以仁王(もちひとおう)とは?令旨と挙兵を簡単に解説

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以仁王(もちひとおう)とは?令旨と挙兵を簡単に解説

もぐたろう
もぐたろう

今回は平安時代末期の皇族・以仁王もちひとおうについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「失敗した挙兵が源平合戦を動かした」という逆説的な歴史の面白さ、一緒に見ていこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 以仁王もちひとおうの読み方・プロフィール・家系(北陸宮まで)
  • 以仁王の令旨りょうじの意味・内容源行家みなもとのゆきいえの役割
  • 以仁王の挙兵(以仁王の乱)の経緯・失敗の理由・最期
  • 挙兵が源平合戦の引き金になった仕組み

以仁王の挙兵はわずか数日で鎮圧された”失敗”でした。実は、この失敗に終わった挙兵こそが、源頼朝みなもとのよりとも源義仲みなもとのよしなから源氏を立ち上がらせ、源平合戦げんぺいかっせんという全国規模の大乱の引き金を引いたのです。

意外と知られていない以仁王の実像——その令旨が歴史をどう動かしたのか、詳しく見ていきましょう。



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以仁王(もちひとおう)とは?

3行でわかるまとめ
  • 以仁王もちひとおう後白河天皇の第3皇子。平氏支配により親王宣下を受けられなかった不遇の皇族
  • 治承4年(1180年)に「平氏追討」の令旨りょうじを発令し、各地の源氏に蜂起を呼びかけた
  • 挙兵は失敗に終わったが、源頼朝・源義仲ら源氏を立ち上がらせ、源平合戦の引き金となった

以仁王もちひとおうは、平安時代末期に活躍した皇族です。後白河天皇ごしらかわてんのうの第3皇子として生まれましたが、平氏が政権を掌握する時代の荒波の中で、皇位継承の機会を奪われた不遇の生涯を送った人物でした。

「以仁王」の「王」という称号に疑問を感じた方もいるかもしれません。通常、天皇の皇子は「親王しんのう」と称されるはずです。では、なぜ「王」なのでしょうか?

あゆみ
あゆみ

「もちひとおう」って読むの?珍しい名前ね。それに「王」で「親王」じゃないって、何か理由があるのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

「親王」っていうのは、天皇から正式に「親王宣下しんのうせんげ」を受けた皇族の称号なんだ。でも以仁王の場合、平清盛が支配する朝廷がその宣下を認めなかった。「王」はその一段下の皇族の称号で、つまり平氏の都合で本来もらえるはずの称号を奪われたってわけだよ!



以仁王の肖像画
以仁王(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)
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以仁王の生涯【出家・還俗・不遇の時代】

■後白河天皇の第3皇子として誕生

以仁王は仁平にんぺい元年(1151年)ごろ、後白河天皇の第3皇子として生まれたと伝わります。母は藤原季成ふじわらのすえなりの娘(大納言典侍だいなごんのてんじ)です。

兄弟には二条天皇(第1皇子)・高倉天皇らがいましたが、天皇の外戚として権力を握った平清盛たいらのきよもりが後白河院政を抑え込む時代に、以仁王は皇統の傍流に追いやられていきます。

当時の朝廷では、皇族男子の処遇は「外戚(皇后・中宮の父家)」の力関係で大きく左右されました。以仁王の母方の藤原季成家は平氏ほどの権勢を持たなかったため、以仁王は幼い頃から「皇統の傍流」として黙殺されるような立場に置かれていたのです。

■出家と還俗の経緯

以仁王はかつて仁和寺にんなじに出家し、法師として生活した時期がありました。出家は皇位継承権の放棄を意味しますが、以仁王はのちに還俗げんぞく(僧侶が再び俗世に戻ること)を果たしました。

しかし、平治へいじ元年(1159年)の平治の乱へいじのらんで平氏が決定的な権力を手に入れると、朝廷の実権は平清盛の掌中に落ちます。後白河天皇の第7皇子・高倉天皇たかくらてんのう建春門院けんしゅんもんいん=平滋子を母に持ち、平清盛の娘・建礼門院けんれいもんいんを妃とした)が即位し、やがてその子・安徳天皇あんとくてんのう(平清盛の外孫)が皇位を継いだことで、以仁王の皇位継承の望みは完全に断たれてしまいました。

平治物語絵巻の武士
平治物語絵巻(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

以仁王
以仁王

平氏の外戚が皇統を歪めている……。このまま黙って見ているわけにはいかない。武士の力を借りてでも、平氏を討たねばならぬ!

■家系と子女(北陸宮)

以仁王には子として北陸宮ほくりくのみやが知られています。

北陸宮は、以仁王の挙兵が失敗に終わった後、源義仲みなもとのよしなか(木曽義仲)に保護されました。義仲が都に入京した際には新帝擁立候補として担ぎ出されましたが、その後、義仲が源頼朝・源義経みなもとのよしつね軍に敗れると、歴史の表舞台から姿を消していきます。

ゆうき
ゆうき

そもそも以仁王って、なんで天皇になれなかったの?皇子なら継承できるんじゃないの?

もぐたろう
もぐたろう

平氏が後白河天皇の第7皇子・高倉天皇を即位させ、さらにその子・安徳天皇(平清盛の外孫!)に皇位を継がせたんだ。つまり平氏は「皇位を自分たちの血筋に引き込む」ことで朝廷の実権を握ったわけ。以仁王はそのラインから弾き出された感じだね。



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以仁王の令旨(りょうじ)とは?わかりやすく解説

治承じしょう4年(1180年)5月、以仁王は「平氏追討」の令旨りょうじを発令しました。これが源平合戦の直接の引き金となった、歴史上極めて重要な文書です。

令旨りょうじってなに?

令旨りょうじとは、皇族(親王・王)が発する命令書のことです。天皇が出す「勅令ちょくれい」よりも格は下ですが、武士を動員できる正式な公文書として機能しました。以仁王の令旨は「諸国の源氏・大寺院に対し、平氏を討て」という命令を下したものです。

令旨の宛先は、諸国に散らばる源氏の武将と大寺院でした。その内容は一言でいえば「平氏を打倒せよ」という命令です。令旨という「天皇家の人が認めた命令書」があったことで、各地の源氏は「大義名分たいぎめいぶん」を持って立ち上がることができたのです。

■源行家が令旨を全国へ届けた

令旨を抱えて全国の源氏武将を訪ね回り、蜂起を呼びかけた人物が源行家みなもとのゆきいえ(義盛)です。源行家は源頼朝の叔父にあたる人物で、源頼朝(伊豆いず)・源義仲(信濃しなの)をはじめ、各地の源氏に令旨を届けました。

この源行家の行動がなければ、各地の源氏は一斉蜂起できなかったかもしれません。源行家は源平合戦の「火付け役」ともいえる重要人物です。

もぐたろう
もぐたろう

源行家っていうのは、今でいう「令旨の宅配便屋さん」みたいなイメージだよ!この一人が全国を駆け回ったことで、各地の源氏が「天皇家のお墨付きをもらった」として堂々と立ち上がれたんだ。

以仁王の挙兵(以仁王の乱)― 発覚と逃亡

以仁王の挙兵は「以仁王の乱もちひとおうのらん」とも呼ばれます。教科書によって「以仁王の挙兵」「以仁王の乱」と呼称が異なりますが、いずれも治承4年(1180年)の同じ事件を指します。

令旨を発令した以仁王と源頼政みなもとのよりまさは、挙兵の準備を進めていました。しかしこの計画は、ほどなくして平氏側に発覚してしまいます。朝廷は以仁王の追討令を下し、平氏の軍勢が以仁王を追い詰めることになりました。

源頼政
源頼政

長年、平氏の傘下でこの老骨を保ってきたが……もはや限界じゃ。以仁王様のご意志に従い、武士の本懐を遂げる所存。この命、以仁王様に捧げる!

■園城寺への逃亡と三大寺院の動き

計画が露見した以仁王と源頼政は、援軍を求めて近江国(今の滋賀県)の園城寺おんじょうじ(三井寺)へ逃れました。園城寺は延暦寺えんりゃくじと並ぶ大寺院で、以仁王はここから延暦寺・興福寺こうふくじ(奈良)にも援軍を要請しましたが、両寺院は動きませんでした。

以仁王の計画を察知したのは、平氏側の知仁ちじんという人物が山門(延暦寺)僧侶を通じて漏らしたとも伝えられています。平清盛は挙兵計画の報告を受けると電光石火の対応を取り、以仁王の身柄を拘束するよう朝廷に命じました。以仁王が令旨を発令してから追討令が出るまでわずか数日——それほど平氏の権力は朝廷に食い込んでいたのです。

援軍の見込みが立たないなか、以仁王は南都(奈良)の興福寺を目指して逃亡を開始しました。しかし、その逃走路に宇治川が立ちはだかり、運命の戦いが幕を開けます。

ゆうき
ゆうき

「以仁王の乱」と「以仁王の挙兵」って、どっちが正しい呼び方なの?

もぐたろう
もぐたろう

どちらも正解だよ!「以仁王の挙兵」も「以仁王の乱」も1180年(治承4年)の同じ事件のこと。「以仁王の挙兵」は以仁王の行動に注目した呼び方で、「以仁王の乱」は平氏側から見た「反乱」という呼び方。使う教科書によって表記が違うだけで、どちらで書いてもOKだよ!



平等院の戦いと以仁王の最期

平等院鳳凰堂
源頼政が最期を遂げた平等院(宇治市)

治承4年(1180年)5月26日、以仁王の軍勢と平氏の追討軍は宇治川(宇治市)の平等院びょうどういん付近で激突しました。この戦いを「宇治川の合戦」といいます。

以仁王を支えた源頼政みなもとのよりまさは、77歳という高齢ながら奮戦しましたが力尽き、平等院の扇の芝おうぎのしばで自害しました。この際に詠んだのが有名な辞世の句です。

もれ木の 花さく事も なかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」
(源頼政・辞世の句。「日の目を見ることなく生きてきたのに、こんな最期を迎えることになるとは……」という意)

源頼政の自害後、以仁王も逃走を続けましたが、宇治南方の光明山こうみょうさん付近で矢を受けて落馬し、命を落としました。享年29歳(諸説あり)。以仁王の挙兵計画が発覚してからわずか数日での壊滅でした。

こうして以仁王は、皇位も親王宣下も手にできないまま、29歳の若さで命を落としました。令旨を発令してからわずか10日余りでの悲劇的な最期でした。しかし、彼が残した「一枚の命令書」は、日本史を大きく塗り替えることになります。

こうして「以仁王の乱」は幕を閉じました。しかし、以仁王が命をかけて発した令旨の効力は、本人の死後も生き続けることになります。次の章では、この「失敗」がいかに歴史を動かしたかを見ていきましょう。

💡 豆知識:以仁王の東国生存説 「以仁王は実は死なずに東国へ逃げた」という伝説が後世に生まれました。埼玉県の高倉神社(高倉宮社)など関東各地に以仁王ゆかりと伝わる場所があります。ただし史料上は光明山での戦死が定説とされています。

あゆみ
あゆみ

生存説があるなんて面白い!史料的な根拠はないの?なんでそういう伝説が生まれたのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

史料的な根拠はないんだけど、「源氏の旗印として担がれた人物が、あっさり消えてしまうのは惜しい」という民間の感情が伝説を生んだんだね。英雄的な人物に生存説が生まれるのはよくあることで、源義経や豊臣秀頼にも似たような伝説があるよ!



以仁王の挙兵がその後の歴史を動かした

以仁王本人は1180年5月に光明山で戦死し、挙兵はわずか数日で鎮圧されました。しかし源行家みなもとのゆきいえがすでに令旨を全国の源氏のもとへ届けていたため、その「命令書」だけは生き続けたのです。

令旨がこれほど重要だった理由は、それが単なる「反乱の呼びかけ」ではなく、皇族(王)が発した公式の命令書だったからです。令旨を受け取った源頼朝・源義仲らは、「天皇家の方から平氏追討を命じられた」という大義名分を手にしました。これがあったからこそ、頼朝も義仲も「反乱軍」ではなく「朝廷公認の討伐軍」として堂々と旗を掲げられたのです。

影響①:源頼朝が伊豆で挙兵(1180年8月)→ 鎌倉幕府設立の第一歩

影響②:源義仲(木曽義仲)が信濃で挙兵 → 北陸道を制し平氏の西国敗走へ

令旨を受け取った源頼朝は1180年8月、伊豆(現:静岡県)で挙兵しました。その後、関東の武士を次々と従えて鎌倉を拠点とし、やがて鎌倉幕府の創設へとつながっていきます。一方、源義仲(木曽義仲)も信濃(現:長野県)で立ち上がり、北陸道を席巻して平氏を西国へと追い詰めました。

以仁王の挙兵が「失敗」に終わりながらも歴史を変えた理由は、この一枚の令旨にあります。治承・寿永の乱じしょう・じゅえいのらん(源平合戦)と呼ばれる全国規模の内乱は、こうして以仁王が引き金を引くことで幕を開けたのです。

もぐたろう
もぐたろう

以仁王本人は失敗したけど、その「令旨」という公文書が源氏に「大義名分」を与えたんだよ。「天皇家の人が命じた」というお墨付きがあったから、頼朝も義仲も堂々と動けた。まさに”引き金”だね!



よくある質問

以仁王(1151〜1180年)は後白河天皇の第3皇子です。平安時代末期、平清盛率いる平氏が政権を握る中で、皇位継承の可能性を閉ざされた不遇の親王でした。1180年5月、平氏追討の令旨を発令して挙兵しましたが計画が事前に発覚。源頼政とともに宇治・光明山で戦い、戦死しました。本人の挙兵は失敗に終わりましたが、令旨が各地の源氏(源頼朝・源義仲ら)を動かし、源平合戦の引き金となりました。

令旨(りょうじ)とは、皇族(親王・王)が発する公式の命令書のことです。1180年5月、以仁王が「平氏を追討せよ」と命じる形で各地の源氏・大寺院に宛てて発した文書がこれです。令旨を受け取った源行家(源頼朝の叔父)が諸国の源氏に届け回ったことで、源頼朝・源義仲らが一斉に挙兵するきっかけとなりました。令旨は源氏の挙兵に「皇族の命令に従った正当な行動」という大義名分を与える役割を果たしました。

主な原因は3つあります。①挙兵の計画が平氏側に事前発覚し、平氏が素早く討伐軍を派遣したこと。②援軍を期待していた延暦寺えんりゃくじ興福寺こうふくじなどの大寺院が動かなかったこと。③以仁王・源頼政のみで戦う形となり、圧倒的な兵力差の前に数日で鎮圧されたこと。以仁王は1180年5月、宇治から奈良へ逃亡中に光明山で戦死しました。

はい、どちらも1180年5月に起きた同じ事件を指します。以仁王が令旨を発令して平氏に対して立ち上がった一連の出来事です。「以仁王の挙兵」は行動に着目した呼び方で、「以仁王の乱」は平氏側が「反乱」として捉えた際の呼び方です。教科書によって呼称が異なりますが内容は同一です。

源行家は源頼朝の叔父にあたる源氏の武将(源義朝の弟)です。以仁王の令旨を受け取り、各地の源氏(源頼朝・源義仲ら)や大寺院に届けて回りました。この行動が源氏の一斉蜂起につながったため、源平合戦の「火付け役」とも言える重要人物です。その後の源平合戦でも複数の源氏に仕えて転戦しましたが、最終的には源頼朝によって討たれています。

以仁王の子とされる北陸宮ほくりくのみやは、源義仲(木曽義仲)に保護されました。源義仲が平氏を北陸道で撃破して京都に入京した際(1183年)、北陸宮を新帝として擁立しようとする動きもありました。しかし源頼朝・義経の軍に義仲が敗れると、北陸宮は歴史の表舞台から姿を消しました。






以仁王・源平合戦についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
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以仁王・源平合戦についてさらに深く知りたい人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!

①源平合戦を読み物として楽しみたいなら|まず手に取るべき入門書

平家物語へいけものがたりは、以仁王の令旨から壇ノ浦の合戦まで、源平の興亡を生き生きと描いた軍記物語です。「ビギナーズ・クラシックス」版は場面ごとに現代語訳・解説・注釈が付いており、古文が苦手な中高生でもスラスラ読めます。「以仁王の令旨」「富士川の戦い」「一ノ谷の戦い」など授業で習う場面を原文の雰囲気で確認できます。

平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典

角川書店(編) 著|角川ソフィア文庫

✓ こんな人におすすめ

源平合戦を読み物として楽しみたい中高生・令旨が出てくる場面を原文の雰囲気で読みたい人・短い単元で内容を把握したい人

△ こんな人には向かない

以仁王の人物像や史実の裏側を学術的に深掘りしたい人(史料分析より物語として楽しむ本のため)


②「なぜ以仁王の失敗が源平合戦を動かしたのか」を史料で理解したいなら

「源平合戦」には多くの通説や誤解があります。本書は史料に基づいて治承じしょう寿永じゅえいの内乱を丁寧に検証し、以仁王の令旨が各地の武士をどう動かしたか、源頼朝・源義仲の挙兵の背景を明快に解説します。大阪大学教授・川合康氏の専門研究を講談社学術文庫でコンパクトにまとめた一冊で、大学入試の論述対策にも役立ちます。

✓ こんな人におすすめ

以仁王の令旨がなぜ失敗後も機能し続けたのかを史料で理解したい高校生〜大人・大学入試論述対策をしたい人

△ こんな人には向かない

源平合戦を読み物として楽しみたい初心者(史料分析が中心で専門的な記述が多い)


③以仁王の挙兵から壇ノ浦まで、源平合戦の全体像を1冊でつかみたいなら

「戦争の日本史」シリーズの第6巻で、以仁王の挙兵(1180年)から壇ノ浦の戦い(1185年)まで、治承・寿永の乱の全体像を詳しく解説しています。以仁王・源頼政の挙兵計画、令旨りょうじの配布ルート(源行家の役割)、各地の武士の蜂起の流れを段階的に追えるので、時系列で源平合戦を整理したい人に最適です。

✓ こんな人におすすめ

以仁王の挙兵から壇ノ浦まで源平合戦全体を時系列で把握したい高校生〜大学生・中学歴史の復習にも使える

△ こんな人には向かない

以仁王の人物像・生涯を中心に読みたい人(全体史が中心で以仁王の描写は序盤の一部にとどまる)



まとめ:以仁王の令旨が源平合戦を動かした

以仁王のポイントまとめ
  • 以仁王(もちひとおう)は後白河天皇の第3皇子。平氏支配下で親王宣下も受けられず、不遇の生涯を送った
  • 1180年5月、「平氏追討」の令旨りょうじを発令。源行家(源頼朝の叔父)が各地の源氏に届け回った
  • 計画発覚により挙兵は失敗し、以仁王は宇治・光明山で戦死。源頼政も宇治平等院で自害した
  • 「失敗」に終わった挙兵が、源頼朝・源義仲を動かし源平合戦(治承・寿永の乱)の引き金となった

もぐたろう
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以上、以仁王のまとめでした!下の記事で源平合戦・源頼朝・源義仲もあわせて読んでみてください!

以仁王の年表
  • 1151年頃
    後白河天皇の第3皇子として誕生
  • 1162年頃
    還俗(応保2年)。師・最雲法親王の死去により仏門を離れる
  • 1165年(元服)
    元服(永万元年)。後白河天皇の第7皇子・高倉天皇の即位(1168年)により皇位継承の望みが遠のく
  • 1180年5月
    平氏追討の令旨を発令。源行家が各地の源氏に届ける
  • 1180年5月
    計画が平氏に発覚。源頼政とともに挙兵・園城寺(三井寺)へ逃亡
  • 1180年5月
    宇治川の戦い(平等院付近)。源頼政が自害・辞世の句を残す
  • 1180年5月
    以仁王、光明山にて戦死。挙兵は失敗に終わる
  • 1180年8月
    源頼朝が伊豆で挙兵(令旨に応じて)→ 源平合戦の本格化・鎌倉幕府への道

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Historist(山川出版社)「以仁王」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「以仁王」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「源頼政」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「源行家」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「高倉天皇」(2026年6月確認)
コトバンク「以仁王」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年6月確認)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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