
今回は万延元年遣米使節について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!使節は何に乗って海を渡ったのか、有名な咸臨丸はどう関わったのか、そして小栗忠順は何をしたのか。順番に見ていこう!
この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
「幕末に、咸臨丸でアメリカへ渡った使節団」。そんなイメージを持っている人は多いかもしれません。ですが実は、使節団の本隊が乗っていたのは咸臨丸ではなく、アメリカ海軍の軍艦でした。
この使節団こそ、1860年に江戸幕府がアメリカへ送った万延元年遣米使節です。有名な咸臨丸は、使節とは別に太平洋を渡った船でした。
では、咸臨丸は何のために海を渡ったのでしょうか。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』も、2026年10月時点で発表されているあらすじは、1860年のこの渡米の場面から書き起こされています。
この記事では、使節の目的・メンバー・旅路と、咸臨丸との違いを順番に解説します。
万延元年遣米使節とは?
- 1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するため、江戸幕府がアメリカへ送った正式な使節団(総勢77人)
- 正使は新見正興、副使は村垣範正で、小栗忠順らが同行。本隊はポーハタン号で太平洋を渡り、パナマで鉄道とロアノーク号に乗り継いだ
- 咸臨丸は使節とは別の船で、行き先はサンフランシスコまで。ワシントンには行っていない
万延元年遣米使節は、1860年に江戸幕府がアメリカへ送った外交使節団です。目的は、1858年に結んだ日米修好通商条約の批准書を、首都ワシントンで交換することでした。
辞典では、江戸幕府が初めて海外へ送った使節、鎖国以来はじめて日本人が正規に国外へ渡った例、などと説明されています。言い回しに差はありますが、開国後の日本が送り出した最初の公式使節団という点は共通です。一行は総勢77人でした。

2027年の大河ドラマの主人公は小栗忠順よね。この使節では、どんな立場だったのかしら?

小栗は、正使・副使とならぶ3人のリーダーの1人だったんだ。役目は仲間の仕事ぶりを見張ること。アメリカでは、日本の金貨が海外へ流れ出す問題について、両替のルールの見直しも求めたんだよ。
📺 大河ドラマとの関係:2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始予定)の主人公は小栗忠順で、松坂桃李さんが演じます。2026年10月時点で発表されているあらすじは、1860年、小栗が遣米使節の一員としてポーハタン号に迎えられる場面から書き起こされています。
まずは、使節が何をしにアメリカへ向かったのかから見ていきましょう。
遣米使節の目的〜批准書交換と、もう一つの課題
ペリー来航から条約調印へ
話は1853年のペリー来航にさかのぼります。翌1854年、幕府は日米和親条約を結んで開国しました。
続いて1858年7月29日(旧暦では6月19日)、貿易のルールを定めた日米修好通商条約が調印されます。幕府はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んでおり、まとめて安政五カ国条約と呼ばれています。
このとき幕府を率いていたのが、最高職の大老を務めた井伊直弼でした。井伊は、条約調印などに反発した人びとを厳しく処罰します。これが安政の大獄です。
アメリカでの批准書交換を提案したとされる岩瀬忠震も処罰を受け、使節には加われなかったといわれています。
批准書交換とは何か
では、使節の目的だった「批准書の交換」とは、どんな手続きなのでしょうか。

「調印」は代表が条約に署名すること。「批准」は、その内容を国として最終的に認めることだよ。批准書を交換すると、お互いに国の承認を確かめられるんだ。ただし、いつから条約を実施するかは、条約ごとに決められているよ。
批准したことを示す文書が、批准書です。日本側の批准書には、14代将軍徳川家茂の署名が入っていたとされています。
日米修好通商条約の第14条は、日本から使節を送り、ワシントンで批准書を交換すると定めています。一方で、交換が間に合わなくても、条約は1859年7月4日から実施する取り決めでした。
条約が効力を持ち、実施されるようになることを「発効」といいます。この条約では、1858年7月の調印、1859年7月の発効、1860年5月の批准書交換という順番になりました。
使節は貿易開始の許可を得るためではなく、すでに実施されていた条約の批准書を交換するために渡米したのです。
そもそも、アメリカへ使節を送ろうと提案したのは日本側でした。条約の手続きに加え、外国の政治や技術を直接見ておこうというねらいがあったのです。アメリカ側は、大きな船での送迎を申し出ていました。
もう一つの課題〜貨幣の交換比率
使節には、もう一つ片づけたい課題がありました。お金の問題です。
当時の貿易では、メキシコドルと呼ばれる銀貨が広く使われていました。アメリカ総領事ハリスの求めで、この1ドル銀貨は日本の銀貨(一分銀)3枚と交換する決まりになったとされています。
ところが、日本と海外では金と銀の交換比率が大きく違っていました。外国の商人は、銀貨を日本で金貨に替えて持ち出すだけで利益を得られます。こうして日本の金が海外へ流れ出しました。
この問題をアメリカ側と話し合う役目を、非公式に任されていたとされるのが小栗忠順です。

同じお金でも、日本で両替する場合と海外で両替する場合で、値打ちが違っていたんだ。その差を利用して金貨が持ち出されていたから、小栗たちは交換の決まりを見直してほしかったんだね。
使節団のメンバー〜正使・副使・目付と77人
遣米使節の中心になったのは、正使・副使・目付の3人でした。
正使・副使・目付の三役
正使は使節団の代表で、外国奉行の新見正興が務めました。外国奉行は外国との交渉を担当する役職で、今でいう外務省の幹部にあたります。
副使の村垣範正も、同じく外国奉行です。家の石高は新見のほうがずっと多く、格の高い新見が正使になったとされています。
そして目付として加わったのが小栗忠順でした。資料によっては「監察」とも書かれます。

目付っていうのは、仲間の仕事に不正がないかを見張る役目のこと。今でいう監査役ってイメージに近いよ!アメリカでは「スパイのことか」と疑われて、「Censor(監察官)のことだ」と説明して切り抜けた、という話も伝わっているんだ。
77人の構成と、旅を記録した人びと
使節団は総勢77人。幕府の役人と従者のほか、通訳や医師も加わっていました。『山川 日本史小辞典』によると、うち14人は各地の藩から参加した人たちです。
たとえば仙台藩の玉虫左太夫は、正使・新見の従者として加わり、旅の見聞を『航米日録』にまとめました。こうした記録が、当時の旅のようすを今に伝えています。
📝 肩書と人数について:小栗忠順の役目は、資料によって「目付」「監察」「立合い」と表記が分かれます。77人の内訳も資料によって数え方が違うため、この記事では総勢77人という数字だけを使うことにしました。
では、この77人はどの船で海を渡ったのでしょうか。
咸臨丸は遣米使節の船ではない?ポーハタン号との違い
結論から言うと、咸臨丸は遣米使節を乗せた船ではありません。使節が乗ったのは、アメリカ海軍のポーハタン号でした。

咸臨丸って遣米使節の船じゃないの?有名だから、てっきり使節が乗っていたんだと思ってた…。

そう思っている人は多いんだけど、別の船なんだ。使節の本隊はアメリカ海軍の船で渡って、咸臨丸は同じ時期に幕府の軍艦として別に太平洋を渡ったんだよ。同じ年に同じサンフランシスコをめざしたから、話がまざりやすいんだね。
ポーハタン号は、船の両わきの大きな水車(外輪)を蒸気で回して進む軍艦です。1854年のペリー再来航のときの艦隊にも加わり、1858年の日米修好通商条約もこの船の上で調印されたとされています。
いっぽうの咸臨丸は、幕府がオランダから買い入れた軍艦です。ポーハタン号の随伴艦、つまり付き添いの船として派遣されました。
名目は使節の警固(護衛)でしたが、日本人による遠洋航海の実習というねらいもあったとされています。
咸臨丸の行き先はサンフランシスコまで。使節の出発を見届けたあと日本へ引き返しており、ワシントンには行っていません。
本隊はポーハタン号だけでワシントンまで行ったわけではありません。パナマで鉄道に乗り、さらに大西洋側でロアノーク号へ乗り継ぎました。帰りは、ニューヨークからナイアガラ号に乗っています。
| 船・交通機関 | 使節の旅での役割 |
|---|---|
| ポーハタン号 (アメリカ海軍) | 本隊の往路。横浜からハワイ・サンフランシスコを経てパナマへ |
| パナマ鉄道 | 本隊がパナマ地峡を横断し、太平洋側から大西洋側へ移動 |
| ロアノーク号 (アメリカ海軍) | 本隊がパナマの大西洋側から乗り継ぎ、ワシントンへ向かう |
| ナイアガラ号 (アメリカ海軍) | 本隊の帰路。ニューヨークから大西洋・インド洋を回って日本へ |
| 咸臨丸 (江戸幕府) | 本隊とは別に太平洋を往復。行き先はサンフランシスコまでで、ワシントンには行かない |

本隊は、行きに船と鉄道を乗り継ぎ、帰りは別の船で日本へ戻ったんだ。咸臨丸は、その本隊を乗せずにサンフランシスコまで往復した幕府の船だよ。
地図で、本隊と咸臨丸がどこで別れたのかを確かめてみましょう。
横浜からワシントンへ〜使節の旅路
使節は、太平洋、パナマ、ワシントン、ニューヨークと進み、大西洋回りで帰国しました。

太平洋を渡りサンフランシスコへ
1860年2月13日(旧暦では安政7年1月22日)、使節を乗せたポーハタン号が横浜を出帆しました。途中で激しい嵐にあって石炭を使いすぎ、補給のためハワイのホノルルに立ち寄ります。
サンフランシスコ着は3月28日ごろとされ、資料によっては29日とするものもあります。ひと足早く着いていた咸臨丸とは、ここで別れることになりました。
パナマ鉄道で大西洋側へ
使節は4月7日にサンフランシスコを出て、船でパナマへ向かいました。当時はまだパナマ運河がなく、大西洋側へ抜けるには陸地を横切る必要があります。
そこで一行が乗ったのが、パナマ鉄道の汽車です。使節の多くにとって、蒸気機関車に乗るのは初めてだったとされています。
副使の村垣は、このときのようすを「凄まじき車の音して走り出たり」と日記に記したと伝えられています。大西洋側に出た一行は、アメリカ軍艦ロアノーク号でワシントンをめざしました。
ワシントンでの批准書交換
5月の中ごろ、使節はワシントンに到着します。5月17日には、ホワイトハウスでブキャナン大統領に謁見しました。
そして5月22日、国務省で批准書が交換されたとされています。使節は、いちばんの目的を果たしました。
滞在中は、議事堂やワシントン海軍工廠(海軍の工場)なども見学しています。

ところで、使節が海の向こうにいるあいだに、日本では大事件が起きていたんだ。使節を送り出した大老の井伊直弼が、江戸城の門の近くで暗殺されてしまったんだよ。
この事件が桜田門外の変です。起きたのは1860年3月24日(旧暦では3月3日)で、使節はまだサンフランシスコへ向かう海の上にいました。
📅 なぜ「万延元年」なのか:使節が出発した1860年2月は、まだ安政7年でした。桜田門外の変のあと、旧暦3月18日(西暦では1860年4月8日)に年号が万延へ改められます。使節は安政7年に出発し、旅の途中で万延元年を迎えました。「万延元年遣米使節」は、改元後の年号による呼び名です。なお使節の日記の多くは、太平洋の日付変更線をこえたときに日付を直していないとされ、アメリカ側の記録とは1日ずれることがあります。批准書の交換も、アメリカ側の記録では5月22日ですが、日本側の日付(旧暦4月3日)をそのまま西暦に直して5月23日とする資料もあります。
ニューヨークの歓迎と帰国
使節はフィラデルフィアを経て、6月16日にニューヨークへ入りました。街をあげての歓迎を受けたあと、6月の末にアメリカ軍艦ナイアガラ号で帰国の途につきます。
帰りは大西洋を渡り、アフリカ南端の喜望峰を回るルートでした。品川沖に帰り着いたのは11月9日とされています。2月13日に横浜を出てからおよそ9か月、地球をひと回りする旅でした。

では、サンフランシスコで引き返した咸臨丸は、どんな航海をしていたのでしょうか。
咸臨丸を動かした人々
咸臨丸には、勝海舟や福沢諭吉だけでなく、アメリカ人乗員も乗っていました。荒れた太平洋を渡るうえで、その助けは大きかったとされています。
咸臨丸とはどんな船か
咸臨丸は、幕府がオランダに注文した木造の蒸気軍艦で、1857年に完成しました。
長崎には、幕府が海軍の人材を育てるために開いた海軍伝習所がありました。老中の阿部正弘が進めた安政の改革の一つで、咸臨丸はその練習艦として使われます。
1860年の航海で船のトップに立ったのは、軍艦奉行の木村喜毅でした。その下で船を指揮する立場にいたのが勝海舟です。
通訳(当時の言い方では通弁)は、アメリカで暮らした経験のある中浜万次郎、いわゆるジョン万次郎。福沢諭吉は、木村の従者という立場で乗り込んでいます。日本人の乗組員は90人あまりでした(資料によって96人とも98人とも)。
ブルック大尉らアメリカ人乗員の役割
咸臨丸にはアメリカ人も乗っていました。アメリカ海軍のブルック大尉ら11人です。
ブルックは、自分の測量船が難破して横浜に滞在していました。太平洋横断を心配した木村が、航海にくわしいブルックたちの同乗を幕府に願い出たとされています。
咸臨丸は浦賀を出た直後から荒天に見舞われました。日本人乗組員の多くは動けなくなり、船を実質的に動かしたのはアメリカ人たちだったといわれています。
ブルックの日誌は長く公開されず、こうした内容が広く知られるようになったのは1960年ごろのことです。いっぽう帰りは、アメリカ人の水夫を5人やとったほかは日本人だけで船を動かしたとされています。
🔍 史実と通説:辞典のなかには、咸臨丸の航海を日本人初の太平洋横断と説明するものがあります。福沢諭吉も『福翁自伝』で、「少しも他人の手を藉らずに」なしとげたと誇りました。いっぽうブルックの日誌や近年の研究は、行きの航海でのアメリカ人の助けを重く見ています。この記事では「日本の軍艦として初めて太平洋を渡ったが、アメリカ人乗員の助けもあった」と整理します。

じゃあ咸臨丸は、日本人だけで太平洋を渡ったわけじゃないってこと?

行きの航海については、そう考えられているよ。日本人が長崎で航海術を学び始めたのは1855年で、1860年の時点ではまだ5年ほど。冬の太平洋の嵐はさすがに厳しかったんだ。それでも日本の軍艦がアメリカまで渡りきった事実は変わらないし、帰りは日本人が中心になって船を動かしたんだよ。
勝海舟と福沢諭吉の咸臨丸
勝海舟は、航海のあいだ体調をくずし、船室にこもりがちだったと伝えられています。船酔いとも病気ともいわれ、理由ははっきりしません。本人の胸のうちを想像すれば、こんなところだったでしょうか。

せっかくアメリカまで行くってのに、海の上じゃ寝込んでばかりとは、情けねえ話さ。それでも、この目で外国を見ておきたかったんだよ。
辞典などでは木村を「提督」、勝を「艦長」と説明するのが一般的です。ただ、勝の正式な役職は軍艦操練所の教授方頭取で、「艦長」という役名についていたわけではなかったようです。航海術にすぐれた小野友五郎の働きを重く見る論考もあり、誰の功績が大きかったのかは評価が分かれます。
いっぽう福沢諭吉は、のちに『福翁自伝』で嵐の航海をふり返っています。船が大きく傾くなかでも、仲間にこんな冗談を言っていたそうです。

牢屋に入って、毎日毎晩、大地震にあっていると思えばいいじゃないか。船が沈むなんて、ちっとも思わなかったよ。
※福沢の吹き出しは『福翁自伝』の一節を今の言葉に直したもの、勝の吹き出しは当時の状況をもとにした想像です。
咸臨丸が引き返すころ、使節の本隊はワシントンへ向かっていました。小栗忠順は、批准書の交換とともに、貨幣の交換ルールをめぐる談判にも取り組みます。
小栗忠順の役割〜貨幣談判と万延貨幣改鋳
目付・小栗忠順は何をしたのか
目付として使節に加わった小栗忠順は、貨幣の交換ルールをめぐる交渉にも取り組みました。開国後、日本の金貨が海外へ流れ出していたためです。
小栗たちが求めたのは、日本の金貨が安く両替されてしまう状態を改めることでした。問題を理解するには、貨幣の「額面」と「材料の値打ち」を分けて考える必要があります。
額面とは、そのお金が「いくらとして使えるか」という決められた金額です。一方、金や銀を材料として売ったときの値打ちを、素材価値といいます。両者は必ずしも同じではありません。
金銀比価とフィラデルフィア造幣局での談判
金銀比価というのは、金と銀を交換するときの比率のことを言います。幕末の日本では金1に対して銀がおよそ5、海外ではおよそ15だったとされています。
つまり日本では、海外の3分の1ほどの銀で同じ量の金が手に入りました。日本で金を手に入れて海外へ持ち出せば、それだけで利益が出てしまう状態だったのです。

比率が違うだけで、そんなに困るものなの?ただの両替の話に聞こえるんだけど…。

その両替が大問題だったんだ。当時は1ドル銀貨を一分銀3枚に、一分銀4枚を小判1枚に替えられた。そして小判1枚は、海外ではおよそ4ドル分の値打ちがあったとされているよ。単純に計算すると、4ドルが小判3枚、つまり約12ドル分に化ける。替えるだけで3倍だから、日本の金貨は海外へ流れ出たんだ。
実際にどれだけの金貨が流れ出たのかは、研究によって見積もりが大きく分かれていて、はっきりしていません。
日本の一分銀は、含まれる銀の重さだけで通用するお金ではありませんでした。幕府が「一分」として使えることを保証し、国内では4枚で一両の小判と交換できたのです。
ところが、外国の銀貨とは、銀の重さを基準に交換していました。この交換で手に入る一分銀の額面を使えば、日本の小判を安く買えてしまいます。国内の決まりと外国との両替の決まりが食い違っていたことが、金貨流出につながりました。
小栗たちはワシントンで、日本に不利な交換を改めるようアメリカ側と交渉しました。さらにフィラデルフィアの造幣局では、日本とアメリカの貨幣に含まれる金や銀を分析させ、実際の値打ちを確かめています。
アメリカ側の記録には、小栗が持参したはかりやそろばんを使い、小判の一部だけでなく、1枚全体を溶かして調べるよう求めたことが残っています。日本の金貨が安く交換されているという主張を、貨幣そのものの分析で裏づけようとしたのです。
分析は、日本側の主張を支える結果になりました。ただし、条約の貨幣に関する規定を改めるには至りませんでした。小栗たちが求めた交換ルールの見直しによって、金の流出を止めるには至らなかったのです。
日本国内で進んだ万延貨幣改鋳
結局、この問題に区切りをつけたのは、日本国内での対応でした。幕府は1860年、使節の帰国を待たずに、金の量をそれまでのおよそ3分の1に減らした新しい小判を発行したとされています。
これが万延貨幣改鋳です。小判に含まれる金を減らすことで、金と銀の比率を海外の水準に近づけました。金貨の流出は、こうしておさまっていきます。
ただし、副作用もありました。お金の値打ちが下がったことで物価が急に上がり、人びとの暮らしを苦しめることになったのです。
小栗の談判と万延貨幣改鋳は、金の流出という同じ問題に、別々の場所から対応したものです。小栗の交渉を受けて幕府が改鋳した、という順番ではありません。
海軍工廠の見学とネジの逸話
貨幣の談判と並んでよく語られるのが、ワシントン海軍工廠の見学です。そこは、軍艦で使う機械や大砲などをつくる大きな工場でした。
工場を見て回った小栗の胸のうちを想像すれば、こんなところだったかもしれません。

機械も大砲も、自分たちの手でつくっているのか…。日本にも、こういう「ものをつくる場所」がなくては始まらぬな。
※小栗の吹き出しは、当時の状況をもとにした想像です。史料に残る言葉ではありません。
小栗はのちに、船の建造や修理を行う横須賀製鉄所の建設を進めます。アメリカで見た工場の姿が、その発想につながったと見る人もいます。
🔍 史実と通説:小栗がアメリカから持ち帰ったとされるネジが、小栗の墓のある東善寺(群馬県高崎市)に伝えられています。ただ、どんな思いで持ち帰ったのかを記した史料は見つかっていないといわれます。「このネジが日本の近代化の原点になった」という話は、後の時代の人による意味づけとして受け取るのがよさそうです。
一行は工場や役所を見学するだけでなく、日本へ持ち帰る本や機械も買い求めていました。
使節が見たものと、帰国後の日本
ワシントンでの仕事を終えた使節は、ニューヨークの大通りブロードウェイで、思いがけない大歓迎を受けました。
ニューヨークのブロードウェイと歓迎
1860年6月16日、ニューヨークに着いた使節の一行は、軍隊に付き添われて大通りを進みました。沿道には50万人もの人が集まったともいわれています。
詩人のホイットマンも、この行列を見ていた一人だったとされています。その光景は、のちに「A Broadway Pageant」という題の詩になっています。
使節が目にしたのは、歓迎のにぎわいだけではありません。ワシントンでは、スミソニアン博物館や国会議事堂、海軍工廠、海軍天文台などを訪ねたとされています。
パナマでは蒸気機関車に乗り、フィラデルフィアでは造幣局を見学しました。鉄道や軍艦の工場など、実際に動く機械や働く人々の姿に触れたのです。
副使の村垣は、議員たちが大声で言い合う議会のようすを「日本橋の魚市場のようだ」と日記に書いたと伝えられています。
帰国後の使節団員と日本
使節が品川沖に帰り着いたのは、1860年11月のことです。出発した2月とは、日本の空気がすっかり変わっていました。
使節を送り出した井伊直弼は3月に暗殺され、外国を追い払おうとする攘夷の声が強まっていたのです。改鋳のあとの物価高も、外国への反感をあおったとされています。
それでも、持ち帰ったものには具体的な行き先がありました。アメリカで購入した英語学習や機械に関する書籍は、洋学を研究する蕃書調所へ。蒸気器械は、海軍の人材を育てる軍艦操練所へ納められています。
海外で見聞きしたことを、その後の教育や技術の習得に生かす試みでした。小栗自身も帰国後に外国奉行となり、幕府の外交や財政を担っていきます。
咸臨丸で海を渡った人びとも同じでした。勝海舟はのちに江戸城無血開城の交渉にあたり、福沢諭吉は西洋の知識を広める仕事へ進んでいます。
鉄道や工場のような産業を国ぐるみで育てる動きは、明治政府の殖産興業として本格化することになります。
岩倉使節団との違い
「使節団」と聞いて、明治の岩倉使節団を思い浮かべる人もいるでしょう。名前は似ていますが、中身はかなり違います。

遣米使節の中心の仕事は、結んだ条約の批准書を交換することだったんだ。岩倉使節団は、条約改正に向けた下交渉と欧米の視察が目的。どちらも外国を見て学んだけれど、外交上の仕事が違ったんだよ。
遣米使節は1860年、江戸幕府が送った77人の一行で、目的は批准書の交換でした。それから11年後の1871年、こんどは明治政府が岩倉具視を大使とする使節団を送り出します。
こちらは留学生もふくめて100人をこえる大人数で、1873年までアメリカとヨーロッパを回りました。条約改正に向けた交渉はうまく進みませんでしたが、欧米の政治や産業を見た経験は、その後の国づくりに生かされていきます。
万延元年遣米使節の理解を深めるおすすめ本
遣米使節と咸臨丸は、混同されやすいぶん、どちらも本で読むと見え方が大きく変わります。ここでは、使節団の旅そのものを追った1冊と、咸臨丸の航海に焦点を当てた1冊を紹介します。

使節団の本と咸臨丸の本を1冊ずつ読み比べると、「同じ1860年に、船も顔ぶれもちがう2つの旅があった」ことが実感できるよ!
宮永孝『万延元年の遣米使節団』は、講談社学術文庫の1冊です(2005年刊)。1990年に新潮社から出た『万延元年のアメリカ報告』を底本としています。
使節団員の日記や回想録、現地の新聞記事を使って、旅の全体像を再現するという内容です。目次はサンフランシスコ、パナマ、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨーク、江戸への帰航と、この記事でたどった順路に重なります。
書店の店頭で見つからないときは、図書館や古書のほか、版元が案内している大文字版オンデマンドも選択肢になります。
使節団がアメリカ各地でどう迎えられたのかを、旅の順に腰を据えて読みたい人。この記事の内容をさらに詳しく確かめたい人。
短時間で全体像をつかみたい人(学術文庫で約350ページあります)。咸臨丸の航海だけを知りたい人。
土居良三『咸臨丸海を渡る』は、中公文庫の1冊です(1998年刊)。もとは1992年に未来社から出た本です。
咸臨丸の航海は、長く日本人だけで成し遂げたものとして語られてきました。この本は、咸臨丸が同乗のアメリカ軍人にかなり助けられていたことを伝える本として、解説記事でも紹介されています。この記事で見直した「日本人だけの偉業」という通説を、もう一歩踏み込んで確かめたい人に向いた1冊です。
こちらも書店では見かけにくい本で、古書や図書館で探すことになるかもしれません。
咸臨丸の太平洋横断を、使節団とは別の航海として掘り下げたい人。「日本人だけの偉業」という説明に引っかかりを覚えた人。
使節団の目的や批准書交換の経緯を知りたい人(この本の主題は咸臨丸の航海です)。
小栗忠順の評伝や小説、幕末全体をつかむ本を探している人は、小栗忠順と『逆賊の幕臣』のおすすめ本や幕末のおすすめ本も参考にしてください。
よくある質問(FAQ)
1860年に江戸幕府がアメリカへ送った外交使節団です。目的は、日米修好通商条約の批准書をワシントンで交換することでした。正使の新見正興をはじめ、総勢77人が海を渡っています。
いいえ、乗っていません。本隊はポーハタン号で太平洋を渡り、パナマで鉄道とロアノーク号に乗り継いでワシントンへ向かいました。帰国はナイアガラ号です。咸臨丸は別の船で、サンフランシスコまで往復しました。
名目は、使節の警固(護衛)でした。あわせて、日本人による遠洋航海の実習というねらいもあったとされています。サンフランシスコで使節の出発を見届けたあと、日本へ引き返しました。
使節が出発した1860年2月は、まだ安政7年でした。旅の途中の1860年4月に、年号が万延へ改められています。「万延元年遣米使節」は、改元後の年号を使った呼び名です。
目付として参加し、日本の金貨が安く両替されて海外へ流れ出す問題の交渉にも取り組みました。フィラデルフィアの造幣局では、日米の貨幣に含まれる金銀の量を調べています。分析で主張を裏づけましたが、条約の貨幣規定の変更には至りませんでした。
行きの航海には、アメリカ海軍のブルック大尉ら11人が乗っていて、その助けが大きかったとされています。「日本の軍艦として初めて太平洋を渡ったが、アメリカ人乗員の助けもあった」と整理するのがよいでしょう。
遣米使節は、1860年に江戸幕府が批准書の交換を主な目的として送った77人の使節で、外国事情の視察も行いました。岩倉使節団は、1871年に明治政府が送った100人をこえる使節団です。こちらの目的は、条約改正に向けた下交渉と欧米の視察でした。
まとめ
万延元年遣米使節は、1860年に日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府がアメリカへ送った使節団でした。本隊はポーハタン号で太平洋を渡り、パナマで鉄道とロアノーク号に乗り継いでワシントンへ向かいます。
帰国の船はナイアガラ号。咸臨丸は、本隊とは別にサンフランシスコまで往復した船です。
小栗忠順は目付として加わり、貨幣の分析をもとに交換ルールの見直しを求めました。一方、日本では使節の帰国前に万延貨幣改鋳が進み、金の流出に対応します。使節が持ち帰った書籍や蒸気器械は、帰国後の教育や技術の習得にも役立てられました。
最後に、旅の流れを年表でふり返っておきましょう。前後の出来事は幕末の記事一覧からたどれます。
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1858年7月日米修好通商条約の調印
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1860年2月使節がポーハタン号で横浜を出帆。咸臨丸も別に出発
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1860年3月桜田門外の変(使節は太平洋の上)
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1860年3月末使節がサンフランシスコに到着。咸臨丸の行き先はここまで
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1860年4月年号が安政から万延に改まる
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1860年5月ワシントンで批准書を交換
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1860年6月ニューヨークで歓迎を受け、ナイアガラ号で帰国の途へ
-
1860年11月使節が品川沖に帰着

以上、万延元年遣米使節のまとめでした。2027年の大河ドラマの予習にもなるはずだよ。下の記事で小栗忠順や勝海舟、万延貨幣改鋳もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年10月 / 参照:コトバンク(日本大百科全書・山川 日本史小辞典)、外務省外交史料館の展示解説
コトバンク「万延元年遣米使節」「咸臨丸」「日米修好通商条約」(日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典)(2026年10月確認)
コトバンク「新見正興」「村垣範正」「小栗忠順」「岩瀬忠震」「ポーハタン号」「金銀比価」「万延貨幣改鋳」「岩倉使節団」(2026年10月確認)
外務省外交史料館 特別展示「黒船・開国・激動の幕末」展示解説、展示解説「日米修好通商条約批准書交換証書」(2026年10月確認)
データベース「世界と日本」収録「日米修好通商条約」条文(2026年10月確認)
国立公文書館アジア歴史資料センター「岩倉使節団」解説コラム「幕末に欧米へ派遣された3つの使節団」(2026年10月確認)
石原千里「万延元年遣米使節一行の将来本について―付『福翁自伝』の英学史関係記述再考」『英学史研究』第14号(2026年10月確認)
外務省外交史料館「万延元年遣米使節団のパナマ通過(1860年)」(2026年10月確認)
武田晴人「幕末の金流出―『両』制度の崩壊」日本銀行広報誌『にちぎん』第18号「貨幣の歴史学」(2026年10月確認)
白坂亨「幕末・明治の財政と複式簿記」大東文化大学経営研究所 Research Paper No. W-81(2026年10月確認)
米海軍横須賀基地司令部「Japanese envoy’s first visit to U.S. Mint in 1860」(DVIDS掲載、2026年10月確認)
アメリカ大統領布告第3349号(日米修好100年、1960年)(2026年10月確認)
福沢諭吉『福翁自伝』(青空文庫)(2026年10月確認)
Wikipedia日本語版「万延元年遣米使節」「咸臨丸」「小栗忠順」「幕末の通貨問題」「万延小判」「日米修好通商条約」「岩倉使節団」(2026年10月確認)
国立国会図書館「近代日本人の肖像」(2026年10月確認)
一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会「万延元年遣米使節とは」(2026年10月確認)
NHK財団 ステラnet(大河ドラマ『逆賊の幕臣』の番組紹介)(2026年10月確認)
Wikimedia Commons(掲載した画像5点のファイルページ)(2026年10月確認)
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