応天門の変とは?伴善男の陰謀と藤原良房の台頭をわかりやすく解説

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応天門の変

もぐたろう
もぐたろう

今回は866年に起きた応天門の変について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!伴善男(とものよしお)の陰謀・藤原良房の台頭・国宝の絵巻まで、まるごと解説します!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 応天門の変とは何か(866年に起きた平安政治最大の陰謀事件)
  • 伴善男(とものよしお)の謀略と末路
  • 藤原良房が摂政になった経緯と摂関政治への影響
  • 国宝・伴大納言絵詞に描かれた事件の真実
  • テストに出る年号・人物・歴史的意義のポイント

応天門の変——教科書では「866年・伴善男・摂政」くらいでサラっと流される、ちょっと地味な事件。そう思っている人が多いです。

でも実は、これは「告発した側が、最後に犯人にされて流された」という大どんでん返しの事件。しかも事件のきっかけをバラしたのは、まさかの子どもの喧嘩。さらに千年後まで国宝の絵巻として残り、真犯人は今も決着がついていない——。歴史ミステリーとしても一級品なんです。

この記事では、事件が起きた背景から、伴善男の陰謀、国宝「伴大納言絵詞」に描かれた真実、そして藤原良房が摂政になって摂関政治が本格化するまでを、はじめての人でもわかるように順を追って解説していきます。

※「大天門の変」と検索してこの記事にたどり着いた方へ:正しくは「応天門(おうてんもん)の変」です!

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応天門の変とは?【3行でわかるまとめ】

応天門の変おうてんもんのへんとは、平安時代の866年(貞観8年)に、平安京の正門のひとつ「応天門」が放火された政治事件です。まずは3行でまとめます。

応天門の変 3行まとめ

応天門の変とは、866年(貞観8年)に平安京の応天門が放火された事件です。
大納言・伴善男が左大臣・源信を犯人として告発しましたが、後に伴善男父子が真犯人と判明しました。
この事件により藤原良房が摂政となり、藤原氏の摂関政治が本格化しました。

あゆみ
あゆみ

「応天門の変」って名前は聞いたことあるけど、なぜこんなに重要な事件なの?

もぐたろう
もぐたろう

この事件をきっかけに、日本で初めて「臣下(天皇以外)の摂政」が誕生したからだよ。摂政になったのが藤原良房。ここから藤原氏が政治をあやつる「摂関政治」が本格スタートする、まさに歴史の分かれ道なんだ。だから教科書にも必ず載っているんだよ。

登場人物をかんたんに整理しておきます。

  • 清和天皇せいわてんのう……当時の天皇。幼くして即位した。
  • 藤原良房ふじわらのよしふさ……太政大臣。清和天皇の外祖父(母方の祖父)。事件後に摂政となる。
  • 伴善男とものよしお……大納言。古代の名族・大伴氏(伴氏)の出身。「告発した側」だったが、最後は真犯人とされて流罪になる。
  • 源信みなもとのまこと……左大臣。伴善男に「放火犯」と告発されてしまう。藤原良房に救われ無実が証明される。

つまりこの事件は、「告発した人が、最後に真犯人になってしまった」という、なんとも皮肉な逆転劇でもあるのです。それでは、なぜこんな事件が起きたのか——その背景から見ていきましょう。

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応天門の変が起きた背景——藤原北家の台頭

応天門の変を理解するには、当時の政治のパワーバランスを知っておく必要があります。一言でいうと、「藤原氏(とくに藤原北家)が、ライバルの貴族たちを次々に追い落としていた時代」でした。

■ 天皇親政から「藤原氏が支える政治」へ

平安時代のはじめ(桓武天皇〜嵯峨天皇のころ)は、天皇が中心となって政治を進めていました。ところが9世紀の半ばになると、藤原北家ふじわらほっけという藤原氏の一族が、急速に力をつけてきます。

その方法はシンプルでした。娘を天皇のきさき(妻)にし、生まれた子(次の天皇)の「外祖父」になる——こうして天皇の身内になり、政治の主導権をにぎる作戦です。清和天皇の母も藤原良房の娘でした。つまり良房は、天皇の母方のおじいさんだったのです。

■ 邪魔者を消す「他氏排斥」の流れ

ただし、藤原北家の前にはライバルがたくさんいました。橘氏(たちばなし)、大伴氏(伴氏)、紀氏(きし)、そして同じ藤原氏でも別の家系……。そこで藤原北家は、政変が起きるたびにライバル貴族を失脚させ、自分たちのポジションを固めていきます。これを他氏排斥たしはいせきと呼びます。やがてこの流れが、藤原氏が摂政・関白を独占する摂関政治へとつながっていきます。

応天門の変の20年あまり前(842年)には、承和の変という政変が起きていました。これは皇太子の交代をめぐる事件で、結果として伴健岑とものこわみねら大伴氏・橘氏の有力者が処罰され、藤原北家(良房)の立場がさらに強まったできごとです。

もぐたろう
もぐたろう

イメージとしては、巨大企業(藤原北家)が、ライバル会社(大伴氏・紀氏とか)を1社ずつ吸収・追い出ししていく感じだよ。応天門の変は、その「最後の総仕上げ」みたいな事件なんだ。

これで、壬申の乱のころから続いてた古代の名門・大伴氏(伴氏)も、政治の表舞台から姿を消すことになる……ちょっと切ないよね。

📌 現代とのつながり:「身内をトップに送り込んで実権をにぎる」という藤原北家のやり方は、今でいえば「親族をグループ会社の社長に据えて一族で経営を支配する」のに似ています。摂関政治はいわば“貴族版の世襲経営”。だからこそ、その仕組みが完成していく分かれ目として、応天門の変が重要視されるのです。

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事件発生!応天門、炎上す(866年)

866年(貞観8年)閏3月10日の夜——平安京の宮中で、応天門おうてんもんが突然、炎に包まれました。

応天門は、天皇が住む内裏(だいり)の南、大極殿(だいごくでん)の前にそびえる立派な朱塗りの門。いわば「皇居の正面玄関」ともいえる、めちゃくちゃ大事な門でした。

そんな門が、夜の闇のなかで燃え落ちたのです。宮中はもう、上を下への大騒ぎになりました。

平安神宮の応天門(復元)
平安神宮の応天門(平安京の応天門を縮小して復元したもの)

■ 「左大臣・源信が放火犯だ」——伴善男の告発

放火事件の直後、大納言の伴善男が、こう告発します。「あの門に火をつけたのは、左大臣の源信だ」と。源信は嵯峨天皇の皇子で、当時の朝廷でトップクラスの実力者。その源信が放火犯と名指しされたのですから、朝廷は震えあがりました。

清和天皇は告発を受けて、源信を処罰(配流=島流し)するよう命じようとします。源信の屋敷は兵(検非違使)に取り囲まれてしまいました。

左大臣の邸宅が、一夜にして”包囲された牢獄”に変わってしまったのです。源信本人は神仏に身の潔白を祈り、声を震わせて泣くばかりだったといいます。

告発から処罰の一歩手前まで、あっという間。平安時代の政変は、これほどスピーディーに人を追い詰めたのです。源信は一夜にして、絶体絶命の状況に追い込まれました。

伴大納言絵詞に描かれた、無実を祈る源信
伴大納言絵詞より:身の潔白を祈る左大臣・源信 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ 太政大臣・藤原良房が動く

ここで動いたのが、太政大臣の藤原良房です。良房は清和天皇に「源信を処罰するのは早すぎる。証拠もなしに左大臣を罰してはなりません」と進言し、源信の処罰を取り下げさせました。こうして源信は、いったん危機を脱します。

ゆうき
ゆうき

藤原良房ってここで急に出てくるんだ。藤原良房って、結局どういう人なの?テストにも出る?

もぐたろう
もぐたろう

めちゃくちゃ出るよ!藤原良房は、清和天皇の外祖父(母方のおじいちゃん)で太政大臣。この応天門の変のあと、臣下として初めて「摂政」になった人だ。摂政っていうのは、幼い天皇の代わりに政治をする役職のこと。「摂政=藤原良房」は日本史の超定番セットだから、絶対おさえておこう!

伴大納言絵詞に描かれた、左大臣・源信の屋敷
伴大納言絵詞(中巻)より:涙にくれる左大臣家の人々 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

とはいえ、応天門に火をつけた犯人がわからないままでは事件は終わりません。源信の疑いは晴れたものの、「では、本当に火をつけたのは誰なのか?」——ここから事態は思わぬ方向へ転がっていきます。

伴善男(とものよしお)の陰謀——源信を犯人に仕立てる

ここで主役となるのが、告発をした張本人——大納言の伴善男とものよしおです。実は、源信を犯人に仕立てようとしたのは、伴善男の個人的なねらいがあったといわれています。

伴善男(とものよしお)ってどんな人?

読み方:とものよしお(811年〜868年)。古代からの名族・大伴氏(伴氏)の出身で、当時は朝廷のナンバー2クラスにあたる大納言にまでのぼりつめた人物です。地方の下級役人の家から異例の出世をとげたといわれ、能力は高い一方で、激しい性格・自負心の強さでも知られていました。応天門の変では「源信を告発した側」だったのに、最終的には自分が真犯人として流罪になる、という劇的な転落をたどります。

もぐたろう
もぐたろう

ちなみに、大伴氏(伴氏)っていうのは、奈良時代から朝廷に仕えてきた超名門の一族のことだよ。万葉集の歌人・大伴家持おおとものやかもちも同じ一族で、日本書紀にも登場するくらい歴史が古いんだ。平安時代になって「伴氏(とものうじ)」に名前が変わったけど、それでも代々朝廷の重臣として活躍してきた、いわば「由緒正しい家柄のトップクラス」だね。だから伴善男はプライドがとても高くて、自分の出世にも並々ならぬこだわりがあったんだよ。

■ なぜ伴善男は源信をねらったのか

伴善男は大納言。そのひとつ上には、右大臣・左大臣・太政大臣という上位の席があります。左大臣の源信を蹴落とせば、自分が大臣の席に近づける——そんな出世欲・嫉妬が動機だったとされます。応天門が燃えたという大事件を「政敵を消すチャンス」と見て、源信に放火の濡れ衣を着せようとした、というわけです。

伴大納言絵詞に描かれた、伴善男の屋敷の場面
伴大納言絵詞より:絶望して泣く大納言家の人々 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

伴大納言絵詞に描かれた、応天門の炎上を見上げる人々
伴大納言絵詞より:炎上する応天門を見上げる都の人々 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

伴善男
伴善男

源信め……。よし、この騒ぎを利用してやる。「左大臣が応天門に火をつけたんだ」って天皇に言えば、みんな信じるだろ。証拠? そんなもん、あとからどうとでもなる。これで左大臣の席が空けば、次は俺の番だ……!

■ 子どもの喧嘩から真相が暴かれる

ところが、運命のいたずらか——事件から数か月後、思わぬところから真相がほころびます。きっかけは子どもの喧嘩でした。

伴善男の舎人とねり(※下働きの従者のこと)の子どもと、近所の子どもが喧嘩になります。すると相手の親がカッとなって、伴善男の舎人にこう言い放ったのです。

「お前の主人(伴善男)こそ、応天門に火をつけた張本人じゃないか。オレはちゃんと知ってるんだぞ」と。

この一言で、舎人は真っ青になります。バレた以上、黙っていたら自分も共犯にされかねない——。観念した舎人は、事件の真相を役所に訴え出ました。応天門の放火は、伴善男とその息子・伴中庸(とものなかつね)が仕組んだものだった——というのです。

伴大納言絵詞に描かれた、舎人を取り調べる役人
伴大納言絵詞より:伴大納言逮捕に向かう検非違使の一行 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ 伴善男父子、流罪に

取り調べの結果、伴善男父子は放火の犯人と断定されました。866年9月22日、伴善男は伊豆国いずのくに(=今の静岡県の伊豆地方)へ、息子の伴中庸とものなかつね隠岐国おきのくに(=今の島根県の隠岐諸島)へ流罪となります。関係者も多数が処罰されました。

そして、この事件によって——壬申の乱以来、武人の名門として朝廷を支えてきた古代の名族・大伴氏(伴氏)は、政治の表舞台からほぼ完全に姿を消すことになりました。「他氏排斥」の流れの中で、また一つ、藤原氏のライバルが消えたのです。

伴善男は流刑地の伊豆で868年に死去しました。流罪というのは、単なる左遷ではありません。

平安時代の流刑地は、交通も整備されていない、食料も乏しい辺境の地。朝廷の華やかな世界にいた老齢の貴族が、遠い島で人知れず果てる——ほぼ死罪と変わらない、過酷な処罰だったのです。

かつて大臣の座をねらい、人を陥れようとした男の末路。あまりにも、あっけないものでした。

💡 もし伴善男の陰謀が成功していたら? もし子どもの喧嘩がなく、告発が通って源信が失脚していたら——伴善男が大臣にのぼり、大伴氏がもう少しだけ朝廷で踏ん張れたかもしれません。けれども、源信の処罰を止めて事件を裁いた藤原良房がいるかぎり、結局は藤原北家の優位は変わらなかった可能性が高いでしょう。歴史は「子どもの喧嘩ひとつ」で大きく転がる——そんなスリルを感じさせる事件です。

伴大納言絵詞とは?——国宝絵巻に描かれた真実

応天門の変が、千年以上たった今でも有名なのには理由があります。それは、この事件を生き生きと描いた絵巻物——伴大納言絵詞ばんだいなごんえことば(伴大納言絵巻)が、国宝として残っているからです。

伴大納言絵詞は、平安時代末期(12世紀ごろ)に制作された絵巻物です。作者は宮廷絵師の常盤光長(ときわのみつなが)と伝えられています。源氏物語絵巻・信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)・鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)と並んで「四大絵巻物(日本四大絵巻)」の一つに数えられる、日本美術史でも超重要な作品です。現在は東京の出光美術館が所蔵しています。

伴大納言絵詞 上巻 応天門炎上の場面
伴大納言絵詞(上巻)より:燃えあがる応天門と、駆けつける人々 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ 上・中・下の3巻に何が描かれているか

伴大納言絵詞は上巻・中巻・下巻の3巻からなり、応天門の変の事件の流れにそって場面が展開していきます。

📌 伴大納言絵詞 3巻の構成
【上巻】応天門が炎上する場面。立ちのぼる炎、走る検非違使(けびいし)、見上げて騒ぐ群衆——緊迫感あふれる名場面。
【中巻】無実を訴える源信の屋敷の様子と、真相のきっかけになった子どもの喧嘩の場面。
【下巻】舎人の証言を受けて取り調べが進み、捕らえられた伴善男が牛車(または輿)で護送されていく場面。

とくに上巻の「炎上シーン」は、教科書や美術の本でもよく取り上げられる名場面です。真っ赤に燃える応天門、口を開けて見上げる人々、押し合いへし合いする群衆の表情——一人ひとりが本当に「生きている」ように描かれていて、当時の都の空気がそのまま伝わってきます。

伴大納言絵詞に描かれた、火事を見る人々のさまざまな表情
伴大納言絵詞より:火事を見上げる群衆の、ひとりひとり違う表情 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

もぐたろう
もぐたろう

伴大納言絵詞は、ただの絵じゃなくて“事件をドラマ化した最古級の映像作品”みたいなものなんだ。炎の表現、走る人のスピード感、ヤジ馬の顔——マンガのコマ割りみたいに場面がつながってる。テストでは「伴大納言絵詞=四大絵巻物の一つ・応天門の変を描いた・平安末期」で覚えればOKだよ!

あゆみ
あゆみ

この絵巻、実物を見てみたい!どこに行けば見られるの?

もぐたろう
もぐたろう

東京・丸の内の出光美術館が所蔵しているよ。とても貴重な国宝だから常設展示ではなく、特別展などでときどき公開される感じ。見られるチャンスがあったら必見だよ!(公開の有無は美術館の最新情報をチェックしてね)

藤原良房が摂政に——応天門の変の影響と歴史的意義

さて、ここからが応天門の変が「ただの放火事件」では終わらない、いちばん大事なところです。事件のさなかの866年8月19日、清和天皇は太政大臣の藤原良房に「天下の政(まつりごと)をみずから行いなさい」という勅(みことのり)を下します。これが、人臣摂政じんしんせっしょう——皇族ではない臣下が摂政になった、日本史上はじめての出来事とされています。

藤原良房の肖像(菊池容斎『前賢故実』より)
藤原良房(菊池容斎『前賢故実』より) 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ そもそも「摂政」って何?

摂政ってどんな役職?

摂政(せっしょう)とは、天皇が幼かったり、女性だったりして政務をとれないとき、天皇に代わって政治を行う役職のことです。それまでの摂政は、聖徳太子(厩戸王)のように皇族がつとめるのが当たり前でした。ところが、応天門の変のとき、清和天皇はまだ17歳の若さ。その天皇の母方のおじいちゃん(外祖父)である藤原良房が、皇族ではない臣下として摂政の地位についたのです。これが「人臣摂政(じんしんせっしょう)の始まり」とされ、ここから藤原氏が摂政・関白の地位を独占していく摂関政治せっかんせいじが本格化していきます。

ゆうき
ゆうき

「摂政」って、結局どういう意味なの?テストで説明しろって言われたら困りそう……。

もぐたろう
もぐたろう

シンプルに言えば「天皇の代わりに政治を行う役職」だよ。今でいうと、社長(天皇)がまだ若くて経験が浅いから、信頼できる重役(藤原良房)が会社の経営を代わりにとりしきる——そんなイメージ。ちなみに天皇が成人したあとも代わりに政治を補佐する役職は関白(かんぱく)っていうんだけど、その違いはあとの「テストに出るポイント」でくわしく整理するね!

■ 漁夫の利——いちばん得をしたのは誰か

応天門の変を、登場人物の「損得」で見てみましょう。源信は無実だったとはいえ、いったん放火犯として処罰されかけ、心身ともにすり減らしてしまいます(事件後まもなく病に倒れて亡くなったとも伝わります)。伴善男は政敵を消すどころか、自分が真犯人として流罪となり、古代の名族・伴氏もろとも没落しました。

では、いちばん得をしたのは——そう、藤原良房です。源信を救って「恩」を売り、ライバルの伴善男は勝手に自滅し、その混乱を収拾した功績で摂政の地位まで手に入れた。

源信派と伴善男派がつぶし合うのを横で見ていて、最後に全部かっさらった——まさに「漁夫の利」を絵に描いたような結末でした。

応天門の変は、奈良時代から続いてきた藤原氏の他氏排斥(ライバルの貴族を追い落とす流れ)の、いわば「ダメ押しの一手」だったのです。

伴大納言絵詞に描かれた、清和天皇の朝廷の場面
伴大納言絵詞より:清和天皇の朝廷の場面。藤原良房が実権をにぎる中、幼い天皇を中心とした宮廷政治が描かれている 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ ここから摂関政治の時代へ

藤原良房が開いた人臣摂政の流れは、養子の藤原基経ふじわらのもとつねに受け継がれます。基経はやがて「関白(かんぱく)」という地位にもつき、摂政・関白を藤原氏が代々独占する体制ができあがっていきました。

そして約150年後、藤原道長・頼通の代に摂関政治は全盛期を迎えます。「この世をば わが世とぞ思ふ」——道長があの有名な歌を詠めたほどの栄華。

その出発点をずーっとたどっていくと、ここ、応天門の変にぶつかるのです。だからこそ教科書では、地味に見えてもこの事件をちゃんと取り上げるんですね。

🌍 世界では同じころ何が? 応天門の変が起きた866年は9世紀後半。ヨーロッパでは、カール大帝(シャルルマーニュ)の死後、その帝国が東フランク・西フランク・中部フランクに分裂し(843年ヴェルダン条約)、各地が割拠していた時代です。中国では唐王朝が衰退に向かい、各地で反乱が起きていました。「中央の権力をめぐって有力者が争う」——洋の東西を問わず、9世紀はそんな時代だったのです。

応天門を放火した真犯人は誰だ?【未解決の謎】

ここまで「伴善男父子が真犯人」という流れで話を進めてきました。教科書や辞典でも、たいていそう書かれています。けれども実は——「本当に伴善男が火をつけたのか?」という点は、はっきりとは決着していません。応天門の変は、千年以上たった今も「真犯人をめぐる謎」が残る、歴史ミステリーでもあるのです。

伴伴大納言絵詞(炎上する応天門を眺めているかのような伴善男と思わしき人物) 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ 「伴善男が犯人」とされる根拠

通説の根拠は、おもに次の2つです。①伴善男の舎人(とねり)が「主人の伴善男父子が放火を仕組んだ」と証言したこと。②伴善男には動機(政敵・源信を消したい)があったこと。当時の取り調べはこの証言を決め手に伴善男を犯人と断定し、後世の歴史書や絵巻(伴大納言絵詞)もこの筋書きを採用しました。

■ それでも残る「3つの疑問」

📌 教科書の通説 vs 近年の研究
【通説(教科書)】伴善男父子が放火→源信に罪をなすりつけようとした→舎人の証言でバレて流罪。
【近年の研究の指摘】(1)決め手が「数か月後の舎人の証言1つ」で、物証はほぼない。(2)取り調べを主導したのは藤原良房の側であり、「ライバルを一掃したい良房が事件を利用した(あるいは仕組んだ)」可能性も否定しきれない。(3)そもそも応天門に火をつけて得をする人物が伴善男なのか——失火(事故)だった説さえある。
※ただし「良房黒幕説」も決定的な証拠があるわけではなく、あくまで一つの見方です。

つまり、はっきり言えるのは「伴善男が放火犯として処罰された」という事実だけ。「伴善男が放火した」のかどうかは、史料的には諸説あり——というのが正直なところなのです。冤罪だった可能性も、完全には消せません。

あゆみ
あゆみ

えっ、じゃあ本当の犯人って結局誰なの……?

もぐたろう
もぐたろう

実は、決定的な証拠は残ってないんだ。今わかるのは「伴善男が犯人とされて流罪になった」ところまで。だから歴史好きのあいだでは「伴善男ガチ犯人説」「藤原良房黒幕説」「ただの失火説」が今も語られてる。テストでは通説どおり「伴善男父子の陰謀」で答えればOKだけど、頭の片隅に「本当はどうだったんだろう?」って置いておくと、歴史がぐっと面白くなるよ!

もし伴善男が無実だったら?

もし本当に伴善男が放火していなかったとしたら——応天門の変は「源信に冤罪を着せようとした男が、逆に冤罪で罰せられた」という、なんとも皮肉な事件だったことになります。そして、その冤罪でいちばん得をしたのは藤原良房。「権力者が政敵をつぶすために事件を利用した(あるいは作った)」——日本の歴史には、こういう疑いの残る政変がいくつもあります。応天門の変は、その「真相は闇の中」シリーズの代表格なのです。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 年号:866年(貞観8年):応天門が放火された年。「貞観(じょうがん)格式」など貞観の年号とセットで問われやすい
  • 伴善男(とものよしお/大納言):左大臣・源信を放火犯として告発 → のちに自分が真犯人とされ流罪。古代の名族・伴氏(大伴氏)が没落
  • 源信(みなもとのまこと/左大臣):放火犯と疑われたが、藤原良房の進言で処罰をまぬがれた
  • 藤原良房(清和天皇の外祖父):事件を収拾した功績で臣下として初の摂政に就任(866年)→ 「日本初の人臣摂政」「摂関政治の始まり」
  • 他氏排斥との関係:承和の変(842年)→ 応天門の変(866年)→ 安和の変(969年)と並べて、藤原氏が他氏をしりぞけていく流れの中で問われる
  • 伴大納言絵詞:平安末期(12世紀)作・国宝・四大絵巻物の一つ。応天門の変を描いた絵巻として美術史でも頻出

📌 比較問題でよく出る!「摂政」と「関白」の違い
摂政(せっしょう)=天皇が幼少・女性などで政務をとれないとき、天皇に代わって政治を行う。初の人臣摂政は藤原良房(866年)。
関白(かんぱく)=天皇が成人したあと、政治を補佐し意見を述べる。初の関白は藤原基経(887年ごろ)。
→「良房=摂政・基経=関白」で覚える。両方をあわせて藤原氏が独占したのが摂関政治

ゆうき
ゆうき

テストで「応天門の変について説明しなさい」って出たら、どう答えればいいの?

もぐたろう
もぐたろう

866年・伴善男の陰謀・藤原良房が摂政」の3点セットで覚えよう! 文章で書くなら——「866年、平安京の応天門が放火された。大納言の伴善男が左大臣の源信を犯人と告発したが、のちに伴善男父子が真犯人とされ流罪となった。この事件を収拾した藤原良房が臣下初の摂政となり、摂関政治が本格化した」——これでOK!

よくある質問(FAQ)

866年(貞観8年)に平安京の応天門が放火された事件です。大納言・伴善男が左大臣・源信を犯人として告発しましたが、のちに伴善男父子が真犯人とされ流罪となりました。この事件を収拾した藤原良房が臣下として初の摂政に就任し、藤原氏の摂関政治が本格化しました。

通説では大納言・伴善男とその息子・伴中庸(とものなかつね)が真犯人とされ、教科書もこの説をとっています。ただし、決め手は事件から数か月後の舎人(従者)の証言だけで物証は乏しく、藤原良房による陰謀説や失火説など諸説あります。「真相は未解決の歴史ミステリー」として今も研究が続いています。

「とものよしお」(811年〜868年)と読みます(「ばんぜんなん」ではありません)。古代からの名族・大伴氏(伴氏)の出身で、朝廷のナンバー2クラスにあたる大納言にまでのぼった人物です。応天門の変では源信を告発した側でしたが、最終的に自分が真犯人とされ、伊豆国へ流罪となりました。彼の失脚により伴氏は没落しました。

放火犯と疑われた源信の処罰を止め、混乱した事件を収拾した功績が評価されたためです。また、当時の清和天皇はまだ17歳で、藤原良房はその母方の祖父(外祖父)でした。天皇の後見役として政治を任せるのに最もふさわしい立場だったことから、866年に臣下として初の摂政に就任しました。これが「人臣摂政の始まり」とされます。

平安時代末期(12世紀ごろ)に制作された、応天門の変を題材とする絵巻物です。上・中・下の3巻からなり、応天門の炎上・源信の無実・伴善男の護送などの場面が生き生きと描かれています。源氏物語絵巻・信貴山縁起絵巻・鳥獣人物戯画と並ぶ「四大絵巻物」の一つで、国宝に指定されています。現在は東京の出光美術館が所蔵しています。

野郎ろく(866)でもない大納言」(伴善男のことを指す)や、「反論、無(866)駄だ」(無実を訴えても聞き入れられなかった源信になぞらえる)といった語呂合わせが知られています。「866年=伴善男・応天門」とセットで覚えると忘れにくくなります。

応天門の変・摂関政治についてもっと詳しく知りたい人へ

この記事を読んでもっと深く知りたくなった方向けに、おすすめの本を紹介します。

①絵巻をじっくり味わいたいなら|国宝の全3巻をカラーで堪能

②試験勉強・教養として読むなら|専門家による摂関政治の決定版入門書

③藤原良房・応天門の変を深掘りするなら|摂関家誕生の全内幕

まとめ

この記事のまとめ
  • 866年(貞観8年)、平安京の応天門が放火される(応天門の変)
  • 大納言・伴善男(とものよしお)が左大臣・源信を犯人と告発 → のちに伴善男父子が真犯人とされ流罪に。古代の名族・伴氏が没落
  • 事件を収拾した藤原良房が臣下として初の摂政に就任(866年)→ 摂関政治の本格的な始まり
  • 事件は国宝・伴大納言絵詞(平安末期・全3巻・四大絵巻物の一つ)に生き生きと描かれた
  • 真犯人については諸説あり。「未解決の歴史ミステリー」として今も研究が続く
もぐたろう
もぐたろう

以上、応天門の変のまとめでした! 地味に見える事件だけど、「藤原氏の摂関政治がここから本格化する」っていう、日本史のターニングポイントなんだ。下の記事で、摂政や関白のしくみ、藤原道長の全盛期もあわせて読んでみてね!

応天門の変 年表
  • 811年
    伴善男、生まれる
  • 858年
    清和天皇が即位(9歳)。外祖父・藤原良房が実権をにぎる
  • 866年閏3月10日
    応天門が炎上する
  • 866年(閏3月)
    伴善男、左大臣・源信を放火犯として告発。藤原良房が源信の処罰を止める
  • 866年8月19日
    藤原良房、臣下として初の摂政に就任(人臣摂政の始まり)
  • 866年9月22日
    伴善男父子が真犯人とされ流罪に(伴善男→伊豆、息子・伴中庸→隠岐)
  • 868年
    伴善男、流刑地の伊豆で死去
  • 12世紀(平安末期)
    伴大納言絵詞が制作される(のちに国宝に指定)

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「応天門の変」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「伴善男」(2026年5月確認)
コトバンク「応天門の変」「伴善男」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

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