今回は、1156年に起きた保元の乱についてわかりやすく解説していきます。
まずは保元の乱の概要を先に載せておきます↓
この記事では保元の乱について以下の4点を中心にわかりやすく解説します。
保元の乱が起こるまでの流れ
最初に保元の乱が起こるまでの時代の流れをチェックしましょう!
保元の乱はなぜ起こったか?
保元の乱は、天皇家の家督争いと摂関家の家督争いがミックスした乱です。なのでまずは、天皇家・摂関家の家督争いについて簡単にチェックしておきます。
天皇家の家督争い(崇徳上皇VS後白河天皇)
崇徳上皇と後白河天皇は兄弟の関係でした。
なぜこの2人が争う関係にあったかという、崇徳上皇が院政を敷いて政治の実権を握ろうと目論んでいたのに、弟の後白河天皇が即位したことで院政が不可能になってしまったからです。
院政は「家父長として天皇を後見する立場から政治の実権を握る」という政治スタイルです。なので、崇徳上皇が院政を行うには自分の息子を即位させ、その父として息子を後見する立場に立つ必要があったのです。
この辺の事情は崇徳上皇の「皇太弟事件」を知ると良くわかります。闇の深い事件なので、関連記事を再掲しておきます。
藤原頼長VS藤原忠通
一方の摂関家の方でも、家督をめぐって異母兄弟の藤原頼長と藤原忠通が争っていました。
子供に恵まれず、私の跡を継ぐ者がいない・・・。
そうだ、異母兄弟の頼長を養子にして跡を継がせよう。
ありがとう忠通!
しかし、忠通に子供が生まれると忠通の態度は一変。
悪い。やっぱり男の子産まれたから、自分の子に後継がせるわ。頼長の話はなしだわ。
ここで、2人の父親である藤原忠実が登場。
藤原忠実「それは許さんぞ。頼長は頭脳明晰で優秀な私の溺愛する息子。次期後継者は頼長で決まっている。」
こうして忠通と頼長・忠実ペアの間で対立が続くことになります。
鳥羽上皇の崩御ほうぎょ
これらの家督争いは、1156年7月2日に権力者だった鳥羽法皇が亡くなることで一気に表面化することになります。
鳥羽法皇は後白河天皇の父として院政を敷いていました。しかし鳥羽法皇が亡くなることで、崇徳上皇にも息子を天皇即位させる可能性が再び浮上しました。
摂関家でも藤原忠実・頼長は鳥羽法皇の支援を受けていました。それが鳥羽法皇の崩御により消失。逆に藤原忠通は後白河天皇に接近し、忠実・頼長ペアの失脚をさせようと動き始めます。
保元の乱、始まる
鳥羽法皇が亡くなると京ではこんな噂が流れるようになります。
崇徳上皇と藤原頼長が結託して、国を傾けんとしているらしい(ヒソヒソ)
この噂を利用し、後白河天皇サイドでは藤原頼長を挑発し、追い詰める計画を実行します。
検非違使(今でいう警察的な人)に藤原頼長の関係者らしき人物の逮捕を命じ、7月8日には、「藤原頼長が諸国から兵を収集している」という噂を聞きつけ、諸国に対してこれに応じないよう命令を下します。
挑発はこれだけにとどまりません。
同じ7月8日、東三条邸という摂関家の氏長者(家督を継いだ者)の邸宅を占領し、財産を没収してしまいます。
当時、摂関家の氏長者は藤原頼長だったので、これは藤原頼長に対しての襲撃を意味します。
7月9日には、危険を感じた崇徳上皇が白河北殿へ非難。
ここに及んで、こちらも武力で対抗するしか道はないと考えた藤原頼長は崇徳上皇と接近。
7月10日になると、白河北殿で兵を集め始めます。
ちなみに、最初に流れた噂話は後白河天皇サイドが作り上げたでっち上げの噂だという説があります。あまりにも都合の良い噂なので、おそらくこの説が濃厚なんじゃないかと思う。
保元の乱と平氏・源氏
これまでの対立の構図をまとめておきます。
後白河天皇サイドの挑発により、両者の戦いの火蓋が切って落とされますが、戦いには兵力が必要です。この時に兵力として注目されたのが、平氏と源氏の2大武士勢力でした。
皮肉なことに、平氏と源氏もまた、親族同士で悲惨な争いを繰り広げることになります。
源氏の場合(源為義VS源義朝)
源氏では、源為義とその息子の源義朝が保元の乱で争うことになります。
源氏は後三年の役で活躍した源義家以降、その力を恐れた朝廷や源氏内の内部紛争により没落の一途を辿っていました。
源為義は源義家の孫にあたり、源氏を義家時代のように復興させようと、摂関家の藤原忠実・頼長親子に接近します。
一方、息子の源義朝は嫁さんの実家が鳥羽法皇の院近臣だった関係から鳥羽法皇に近侍するようなりました。鳥羽法皇は後白河天皇支持派の人間であったため、鳥羽法皇死後も、源義朝は後白河天皇派として活躍することになります。
甥と叔父の争い ー平清盛VS平忠正
平氏も源氏と同様の対立関係が生じます。
平清盛の叔父だった平忠正は、藤原頼長に仕えていたため崇徳上皇派に付くことに。
一方の平清盛は、どちらにも加担できる微妙な立ち位置にいました。
というのも、
と、どちらに味方することも可能な状態だったんです。
重要な決断に迫られた平清盛ですが、亡き鳥羽法皇の妃である藤原得子の強い説得や崇徳上皇側の敗北を予感した池禅尼のアドバイスにより、後白河天皇に加担することを決断します。
源氏と平氏の対立構図をまとめるとこんな感じ
崇徳サイド | 後白河サイド | |
天皇家(兄弟) | 崇徳上皇 | 後白河天皇 |
摂関家(兄弟) | 藤原頼長 | 藤原忠通 |
平氏(叔父と甥) | 平忠正 | 平清盛 |
源氏(父と子) | 源為義 | 源義朝 |
保元の乱の戦い前夜
7月10日の夜、後白河天皇サイドは8日に制圧した東三条院、崇徳上皇サイドは白河北殿に兵を構えます。
崇徳上皇サイドの白河北殿では、後白河天皇への対抗策について議論が行われました。崇徳上皇側の主戦力は源為義。兵が少ないため、為義はこう提案します。
援軍を待つのではなく、こちらからも出陣し援軍との合流を早く行うべき。もし援軍との合流が難しければ、東三条院へ先手を打って夜襲を仕掛けよう!
ところが、戦について何も知らない藤原頼長はこれを拒否。
天皇と上皇の争いに夜襲など卑怯なことをすべきではない
そして、当時最強と言われた猛将、源為朝はこれを聞いて憤慨。こう言い残して、会議の場をさりました。
後白河天皇側には優秀な源義朝がいる。間違いなく夜襲を仕掛けてくるぞ。そんなんでいいのかよ!!(怒)
結局、藤原頼長の案が採用され、援軍が到着するまで白河北殿で待機することに。
しかし、11日の明け方、源為朝の言うとおり後白河天皇派は夜襲を仕掛けてきました。こうして遂に保元の乱が始まります。
あっけなく終わる保元の乱
上の絵は白河北殿での戦の様子を描いた絵です。外側から攻め入っているのが後白河天皇軍、真ん中で防衛戦をしているのが崇徳上皇軍。
防戦一方の崇徳上皇軍は豪傑の源為朝が一時は奮闘しますが、やはり多勢に無勢。崇徳上皇側はあっけなく敗走してしまいます。戦はわずか1日で終了しました。
崇徳上皇は逃げて姿を隠しますが、すぐに見つかり捕らえられます。
藤原頼長は負傷したまま父の忠実がいる奈良へ向かいますが、敗戦者を受け入れ、息子共々摂関藤原氏がみな没落してしまうのを恐れた忠実は自宅の門を閉ざし、心を鬼にして寵愛していた息子を追い返します。その後、衰弱した頼長は死亡しました。
忠実は一族を守るためとはいえ、愛する息子を見殺しにしてしまったことを生涯大いに嘆いたことでしょう・・・。
保元の乱の戦後処理
保元の乱の戦後処理は想像を絶するほど過酷なものでした。というのも、このタイミングで数百年ぶりに死刑制度が復活したからです。
崇徳上皇側の人物に待ち受けていたものは斬首刑。しかもただの斬首ではなく、親族同士で首をはねることを命じます。
親族同士で刑を執行するとか残酷すぎて笑えないレベル。
首謀者の崇徳上皇は讃岐へ島流しになりました。天皇・上皇が島流しにされるのも数百年ぶりの話であり、死刑制度復活と上皇の島流しという過酷な処分は朝廷の人々に大きな衝撃を与えました。
保元の乱の黒幕、信西
この過酷な戦後処理の際に暗躍していたのが、信西という人物でした。信西は当時、藤原頼長と並ぶ秀才として有名人であり、保元の乱の黒幕とも言われています。
信西は嫁さんが後白河天皇の乳母だったため、後白河天皇の元で権勢を奮おうと考えていました。そこで、戦後処理を通じて武力として利用できる平氏と密接な関係を結ぼうと策を練りました。
後白河天皇派の主戦力は源義朝。平清盛はあくまでサブ的な存在で、白河北殿攻めでも、正面から攻め入った主戦力はあくまで源義朝でした。
それなのに、終わってみると保元の乱で一番出世したのは平氏の人たちばかり。源氏も出世はしましたが、そこまで高い官位は与えられませんでした。信西は、自らの武力としたい平氏を身分を上げ、逆に平氏に対抗しうる源氏を徹底的に潰すことで、その後の政治を有利に進めようと考えたのです。
そして源義朝は、何もしてない平清盛ばかりが出世していることに強い不満を持つことになります。(これは3年後に起こる平治の乱の遠因になったとも言われている。)
崇徳上皇派の人間を徹底的に処刑したのも信西の策略でした。保元の乱を理由に崇徳上皇派の人間を徹底的に消し去ることで、反乱分子を一掃を狙ったものです。
保元の乱はその経過も戦後処理も全て信西の思うがままに進み、保元の乱の後、信西は朝廷内で莫大な影響力を有するようになります。まさに保元の乱の黒幕にふさわしい活躍です。
保元の乱の歴史的意義
保元の乱の歴史的意義は、皇位継承や摂関家の争いに本格的に武士が参戦した初めての内乱だったという点です。
朝廷貴族たちは、長い間、武士のことを自分たちの護衛としか考えてきませんでした。なので、武士の朝廷進出を嫌う貴族たちは彼らを長年冷遇し続けてきました。
ところが、保元の乱で事態は一変します。武士が皇位継承問題に本格介入したことで、貴族・皇族らはもはや武士なしで自分たちが生き残れないことを強く実感することになります。こうして朝廷内部の問題解決に武士(武力)が欠かせない時代となり、武士が本格的に活躍する時代がいよいよ到来することになります。
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