面白いほどわかる藤原純友の乱!簡単にわかりやすく解説【なぜ起きた?乱が平定・鎮圧されるまでのお話】

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もぐたろう
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今回は藤原純友の乱について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「なぜ起きた?」「誰が鎮圧した?」「平将門との関係は?」まで全部まとめるから、テスト前の確認にもバッチリだよ!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 藤原純友の乱(承平天慶の乱)とは何か(読み方・概要をわかりやすく解説)
  • 純友がなぜ反乱を起こしたのか(律令体制の崩壊・不満の積み重ねを解説)
  • 乱の経緯(939〜941年)と主な出来事(挙兵から鎮圧まで時系列で整理)
  • 平将門との関係・密約説の真相(史実と伝説を分けて解説)
  • 誰が鎮圧したのか・純友の最期(橘遠保の役割と乱の影響を解説)

実は、藤原純友ふじわらのすみともは、もともと朝廷から命じられた海賊退治の官人でした。瀬戸内海に暴れ回る海賊たちを取り締まるために派遣されたエリートが、なぜ朝廷に刃を向ける大反乱を起こすことになったのか——その波乱に満ちた生涯を、ひもといていきましょう。

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藤原純友の乱とは?承平天慶の乱をわかりやすく解説

3行まとめ

① 藤原純友の乱は、939〜941年に瀬戸内海から西国にかけて起きた大反乱で、元朝廷官人の純友が海賊集団を率いて朝廷に立ち向かった。
② 同時期に東国で起きた平将門の乱と合わせて「承平天慶の乱じょうへいてんぎょうのらん」と呼ばれ、日本史上初の本格的な武士の乱として位置づけられる。
③ 乱は941年、橘遠保(たちばなのとおやす)に純友が討ち取られて終結。朝廷が武士に頼る時代の始まりを告げる出来事となった。

藤原純友の乱ふじわらのすみとものらんとは、平安時代中期の939年から941年にかけて、西国(瀬戸内海・伊予など)で起きた武装反乱のことです。

純友は伊予いよ(現在の愛媛県)を拠点に、大勢の海賊集団を率いて備前びぜん播磨はりまなど瀬戸内の各地を攻め回り、ついには九州の政治拠点である大宰府だざいふにまで攻め込みました。

この乱は単独の反乱としてだけでなく、東国で同時期に起きた平将門たいらのまさかどの乱とセットで語られることが多く、その両方を合わせた呼び名が「承平天慶の乱じょうへいてんぎょうのらん」です。

ゆうき
ゆうき

「承平天慶の乱」ってどう読むの?それと、藤原純友の乱と承平天慶の乱って何が違うの?

もぐたろう
もぐたろう

「じょうへいてんぎょうのらん」と読むよ。「承平・天慶」は当時の元号で、2つの乱が起きた時代を表してるんだ。
で、「藤原純友の乱」は西国(瀬戸内・伊予)側の乱だけを指す言葉。「承平天慶の乱」は東国の平将門の乱+西国の藤原純友の乱の両方をまとめた呼び方なんだよ。将門=東・純友=西、ってセットで覚えておくと便利だね!

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藤原純友とはどんな人物?

藤原純友は、平安時代中期に生きた人物です。生年は不詳で、その生涯の多くが謎に包まれていますが、名門・藤原氏ふじわらしの血を引く官人として朝廷に仕えていたことは確かです。

やがて伊予国(現・愛媛県)に赴任し、現地の海賊問題に深くかかわることになります。そしてその経験が、のちの大反乱へとつながっていくのです。

藤原純友(歌川国芳作・江戸時代)
藤原純友(歌川国芳作・江戸時代) / Wikimedia Commons, Public Domain

■藤原氏の血筋と意外な経歴

純友は藤原北家ふじわらほっけ傍流ぼうりゅう、すなわち本流から外れた支流の出身です。

藤原北家といえば、摂政・関白として朝廷の実権を握ってきた名門中の名門です。ところが純友はその傍流ぼうりゅうにあたり、中央政界での出世は初めから限られていました。

※藤原北家:藤原鎌足の子・不比等の四男・房前を祖とする家系。平安時代に摂関政治を担った最有力派閥。道長頼通らが著名。

純友はおそらく930年代ごろに伊予いよじょう(地方役人の一つ)として赴任したと考えられています。家柄こそ名門ですが、地方の中級官人という立場でした。

■海賊追捕の任務と瀬戸内への定着

当時の瀬戸内海は、海賊が横行する危険な海域でした。朝廷は現地に海賊追捕使かいぞくついぶし(海賊を取り締まる役職)を置いて対応しようとしていました。

純友も伊予に赴任後、こうした海賊取り締まりの実務に携わりました。現地の海賊集団と直接交渉したり、武力で制圧したりする日々の中で、純友はしだいに瀬戸内の海賊たちとの人脈・信頼を深めていったのです。

本来なら任期が終われば京に戻るはずでした。しかし純友は伊予に留まり続けます。朝廷からの帰還命令も無視し、いつしか海賊集団の指導者的な立場になっていきました。

940年ごろ、朝廷は使者を送り、純友に備前守びぜんのかみの官職を与えることを条件に帰京を促したとされています。「官職を与えるから戻ってこい」という懐柔工作です。しかし純友はこれを拒絶します。功績も評価されず、中央でのキャリアの見通しも立たないまま長年を過ごした純友にとって、もはや京へ戻る理由はなかったのでしょう。

藤原純友
藤原純友

俺は藤原氏の名を持ちながら、朝廷の命で海賊を退治する役を与えられた。そもそもは正義の側にいたんだ。しかし、功績を認められることもなく、帰る場所もなくなっていった……

「海賊を退治する官人」が、なぜ「海賊集団の首領」へと変わっていったのか——その理由は、次の章で解説する「反乱の背景」にあります。

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なぜ藤原純友は反乱を起こしたのか?

藤原純友が朝廷に反旗を翻した理由は、一つではありません。個人的な不満と、時代全体の大きな変化が複雑に絡み合っています。

■律令体制の崩壊と地方の混乱

純友が生きた10世紀の日本は、律令体制(奈良時代に整備された中央集権的な政治・税制の仕組み)が急速に機能不全に陥っていた時代です。

班田収授法はんでんしゅうじゅほう(農地を国民に均等分配する制度)はすでにほとんど機能しなくなり、有力者による土地の私有が進んでいました。地方に派遣された役人(受領ずりょう)は中央へ税を送る一方、自らの蓄財に励むケースも多く、現地では不満が蓄積していたのです。

そのような状況のなか、中央の統制が行き届かない地方では、独自の力を持つ武装集団が台頭し始めていました。

■海賊勢力の拡大と朝廷への反発

純友自身は、海賊を取り締まる立場から出発しながら、次第に彼らの利害を代弁する立場へと移行していきました。

瀬戸内の海賊たちは、単なる略奪集団ではありません。彼らの多くは、もともと漁業や海上輸送で生計を立てていた人々です。律令体制の乱れにより収奪が強まると、武装して抵抗するしか生き残れなかったのです。

こうした人々を束ねた純友は、940年ごろから明確に反朝廷の行動へと舵を切ります。朝廷が純友に帰京・鎮圧への協力を求めても、純友はこれを拒否しました。

あゆみ
あゆみ

優秀な官人だったなら、なぜ朝廷に反乱なんて起こしたのかしら?もったいないような気もするわ。

もぐたろう
もぐたろう

純友の「反乱の動機」、主にこの3つが絡み合ってるんだよね。
①海賊退治の功績をちゃんと評価されなかった(中央で出世できなかった)
②伊予に長年いるうちに完全に地方に根を下ろしてしまった(京に帰る理由がなくなった)
③海賊たちの不満を代弁するリーダーになっていった(もはや自分もその一員だった)
「もったいない」って思うけど、純友からすれば帰る場所がなくなってたんだよ。

反乱の背景①:律令体制の崩壊——中央政府の地方統制が機能不全に陥り、地方の武装勢力が台頭していた

反乱の背景②:評価されない不満——海賊退治の功績が認められず、中央への帰還命令も無視するほど朝廷との溝が深まった

反乱の背景③:海賊集団との一体化——瀬戸内の海賊たちの指導者となり、朝廷の搾取に不満を持つ人々の怒りを背負った

では、こうした背景をもとに純友がどのように行動したのか。939年から始まる乱の経緯を見ていきましょう。

藤原純友の乱(939〜941年)の経緯

939年から941年にかけての約2年間、純友は瀬戸内海を舞台に朝廷と激しく戦いました。乱の経過を年代順に整理していきましょう。

■939年:挙兵と瀬戸内制圧

939年、純友はついに朝廷への反乱を公然と起こします。

挙兵の直接的なきっかけは、朝廷から突きつけられた「二者択一の通告」でした。純友の部下が備前介(びぜんのすけ)を襲撃した事件を受け、朝廷は「仲間を引き渡すか、さもなくば敵として討伐する」と迫ったのです。純友はこれを拒否し、公然と反旗を翻しました。

純友の本拠地は日振島ひぶりじま(現・愛媛県宇和島市沖)でした。この島を足がかりに、1000余艘・2500余人ともいわれる大船団を統率し、瀬戸内の海上を制圧していたのです。

備前びぜん(現・岡山県)や播磨はりま(現・兵庫県)など、瀬戸内沿岸の諸国を次々と攻撃しました。数百〜千を超える船団で動く純友軍の力は圧倒的で、朝廷はとっさに有効な対策を打てない状態でした。

折しも同じ939年、東国では平将門たいらのまさかどが「新皇しんのう」を名乗って関東一円を支配下に置いていました。(平将門の乱)朝廷は東西同時の大乱という、かつてない危機に直面します。

■940年:乱の拡大と朝廷の対応

940年2月、東国では平将門が藤原秀郷ひでさと・平貞盛さだもりらに討たれて将門の乱が終結します。

しかし西国の純友の乱はその後も続きました。純友軍は淡路・讃岐など瀬戸内の諸国を次々と攻略・略奪し、勢力をさらに拡大していきます。朝廷は追討軍の派遣を本格的に検討し始めましたが、純友の動きを止めることはできませんでした。

朝廷が純友の脅威を放置できなくなったのは、翌941年に九州への進軍が始まってからのことです。次の章でその詳細を解説します。

■941年:大宰府攻撃と朝廷の反撃・最終決戦

941年5月、純友軍はついに九州へ上陸し、西国の政治・軍事の中枢である大宰府だざいふ(現・福岡県太宰府市)を攻め落とし、略奪を行いました。大宰府陥落の報は朝廷に大きな衝撃を与えます。

当時の史料によれば、純友の船団は1000隻を超えていたともいわれます。大宰府の長官(大弐だいに)は純友軍の急報を受けると命からがら逃げ延びたと伝えられ、西国の政治・軍事の中枢が一夜にして純友の手に落ちた事実は、都の公家たちに深刻な恐怖をもたらしました。

朝廷はすでに940年に小野好古おののよしふるを「追捕山陽南海両道凶賊使ついぶさんようなんかいりょうどうきょうぞくし」(山陽・南海道追捕使)に任じ、源経基みなもとのつねもととともに追討軍を西国へ送り込んでいました。941年5月、小野好古率いる官軍は博多湾で純友軍と激突し、これを撃破します。

純友は敗走し、わずかな手勢を率いて逃げ延びましたが、その後まもなく伊予いよの地で捕捉されます。

こうして約2年にわたった純友の乱は、終幕に向かっていきます。

平将門との密約はあったのか?

藤原純友の乱と平将門の乱は、奇しくも同じ939年に東西でほぼ同時に勃発しました。この「偶然の一致」は、当時から人々の想像をかき立て、「二人は事前に密約を結んでいたのではないか」という説が生まれました。

■「東西呼応」説の根拠と限界

東西呼応説の根拠としてよく挙げられるのは、『扶桑略記ふそうりゃっき』などの後世の史料に残る「純友と将門が比叡山で密約を交わした」という伝承です。

しかし現代の歴史研究者の多くは、この説に否定的です。理由は以下の通りです。

まず、純友と将門が直接接触したことを示す同時代の史料が存在しません。次に、両者の乱の内容を見ると、東西で連絡を取り合って協調して動いた形跡がありません。将門が940年2月に討たれたのち、純友の乱はさらに1年以上続いていますが、両者が連動して攻勢を強めた様子もないのです。

📌 史実 vs 伝説:「純友と将門が比叡山で密約を結んだ」という話は後世(平安末期以降)に書かれた史料に登場するもので、939〜941年の同時代史料には記録がありません。現代の研究では「偶然の同時発生」または「後世の創作・脚色」とする見方が主流です。

藤原純友
藤原純友

将門と俺が密約を…とよく言われるが、史料の上では証明されていない。ただ、同じ時代に同じ不満を抱えた者が東と西に現れたということは、それだけ世の中が行き詰まっていたということだろう。

「密約はあったのか」という問いへの現時点での答えは「史料的根拠はなく、偶然の一致とみるのが妥当」です。

とはいえ、東西ほぼ同時に大反乱が起きたこと自体は歴史的事実であり、律令体制の崩壊がいかに深刻だったかを示しています。

では、この乱を最終的に鎮圧したのは誰だったのでしょうか。次の章では、純友の最期について詳しく解説します。


誰が鎮圧した?藤原純友の最期と橘遠保

純友の乱を鎮圧したのは、朝廷が派遣した追討軍です。中心人物は小野好古おののよしふる源経基みなもとのつねもと、そして最終的に純友を討ち取った橘遠保たちばなのとおやすの3名です。

■小野好古・源経基の追討軍

小野好古(平安時代)
小野好古(江戸時代絵) / Wikimedia Commons, Public Domain

940年、朝廷は小野好古おののよしふるを「追捕山陽南海両道凶賊使ついぶさんようなんかいりょうどうきょうぞくし」(山陽・南海道追捕使)に任命し、本格的な追討軍を西国へ送り込みました。源経基みなもとのつねもとも加わり、陸海両面から純友軍に迫ります。

純友軍は瀬戸内を拠点に激しく抵抗しましたが、すでに大宰府攻撃による消耗と、東国の将門討伐後に西国へ集中してきた朝廷の圧力で、次第に劣勢に立たされていきました。

博多湾での海戦では、小野好古が陸路から、大蔵春実おおくらのはるみが海路から純友軍を挟み撃ちにしました。激戦の末、800余艘もの船を鹵獲するという大戦果を挙げ、純友軍は壊滅します。純友は辛くも脱出して伊予へと逃げ延びましたが、もはや組織的な抵抗力を失っていました。

■橘遠保による純友の討ち取り(941年)

敗走した純友を最終的に討ち取ったのが、伊予の在地武人・橘遠保たちばなのとおやすです。

941年6月、伊予の地で純友を捕捉した橘遠保は、これを討ちました。こうして、939年の挙兵から約2年にわたった純友の乱は終息します。なお、純友の子・重太丸も捕縛されたと伝えられています。

※純友の最期については「橘遠保に直接討ち取られた」「捕縛後に獄中で没した」など複数の説があり、史料によって記述が異なります。

橘遠保ってだれ?

橘遠保たちばなのとおやすは、伊予国(現・愛媛県)を拠点とする在地の武人で、朝廷より「警固使けいごし」に任じられていました。朝廷の追討軍に協力して純友を追い詰め、みずから討ち取ったとされます(捕縛後に獄死したとする説もあります)。
史料が少なく詳細な経歴は不明な部分も多く、「在地武士の先駆け」として語られることがほとんどです。純友を倒した功績により、のちに伊予国司に任じられたとも伝えられています。

こうして純友の乱は終結しました。しかしこの乱が日本史に与えた影響は、乱の終息後もしばらく続いていきます。次の章では、その歴史的な意義について解説します。

藤原純友の乱が日本史に与えた影響

藤原純友の乱(承平天慶の乱)は、単なる地方の反乱ではありませんでした。この乱は、日本史の大きな転換点となる2つの変化を加速させました。

■律令体制の崩壊を加速させた

純友の乱は、すでに機能不全に陥っていた律令体制の「限界」を、日本全土に知らしめる出来事でした。

本来、律令体制のもとでは、朝廷が軍団を組織して地方の秩序を守るはずでした。しかし純友の乱では、朝廷は自前の軍事力だけでは対応できず、小野好古・源経基・橘遠保ら地方の武人たちの力を頼らざるを得なかったのです。

これは「朝廷が自力で治安を維持できなくなった」という事実を明確に示しており、律令体制の制度的崩壊が取り返しのつかない段階に入ったことを意味します。

■武士の台頭と武家政権への道

純友の乱を通じて、朝廷は「武士の力なしには国を守れない」という現実を突きつけられました。

純友を鎮圧した源経基は、清和源氏せいわげんじ(源氏の一流)の祖として、のちの武家政権を担う源氏の起点となっていきます。また、承平天慶の乱全体を通じて、武士が朝廷の「便利な戦力」として重宝されていく構図が固まりました。

源経基(六孫王)
源経基〔六孫王〕(江戸時代絵) / Wikimedia Commons, Public Domain
源経基(六孫王)とは?

源経基みなもとのつねもとは、清和源氏の初代です。清和天皇の第6皇子・貞純親王さだずみしんのうの子として生まれ、皇族から臣籍降下して「源」の姓を賜りました。皇族時代は「六孫王ろくそんおう」と称されたとも伝えられます(後世の呼称で、史料的根拠は薄いとされます)。
その嫡子・源満仲みなもとのみつなかが摂津に根を張り、武士としての地盤をさらに固めます。満仲の子孫からは源頼光みなもとのよりみつ源頼信みなもとのよりのぶという武将が生まれ、頼信の系統が平忠常の乱をきっかけに東国に勢力を広げ、最終的に源頼朝みなもとのよりともによる鎌倉幕府の開幕へとつながっていきます。

この流れは後三年の役(11世紀)・保元の乱平治の乱(12世紀)を経て、最終的に鎌倉幕府という武家政権の誕生へとつながっていくのです。

📌 現代とのつながり:承平天慶の乱→武士が朝廷の守護者に→武家政権(鎌倉幕府)→江戸幕府→明治維新まで、約900年間にわたる「武士支配の時代」の出発点の一つが、この純友・将門の乱でした。現代の政治システム(民主主義・議会制)が始まるのは、この長い武士支配の時代が終わった明治以降のことです。

あゆみ
あゆみ

この乱って、その後の鎌倉幕府とかにどうつながっていくのかしら?ずいぶん時代が離れてるような気がするわ。

もぐたろう
もぐたろう

直接的なつながりはないんだけど、「朝廷が武士に頼る構図が完全に固まった」っていうのが超重要なんだよ!純友・将門の両方を鎮圧した源経基が清和源氏の祖→その子孫が頼義・義家→さらに頼朝が鎌倉幕府を開く、っていう源氏の武家ラインの起点になってるんだ。点と点がつながる感じで歴史を流れで見ると面白いよ!

では、試験対策として絶対に押さえておきたいポイントを次の章でまとめましょう。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 承平天慶の乱(939〜941年)承平天慶じょうへいてんぎょうと読む。平将門の乱(東国)藤原純友の乱(西国)の2つをまとめた呼び方。年号・読み方の両方がよく出る
  • 平将門(東国)vs 藤原純友(西国)の対比:「将門=東・純友=西」のセット暗記が必須。東国の反乱(関東中心)と西国の反乱(瀬戸内・九州)として整理する
  • 鎮圧した人物小野好古(山陽・南海道追捕使)・源経基(清和源氏の祖)・橘遠保(純友を捕捉・討ち取った)の3名。
  • 武士台頭・律令体制崩壊への影響:朝廷が自力で鎮圧できず武士に頼った→武士の社会的地位が向上→武家政権(鎌倉幕府)への道筋がここから始まる
  • 承平天慶の読み方承平じょうへい天慶てんぎょう。「承」の字が特に書きにくいので要注意。

よくある質問(FAQ)

939年から941年にかけて、伊予(現・愛媛県)を拠点とした藤原純友が朝廷に反乱を起こした事件です。瀬戸内海の海賊集団を率いて備前・播磨・大宰府などを攻撃しました。同時期に東国で起きた平将門の乱と合わせて「承平天慶の乱じょうへいてんぎょうのらん(939〜941年)」と呼ばれます。

朝廷が派遣した小野好古(山陽・南海道追捕使)と源経基が追討軍の中心で、博多湾で純友軍を撃破しました。最終的に純友を捕捉・討ち取ったのは、伊予の在地武人橘遠保(たちばなのとおやす)です(諸説あり)。テストでは3名の名前と役割をセットで覚えましょう。

941年、伊予(現・愛媛県)にて橘遠保(たちばなのとおやす)に討ち取られたとされています。「直接討ち取られた」「捕縛後に獄中で没した」など複数の説があり、詳細は史料によって異なります。いずれにせよ「941年・橘遠保に討たれた(捕捉された)」という点がテストの正答です。

現代の研究では「密約・呼応は史料的に証明されていない」とする見方が主流です。両者が比叡山で密約を交わしたという話は後世の史料に登場しますが、同時代史料には記録がありません。939年にほぼ同時に反乱が起きたのは、律令体制崩壊という共通の時代背景によるものと考えられており、偶然の一致とみるのが妥当とされています。

読み方は「じょうへいてんぎょうのらん」です。承平・天慶はそれぞれ当時の元号で、939〜941年ごろに当たります。承平天慶の乱は、東国の平将門の乱と西国の藤原純友の乱の2つをまとめた総称です。「藤原純友の乱」は純友が主役の西国の乱のみを指す、より狭い意味の言葉です。

大きく2点あります。①律令体制の崩壊を決定的に加速させた(朝廷が自力で秩序を維持できないことが明らかになった)、②武士の台頭・武家政権への道を開いた(朝廷が武士に頼る構図が定着し、源平の台頭・鎌倉幕府成立への布石となった)。試験では「武士の台頭のきっかけ」として論述問題にも出ます。

純友は藤原北家の傍流であり、摂関家のような中央での出世が難しい立場でした。朝廷の命で伊予に赴任し海賊退治を担いましたが、任期後も帰還できず、長年の滞在で瀬戸内の海賊集団と深く結びつきました。朝廷から功績を認められないまま取り残され、「帰る場所がない」状態になった結果、海賊集団の指導者として朝廷に刃を向けることになったと考えられています。

藤原純友の乱についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
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藤原純友の乱や平安時代の武士のことをもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!どれも読みやすい1冊だから、ぜひチェックしてみてね。

①平安時代の武士台頭を深く学びたいなら|純友の乱の時代背景がよくわかる定番書

武士の成長と院政 日本の歴史07

下向井龍彦 著|講談社学術文庫


②将門と純友の2人をセットで学びたいなら|乱の全体像がコンパクトにつかめる

③将門の視点から乱を読み解きたいなら|最新研究で将門・純友の実像に迫る新書

平将門と天慶の乱

乃至政彦 著|講談社現代新書

まとめ:藤原純友の乱

まとめポイント
  • 藤原純友は藤原北家傍流の官人で、伊予赴任中に海賊集団の指導者となり、朝廷に反乱(939〜941年)を起こした
  • 承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は、東国の平将門の乱と西国の藤原純友の乱をまとめた呼び方
  • 純友は941年に大宰府を攻略するなど西国一帯を震撼させたが、小野好古・源経基の追討軍に敗れ、941年・橘遠保に討ち取られた(諸説あり)
  • 平将門との密約・東西呼応説は後世の伝承であり、史料的根拠は薄く「偶然の同時発生」とみるのが現代の主流
  • この乱を通じて律令体制の崩壊が決定的になり、朝廷が武士に頼る構図が定着→武士の台頭・武家政権への道が開かれた
  • 純友を鎮圧した源経基は清和源氏の祖となり、のちの源氏による武家政権(鎌倉幕府)へとつながる歴史の伏線となった

もぐたろう
もぐたろう

以上、藤原純友の乱のまとめでした!「承平天慶の乱・将門=東・純友=西・橘遠保に討たれた」の4点セットが最重要ポイントだよ。下の記事で平将門の乱や平安時代の武士についてもあわせて読んでみてください!

藤原純友の乱 年表
  • 承平年間以前
    藤原純友、伊予掾として赴任・海賊追捕の任につく
  • 934〜936年頃
    任期後も伊予に留まり、海賊集団と一体化。朝廷への帰還命令を無視
  • 939年
    挙兵。備前・播磨など瀬戸内諸国を攻撃。同年、東国では平将門の乱が勃発
  • 940年
    淡路・讃岐など瀬戸内の諸国を攻略。乱が西国全体に拡大。東国では将門が討伐される
  • 941年5月
    大宰府(現・福岡)を攻略・略奪。朝廷の追討軍(小野好古・源経基)が博多湾で純友軍を撃破
  • 941年6月
    橘遠保が純友を伊予にて捕捉・討ち取り(諸説あり)。純友の乱、終結
  • 以降
    武士の社会的地位が向上。律令体制の崩壊が加速し、摂関政治・院政・武家政権へと時代が移行

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「藤原純友」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「承平天慶の乱」(2026年5月確認)
コトバンク「藤原純友」「承平天慶の乱」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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