門下の栗本鋤雲も幕臣となり、のちに横須賀での造船所づくりでは、小栗とともに働きました。
実業・郵便・会津まで:岩崎弥太郎・前島密・秋月悌次郎・清河八郎
土佐出身の岩崎弥太郎は、のちに三菱を創業した実業家です。日本の近代郵便の仕組みをつくった前島密も門人の一人で、艮斎の塾で岩崎と出会ったとされています。
秋月悌次郎は会津藩の藩士で、藩主・松平容保の側近を務めました。会津藩はのちに、1868年の会津戦争で新政府軍と戦うことになります。
出羽出身の清河八郎は、尊王攘夷を唱えた志士です。1863年に幕府が集めた浪士組の中心人物となり、この浪士組の一部がのちの新選組につながっていきます。
幕府のために働いた小栗や栗本、倒幕への流れをつくった松陰や高杉、そして明治の実業界を支えた岩崎。同じ先生に学んでも、進んだ道はまったく違いました。同じ塾で学んだことと、その人の政治的な立場は、分けて考える必要があります。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』の安積艮斎——発表された役柄と史実
中村雅俊さんが演じる「恩師」
2027年1月10日に放送が始まるNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』で、安積艮斎を演じるのは俳優の中村雅俊さんです。
2026年2月24日の出演者発表で、艮斎は主人公・小栗忠順の「恩師」として紹介されました。同じ発表では、小栗の「上司」にあたる井伊直弼の配役も明らかにされています。また、艮斎の門人である吉田松陰は、2026年10月の追加発表で中村倫也さんが演じることになりました。
発表された役柄と史実の対応
公式に発表された役柄紹介では、艮斎は1853年のペリー来航の5年前(1848年)に、西洋の国々による侵略の危険を説いた『洋外紀略』を著した人物とされています。その先見性にひかれて、吉田松陰ら若い知識人が塾に集まった、という人物像です。
このうち、1848年に『洋外紀略』をまとめたことと、松陰が門人だったことは、この記事で見てきた史実と重なります。一方で、松陰が『洋外紀略』にひかれて入門したかどうかは、史料からはわかりません。ここはドラマならではの描き方として受け止めるとよいでしょう。
また役柄紹介には、気さくで柔和な人柄や「過去に古傷を抱える」という設定も示されています。これはドラマ上の人物像で、史料でたどれる艮斎の経歴とは分けて受け止める必要があります。

ドラマはまだ放送前だから、艮斎がどんな場面で登場して、物語がどう進むのかはまだわからないよ。史実の艮斎を先に知っておくと、ドラマならではの脚色にも気づきやすくなって、もっと楽しめるはずだよ!
📺 2026年10月時点の公式発表にもとづく情報です
安積艮斎の配役と役柄は2026年2月、吉田松陰の配役は2026年10月の出演者発表で示された内容です。放送が始まると、場面や人物の設定がここでの説明と異なる場合があります。
放送前に小栗忠順の生涯を予習したい人は、『逆賊の幕臣』の予習本をまとめた記事も参考にしてください。
安積艮斎の年表
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1791年郡山の安積国造神社の宮司の家に生まれる
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1807年江戸へ出て、佐藤一斎、次いで林述斎に学ぶ
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1814年神田駿河台に私塾を開く(小栗家の屋敷内とされる)
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1831年『艮斎文略』を出版し、名声が高まる
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1835年小栗忠順(剛太郎)が入門する
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1836年二本松藩の藩儒となる
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1843年二本松藩の藩校・敬学館の教授として赴任する
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1848年『洋外紀略』をまとめる(自序)
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1850年昌平坂学問所の教授となる
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1853年ペリー来航。国書の翻訳などに関わったとされる
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1860年亡くなる(数えで70歳。西暦換算では1861年1月1日)
安積艮斎についてもっと詳しく知りたい人へ

艮斎をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!どれも艮斎の生家・安積国造神社の宮司で、艮斎を研究している安藤智重さんの本なんだ。入門、深掘り、原典の順に並べたよ。
艮斎の生涯を、漫画と文章の両方でたどる入門書です。文芸社から2022年に出た128ページの本です。
漢文学や幕末史などの研究者5人がコラムを寄せていて、漫画で流れをつかんだあとに、学者の視点から艮斎を見直せる作りになっています。
艮斎の名前をこの記事で初めて知った人。文字ばかりの本は苦手だけれど、人物の一生を流れで知りたい中高生にも向いています。
艮斎の思想や史料の中身を、根拠と一緒にくわしく確かめたい人。入門書なので、深い内容は下の2冊のほうが合います。
艮斎と小栗忠順を「国防師弟」として描いた本です。文芸社から2026年10月に出た232ページの新刊です。
著者は、小栗が手がけた横須賀の造船所づくりを、師である艮斎の国防思想を実践したものと位置づけています。吉田松陰や高杉晋作、岩崎弥太郎など、ほかの門人への影響も取り上げています。
この記事で見たとおり、艮斎の考えが小栗の政策にどう影響したのかは、史料からははっきりしていません。史料でわかる事実と著者の解釈を分けながら読むと、より楽しめる一冊です。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』を見る前に、小栗と艮斎の師弟関係をじっくり知っておきたい人。艮斎の門人たちのその後にも興味がある人。
史料で確かめられる事実だけを知りたい人。艮斎と小栗の思想のつながりについては、著者の見方が中心になっています。
この記事でも紹介した『洋外紀略』の訳注書です。明徳出版社から2017年に出た350ページの本で、早稲田大学名誉教授の村山吉廣さんが監修しています。
原文、訓読、語釈、現代文がそろっているので、漢文が読めなくても、艮斎が西洋の国々や海防をどう論じたのかを自分の目で確かめられます。
黒船が来る前の儒学者が、世界をどう見ていたのかを原典で確かめたい人。漢文の書き下しや語釈を読むのが好きな人。
艮斎の生涯を手軽に知りたい人。史料そのものを訳した本なので、まずは①の入門書から読むのがおすすめです。
よくある質問(FAQ)
「あさかごんさい」と読みます。「艮斎」は本名ではなく、学者や文人が名乗る号です。名は重信、通称は祐助といいました。
主に没年の表し方の違いです。艮斎が亡くなったのは和暦で万延元年11月21日で、西暦に直すと1861年1月1日になります。和暦の年に合わせて1860年とする辞典が多い一方、西暦に換算して1861年とする資料もあります。この記事は1791〜1860年で統一しています。
門人帳『授業続録』の天保6年10月1日(1835年)の欄に、小栗の幼名「剛太郎」が記されています。1827年生まれの小栗は、このとき数え9歳(満年齢で8歳)でした。ただし、何年ほど塾に通い、どの本を学んだのかはわかっていません。
艮斎が1848年に序文を書いた、西洋の国々の地理や歴史、海防・外交を論じた本です。全文が漢文で書かれ、印刷された刊本ではなく写本の形で広まりました。島津久光が書き写した写本も残っています。その評価は、研究者のあいだでも分かれています。
松陰は、1851年に江戸へ出たころに艮斎に学んだ門人の一人です。その後は佐久間象山にも師事しました。いつ入門し、どのくらいの期間学んだのかまでは特定されていません。
艮斎の生家である安積国造神社(福島県郡山市清水台)の神社会館の中にあり、JR郡山駅から歩いて約6分です。艮斎や門人に関する資料が展示されています。開館日や時間は、訪問前に神社へ確認するのがおすすめです。
まとめ
安積艮斎は、郡山の神社に生まれ、江戸で佐藤一斎や林述斎に学んだのち、駿河台の私塾と昌平坂学問所で多くの門人を育てた儒学者です。
小栗忠順が1835年に入門したことは門人帳で確かめられますが、どんな教えを受けたのかまではわかっていません。1848年にまとめた『洋外紀略』は写本で広まり、その評価はいまも分かれています。
門人には、幕府を支えた人も、倒幕に動いた人もいました。幕末の人材を育てた「先生」として見ると、艮斎という人物の大きさが見えてきます。

以上、安積艮斎のまとめでした。大河ドラマを見る前に、史実の艮斎を知っておくと楽しみが広がるよ。下の記事で小栗忠順や吉田松陰、高杉晋作についてもあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年10月 / 参照:コトバンク各辞典、安積国造神社公式サイト、東善寺公式サイト、国立国会図書館・鹿児島大学附属図書館の『洋外紀略』書誌ほか
コトバンク「安積艮斎」(日本大百科全書・日本人名大辞典+Plus・世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ほか)(2026年10月確認)
コトバンク「昌平坂学問所」「湯島聖堂」「清河八郎」「二本松藩」「藩学一覧」(2026年10月確認)
安積国造神社 公式サイト「艮斎先生の生涯」「艮斎先生の門人」「艮斎の学問」(2026年10月確認)
東善寺 公式サイト「安積艮斎」(2026年10月確認)
国立国会図書館サーチ『洋外紀略』『艮斎文略』書誌(2026年10月確認)
国文学研究資料館 日本古典籍データセット『艮斎間話』書誌(2026年10月確認)
鹿児島大学附属図書館『洋外紀略』(玉里文庫)書誌(2026年10月確認)
国立公文書館 デジタル展示「旗本御家人」(2026年10月確認)
郡山市観光協会「安積艮斎記念館」(2026年10月確認)
タウンニュース「OGURIをあるく 第4回 駿河台編」(2026年10月確認)
Wikipedia日本語版「安積艮斎」「小栗忠順」「小栗忠高」「吉田松陰」「高杉晋作」(2026年10月確認)
NHK出版 ステラnet「逆賊の幕臣」出演者発表記事(2026年2月掲載・2026年10月確認)
シネマトゥデイ・クランクイン!「逆賊の幕臣」追加キャスト発表記事(2026年10月掲載・2026年10月確認)
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