安和の変(あんなのへん)をわかりやすく【藤原氏、出世コース確定へ】

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前回は、延喜・天暦の治と呼ばれていた時代の話をしました。年代的には、醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇の3世代の間で、ざっくり900年~965年頃の話でした。

 

今回は、その続きの話。主に安和の変(あんなのへん)について見ていきます。地味な事件ですが、安和の変により邪魔者が排除された結果、摂関藤原家の出世コースがほぼ確定します。のちの権力者、藤原道長が生まれる土台となった事件と考えることもできるので、地味ながら歴史には大きな影響を与えました。(だから、つまらなそうな事件なのに教科書にも載っている。)

 

では、本編へ。少し長めです・・・。

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村上天皇の崩御、冷泉天皇の即位

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【自作の天皇と藤原氏の系図です。天皇の名前の右の数字は、何代目かを指しています。】

 

こっから先は、人間関係が複雑になります。わからなくなったら上の図を見て確認してください!(赤枠で囲っているのが今回のキーパーソンたちです)

 

967年、天暦の治で有名な村上天皇は崩御(亡くなること)します。天皇が崩御したことで、「次の天皇は誰なのか?」という問題が浮上します。

 

そして、この問題が浮上すると、いつもいつも政治的な争いが伴います。この政治的争いが表面化すると、日本史では「○○の変」と呼ばれます。

 

村上天皇の崩御の際も、本当は村上天皇の長男が次期天皇となるのが順当なのに、なぜか長男の異母弟に当たる冷泉天皇が即位しました。

 

なぜでしょうか?裏には藤原氏の圧力があったと考えられています。

 

藤原実頼、藤原師輔の圧倒的権力!!

村上天皇の時代、村上天皇の治世を「実質」支配していた2人の男がいました。(村上天皇は摂政・関白を置いておらず、この時代には珍しく天皇親政の政治を行っていたと教科書的には言われていますが、摂政・関白は置いていないものの、政治の実権はほとんど藤原氏が握っていたと考えられています。)

 

それが左大臣だった藤原実頼(さねより)と右大臣だった藤原師輔(もろすけ)という男たち。左大臣が官僚ナンバー1ポスト、右大臣がナンバー2ポストです。

 

村上天皇を支えたこの2人の圧力により、藤原氏の有利(天皇の外戚になるということ。上の系図で確認してみてください。藤原師輔の系統が外戚に当たります。)となるよう、無理やり冷泉天皇を即位させたと考えられています。967年の話です。

 

この冷泉天皇、とんでもない天皇でした。

 

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狂気の冷泉天皇

冷泉天皇は、子どもの頃から精神を病んでおり奇行がとても多かったため、とても天皇になれる器ではありませんでした。

 

wikipediaを見ると、冷泉天皇の奇行としてこんな行為が挙げられています。

  • 足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。

  • 幼い頃、父帝(村上天皇)に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。

  • 清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。

  • 病気で床に伏していた時、大声で歌を歌っていた。

  • 退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌を歌った。

 

ちなみに、冷泉天皇は精神に異常がありましたが、容姿端麗でイケメンだったらしいです。

 

 

精神的に問題がある冷泉天皇が自ら政治を行えるわけもなく、誰かが補佐する必要があるため、関白を置くことになりました。

 

関白には、村上天皇の頃、左大臣だった藤原実頼が任命されますが、これが安和の変へとつながる問題へと発展していきます。

 

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 外戚じゃないのに関白になる藤原実頼

藤原実頼が関白になって何が問題かというと、実頼が関白なのに天皇の外戚じゃないという点です。

 

血縁で繋がれていない関白という役職は非常に不安定なものでした、この不安定さが問題だったのです。

 

外戚の藤原師輔が関白になればいいんじゃね?

藤原師輔は、冷泉天皇の妃である藤原安子の祖父なので、天皇の外戚になります。

 

本当は、師輔が関白になれば、なんの問題もありませんでした。が、冷泉天皇が即位した967年時点で、師輔は亡くなっていたのです・・・。

 

師輔の息子たちも、関白になれるほどの地位にはなく、優秀だった藤原実頼が抜擢されてしまったのです・・・。

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次期天皇は誰だ?為平と守平(後の円融天皇)

冷泉天皇は、精神を病んでいるためとても病弱であったことと、冷泉天皇には子どもがいなかったので、即位後すぐに次期天皇候補(皇太子。東宮とも言います)を決めなければなりませんでした。(なぜすぐ決める必要があるかというと、冷泉天皇に不測の事態があった場合、天皇不在の状況が起こりうるからです。)

 

ここで、候補となったのが冷泉天皇の兄弟である為平親王と守平新王(後の円融天皇)。

 

客観的に見れば、年上の為平新王が有力でした。

 

詳しく見ていきます。

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優秀で天皇の外戚の資格も持つ源高明

為平親王が天皇になると、為平親王の嫁の父(上の系図を確認してみてください。)である源高明(みなもとのたかあきら)という人物が天皇の外戚として力を振るうことができます。

 

源高明は左大臣という官僚内でもかなり偉い地位にいる(冷泉天皇の時代に左大臣へ昇進した)超優秀な人物であり、天皇の血筋も持つ人物。天皇の外戚として手腕を振るうことができる人間でした。このことは、藤原氏にとってとてつもない脅威でした。

 

安和の変まであと少しです!

 

藤原氏の危機感

このとき、藤原氏は危機的な状況にありました。理由は次の2点により藤原氏の影響力が微妙なものだったからです。

 

  1. 関白である藤原実頼が、冷泉天皇の外戚でないこと。
  2. 外戚である藤原 伊尹(ふじわらのこれただ)にはまだ政治を掌握できる地位や権力がなかったこと。

 

この状況のまま為平親王が天皇になってしまうと、為平の外戚である源高明が実権を握ってしまいます。

 

しかし、現状では為平親王を天皇にしない理由はないし、上記2点の理由により、源高明に対抗することもできませんでした。

 

この状況で藤原氏が考え出した方法は、「冤罪で源高明を嵌めて左遷させる!」という当時の策略として比較的オーソドックスな方法でした。

 

日本の社会では自分を高めることよりも他人を蹴落とす人間の方が出世しやすいなんて話を聞いたことがあります。もしかすると奈良・平安時代の政治の在り方が由来なのかな?とか思ってしまいます。

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安和の変 -左遷させられた源高明-

何が原因なのか理由はよくわかっていませんが、源高明は突如、天皇への謀反に加担したとして大宰府へ左遷させられます。969年の話です。

 

原因はよくわかりませんが、藤原氏が関与したのは間違いなさそうです。特に冷泉天皇の外戚である藤原 伊尹が関与したことは相当に確かと言えると思います。

 

この969年に起こった源高明左遷事件のことを安和の変(あんなのへん)と言います。

 

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安和の変の意義

安和の変自体は大変地味な事件で、簡単に説明すれば数行で終わらせることもできます。(このブログはかなり丁寧に解説しているほうだと思います。というか、そう心がけているつもりです。)

 

安和の変の歴史的意義は、源高明が追放されたことで天皇の外戚になりうる人物が藤原氏のみになったことにあります。

 

安和の変により、藤原氏の将来の出世がほぼ100%確定し、安和の変以後の政治の世界では藤原氏同士の対立が激化していきます。つまり、安和の変は、藤原道長を頂点とする摂関藤原氏の隆盛の土台となった画期的な出来事というわけです。

 

次回は、安和の変の後の朝廷の様子を見ていきます。前述のとおり、安和の変以後は藤原氏同士の対立が激しくなります。

次:藤原道長の父、藤原兼家が凄い!【円融天皇と藤原氏の権力】

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この記事を書いた人
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コメント

  1. 鈴木沙彩 より:

    とってもわかりやすかったです!!
    私自身藤原氏繁栄の最初のほうがよくわかってなかったので理解できて今とてもうれしいです
    教科書などでもあまり細かく載っていなかったので、安和の変を詳しく知ることができ、またそのときの政情や流れもわかり、とても勉強になりました!
    また参考にさせていただきます(^^♪