簡単にわかりやすく!誰でもわかる保元の乱【勝者は?経過は?】

 

今回は、人間関係が複雑でよくわからないことで有名な保元(ほうげん)の乱について紹介したいと思います。

 

 

この記事だけでは全てを説明しきれないので関連する記事のリンクをたくさん貼りました!

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保元の乱はなぜ起こったか?

保元の乱は、皇位継承争いと摂関家の家督争いがミックスした少し複雑な乱です。

崇徳上皇VS後白河天皇

皇位継承争いは、崇徳上皇と後白河天皇の対立でした。ちなみに崇徳上皇と後白河天皇は兄弟です。

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なぜ兄弟の仲が悪かったかというと、崇徳上皇が院政を敷いて政治の実権を握ろうと目論んでいたのに、弟の後白河天皇が即位したことで院政が不可能になってしまったから。

 

 

当時の院政は、「家父長として天皇を後見する立場から政治を行うもの」でした。なので、崇徳上皇が院政を行うには自分の息子を即位させ、その父として息子を後見する立場に立つ必要があったのです。

 

もちろん崇徳上皇と後白河天皇のバックには藤原氏やらなんやらの有力勢力たちが暗躍しており、当時の政治情勢は非常に複雑です。両者が対立するまでの経緯は、以下の記事を参考にしてみてください!

 

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藤原頼長VS藤原忠通

天皇家が兄弟で対立する中、摂関家でもまた、兄弟同士での揉め事が起こっていました。異母兄弟の藤原頼長(ふじわらのよりなが)藤原忠通(ふじわらのただみち)が摂関家の家督をめぐり争うことになったんです。詳しい経緯は、以下の記事をご一読してみてください。

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天皇家と摂関家に起きた兄弟争いは次第に崇徳上皇・藤原頼長VS後白河天皇・藤原忠通の構図を作りだし、1156年7月2日に権力者だった鳥羽法皇が亡くなったことで、これらの対立関係が一気に表面化します

保元の乱の経過

1156年7月2日、鳥羽法皇が亡くなるとにわかに「崇徳上皇と藤原頼長が結託して、国を傾けんとしている」という噂が平安京内に流れます。

 

 

この噂を利用し、後白河天皇サイドが崇徳上皇らに攻勢を仕掛けます。検非違使(けびいし)という今でいう警察のような人たちに崇徳上皇らを露骨に監視させ、無言のプレッシャーを掛けたのです。(そもそも上記の噂自体、後白河天皇側の人間によるでっち上げの可能性が高そうです。)

 

 

 

7月8日、後白河天皇派は藤原頼長が諸国から兵を収集しているという噂を聞きつけ、すぐに諸国に対してこれに応じないよう命令を下します。

 

 

さらに後白河天皇側の挑発はこれだけにとどまらず、同日、源義朝らに命じ、東三条邸という摂関家の氏長者(うじのちょうじゃ。家督を継いだ者)の邸宅を占領し、財産を没収してしまいます。

 

 

当時、摂関家の氏長者は藤原頼長だったので、これは藤原頼長に対しての襲撃を意味します。

 

ここに及んで、こちらも武力で対抗するしか道はないと考えた藤原頼長は崇徳上皇と接近し、7月10日、白河北殿と言う邸宅にて兵を収集し始めます。

 

鳥羽法皇の死からわずか一週間ちょっとで両者は一触触発の状態に陥ります。ここまでの展開は、後白河勢力の優勢で崇徳勢力の対応は後手後手に回っています。

平氏と源氏の親族争い

天皇家と摂関家の兄弟争いを発端にして起こった保元の乱。

 

崇徳上皇も後白河天皇も、護衛や戦のため兵力を集めようとします。そこで、兵力として注目されたのが平氏と源氏の2大武士勢力でした。

 

 

皮肉なことに、平氏と源氏もまた、保元の乱を通じて親族同士の悲惨な争いに巻き込まれることになってしまいます・・・。

父と子の争い 源為義VS源義朝

まずは源氏の話から。源氏は、父の子に別れて保元の乱で争い合うことになります。

 

 

源為義(みなもとのためよし)は崇徳上皇派、その息子の源義朝(みなもとのよしとも)は後白河天皇派に加担し、父と子が争うことになります。

 

 

源氏は後三年の役で活躍した源義家(みなもとのよしいえ)以降、その力を恐れた朝廷や源氏内の内部紛争により没落の一途を辿っていました。

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源為義は源義家の孫にあたり、源氏を義家時代のように復興させようと、摂関家の藤原忠実・頼長親子に接近します。

 

 

一方、息子の源義朝は、嫁さんの実家が鳥羽法皇の院近臣だった関係から鳥羽法皇に近侍するようなりました。鳥羽法皇は後白河天皇支持派の人間であったため、鳥羽法皇死後も、源義朝は後白河天皇派として活躍することになります。

 

 

保元の乱では、藤原頼長に仕える源為義と後白河天皇に仕える源義朝は必然的に対立関係にならざるを得ない状況にあったわけです。

 

 

保元の乱は、本当に複雑な内乱です・・・。

甥と叔父の争い ー平清盛VS平忠正

平氏も源氏と同様の対立関係が生じます。

 

平清盛の叔父だった平忠正は、藤原頼長に仕えていたため崇徳上皇派に付くことになりますが、一方の平清盛は、実は微妙な立場に立たされていました。

 

平清盛の母(義母)である池禅尼(いけのぜんに)が、崇徳上皇の子である重仁親王の乳母だったのです。一方、清盛の父である平忠盛は鳥羽法皇の重臣として活躍し、凄まじい出世を成し遂げていたため、亡き鳥羽法皇の意思を汲み後白河天皇派に立つことも可能でした。

 

 

つまり、平清盛は崇徳上皇と後白河天皇のどちら側に加担することも可能だったのです。

 

 

重要な決断に迫られた平清盛ですが、亡き鳥羽法皇の妃である藤原得子の強い説得や崇徳上皇側の敗北を予感した池禅尼のアドバイスにより、後白河天皇に加担することを決断します。

 

 

源平合戦のイメージのせいで源氏と平氏が味方同士であることに違和感があるかもしれませんが、当時は源氏VS平氏という構図はこの時点ではなく、単に自分が仕えていた人物に加担した結果、上記のような勢力図になったというだけです。

保元の乱の戦い前夜

【保元の乱の戦場の概要】

7月10日の夜、後白河天皇派は8日に制圧した東三条院、崇徳上皇派は白河北殿に兵を構えます。

 

崇徳上皇派の白河北殿では、後白河天皇派への対抗策について議論が行われました。崇徳上皇側の主戦力は源為義率いる軍勢。

 

為義は味方軍が明らかに劣勢であるため、「援軍を待つのではなく、こちらからも出陣し援軍との合流を早く行うべきだ。もし援軍との合流が難しければ、東三条院へ先手を打って夜襲を仕掛けるべきだ」と提案します。ところが、戦について何も知らない藤原頼長は、「天皇と上皇の争いに夜襲など卑怯なことをすべきではない」とこの案を一蹴。

 

 

そして当時、豪傑かつ荒くれ者で有名だった源為朝(ためとも)という人物はこれを聞き「後白河天皇側には優秀な源義朝がいる。間違いなく夜襲を仕掛けてくるぞ」と藤原頼長に憤慨し、その場を退出した・・・というエピソードが残されています。

 

 

結局、藤原頼長の案が採用され、援軍が到着するまで白河北殿で待機することにしますが、11日の明け方、源為朝の言うとおり後白河天皇派は夜襲を仕掛けてきました。こうして遂に保元の乱が始まります。

あっけなく終わる保元の乱

 

上の絵は、この白河北殿での戦の様子を描いた絵。外側から攻め入っているのが後白河天皇派、真ん中で防衛戦をしているのが崇徳上皇派。

 

 

防戦一方の崇徳上皇軍は豪傑の源為朝が一時は奮闘しますが、やはり多勢に無勢。崇徳上皇側はあっけなく敗走してしまいます。戦はわずか1日で終了しました。

 

 

 

崇徳上皇は逃げて姿を隠しますが、すぐに見つかり捕まることに。

 

 

藤原頼長は負傷したまま父の忠実がいる奈良へ向かいますが、敗戦者を受け入れ、息子共々摂関藤原氏がみな没落してしまうのを恐れた忠実は自宅の門を閉ざし、心を鬼にして寵愛していた息子を追い返します。その後、衰弱した頼長は死亡します。

 

 

忠実は、一族を守るためとはいえ、愛する息子を見殺しにしてしまったことを大いに嘆いたことでしょう・・・。

保元の乱の戦後処理

保元の乱の戦後処理は想像を絶するほど過酷なものでした。というのも、数百年ぶりに死刑制度が復活してしまったのです。(死刑制度自体は昔からありましたが、長い間形骸化していた)

 

 

崇徳上皇側の人物に待ち受けていたものは斬首刑。しかもただの斬首ではなく、親族同士で首をはねることを命じます。平清盛は叔父の平忠正の首を、源義朝は父の源為義の首を自らの手で刎ねる・・・という形で処刑が行われたということです。残酷すぎて笑えないレベル。

 

 

首謀者の崇徳上皇は讃岐へ島流しになりました。天皇・上皇が島流しにされるのも死刑制度復活と同様に数百年ぶりの話であり、死刑制度復活と上皇の島流しという過酷な処分は朝廷の人々に大きな衝撃を与えました。

藤原信西の暗躍

この過酷な戦後処理の際に暗躍していたのが、後白河天皇側のブレーン役だった信西(しんぜい)という人物だと言われています。

 

 

信西は当時、藤原頼長と並ぶ秀才として有名人でしたが、藤原頼長と異なり身分の低い家柄だったため、朝廷の要職に就くことができず、1144年出家します。出家後の名を信西と呼びます。本名は藤原通憲(みちのり)と言いました。

 

 

ところが、信西の嫁さんが後白河天皇の乳母だった縁から、後白河天皇が即位するとその才能も相まって信西は次第に頭角を現すようになり、政治の実権を持つようになります。そして、秀才信西が本格的にその知略を奮った最初の出来事が保元の乱でした。

信西の智謀

保元の乱には信西に関する様々なエピソードがあります。少し紹介します。

 

保元の乱の際、崇徳上皇側の源為朝が危惧していたとおり、後白河天皇側は夜襲を仕掛けた・・・という話をしました。この夜襲は大成功。崇徳上皇派に大打撃を与え、保元の乱の戦はわずか1日で終了します。

 

 

この夜襲案は東国において武勇を馳せた源義朝によって提案された案であり、これを採用したのが信西と言われています。源為朝の案を退けた崇徳上皇側の藤原頼長とはえらい違いです。

 

 

また、信西はこの戦乱を通じ、平氏と親密な関係を築いて将来的な武力として利用しようとします。

 

 

後白河天皇派の戦力的に、主戦力は源義朝軍であり、平氏軍はあくまでサブ的な存在でした。白河北殿攻めでも平氏軍は側面から攻めているだけで、正面から攻め入った主戦力はあくまで源義朝です。

 

 

ところが終わってみると保元の乱で一番出世したのは平氏、特に平清盛でした。源氏も出世はしましたが、そこまで高い官位は与えられませんでした。信西は、自らの武力としたい平氏を身分を上げ、逆に平氏に対抗しうる源氏を徹底的に潰すことで、その後の政治を有利に進めようと考えたのです。

 

 

ちなみに、主戦力として活躍し父をも殺す羽目になった源義朝は、何もしてない平清盛ばかりが出世していることに強い不満を覚えてゆきます。(これは3年後に起こる平治の乱の遠因になったと言われています。)

 

 

崇徳上皇派の人間を徹底的に処刑したのも信西の策略でした。保元の乱を理由に崇徳上皇派の人間を徹底的に消し去ることで、反乱分子を一掃しようとしたのです。

 

 

信西は高い身分の人間ではありませんでしたが、信西の指示は理路整然として的確であり、後白河天皇派の内部では信西に反論できるような人は多くありませんでした。

 

 

保元の乱はその経過も戦後処理も全て信西の思うがままに進み、保元の乱の後、信西は朝廷内で莫大な影響力を有するようになります。長年、勉学に励み、秀才を言われていたにも関わらず、その身分の低さで不遇を囲った信西ですが、保元の乱を経てようやくその俊敏な政治手腕を振るうことができるようになったのです。

 

 

信西は、保元の乱の影の主役と言っても過言ではないかもしれません。

保元の乱の歴史的意義

保元の乱の歴史的意義は、皇位継承や摂関家の争いに本格的に武士が参戦した初めての内乱だったという点です。

 

 

朝廷貴族たちは、長い間、武士のことを自分たちの護衛としか考えてきませんでした。なので、武士の武力が土地争いや僧兵の強訴対策などに欠かせない重要な要素になる一方、武士の朝廷進出を嫌う貴族たちは武士のことを長年冷遇し続けました。

 

 

ところが、保元の乱で事態は一変します。武士が皇位継承問題などに本格的に介入したことで、貴族や皇族たちはもはや武士なしで自分たちが生き残れないことを強く実感します。保元の乱以後の朝廷では、朝廷内部の問題解決に武士(武力)が欠かせない時代となり、いよいよ武士が本格的に活躍する時代が訪れるのです。

 

 

武士の台頭には、当時の権力者不在の政治機構にも理由がありました。絶対的権力者として君臨すべき天皇が摂関家や院政により権力を奪われ、律令も機能しなくなれば、世が弱肉強食の世となるのは自明の理。そんな混沌とした日本をコントロールするには、もはや武力(武士)を用いるしかなかったのです。武士の台頭は、時代の流れとしては当然の出来事だった・・・とも言えるかもしれませんね。

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