

今回は安和の変について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!地味な事件に見えるけど、実は藤原道長の全盛期を生み出した「最初の一手」なんだ。
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
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「安和の変」という名前は、教科書では数行で終わってしまう地味な事件です。でも実は、この事件こそが日本史最大の権力者・藤原道長の全盛期を生み出した「最初の一手」でした。
たった一人の政治家を、ほとんど証拠もないまま冤罪で失脚させる——。その小さな一手が、その後およそ100年の日本の政治構造を決定づけたのです。この記事では、「安和の変はいつ・なぜ・どう起きたのか」を、できるだけわかりやすく解説していきます。
安和あんなの変とは?
- 969年(安和2年)、左大臣・源高明が謀反の疑いで大宰府に左遷された事件
- 藤原氏が他氏勢力(源氏)を排除し、摂関政治を盤石にした画期的事件
- この事件以降、摂政・関白が常設化し、藤原道長の全盛期への道が開かれた
安和の変とは、平安時代の中ごろ、969年(安和2年)に起きた政変です。当時の朝廷でナンバー2の地位にあった左大臣・源高明が、「謀反を企てている」という密告によって失脚し、九州の大宰府へ左遷されてしまった事件です。
この一連の動きの裏で糸を引いていたのが、当時すでに政界の中心にいた藤原氏でした。藤原氏は、それまでも自分たち以外の有力な氏族(=他氏)を、政争のたびに次々と中央政界から追い落としてきました。承和の変(842年)、応天門の変(866年)に続く、こうした一連の動きを「他氏排斥事件」と呼びます。安和の変は、その最後を飾る大事件でした。
そして安和の変のあと、それまで臨時の役職だった摂政・関白が、ほぼ途切れることなく置かれるようになります。これを「摂関政治の確立」と言います。安和の変は、藤原氏が政権を完全に独占する体制をつくり上げた、まさに「ダメ押しの一撃」だったのです。

「安和の変」ってどう読むの?「あんなのへん」で合ってる?「安和」って何のこと?

そう、「あんなのへん」だよ!「安和」は当時の年号(元号)のこと。969年は「安和2年」だから「安和の変」って呼ばれてるんだ。
安和あんなの変が起きた背景
安和の変を理解するには、その少し前の時代——村上天皇の時代まで時計を巻き戻す必要があります。
村上天皇は946年に即位した天皇です。父の醍醐天皇の時代とあわせて、この2代は政治が比較的安定していたとして、後世に延喜・天暦の治と呼ばれ理想視されました。実はこのとき、藤原氏の摂政・関白が一時的に置かれていない時期があったのです。
■ 村上天皇の崩御と摂関政治の「空白期」
そもそも摂政・関白というのは、もともと「天皇が幼かったり病弱だったりするときに、代わりに政務を取りしきる」ための、いわば臨時のポストでした。村上天皇は大人になってから自ら政治を行ったため、その間は摂政・関白を置く必要がなかったのです。
ところが967年、村上天皇が崩御します。後を継いだのが、息子の冷泉天皇でした。ここで状況が一変します。冷泉天皇には、即位した当初から精神的な不調があったと伝えられていたのです。
大人であっても自ら政務をとれない天皇——。となれば、誰かが代わって政治を担うしかありません。こうして久しぶりに関白が置かれることになり、その座についたのが藤原氏の藤原実頼でした。「天皇が政務をとれない」という状況は、藤原氏にとっては自分たちの出番が回ってくる、またとないチャンスでもあったのです。

「摂政」と「関白」って何が違うの?セットでよく出てくるけど、いつも混乱する…。

ざっくり言うと、摂政は「天皇が幼いとき」に代わりを務める役、関白は「天皇が成人したあと」もそばで政治をサポートする役だよ。どっちも天皇の最高補佐役で、藤原氏がこのポストをほぼ独占したのが摂関政治なんだ。

狂気のイケメンいけめん天皇・冷泉天皇れいぜいてんのう
安和の変の引き金を引いた冷泉天皇は、日本史上でもかなり「キャラの濃い」天皇として知られています。容姿端麗だったと伝わる一方で、奇行のエピソードも数多く残っているのです。
たとえば、まだ皇太子だったころの逸話として、父である村上天皇からの手紙への返事に、宛先の部分へ陰部の絵を描いて送り返した、という記録が残っています。即位したあとも、内裏が火事になった大変なときに、わざわざ車の中で大声で歌い続けていたとも伝わります。蹴鞠に夢中になりすぎて、足を痛めても一日中やめなかった、という話もあります。
こうした逸話には後世の誇張も混じっているとみられますが、いずれにせよ当時の人々の間で「冷泉天皇は心を病んでおられる」という認識が広まっていたのは確かなようです。それでいて、顔立ちや姿は美しかったと伝えられていることから、現代では「狂気のイケメン天皇」と呼ばれることがあるわけです。

そんなに奇行が多かったのに、本当に天皇になれたの?「イケメン」っていうのも本当の話なのかしら?

当時は「血筋」がいちばん大事だったからね。村上天皇の正統な後継者だったから、不調があっても即位できたんだ。容姿については「美しかった」という記録が複数残ってるよ。ただ、結局2年余りで弟に天皇の位を譲ることになるんだけどね。
さて、ここで藤原氏の立場に立って考えてみましょう。天皇が幼ければ、成長すれば自分で政治をするようになります。でも冷泉天皇の場合、その回復は望み薄でした。つまり「政務をとれない天皇」という状態が、しばらく続く可能性が高かったのです。
これは藤原氏にとってチャンスであると同時に、不安の種でもありました。なぜなら、天皇が頼りにならない以上、「次に誰が天皇になるか」「その天皇を誰が支えるか」をめぐって、有力者たちの争いが激しくなるのは目に見えていたからです。冷泉天皇の即位が、安和の変という政変の火種をまいたのは、こうした事情があったのです。

藤原氏ふじわらしの危機感
冷泉天皇の即位後、藤原氏の中では大きな問題が持ち上がっていました。それは「次の天皇を誰にするか」という問題です。
当時、皇太子の有力候補は2人いました。一人は為平親王、もう一人はその弟の守平親王(のちの円融天皇)です。順番から言えば兄の為平親王が皇太子になるのが自然でした。ところが——藤原氏は、弟の守平親王を皇太子に押し込んだのです。

なぜ年長の為平親王を飛び越したのか。それは、為平親王の妻にありました。為平親王の妻は、藤原氏ではない有力者・源高明の娘だったのです。もし為平親王が天皇になれば、その妻の父である源高明が、天皇の身内として大きな力を持つことになります。藤原氏にとっては、これだけは絶対に避けたい事態でした。
■ 外戚になれるかどうか——藤原氏の焦り
ここで、藤原氏の権力の仕組みを簡単に整理しておきましょう。藤原氏が政治の実権を握れたのは、「天皇の外戚」になっていたからです。外戚というのは、母方の親族——つまり「天皇の妻の父」や「天皇の母の父」のことを言います。
藤原氏は娘を次々と天皇に嫁がせ、生まれた皇子を次の天皇に立てます。すると新しい天皇にとって、藤原氏は「おじいさん」や「おじさん」にあたります。幼い天皇を、その身内である藤原氏が摂政・関白として支える——これが摂関政治のからくりでした。

だからこそ、「誰が次の天皇の外戚になるか」は、藤原氏にとって死活問題でした。為平親王のように、藤原氏以外の人物が外戚になりそうな道は、なんとしてもふさがなければならない。守平親王の擁立は、そのための布石だったのです。

つまり藤原氏にとって「天皇の外戚になること」は、今でいう会社の筆頭株主になるみたいなもの。そのポジションを源高明に取られそうになったから、あの手この手で潰しにかかったんだ。でも、皇太子を入れ替えただけじゃ安心できなかった。なぜなら、源高明という人物そのものが、あまりにも優秀で危険だったからなんだよ。
源高明みなもとのたかあきらという脅威
安和の変で標的にされた源高明とは、どんな人物だったのでしょうか。彼はもともと、村上天皇の父・醍醐天皇の皇子として生まれました。つまり生まれは「天皇の息子」という、これ以上ないほどの高貴な血筋です。
ただし、皇子のままでは皇位継承の候補が増えすぎてしまうため、彼は皇族の身分を離れ、「源」という姓を与えられて臣下となりました。これを臣籍降下と言います。臣下となった高明は、その学識と実務能力を高く評価され、朝廷の儀式や作法に関する書物『西宮記』をまとめるなど、官僚としても一流の働きをしました。やがて出世を重ね、ついには左大臣——太政官の事実上のトップにまで上り詰めます。

臣籍降下っていうのは、天皇の子どもや孫など皇族の身分を持つ人が、正式に皇族をやめて「普通の貴族(臣下)」になることだよ。このとき「源」「平」「橘」といった氏(名字のようなもの)が天皇から贈られる。源高明の「源」もそうやって与えられた名字なんだ。
なぜそうするかというと、皇族が増えすぎると国の財政が追いつかなくなるし、皇位継承をめぐる争いの種にもなる。だから、皇位に直接関係しない皇子や皇孫は臣下に格下げして朝廷の官僚として働いてもらう——それが当時の慣習だったんだよ。
血筋は天皇家の出身。能力は当代一流。地位は左大臣。そして娘は、皇太子候補である為平親王の妻。藤原氏から見れば、源高明は「藤原氏に取って代わりかねない唯一の人物」でした。もし為平親王が天皇になっていれば、源高明が天皇の外戚として摂政・関白に並ぶ存在になる——その可能性は、決して絵空事ではなかったのです。
もちろん、源高明が本当に謀反を企てていたという確かな証拠はありません。むしろ多くの研究者は、彼が政治的な野心をむき出しにしていたわけではなく、藤原氏が「将来の脅威の芽」を先回りして摘み取ったのだと考えています。優秀すぎたこと、血筋がよすぎたこと、そして「次の天皇の外戚になりうる」立場にあったこと——その三つが揃ってしまったがゆえに、彼は標的にされてしまったのです。
こうして「邪魔者・源高明」をどう排除するか、藤原氏の腹は固まっていきます。あとは、彼を失脚させる「きっかけ」さえあればよかった。そして969年、その口実が——あまりにもあっけなく——転がり込んでくるのです。次の章では、安和の変が実際にどう起きたのかを見ていきましょう。
安和あんなの変はこうして起きた(969年)
「安和の変 いつ」で検索する人が多いので、もう一度はっきり書いておきます。安和の変が起きたのは969年(安和2年)、冷泉天皇の在位末期のことでした。事件は、ある一通の「密告」から始まります。
その年の3月、源満仲という武人が、ある人物を「謀反を企てている」と密告しました。密告された相手は、藤原氏の一族の中でも傍流にあたる藤原千晴とその父・藤原秀郷系の武士たち、そして——なぜか、左大臣・源高明でした。
密告の内容は、「為平親王を天皇に立てるための陰謀を企てている」というものだったとされます。源高明は為平親王の岳父です。だから「黒幕」として名指しされたわけですが、実際に源高明がそんな陰謀を主導した証拠は、ほとんど何もありませんでした。
それでも事態は一気に動きます。朝廷はすぐに源高明の屋敷を兵で囲み、彼を捕らえました。そして「謀反に加担した」として、源高明は左大臣の地位を奪われ、九州の大宰権帥——名目だけの大宰府の役職——に左遷されることが決まったのです。事実上の流罪でした。
このとき源高明は出家して許しを乞いましたが、聞き入れられませんでした。彼が泣く泣く都を去り、大宰府へ向かったとき、平安京の人々はその不憫さに涙したと伝えられています。後の女流文学の傑作『蜻蛉日記』にも、この左遷を悼む記述が残されているほどです。
■ 謀反の密告——証拠はあったのか?
では、源高明は本当に謀反を企てていたのでしょうか。結論から言えば、それを示す確かな証拠は何も残っていません。事件のきっかけになった密告も、もとはと言えば藤原千晴ら別の武士たちのトラブルに関するもので、源高明はそこに「無理やり名前を加えられた」というのが実情に近いと考えられています。
しかも、事件のあとで得をしたのが誰かを見れば、構図は一目瞭然です。源高明が消えたことで、いちばん安泰になったのは藤原氏でした。とくに、当時摂政だった藤原実頼の弟の系統——のちに藤原兼家や藤原道長を生み出す家系が、ライバルを失って一気に有利になります。「動機があり、結果として利益を得た」のが藤原氏である以上、この事件は藤原氏が仕組んだものだとみるのが、現在では一般的です。

結局、源高明って証拠もないのに左遷されたってこと?それって冤罪じゃないの?

うん、ほぼ冤罪と言っていいよ。一人の密告だけで、あっという間に左大臣が流罪になったんだから。テストでは「証拠の有無」までは聞かれないけど、「藤原氏が他氏を排斥した事件」という性格はしっかり押さえておこう!
■ 他の他氏排斥事件との比較(承和の変・応天門の変)
安和の変は、突然起きた珍しい事件ではありません。藤原氏は平安時代を通じて、こうしたやり方を何度も繰り返してきました。代表的なのが、安和の変より前に起きた承和の変と応天門の変です。3つを並べて見ると、藤原氏の「他氏排斥」のパターンがよくわかります。
承和の変(842年)……皇太子の地位をめぐる争いで、伴健岑・橘逸勢が失脚。藤原良房の地位が強まる
応天門の変(866年)……応天門の放火事件をきっかけに、大納言・伴善男が失脚。藤原氏のライバルだった伴氏・紀氏が没落する
安和の変(969年)……「為平親王擁立の陰謀」という密告で、左大臣・源高明が大宰府へ左遷。源氏が排斥され、摂関政治が確立する
共通しているのは、「皇位継承や政治的陰謀をめぐる事件をきっかけに、藤原氏のライバルになりそうな有力者が失脚する」という流れです。とくに安和の変は、こうした排斥のいわば「最終回」でした。承和の変では伴・橘氏、応天門の変では伴・紀氏、そして安和の変では源氏——主な対抗勢力が次々と消えていき、安和の変のあとには、藤原氏に張り合える氏族がほとんど残っていなかったのです。
では、ライバルを失った藤原氏は、そのあとどうなったのでしょうか。次の章では、安和の変が日本の政治にもたらした影響を見ていきます。
安和あんなの変の影響と歴史的意義
安和の変がもたらした最大の変化は、摂政・関白という役職が「常設化」したことです。それまで、摂政・関白は天皇が幼かったり病弱だったりするときだけ置かれる、いわば非常用のポストでした。ところが安和の変のあとは、天皇が成人していようと、ほぼ途切れることなく藤原氏の誰かが摂政か関白の座についているのが当たり前になります。これが教科書でいう「摂関政治の確立」です。
もう一つの影響は、政争の「相手」が変わったことです。安和の変で源氏という最後の大物ライバルが消えたため、藤原氏はもう外部の他氏と戦う必要がなくなりました。その代わり、こんどは藤原氏の内部——どの家の誰が摂政・関白になるか——をめぐる身内同士の争いが激しくなっていきます。
■ 摂関政治の確立——道長の全盛期への伏線
安和の変の直後、摂政だった藤原実頼が亡くなると、藤原氏内部の主導権は実頼の弟・藤原師輔の系統に移っていきます。師輔の子孫からは、藤原兼家、そしてその子の藤原道長が登場します。「この世をば わが世とぞ思ふ……」と望月の歌をよんだ、あの道長です。
安和の変から道長が摂政になるまでは、おおよそ半世紀。その間、藤原氏は外からの脅威にさらされることなく、ひたすら身内で権力を回し続けました。そして道長の代になって、摂関政治はまさに全盛期を迎えます。地味な事件に見える安和の変ですが、「藤原道長の時代」という日本史のクライマックスを準備したのは、まちがいなくこの事件だったのです。

安和の変って、藤原道長の時代と直接つながってるの?けっこう年が離れている気がするけど。

年は離れてるけど、構造としては一本道なんだ。安和の変で「藤原氏以外が摂関になる道」が完全にふさがれた。だから、あとは藤原氏の中で勝ち抜いた人が頂点に立つだけ。その「勝者」がたまたま道長だった、というわけ。安和の変はその一本道の入り口を作った事件なんだよ。
📌 現代とのつながり……「特定の家系が、地位や役職をほぼ独占して受け継いでいく」という構図は、現代の政治の世界でもときどき話題になります。たとえば「世襲議員」という言葉があるように、親から地盤・看板を受け継いだ人が当選しやすい、という現象です。摂関政治の藤原氏ほど露骨ではありませんが、「家のつながりが政治の力を左右する」という点では、安和の変の構図は決して遠い昔の話だけではないのかもしれません。
もし安和の変が起きず、源高明が左大臣のままだったら——歴史はどうなっていたでしょうか。あくまで想像の話ですが、為平親王が皇太子のまま即位し、その岳父である源高明が天皇の身内として大きな力を持った可能性が考えられます。そうなれば「藤原氏による摂関政治」はここまで強固にはならず、藤原道長があれほどの権力者になることもなかったかもしれません。源氏が政治の中心に座る平安時代——『源氏物語』とはまた違った形で、源氏が活躍する時代になっていたかもしれない、と考えると面白いですね。もちろん、これは確かなことは何も言えない「もしも」の話です。
ここまで、安和の変の背景から影響までを見てきました。次の章では、テストで問われやすいポイントをまとめて確認しておきましょう。
テストに出るポイント
安和の変は、中学・高校どちらの日本史でも「他氏排斥事件」の流れの中で出てきます。覚えることはそれほど多くありません。年号・失脚した人物・結果の3点をセットで押さえれば、たいていの問題に対応できます。
📝 比較問題でよく出るポイント……他氏排斥事件は「どの事件で誰が失脚したか」をひっかける問題が定番です。承和の変=橘逸勢・伴健岑、応天門の変=伴善男、安和の変=源高明、と「事件名と失脚した人物」をセットで覚えておくと間違えません。
| 事件名 | 年 | 誰が失脚したか | 中心となった藤原氏 |
|---|---|---|---|
| 承和の変 | 842年 | 橘逸勢・伴健岑 | 藤原良房 |
| 応天門の変 | 866年 | 伴善男 | 藤原良房 |
| 安和の変 | 969年 | 源高明 | 藤原実頼(のち師輔系へ) |

「969年」ってどうやって覚えればいい?年号を覚えるのが苦手なんだよね…。

969年は「平安時代の中ごろ」「藤原道長(966年生まれ)が生まれてすぐ」と一緒に覚えると位置がイメージしやすいよ。それより大事なのは、「安和の変=969年・源高明・摂関政治の確立」っていう3点セット。この3つさえ言えれば、たいていの問題はクリアできる!
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よくある質問(FAQ)
969年(安和2年)、左大臣・源高明が「謀反を企てている」という密告によって失脚し、九州の大宰府に左遷された事件です。藤原氏による他氏排斥事件の一つで、この事件以降、摂関政治が確立しました。
969年(安和2年)に起きました。冷泉天皇の在位末期で、事件と同じ年に冷泉天皇は弟の円融天皇に位を譲っています。
左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)です。醍醐天皇の皇子で、臣下に下って源姓を名乗り、学識と実務能力で左大臣まで昇進した人物でしたが、謀反の疑いをかけられ大宰府に左遷されました。
摂政・関白がほぼ途切れることなく置かれるようになり(摂関政治の常設化)、藤原氏以外の他氏が政治の中枢に入ることが事実上不可能になりました。その後の藤原道長の全盛期への伏線となった事件です。
即位当初から精神的な不調があったとされ、父への手紙に陰部の絵を描いて返したり、内裏の火事のときに車中で歌い続けたりといった奇行の逸話が多く残っています。一方で容姿は美しかったとの記録もあり、現代では「狂気のイケメン天皇」と呼ばれることがあります。2年余りで弟の円融天皇に譲位しました。
三つとも藤原氏が他氏を失脚させた「他氏排斥事件」です。承和の変(842年)は橘逸勢・伴健岑が失脚、応天門の変(866年)は伴善男が失脚、安和の変(969年)は源高明が失脚しました。安和の変が最後の大規模な他氏排斥事件で、これ以降摂関政治が確立されました。
まとめ
- 946年村上天皇が即位(延喜・天暦の治の時代)
- 967年村上天皇が崩御・冷泉天皇が即位
- 968年頃藤原実頼が摂政となり、守平親王が皇太子に立つ
- 969年安和の変:源高明が大宰府に左遷される
- 969年冷泉天皇が退位・円融天皇が即位
- 970年藤原実頼が死去・藤原氏内部の主導権争いが本格化
- 995年藤原道長が内覧となり政界の実権を握る
- 1016年藤原道長が摂政に就任・摂関政治の全盛期

以上、安和の変のまとめでした!「地味な事件」に見えるけど、日本史最大の権力者・藤原道長の時代を準備した、すごく大事な転換点なんだ。下の記事で摂関政治や藤原氏の全盛期についてもあわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年5月
📖 本記事は山川出版社『詳説日本史』に基づいています。中学歴史・高校日本史どちらにも対応しています。
Wikipedia日本語版「安和の変」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「冷泉天皇」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「源高明」(2026年5月確認)
コトバンク「安和の変」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
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